理性と本能8題
蛭魔妖一は車を降りると、ゆっくりと歩き出した。
通学時には学校の近くまで車で送らせ、そこから歩く。
学校の前に車を横付けさせるような真似はしない。
蛭魔は決して人目を気にするような性格ではない。
学校近くは道幅が狭く、登校する生徒が多い。
歩いた方が早いというだけだ。
蛭魔は前方にあの少年、瀬那を見つけた。
着ているのは蛭魔と同じ制服。同じ高校の生徒だったのだ。
せいぜい中学生くらいだと思っていたのに。
内心驚きながら、瀬那の後姿を目で追った。
そしてその歩き方を訝しく思う。
歩く速度が遅く、ヨタヨタと覚束ない足取り。
まるで激しいスポーツでもした後のようだ。
他の生徒たちが次々に瀬那を追い抜いていく。
瀬那が先に校内に入り、そのときに横顔が見えた。
蒼白な顔色。そしてまるで表情が抜け落ちたような虚脱した顔。
蛭魔は驚きに目を見開いた。体調が悪いのは明らかだ。
瀬那に声をかけようとした蛭魔の前に車が停まり、まもりが降りてきた。
道幅や他の生徒の迷惑などは一切考慮するつもりはないまもりに蛭魔が眉を顰める。
「おはよう、蛭魔くん」
高慢な挑みかかるような口調でまもりが蛭魔に言った。
蛭魔は何も答えずに、まもりを無視してスタスタと歩いていく。
同じ学校なのに、なぜあの状態の瀬那を同乗させてやらないのだろう。
まもりに対して怒りを感じたが、それを表に現すことはなかった。
瀬那はゆっくりと歩いていた。
昨日、指定された場所に出向いた瀬那を待っていた客は3人だった。
その方がお金がいいと三宅に言われたのだ。
1人でも2人でも3人でも、汚されるのは同じだ。
それなら回数が少ない方がいい。
そう思った瀬那は、承諾した。
だが大違いだった。
瀬那は自分の考えの甘さを思い知らされることになった。
いつもの3倍の欲望を受け入れた身体は悲鳴を上げた。
心に受けたダメージはそれ以上だ。
3人の客は、裸に剥いた瀬那の身体を縛り上げ、存分に貪り楽しんだ。
瀬那は息つく間もなく、淫らな毒液を注ぎ込まれて喘ぎ続けた。
いつもは一晩寝れば、身体のダメージだけはかなり和らぐのに。
今日は未だに身体のあちこちが痛み、歩行さえままならない。
それでも無理をしても学校に来たかった。
あの「仕事」のせいで変わっていく自分の身体と心。
それを否定するために普段と同じことをしていたかったのだ。
でも駄目だ。普段と同じ風景なのにまるで違って見える。
多分自分が汚れてしまったせいだ。
悲しみに沈む瀬那は、後ろから視線を送る2人に気づくことはなかった。
まもりを置き去りにして、心配そうに見守る蛭魔も。
後に残されて、瀬那の後姿を睨みつけているたまもりも。
「あのチビちゃんにご執心だな。蛭魔」
瀬那の後ろ姿を見送っていた蛭魔は、背後に立つすっかり耳に馴染んだ声に顔を顰めた。
声の主は、蛭魔と同じ年齢で同じ制服を着ているのに、ひどく老け顔の男。
蛭魔の唯一心を許す友人であり、乳兄弟といえる存在だ。
武蔵厳と蛭魔妖一の関係の始まりは、彼らが生まれる前に遡る。
武蔵の父親は蛭魔の父親の部下、側近中の側近で、右腕と呼ばれる存在だった。
奇しくも同じ年に息子が生まれ、身体の弱かった蛭魔の母親は出産時に急逝した。
そして物心つく前の幼少の蛭魔は、武蔵と共に武蔵の母に育てられた。
まるで兄弟のように、隔てなく平等に。
そして蛭魔が人の上に立つ人間として、ここまで教育されていくのと同じく。
現在はよき友人である武蔵もまた有能な側近になるべく育てられている。
