理性と本能8題
今日の姉崎邸は朝から慌しい。
令嬢まもりの婚約者、蛭魔妖一が来訪することになっているからだった。
念入りに掃除がなされ、食事や酒、菓子や茶の用意もされている。
そちこちに飾られている花も、普段より豪奢なものになっていた。
そんな喧騒には関係なく、瀬那は身支度を整えていた。
今日はまた「仕事」だ。
朝早い時間に出かけて、戻るのは多分深夜になる。
蛭魔と顔を合わせることもないだろう。
蛭魔様。
瀬那はこっそりと心の中で、その名前を呼んでみた。
綺麗な人だった。
その輝きに誰もが目を奪われる、太陽のように眩しい人。
薄汚れて、ひっそりと闇の中で朽ちていくような自分とは大違いだ。
そう思って瀬那は諦めたように目を閉じて、ため息をついた。
この「仕事」をするようになって、ため息が増えたと思う。
でも誰にも言えない「仕事」なのだ。
せめて人知れずため息とともに、逃がさなければ。
このやるせない思いも、蛭魔への気持ちも。
そしてまた1つ、ため息をついて。
瀬那は誰に見送られることもなく姉崎家を出て、指定された場所へと向かう。
まもりの母であり、姉崎家の主となった夫人は瀬那の母、美生が好きではないと瀬那は思う。
結婚もせず、誰の子供かもわからない瀬那を産んだからだろう。
そして当然、その子供である瀬那も嫌悪の対象なのだ。
それでもどうにか今まで通り、姉崎邸で暮らすことは許してもらった。
亡くなった先代会長が学費を払ってくれたという高校にも、引き続き通わせてもらっている。
それに母の入院費を貸してくれて「仕事」を紹介してくれたのは、この家の執事だ。
今、姉崎家の庇護がなければ、瀬那はどうすることもできない。
だから感謝するべきなのだろう。
姉崎夫人は瀬那に辛く当たるけど、まもりは瀬那に優しい。
まもりはよく「弟みたい」という表現をする。
でも弟に対するというよりはペットに対するような感じだと瀬那は思っている。
気が向いたときにカワイイと頭を撫でて、それだけなのだ。
それでも優しくはしてもらっている。
これだって感謝するべきだ。
また好きでもない男に身体を任せる。
ともすればネガティブになる発想を、瀬那は懸命に上向ける。
そして約束の場所、先日と同じホテルのロビーについた。
ソファに腰掛ける前に、瀬那は自分に向かって歩いてくる男に気がついた。
「君が瀬那くんか?」
逞しい体躯の長身の男が瀬那を見下ろしていた。
蛭魔妖一は退屈していた。
初めて招かれた婚約者の家は、すべてが作り物じみていた。
使用人によって飾り立てられた家、料理人によって作られた食事。
裕福な家で生まれ育った蛭魔にとって、珍しくも何ともない。
最も蛭魔を退屈させたのが、親に決められた婚約者だ。
そういえばあいつはどうしたんだろう。
可愛らしい顔立ちに悲しみを滲ませていたあの瀬那という少年は。
それでも主であるまもりの婚約者である蛭魔に精一杯の笑いを見せた。
蛭魔の前で笑う人間の多くは、蛭魔の家の権力や財力に媚びている場合が多い。
屈託なく笑う人間はほんの一握りだ。
でもあの少年の笑いはそのどちらでもないと思う。
「あの瀬那って少年はどうしたんだ?住み込みなんだろ?」
「瀬那は今日は朝から出かけているわ。帰りは遅いみたい。」
蛭魔はまもりに聞いたが、素っ気ないな答えが返って来た。
だが一瞬、まもりの顔がひきつったように見えた。
蛭魔にとって拷問ともいえる時間が過ぎ、ようやく夕食が終了した。
まだいいじゃないですか、と何度も引き止める姉崎母子の誘いを固辞し、姉崎邸を出る。
迎えの車に乗りこもうとした瞬間、あの少年が入ってくるのが見えた。
瀬那だ。今帰宅したところなのだろう。
蛭魔は運転手に手で待てと合図をして、瀬那に歩み寄った。
ぼんやりと歩いていた瀬那が蛭魔に気づき、驚いたような表情になった。
「よぉ、今帰りか?」
瀬那が小さな声で「はい」と応じた。
「この前も今日も元気ねぇな。どっか悪ぃのか?」
「いえ、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。」
瀬那はゆっくりと蛭魔に視線を合わせて、少しだけ笑った。
ふわりとした笑顔は可愛らしく、不思議に蛭魔を魅了する。
触れれば壊れそうなほど儚げで、切ないほど健気な表情。
蛭魔の回りにはこんな風に笑う人間はいない。
皆、媚びるようなどこか打算的な顔だ。
これから親族になる姉崎母子ですらそうだ。
なのに、こいつは。
蛭魔はじっと瀬那の顔を見つめ続けた。
