理性と本能8題
「ここは別宅だから俺しか住んでいない。遠慮するな。」
蛭魔は抱きかかえていた瀬那をゆっくりとベットに下ろして、腰掛けさせた。
そうは言われても、まだ事態を把握することすら出来ていない瀬那はとても寛ぐことなどできない。
だが蛭魔は頓着することなかった。
「こいつがこの別宅の管理をしてる栗田。あとは武蔵が時々来るくらいだ。」
蛭魔の言葉に、後ろにひかえていた巨体の男が頭を下げる。
瀬那はほとんど条件反射で「小早川瀬那です」と深々と礼をした。
そして話の流れからして、あの老け顔の男が武蔵なのだろうと思った。
瀬那はここに至ってようやく自分の状態を把握した。
眠っていたところを誘拐同然に連れてこられた瀬那は、ひどい服装だった。
寝巻きにしているTシャツは洗濯を繰り返したせいで、首が伸びてしまっている。
短パンは色あせて、小さな毛玉がいくつも出来ている。
所有する数少ない服の中でも、一番古びたものだった。
外はおろか、姉崎邸の中ですらこんな格好では歩けない。
自分の服装を見下ろす瀬那に、蛭魔は笑った。
起き抜けのすこしボーっとした表情、寝ていたせいでいつもより癖が強く乱れた髪、ボロボロの服装。
そんな姿の瀬那でも可愛いと思う。
伸びたTシャツから出る細い首や腕、短パンから除くほっそりした足まで愛おしい。
恋は盲目とはこのことかと、蛭魔は自分の変化を可笑しく思う。
「着替えは用意させる。姉崎家にはおまえの荷物を取りに行かせるから。」
瀬那は黙って聞いている。
質問したいことはあるが、どう切り出していいかわからないという感じだ。
「欲しいものはあるか?」
「帰り、ます。」
ようやく口を開いた瀬那は、蛭魔の問いには答えずに願望を口にした。
だがそれを聞いた途端に、今まで楽しそうにしていた蛭魔の表情が一変した。
「駄目だ。帰さない。」
「でも母が」
「治療費は問題ない。おまえの母親名義の金はちゃんとある。」
「え?」
「おまえは姉崎の母親と三宅に騙されて、身体を売らされたんだ。」
「!」
瀬那の顔が驚愕に歪む。
蛭魔は自分の失態に、内心舌打ちしていた。
瀬那に衝撃を与えるであろう事実は、落ち着いてから伝えるつもりだった。
だが瀬那に「帰る」と言われたことで、狼狽してしまったのだ。
瀬那の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溢れた。
笑っていれば宝石のように美しい瀬那の瞳が、絶望に曇っている。
居たたまれなくなった蛭魔は、瀬那の正面に歩み寄り、黒目がちな瞳ごとその頭を抱き寄せた。
上質なスーツの胸元が瀬那の涙で濡れることなど、どうでもよかった。
「何でも用意する。おまえの母親のことも出来る限りのことをする。」
「どうして、ですか?僕は。。。」
「おまえが好きだからだよ。瀬那。」
蛭魔は瀬那の髪を撫でながら、せいいっぱいの想いを伝える。
瀬那は困ったような表情で、蛭魔の顔をじっと見上げていた。
蛭魔は自室に戻って、今後のことを考えていた。
栗田には、瀬那のことを最優先にするようにと言いつけた。
人当たりもよく、気が回る栗田なら瀬那もさほど気を使わなくて済むだろう。
先程も何も言わないのに、栗田はブランデーと紅茶でティーロワイヤルを準備していた。
まずはアルコールで瀬那をぐっすりと眠らせてやるつもりのようだ。
あの様子なら、当面の世話は、栗田にまかせておける。
姉崎邸の後始末は、武蔵がすべて取り計らってくれるだろう。
蛭魔がしなくてはならないのは、姉崎家との縁談を受け入れた父親への対処だった。
最悪の場合、家から勘当されるかもしれないが、それでもかまわなかった。
蛭魔には投資などの才覚もあり、蛭魔個人の資産もある。
瀬那母子と自分自身の暮らしくらいはどうにでもなる。
そこまで考えて蛭魔は苦笑した。
生まれて初めての恋に、全てを捨ててもいいとさえ思っている。
もし他人の話であったら、愚かな行為だと嘲り笑っただろう。
だが今の蛭魔は、瀬那のためなら何でも出来ると思うのだ。
その時、蛭魔のスーツのポケットの中で、携帯電話が振動した。
取り出して発信者を確認する。