幼少の名残は、蛭魔は気に食わなければ親にも平気で逆らうが、武蔵の母には頭が上がらないことだけだ。
「ご執心、ねぇ。。。」
蛭魔は苦笑した。
なぜならあの少年への気持ちが何であるのか、蛭魔自身もよくわからないからだ。
可愛いと思うし、守りたいと思う。
それなのに手を触れることもできないのは、拒絶されるのが怖いからだ。
「何だか恋してるみたいに見えるな。」
武蔵が茶化すようにそう言えば、蛭魔はハッとした表情で動きを止めた。
恋?まさか。蛭魔は呆然とした様子で、自分の気持ちを持て余す。
「調べさせるか?あのチビちゃんのこと。」
蛭魔の戸惑いを見て取った武蔵が、今度は真剣な口調で言った。
何事も即答する蛭魔にしては珍しく一瞬の間があいた。
理性では婚約者の家の使用人の、しかも男に深入りするなどありえないと思う。
だがあの少年が暗く悲しい顔をしている理由を知りたいという気持ちが、それを裏切った。
蛭魔は武蔵に「頼む」と答えると、武蔵が短く「わかった」と応じた。
瀬那は、指定されたホテルの部屋のドアチャイムを鳴らした。
程なくしてドアが開き、今日の客である男が瀬那を招き入れる。
大柄でがっしりした体躯の男は、ドアを閉めるなり瀬那を抱き寄せた。
大きな手で瀬那の癖のある髪をくしゃくしゃとかき回す。
荒々しい所作に髪が男の指に絡まって、何本か抜けた。
思わず「痛い」と小さく声を上げてしまった瀬那に、男は苦笑した。
「悪い。痛かったか?」
男はそう言うと、瀬那から身体を離した。
そして窓際にあるソファを指差して、無言で座るようにと指図する。
「あの、シャワーを使ってもいいですか?」
瀬那は遠慮がちに男にそう聞いた。
今の瀬那は制服姿。学校から直接ここへ来たのだ。
だから抱かれる前に、身体を洗いたいと思った。
「ああ、セックスはしないから、シャワーはいいよ。」
男は笑顔でそう言いながら、ソファに腰を下ろした。
そしてテーブルを挟んだ向かいの席を手で示して、もう一度瀬那に座れと促す。
その真意がわからず、瀬那は男の表情を見た。
そこには淫らな要望も、黒い邪心も見受けられない。
怪訝に思いながらも、瀬那は男の指示に従い、ソファに座った。
「取材、ですか?」
「そう。こういう仕事をしている男の子をインタビューしてる。」
その男はライターだと言う。
そして瀬那にインタビューをしたいと切り出したのだ。
「君の名前は出さない。写真も撮らない。ただ質問に答えてもらう。お金はいつもの仕事の料金を払う。」
そう言われたものの、瀬那は何とも釈然としない。
瀬那は自分の話が、金を出して聞くようなものとは思えなかった。
それでも相手は客なのだと思い、納得がいかないままに同意した。
こんな仕事をしている理由は、母親の入院費を払うためであること。
男に抱かれるのは嫌だが、瀬那には他に金を得る手段がないということ。
客はみな瀬那を物のように扱い、身体も心もつらいということ。
ライターの男は、瀬那の話には特に口を挟まず、淡々と質問を投げてくる。
瀬那は相手の質問に短い言葉で答えた。
「ありがとう。よくわかった。」
「あの、今日のお金は結構です。」
質問が全て終わり礼を言う男に、瀬那は言った。
「遠慮することないぞ。時間を取ってもらったんだから金は取っておけ。」
「いいえ。頂けません。では失礼します。」
瀬那はきっぱりと断ると、立ち上がり頭を下げ、部屋を出た。
そういえば最初に抱き締めて、髪を撫でたのは何故だろう?
