理性と本能8題

放課後に校門を出ようとした瀬那は、ふと校庭に視線を送り、目を見張った。
視線の先には、深緑の制服の上着を纏った長身の青年。
蛭魔妖一が友人であろう男子生徒と並んで歩いている。
スーツ姿とは雰囲気がまるで違う。
年相応の青年が、楽しそうに談笑していた。

蛭魔様も学校ではあんな感じなんだ。
瀬那はその姿を見て微笑した。
まもりのクラスメートと聞いていたから、同じ学校なのだとは知っていた。
それに放課後、制服姿の蛭魔に声をかけられたこともある。
だが実際に校内で姿を見るのは初めてのことだった。

瀬那たちが通うこの学校は、政財界の実力者の子供たちが多く通っている。
蛭魔はその中で、それなりの人脈を築いていた。もちろん将来を見越してのことだ。
その風貌や派手なパフォーマンスから、校内では有名人だ。
だが瀬那は、入学して間もない上に友人を作ったり人と関わることを避けていた。
「仕事」をするようになったせいだ。
自分のような人間は友人を作る資格なんかない。
仮に友人が出来ても「仕事」のことを知られて軽蔑されてしまったら。
そう思うと自然に態度も暗くなり、笑いの輪から遠ざかる。
だから蛭魔の校内での様子などは全く知ることがなかった。

だがしばらく蛭魔に見蕩れていた瀬那は、蛭魔と談笑する男子生徒の顔を見て凍りついた。
昨日客として現れて、でもライターだと名乗り、瀬那に指1本触れずに帰って行った男。
老け顔の彼がまさか高校生で、しかも蛭魔の友人だったとは。
でも何故と考えて、瀬那は絶望的な事実に突き当たった。
蛭魔は瀬那を調べさせて「仕事」のことを知ったのだ。

望みのない恋だとわかっていた。でも知られたくなかった。
瀬那はこみ上げてくる涙を振り切るように、校門を飛び出しだ。


姉崎まもりは、物憂げにため息をついた。
原因は婚約者である蛭魔妖一の態度だ。

最近の蛭魔は、ある少年にまもりには決して見せない優しい表情を向ける。
まさかあの人は瀬那のことを?
そう思うとまもりの心は大きく揺らぐ。

それと同じくらいつらいのは、瀬那につらく当たってしまう自分だった。
使用人の子供ではあるが、幼い頃から知っている少年。
立場とか身分など関係なしに、実の弟のように可愛いと感じていたのに。
今は蛭魔の柔らかい視線を集める瀬那が憎いと思う。
そしてそんな自分の黒く醜い心は、もっと憎い。
だから今日もまもりの心は沈み、表情も悲しげに曇っている。

帰宅したまもりは、玄関に見慣れない靴を見つけた。
それに必ずメイドと共に迎えに出る執事の三宅の姿も見えない。
「お客様がいらっしゃるの?」
「蛭魔様のご友人の武蔵様がお見えです。三宅さんが応対されております。」
まもりの問いに、出迎えたメイドが答える。

武蔵の名を聞いて、まもりは驚いた。
蛭魔が心を開く数少ない友人は、蛭魔同様、まもりのクラスメートでもある。
蛭魔でなく武蔵がこの家に来る理由は何だろうと考えるが、わからない。

まもりはメイドに「ありがとう」と礼を言い、応接間へと足を運ぶ。
そして部屋には入らずに、壁に耳を当てて、室内の会話を聞き取ろうとした。


「どうして瀬那にあんなことをさせているんだ?」
武蔵は姉崎家の執事、三宅と相対していた。
蛭魔や武蔵の父親と同年代であり、まもりが生まれる前から姉崎家に仕える執事。
若い頃はさぞかし美青年だっただろうと思わせる風貌の男だった。

「先代の姉崎会長は、小早川美生さん名義の生命保険に入っていた。つまり金はある。」
三宅は表情1つ変えずに、じっと黙っている。
「事実彼女の入院治療費はここから支払われている。なのになぜ瀬那にそれを言わない?」
武蔵は懸命に怒りを抑えながら、言った。
蛭魔がご執心の少年を、武蔵もまた気に入っていた。
可愛らしい容姿で、凛とした瞳を持つ瀬那は、か弱そうでいて、芯が強い。
ライターだと嘘をついて接触したのは心苦しかったが、その埋め合わせはしたいと思った。
「身体を売らせて、入院費を支払わせるなんて。詐欺を通り越して犯罪じゃないか!」
武蔵がそう叫んだ途端、応接間のドアがバタンと開いた。

「武蔵くん、本当なの?瀬那が身体を売っているだなんて!」
大きな音と共に部屋に飛び込んできたまもりが叫んだ。
ずっと黙っていた三宅が「まもり様!」と声を上げる。
武蔵もまたまもりの乱入に驚いたが、これで手間が省けたとひとりごちる。
瀬那の「仕事」のことをまもりが知っているのかどうかも知りたかったのだ。

「本当だよ。瀬那は美生さんの入院費のために身体を売ってる。その斡旋をしたのが」
そう言いながら、武蔵は三宅を指差した。
「三宅さん。何てことを!」
声を荒げるまもりに、三宅は唇の端を歪めて笑った。