表示された名は蛭魔幽也。
つい今、対処しなくてはと思っていた蛭魔の実の父親だ。
こちらから連絡する手間が省けた。
蛭魔はフンと鼻で笑うと、通話のボタンを押した。
姉崎まもりは、自宅の客間で呆然としていた。
あの夜婚約者である蛭魔が突然現れて、一方的に婚約の解消を突きつけ、瀬那を連れ去った。
その翌日には、武蔵とその部下であろう男たちが、蛭魔同様無礼な態度で現れた。
そして嵐のような勢いで、瀬那の部屋にあった荷物を全て運び出していく。
元々瀬那の持ち物が少なかったせいもあるが、あっという間の出来事だった。
そして今日は蛭魔妖一とその父親が、姉崎家を訪問していた。
「この度は大変申し訳ありません。」
蛭魔は少しも申し訳ないなどと思っていない口調で、頭を下げる。
まもり母子はその様子を白々しい思いで見ていた。
だが次に蛭魔の父の言葉を聞いて、仰天することになる。
「結納を取り交わす前であったのは幸いでした。つきましては慰謝料を」
まもりも姉崎夫人もどこかまだ余裕があった。
家同士の政略結婚に、本人の意思など関係ない。
一時期の気の迷いで、蛭魔が結婚を拒否したとしても、彼の父がそれを許すはずはないと。
だが蛭魔の父、幽也ともどももう結婚話はないものとして話を進めている。
「結納金としてお支払いする予定だった金を、そのまま慰謝料とさせていただきます。」
親子揃ってふてぶてしい雰囲気を発しながら、婚約は破談へと向かっている。
そんな馬鹿な。そんなこと。
まもりは言うべき言葉も見つからず、呆然とした。
好きだったのに。結婚さえすればずっと傍にいられると思ったのに。
振り切りそうな理性が崩れないように、まもりは虚勢を保つのが精一杯だった。
「それから小早川美生さんと瀬那くんの身柄は、当方でお預かりしようと思っています。」
蛭魔の父、幽也の言葉もまもりの心に届くことなく、耳から抜けていく。
「美生さんと瀬那くんの生活のことも、きちんとさせていただきます。」
蛭魔は自分の父親の言葉を聞き、平静を装いながら、実は戸惑っていた。
父は、蛭魔とまもりの婚約破棄をあっさりと受け入れた。
そして瀬那と美生を引き取ることさえ、承知したのだった。
蛭魔にとって、父は冷徹な人間だった。
蛭魔の母が急逝したことも関係あるのだろうが、愛人が何人もいたことも知っている。
愛情は刹那的なものであり、権力や財力の方が大事だと考えるのが父だと思っている。
姉崎ホールディングスを棒に振って、何も持たない少年を庇護する蛭魔を許すはずがない。
そう思っていた蛭魔は、父親の態度にどこか拍子抜けしたような気がした。
それでもあの父のことだ。
瀬那のことはきっと調べ上げているに違いない。
あの可愛らしい容姿も、芯が強い性格も、ひた向きな生き方も。
それが父の心を打ったのであればいいと蛭魔は思う。
恋愛なんて下らないと思っていた蛭魔の心を、瀬那が魅了したように。
ふと見ると、姉崎母子の後ろには執事である三宅がひかえていた。
姉崎夫人は時折三宅を振り返り、縋るような目で見ている。
三宅と姉崎夫人は愛人関係にあるのだろうか、と蛭魔はぼんやりと考える。
未亡人である姉崎夫人が、長年執事を勤めた男に惹かれたところで不思議はない。
そんな腐った不倫関係などには何の興味もないが、気になるのは瀬那への憎悪だ。
まもりの瀬那への悪意は、単純に蛭魔を挟んだ嫉妬だけだ。
だが姉崎夫人と三宅は、もっと深いところで美生と瀬那を憎んでいるように思う。
とにかく瀬那をしっかりと守ることだ。
蛭魔は姉崎夫人と三宅をちらりと視線を送ると、気持ちを引き締めた。
瀬那はあてがわれた部屋のベットに寝転んで、じっと不安に耐えていた。
蛭魔に抱き上げられて、攫われる夢を見た。
翌朝目覚めたときには、蛭魔の「別宅」と呼ばれる家にいた。
蛭魔は瀬那が身体を売っていたという事実を知っていたが、瀬那を蔑んだりすることはなかった。
何度も瀬那を好きだと、恋をしていると言い、優しく甘やかしてくれる。
蛭魔の使用人であり、友人でもある武蔵も栗田も、瀬那に優しかった。
このまま蛭魔に甘えていていいのだろうか?