ホテルの出口に向かいながら、瀬那はぼんやりとそんなことを思う。
だがホテルを出る頃には、そんなことはすっかり忘れてしまった。
そのことを思い出すとき、瀬那の運命はガラリと変わっているなどとは思いもよらなかった。
「車に乗ってくか?」
放課後、不意に背後から声をかけられた瀬那は驚いてビクリと肩を震わせた。
「悪い。驚かせちまったか?」
蛭魔は振り返った瀬那に笑いかけると、瀬那は小さく「蛭魔様」と呼ぶ。
「おまえはいつも具合が悪そうじゃないか。」
笑顔から一転、蛭魔が心配そうな表情になった。
そんな顔をされたら、甘い期待をしてしまうではないか。
瀬那は暴れだしそうな心を、懸命に理性で抑えようとする。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
瀬那は微かに微笑すると、ペコリと頭を下げた。
だが蛭魔は右手を伸ばして、そのまま通り過ぎようとした瀬那の手首を掴んだ。
慌てて手を引っ込めようとした瀬那だったが、蛭魔は手をしっかり掴んだまま離さない。
「離して、ください。」
瀬那は掴まれた手に力を込めたり、身体を揺すって、懸命に振りほどこうとしたが無理だった。
体格も腕力も、蛭魔と瀬那ではかなり違う。
指の痕がつくほどにしっかりと握られた手首は、外すどころか動かすことさえ出来なかった。
「お願いですから、手を。。。」
瀬那は涙ぐみながら、か細く訴えた。
同じ男でありながら、綺麗で強い彼が好きだと思う。
逃げられない状況で、この目に見つめられ続けたら、危険だ。
「どうして、こんな。。。。」
「瀬那が好きだから。」
瀬那を捕らえたまま、蛭魔がきっぱりとした声で告げた。
好きだと言われた。瀬那、と名を呼ばれた。
瀬那は驚きに目を見開いた。
裏切った理性が、歓喜に震える。
このままでは姉のように接してくれる雇い主を悲しませてしまう。
「僕に触れたら、蛭魔様も汚れます。」
瀬那は揺れて蛭魔へと落ちそうになる想いを、懸命に押し隠した。
そうだ。汚れたこの身体をいつまでも彼に触れさせていてはいけない。
必死に蛭魔を睨みあげて、渾身の力をこめて腕を引く。
ようやく蛭魔から解けた手をギュッと握り締めて、瀬那は身を翻して走った。
蛭魔の「好き」はきっと瀬那のものとは違うだろう。
仮に同じだとしても、蛭魔と瀬那では身分が違いすぎる。
そして蛭魔には婚約者がいる。
何よりも蛭魔も瀬那も同性。男同士なのだ。
どこを取っても、決して結ばれることなどない。
瀬那は想いを振り捨てるように走り続けた。
だが心の奥底で、彼を好きだと思う心は決して振り落とせないのだとわかっていた。
【続く】
通学時には学校の近くまで車で送らせ、そこから歩く。
学校の前に車を横付けさせるような真似はしない。
蛭魔は決して人目を気にするような性格ではない。
学校近くは道幅が狭く、登校する生徒が多い。
歩いた方が早いというだけだ。
蛭魔は前方にあの少年、瀬那を見つけた。
着ているのは蛭魔と同じ制服。同じ高校の生徒だったのだ。
せいぜい中学生くらいだと思っていたのに。
内心驚きながら、瀬那の後姿を目で追った。
そしてその歩き方を訝しく思う。
歩く速度が遅く、ヨタヨタと覚束ない足取り。
まるで激しいスポーツでもした後のようだ。
他の生徒たちが次々に瀬那を追い抜いていく。
瀬那が先に校内に入り、そのときに横顔が見えた。
蒼白な顔色。そしてまるで表情が抜け落ちたような虚脱した顔。
蛭魔は驚きに目を見開いた。体調が悪いのは明らかだ。
瀬那に声をかけようとした蛭魔の前に車が停まり、まもりが降りてきた。
道幅や他の生徒の迷惑などは一切考慮するつもりはないまもりに蛭魔が眉を顰める。
「おはよう、蛭魔くん」
高慢な挑みかかるような口調でまもりが蛭魔に言った。
蛭魔は何も答えずに、まもりを無視してスタスタと歩いていく。
同じ学校なのに、なぜあの状態の瀬那を同乗させてやらないのだろう。
まもりに対して怒りを感じたが、それを表に現すことはなかった。
瀬那はゆっくりと歩いていた。