「全部奥様の命令でしたことだ。」
忠実な執事の仮面を脱ぎ捨てた三宅は、不貞腐れたような口調で言った。
「小早川美生と瀬那は姉崎家にとっては、邪魔な存在だからな。」
「だったら解雇すればいい。瀬那に身体を売らせる必要がどこにある!」
「奥様はそれでは足りなかったんだ。瀬那の心も身体も壊してしまいたいほど憎かった。」
「だからそれは何故なんだ?」
かみ合わない三宅と武蔵の会話をまもりは呆然と聞いていた。

「まもり様だってこれでよかったでしょう?蛭魔様は瀬那を気に入っている。その瀬那を」
「やめて!」
急に矛先を向けられたまもりが叫んだ。
心の奥底で蛭魔の心を捕らえた瀬那が憎いと思う本能を、まもりは懸命に押し殺した。
武蔵がそんなまもりの横顔にちらりと視線を送る。

「わかった。蛭魔にはそう報告する。」
武蔵はそう言うと、立ち上がった。
ツカツカとまもりに歩み寄ると、まもりに手を伸ばす。
そして頭に触れると、いきなり髪を引っ張った。

「痛い!何するのよ、武蔵くん!」
「悪いな。理由はそのうちわかるから。」
武蔵はそれだけ言うと、そのまま部屋を出て、姉崎邸を後にした。


武蔵の報告を聞いて、蛭魔が感じたのは激しい怒りだった。
瀬那を騙して、身体を売らせた。姉崎夫人と執事の三宅、そして姉崎家に。

数日ほど前、蛭魔は瀬那に「好きだ」と言った。
沈着冷静を自負するこの蛭魔妖一ともあろう者が、後先考えずに本心をぶちまけたのだ。
あの時は必死だった。
あまりにも悲しそうな瀬那を見て、気持ちが零れた。
口に出して初めて、蛭魔は瀬那に恋しているのだとはっきりと自覚したのだった。

結果として、瀬那を苦しめた。
あの純真な少年が、雇い主の婚約者からの求愛など受け入れられるはずがない。
まったく何と浅はかだったのか。
あの時の自分をいくら罵っても飽き足りない。

そして気になった瀬那の言葉。
瀬那は自分に触れたら、蛭魔様も汚れると言った。
その意味も、武蔵の報告を聞いて氷解した。
そしていつも瀬那が悲しそうな表情をしている理由も。
母親のためと信じて男に身体を開いた瀬那は、自分が汚れているのだと思っている。

「おまえの将来も壊しちまうかもしれねぇな。」
蛭魔が自嘲するようにポツリと呟いた。
姉崎家を敵に回すことは、蛭魔の父の意向に逆らうことだ。
順風満帆な未来が剥奪される可能性も高い。
そしてそれは蛭魔だけでなく、武蔵共々そうなるかもしれない。

「俺は構わんよ。」
その意味がわかってであろう武蔵はのほほんとした口調でそう答えた。


「これは、蛭魔様!」
深夜、もうすぐ寝静まろうとする姉崎邸が一気に喧騒に見舞われた。
令嬢まもりの婚約者、蛭魔が何の連絡もなく来訪したのだ。
しかも家人に招き入れられるのを待たずに、ほとんど踏み込むように邸内に入る。
当主である姉崎夫人は、無礼を咎めようにも相手が蛭魔であるのでそれも出来ずに困惑していた。
使用人たちも同様で、掛ける言葉もわからず呆然としている。

「蛭魔くん?」
すでに眠っていたまもりも、喧騒に目を覚まして姿を現した。
そして蛭魔の顔を見て、ギョッとする。
蛭魔の顔は怒りに燃えており、この家の人間全てがその対象なのだ。
まもりは蛭魔の後ろに控える武蔵を見た。
蛭魔ほどあからさまではないものの、武蔵もまた怒っている。

「瀬那の部屋は?」
蛭魔が低い声でそう問うが、誰も答えない。
だが言葉に反応して、皆がそれとなく目線を向けた方へ蛭魔と武蔵はズカズカと歩いた。
そして片っ端から扉をバタバタと開けて、目指す部屋を見つけた。


これだけの大騒ぎの中で、瀬那は眠っていた。
苦しげに眉根を寄せて、うなされるように浅い呼吸をしている。
月明かりに浮かび上がる瀬那の首筋に残された鬱血の痕。
瀬那は今日も「仕事」をさせられたのだ。
そして疲れきった身体。
でも傷ついた心は、瀬那に浅い眠りしかもたらさないのだ。
蛭魔は痛ましい思いで、眠る瀬那を見下ろす。
この少年が愛おしいという想い、押し殺した本能が蛭魔の心からとめどなくあふれ出していた。

「う、あ?蛭魔、様?」
蛭魔が瀬那を抱き上げると、ようやく目を覚ました瀬那が声を上げた。
「暴れると落とすぞ」
蛭魔はそう言い放つと、瀬那を抱え上げた。
混乱した様子の瀬那は、蛭魔の腕の中で驚いた表情のまま固まっている。
高校生にしてはあまりにも軽いその身体を蛭魔は、しっかりと抱えて歩き出した。

「婚約は解消する。それから瀬那は貰っていく。」
蛭魔は姉崎夫人とまもり、そして使用人たちに向けて高らかに宣言した。
姉崎邸内がシンと静まり返り、気まずい雰囲気となった。
だが蛭魔と武蔵はかまうことなく、さっさと姉崎邸を後にした。

「あの、これは、いったい?」
ただ1人何が起きているのかまったく理解していない瀬那が、混乱している。
蛭魔は略奪した恋人を、問答無用とばかりにその腕に抱き締めた。

【続く】
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