瀬那は蛭魔の庇護を有難く思いながらも困惑していた。
蛭魔は瀬那に愛情を伝えてくれるが、瀬那にはそれを受け入れるほどの決意がない。
なぜなら今まで世話になった姉崎家を裏切る行為に他ならないからだ。
ならば蛭魔の家にいる理由もないのだが、蛭魔は出て行くことを許してくれなかった。
結局自分は今ここで何をしているのだろう。
蛭魔もまもりも、母の美生も幸せになるにはどうしたらいいのだろう。
毎日自問自答する日々が続いている。
そんなある日、蛭魔の不在を見計らうように。
別宅に蛭魔の父、蛭魔幽也が瀬那に会いに来たのだった。
「蛭魔家の養子になりなさい。妖一の弟にね。」
蛭魔幽也は、息子であり瀬那の最愛の男である蛭魔妖一とよく似た面差しと声をしていた。
その顔と声で、彼は瀬那に要求を突きつけた。
蛭魔家の養子になる。
その意味がよくわからずに、瀬那は答えに窮する。
だが次に告げられた言葉を聞いて、瀬那は凍りついた。
「もし君が拒否するならば、妖一は蛭魔家から追い出すことになる。」
「それって」
「妖一は約束された将来も、富や名声もすべて失う。君のせいで。」
わからない。瀬那が蛭魔の家の養子になることで、何がどうなるのか。
だが意味もなく、そんなことを脅迫まがいに要求されるはずがない。
何か瀬那には見当もつかないような裏があるのだ。
何かあると、瀬那の心の奥底の理性が警鐘を鳴らしている。
だが蛭魔の将来が壊されるなどと言われれば、瀬那に拒否などできるはずがない。
振り切りそうな理性を無視して、瀬那は頷いた。
そして言われるままに、差し出された書類にサインをして、捺印する。
どうせ1回投げ売りした汚れた身体だ。
愛する蛭魔の将来と引き換えなら、何をどうされてもいい。
瀬那は不安な心を懸命に押し隠して、諦めたように目を閉じた。
【続く】
蛭魔は抱きかかえていた瀬那をゆっくりとベットに下ろして、腰掛けさせた。
そうは言われても、まだ事態を把握することすら出来ていない瀬那はとても寛ぐことなどできない。
だが蛭魔は頓着することなかった。
「こいつがこの別宅の管理をしてる栗田。あとは武蔵が時々来るくらいだ。」
蛭魔の言葉に、後ろにひかえていた巨体の男が頭を下げる。
瀬那はほとんど条件反射で「小早川瀬那です」と深々と礼をした。
そして話の流れからして、あの老け顔の男が武蔵なのだろうと思った。
瀬那はここに至ってようやく自分の状態を把握した。
眠っていたところを誘拐同然に連れてこられた瀬那は、ひどい服装だった。
寝巻きにしているTシャツは洗濯を繰り返したせいで、首が伸びてしまっている。
短パンは色あせて、小さな毛玉がいくつも出来ている。
所有する数少ない服の中でも、一番古びたものだった。
外はおろか、姉崎邸の中ですらこんな格好では歩けない。
自分の服装を見下ろす瀬那に、蛭魔は笑った。
起き抜けのすこしボーっとした表情、寝ていたせいでいつもより癖が強く乱れた髪、ボロボロの服装。
そんな姿の瀬那でも可愛いと思う。
伸びたTシャツから出る細い首や腕、短パンから除くほっそりした足まで愛おしい。
恋は盲目とはこのことかと、蛭魔は自分の変化を可笑しく思う。
「着替えは用意させる。姉崎家にはおまえの荷物を取りに行かせるから。」
瀬那は黙って聞いている。
質問したいことはあるが、どう切り出していいかわからないという感じだ。
「欲しいものはあるか?」
「帰り、ます。」
ようやく口を開いた瀬那は、蛭魔の問いには答えずに願望を口にした。
だがそれを聞いた途端に、今まで楽しそうにしていた蛭魔の表情が一変した。
「駄目だ。帰さない。」
「でも母が」
「治療費は問題ない。おまえの母親名義の金はちゃんとある。」
「え?」
「おまえは姉崎の母親と三宅に騙されて、身体を売らされたんだ。」
「!」
瀬那の顔が驚愕に歪む。
蛭魔は自分の失態に、内心舌打ちしていた。
瀬那に衝撃を与えるであろう事実は、落ち着いてから伝えるつもりだった。