昨日、指定された場所に出向いた瀬那を待っていた客は3人だった。
その方がお金がいいと三宅に言われたのだ。
1人でも2人でも3人でも、汚されるのは同じだ。
それなら回数が少ない方がいい。
そう思った瀬那は、承諾した。
だが大違いだった。
瀬那は自分の考えの甘さを思い知らされることになった。
いつもの3倍の欲望を受け入れた身体は悲鳴を上げた。
心に受けたダメージはそれ以上だ。
3人の客は、裸に剥いた瀬那の身体を縛り上げ、存分に貪り楽しんだ。
瀬那は息つく間もなく、淫らな毒液を注ぎ込まれて喘ぎ続けた。
いつもは一晩寝れば、身体のダメージだけはかなり和らぐのに。
今日は未だに身体のあちこちが痛み、歩行さえままならない。
それでも無理をしても学校に来たかった。
あの「仕事」のせいで変わっていく自分の身体と心。
それを否定するために普段と同じことをしていたかったのだ。
でも駄目だ。普段と同じ風景なのにまるで違って見える。
多分自分が汚れてしまったせいだ。
悲しみに沈む瀬那は、後ろから視線を送る2人に気づくことはなかった。
まもりを置き去りにして、心配そうに見守る蛭魔も。
後に残されて、瀬那の後姿を睨みつけているたまもりも。
「あのチビちゃんにご執心だな。蛭魔」
瀬那の後ろ姿を見送っていた蛭魔は、背後に立つすっかり耳に馴染んだ声に顔を顰めた。
声の主は、蛭魔と同じ年齢で同じ制服を着ているのに、ひどく老け顔の男。
蛭魔の唯一心を許す友人であり、乳兄弟といえる存在だ。
武蔵厳と蛭魔妖一の関係の始まりは、彼らが生まれる前に遡る。
武蔵の父親は蛭魔の父親の部下、側近中の側近で、右腕と呼ばれる存在だった。
奇しくも同じ年に息子が生まれ、身体の弱かった蛭魔の母親は出産時に急逝した。
そして物心つく前の幼少の蛭魔は、武蔵と共に武蔵の母に育てられた。
まるで兄弟のように、隔てなく平等に。
そして蛭魔が人の上に立つ人間として、ここまで教育されていくのと同じく。
現在はよき友人である武蔵もまた有能な側近になるべく育てられている。
幼少の名残は、蛭魔は気に食わなければ親にも平気で逆らうが、武蔵の母には頭が上がらないことだけだ。
「ご執心、ねぇ。。。」
蛭魔は苦笑した。
なぜならあの少年への気持ちが何であるのか、蛭魔自身もよくわからないからだ。
可愛いと思うし、守りたいと思う。
それなのに手を触れることもできないのは、拒絶されるのが怖いからだ。
「何だか恋してるみたいに見えるな。」
武蔵が茶化すようにそう言えば、蛭魔はハッとした表情で動きを止めた。
恋?まさか。蛭魔は呆然とした様子で、自分の気持ちを持て余す。
「調べさせるか?あのチビちゃんのこと。」
蛭魔の戸惑いを見て取った武蔵が、今度は真剣な口調で言った。
何事も即答する蛭魔にしては珍しく一瞬の間があいた。
理性では婚約者の家の使用人の、しかも男に深入りするなどありえないと思う。
だがあの少年が暗く悲しい顔をしている理由を知りたいという気持ちが、それを裏切った。
蛭魔は武蔵に「頼む」と答えると、武蔵が短く「わかった」と応じた。
瀬那は、指定されたホテルの部屋のドアチャイムを鳴らした。
程なくしてドアが開き、今日の客である男が瀬那を招き入れる。
大柄でがっしりした体躯の男は、ドアを閉めるなり瀬那を抱き寄せた。
大きな手で瀬那の癖のある髪をくしゃくしゃとかき回す。
荒々しい所作に髪が男の指に絡まって、何本か抜けた。
思わず「痛い」と小さく声を上げてしまった瀬那に、男は苦笑した。
「悪い。痛かったか?」
男はそう言うと、瀬那から身体を離した。
そして窓際にあるソファを指差して、無言で座るようにと指図する。
「あの、シャワーを使ってもいいですか?」
瀬那は遠慮がちに男にそう聞いた。
今の瀬那は制服姿。学校から直接ここへ来たのだ。
だから抱かれる前に、身体を洗いたいと思った。
「ああ、セックスはしないから、シャワーはいいよ。」
男は笑顔でそう言いながら、ソファに腰を下ろした。
そしてテーブルを挟んだ向かいの席を手で示して、もう一度瀬那に座れと促す。