だが瀬那に「帰る」と言われたことで、狼狽してしまったのだ。
瀬那の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溢れた。
笑っていれば宝石のように美しい瀬那の瞳が、絶望に曇っている。
居たたまれなくなった蛭魔は、瀬那の正面に歩み寄り、黒目がちな瞳ごとその頭を抱き寄せた。
上質なスーツの胸元が瀬那の涙で濡れることなど、どうでもよかった。
「何でも用意する。おまえの母親のことも出来る限りのことをする。」
「どうして、ですか?僕は。。。」
「おまえが好きだからだよ。瀬那。」
蛭魔は瀬那の髪を撫でながら、せいいっぱいの想いを伝える。
瀬那は困ったような表情で、蛭魔の顔をじっと見上げていた。
蛭魔は自室に戻って、今後のことを考えていた。
栗田には、瀬那のことを最優先にするようにと言いつけた。
人当たりもよく、気が回る栗田なら瀬那もさほど気を使わなくて済むだろう。
先程も何も言わないのに、栗田はブランデーと紅茶でティーロワイヤルを準備していた。
まずはアルコールで瀬那をぐっすりと眠らせてやるつもりのようだ。
あの様子なら、当面の世話は、栗田にまかせておける。
姉崎邸の後始末は、武蔵がすべて取り計らってくれるだろう。
蛭魔がしなくてはならないのは、姉崎家との縁談を受け入れた父親への対処だった。
最悪の場合、家から勘当されるかもしれないが、それでもかまわなかった。
蛭魔には投資などの才覚もあり、蛭魔個人の資産もある。
瀬那母子と自分自身の暮らしくらいはどうにでもなる。
そこまで考えて蛭魔は苦笑した。
生まれて初めての恋に、全てを捨ててもいいとさえ思っている。
もし他人の話であったら、愚かな行為だと嘲り笑っただろう。
だが今の蛭魔は、瀬那のためなら何でも出来ると思うのだ。
その時、蛭魔のスーツのポケットの中で、携帯電話が振動した。
取り出して発信者を確認する。
表示された名は蛭魔幽也。
つい今、対処しなくてはと思っていた蛭魔の実の父親だ。
こちらから連絡する手間が省けた。
蛭魔はフンと鼻で笑うと、通話のボタンを押した。
姉崎まもりは、自宅の客間で呆然としていた。
あの夜婚約者である蛭魔が突然現れて、一方的に婚約の解消を突きつけ、瀬那を連れ去った。
その翌日には、武蔵とその部下であろう男たちが、蛭魔同様無礼な態度で現れた。
そして嵐のような勢いで、瀬那の部屋にあった荷物を全て運び出していく。
元々瀬那の持ち物が少なかったせいもあるが、あっという間の出来事だった。
そして今日は蛭魔妖一とその父親が、姉崎家を訪問していた。
「この度は大変申し訳ありません。」
蛭魔は少しも申し訳ないなどと思っていない口調で、頭を下げる。
まもり母子はその様子を白々しい思いで見ていた。
だが次に蛭魔の父の言葉を聞いて、仰天することになる。
「結納を取り交わす前であったのは幸いでした。つきましては慰謝料を」
まもりも姉崎夫人もどこかまだ余裕があった。
家同士の政略結婚に、本人の意思など関係ない。
一時期の気の迷いで、蛭魔が結婚を拒否したとしても、彼の父がそれを許すはずはないと。
だが蛭魔の父、幽也ともどももう結婚話はないものとして話を進めている。
「結納金としてお支払いする予定だった金を、そのまま慰謝料とさせていただきます。」
親子揃ってふてぶてしい雰囲気を発しながら、婚約は破談へと向かっている。
そんな馬鹿な。そんなこと。
まもりは言うべき言葉も見つからず、呆然とした。
好きだったのに。結婚さえすればずっと傍にいられると思ったのに。
振り切りそうな理性が崩れないように、まもりは虚勢を保つのが精一杯だった。
「それから小早川美生さんと瀬那くんの身柄は、当方でお預かりしようと思っています。」
蛭魔の父、幽也の言葉もまもりの心に届くことなく、耳から抜けていく。
「美生さんと瀬那くんの生活のことも、きちんとさせていただきます。」
蛭魔は自分の父親の言葉を聞き、平静を装いながら、実は戸惑っていた。
父は、蛭魔とまもりの婚約破棄をあっさりと受け入れた。
そして瀬那と美生を引き取ることさえ、承知したのだった。
蛭魔にとって、父は冷徹な人間だった。
蛭魔の母が急逝したことも関係あるのだろうが、愛人が何人もいたことも知っている。
愛情は刹那的なものであり、権力や財力の方が大事だと考えるのが父だと思っている。
姉崎ホールディングスを棒に振って、何も持たない少年を庇護する蛭魔を許すはずがない。
そう思っていた蛭魔は、父親の態度にどこか拍子抜けしたような気がした。
それでもあの父のことだ。
瀬那のことはきっと調べ上げているに違いない。
あの可愛らしい容姿も、芯が強い性格も、ひた向きな生き方も。
それが父の心を打ったのであればいいと蛭魔は思う。
恋愛なんて下らないと思っていた蛭魔の心を、瀬那が魅了したように。
ふと見ると、姉崎母子の後ろには執事である三宅がひかえていた。
姉崎夫人は時折三宅を振り返り、縋るような目で見ている。
三宅と姉崎夫人は愛人関係にあるのだろうか、と蛭魔はぼんやりと考える。
未亡人である姉崎夫人が、長年執事を勤めた男に惹かれたところで不思議はない。
そんな腐った不倫関係などには何の興味もないが、気になるのは瀬那への憎悪だ。
まもりの瀬那への悪意は、単純に蛭魔を挟んだ嫉妬だけだ。
だが姉崎夫人と三宅は、もっと深いところで美生と瀬那を憎んでいるように思う。
とにかく瀬那をしっかりと守ることだ。
蛭魔は姉崎夫人と三宅をちらりと視線を送ると、気持ちを引き締めた。
瀬那はあてがわれた部屋のベットに寝転んで、じっと不安に耐えていた。
蛭魔に抱き上げられて、攫われる夢を見た。
翌朝目覚めたときには、蛭魔の「別宅」と呼ばれる家にいた。
蛭魔は瀬那が身体を売っていたという事実を知っていたが、瀬那を蔑んだりすることはなかった。
何度も瀬那を好きだと、恋をしていると言い、優しく甘やかしてくれる。
蛭魔の使用人であり、友人でもある武蔵も栗田も、瀬那に優しかった。
このまま蛭魔に甘えていていいのだろうか?
瀬那は蛭魔の庇護を有難く思いながらも困惑していた。
蛭魔は瀬那に愛情を伝えてくれるが、瀬那にはそれを受け入れるほどの決意がない。
なぜなら今まで世話になった姉崎家を裏切る行為に他ならないからだ。
ならば蛭魔の家にいる理由もないのだが、蛭魔は出て行くことを許してくれなかった。
結局自分は今ここで何をしているのだろう。
蛭魔もまもりも、母の美生も幸せになるにはどうしたらいいのだろう。
毎日自問自答する日々が続いている。
そんなある日、蛭魔の不在を見計らうように。
別宅に蛭魔の父、蛭魔幽也が瀬那に会いに来たのだった。
「蛭魔家の養子になりなさい。妖一の弟にね。」
蛭魔幽也は、息子であり瀬那の最愛の男である蛭魔妖一とよく似た面差しと声をしていた。
その顔と声で、彼は瀬那に要求を突きつけた。
蛭魔家の養子になる。
その意味がよくわからずに、瀬那は答えに窮する。
だが次に告げられた言葉を聞いて、瀬那は凍りついた。
「もし君が拒否するならば、妖一は蛭魔家から追い出すことになる。」
「それって」
「妖一は約束された将来も、富や名声もすべて失う。君のせいで。」
わからない。瀬那が蛭魔の家の養子になることで、何がどうなるのか。
だが意味もなく、そんなことを脅迫まがいに要求されるはずがない。
何か瀬那には見当もつかないような裏があるのだ。
何かあると、瀬那の心の奥底の理性が警鐘を鳴らしている。
だが蛭魔の将来が壊されるなどと言われれば、瀬那に拒否などできるはずがない。
振り切りそうな理性を無視して、瀬那は頷いた。
そして言われるままに、差し出された書類にサインをして、捺印する。
どうせ1回投げ売りした汚れた身体だ。
愛する蛭魔の将来と引き換えなら、何をどうされてもいい。
瀬那は不安な心を懸命に押し隠して、諦めたように目を閉じた。
【続く】