その真意がわからず、瀬那は男の表情を見た。
そこには淫らな要望も、黒い邪心も見受けられない。
怪訝に思いながらも、瀬那は男の指示に従い、ソファに座った。
「取材、ですか?」
「そう。こういう仕事をしている男の子をインタビューしてる。」
その男はライターだと言う。
そして瀬那にインタビューをしたいと切り出したのだ。
「君の名前は出さない。写真も撮らない。ただ質問に答えてもらう。お金はいつもの仕事の料金を払う。」
そう言われたものの、瀬那は何とも釈然としない。
瀬那は自分の話が、金を出して聞くようなものとは思えなかった。
それでも相手は客なのだと思い、納得がいかないままに同意した。
こんな仕事をしている理由は、母親の入院費を払うためであること。
男に抱かれるのは嫌だが、瀬那には他に金を得る手段がないということ。
客はみな瀬那を物のように扱い、身体も心もつらいということ。
ライターの男は、瀬那の話には特に口を挟まず、淡々と質問を投げてくる。
瀬那は相手の質問に短い言葉で答えた。
「ありがとう。よくわかった。」
「あの、今日のお金は結構です。」
質問が全て終わり礼を言う男に、瀬那は言った。
「遠慮することないぞ。時間を取ってもらったんだから金は取っておけ。」
「いいえ。頂けません。では失礼します。」
瀬那はきっぱりと断ると、立ち上がり頭を下げ、部屋を出た。
そういえば最初に抱き締めて、髪を撫でたのは何故だろう?
ホテルの出口に向かいながら、瀬那はぼんやりとそんなことを思う。
だがホテルを出る頃には、そんなことはすっかり忘れてしまった。
そのことを思い出すとき、瀬那の運命はガラリと変わっているなどとは思いもよらなかった。
「車に乗ってくか?」
放課後、不意に背後から声をかけられた瀬那は驚いてビクリと肩を震わせた。
「悪い。驚かせちまったか?」
蛭魔は振り返った瀬那に笑いかけると、瀬那は小さく「蛭魔様」と呼ぶ。
「おまえはいつも具合が悪そうじゃないか。」
笑顔から一転、蛭魔が心配そうな表情になった。
そんな顔をされたら、甘い期待をしてしまうではないか。
瀬那は暴れだしそうな心を、懸命に理性で抑えようとする。
「ありがとうございます。大丈夫です。」
瀬那は微かに微笑すると、ペコリと頭を下げた。
だが蛭魔は右手を伸ばして、そのまま通り過ぎようとした瀬那の手首を掴んだ。
慌てて手を引っ込めようとした瀬那だったが、蛭魔は手をしっかり掴んだまま離さない。
「離して、ください。」
瀬那は掴まれた手に力を込めたり、身体を揺すって、懸命に振りほどこうとしたが無理だった。
体格も腕力も、蛭魔と瀬那ではかなり違う。
指の痕がつくほどにしっかりと握られた手首は、外すどころか動かすことさえ出来なかった。
「お願いですから、手を。。。」
瀬那は涙ぐみながら、か細く訴えた。
同じ男でありながら、綺麗で強い彼が好きだと思う。
逃げられない状況で、この目に見つめられ続けたら、危険だ。
「どうして、こんな。。。。」
「瀬那が好きだから。」
瀬那を捕らえたまま、蛭魔がきっぱりとした声で告げた。
好きだと言われた。瀬那、と名を呼ばれた。
瀬那は驚きに目を見開いた。
裏切った理性が、歓喜に震える。
このままでは姉のように接してくれる雇い主を悲しませてしまう。
「僕に触れたら、蛭魔様も汚れます。」
瀬那は揺れて蛭魔へと落ちそうになる想いを、懸命に押し隠した。
そうだ。汚れたこの身体をいつまでも彼に触れさせていてはいけない。
必死に蛭魔を睨みあげて、渾身の力をこめて腕を引く。
ようやく蛭魔から解けた手をギュッと握り締めて、瀬那は身を翻して走った。
蛭魔の「好き」はきっと瀬那のものとは違うだろう。
仮に同じだとしても、蛭魔と瀬那では身分が違いすぎる。
そして蛭魔には婚約者がいる。
何よりも蛭魔も瀬那も同性。男同士なのだ。
どこを取っても、決して結ばれることなどない。
瀬那は想いを振り捨てるように走り続けた。
だが心の奥底で、彼を好きだと思う心は決して振り落とせないのだとわかっていた。
【続く】