抱き締めたい、守りたい、笑顔が見たい。
その感情の答えが、瀬那を見つめ続ければわかるような気がしたからだ。
だがいくら考えてもわからず、2人の間にただゆるやかな沈黙だけが流れていた。
まもりは2階の窓から、瀬那と蛭魔が向かい合って立っているのを見ていた。
蛭魔が出て行くのを、見送るつもりで玄関口が見える2階へ上がってきた。
そこから見えた2人の様子に心が騒ぐ。
まもりは同じクラスの蛭魔が好きだった。
だが蛭魔が自分を好きではないことはわかっていた。
そもそも女性を愛するなどということをしそうにない男だった。
それにまもりには家業の姉崎ホールディングスという楔がある。
まもりには経営の才覚もなければ、興味もない。
だから姉崎ホールディングスを継ぐ者がまもりの生涯の伴侶となる。
何にしても蛭魔妖一と結ばれる可能性など皆無。諦めるしかなかった。
だが父親が亡くなって、状況は一変する。
母が会長業を継いだものの、母には経営の才覚はない。
だからまもりが早く婿を取らなくてはならない。
そしてまもりの婿候補として、浮上した何人かの男の中になんと蛭魔妖一その人がいた。
そして聞かされた蛭魔という男のバックボーン。
蛭魔家は政財界の大物を多く輩出した家系であり、蛭魔の父は政界のフィクサーと呼ばれる人物であること。
息子の妖一は、然るべき帝王教育を施された人間であるということ。
まもりの気持ちを知り、蛭魔の素性を知ったまもりの母、姉崎夫人は蛭魔家にまもりとの婚約を申し入れた。
財界の大物の息子を婿に迎えれば、姉崎ホールディングスは安泰。
蛭魔妖一を姉崎ホールディングスという餌で釣り上げようとしているのだ。
案の定、蛭魔は婚約はしたもののまもりには興味がない様子だった。
今日だって、蛭魔は退屈しきっていた。
姉崎母娘が言葉を尽くしても、食事を振る舞っても、表情1つ変えなかった。
それは納得ずくの話だった。政略結婚、いわば契約。
姉崎ホールディングスの財力が欲しい蛭魔と、蛭魔の有能な才覚が欲しい姉崎家。
まもりは今はそれでいいと思っている。
婚約して結婚すれば、蛭魔の所有者はまもりだ。
これから蛭魔と長い時間を共有して、いつか愛情を持ってもらえればと思う。
だからその日までは駆け引きだ。愛情などない、必要ない。
まもりもそういう風に振舞うつもりだった。
だがあのホテルのパーティで、瀬那を紹介したとき。
蛭魔は一応笑ってはいたものの、どこか興醒めしたような目をしていたのに。
瀬那のことだけは、眩しいものでも見るような目で見ていた。
今日の食事にしたって、そうだ。
蛭魔はまもりや母の話には、如才なく答える。
だが自分から切り出した話は、世間話以外では瀬那のことだけだ。
そして今。蛭魔は夜の遠目でもわかるほど優しい表情で、瀬那を見つめている。
まるで蛭魔の本能が、瀬那に向けて解き放たれたようだ。
得体のしれない不安が、まもりの心に巣食っていく。
まもりはその夜、すぐ近くまで破滅が迫っているような不吉な予感に恐怖した。
なぜ蛭魔は自分をじっと見ているのだろう?
瀬那はただただ戸惑う。
決して不快ではなかったが、つらかった。
まるで淫らな自分を暴かれているようだったからだ。
今日の客であった男は、慣れていない様子の瀬那を見て、ひどく喜んだ。
瀬那にとって、まだ情事で感じるのは苦痛だけだったのだ。
だが遊び慣れた様子の男は、丹念に瀬那の身体を解して、慣らした。
それは瀬那にとって、ひどく残酷な行為だった。
屈強な身体の男だったから、きっと無理矢理抱くと思っていたのに。
引き出されてしまった快楽。解き放たれた本能。
自分を裏切った浅ましい身体に、瀬那は深く絶望した。
瀬那の中で、心と身体が崩壊し、破滅した夜。
会えないと思っていた、一目惚れした人。
結ばれるはずもなく、許されるはずもない。
会わない方がいいことなど百も承知だ。
でも会いたかった。会えた。
そして優しい言葉をかけてもらえた。
それだけでもう幸せだと思える。
多分この前よりはうまく笑えているだろう。
【続く】
令嬢まもりの婚約者、蛭魔妖一が来訪することになっているからだった。
念入りに掃除がなされ、食事や酒、菓子や茶の用意もされている。
そちこちに飾られている花も、普段より豪奢なものになっていた。
そんな喧騒には関係なく、瀬那は身支度を整えていた。
今日はまた「仕事」だ。
朝早い時間に出かけて、戻るのは多分深夜になる。
蛭魔と顔を合わせることもないだろう。
蛭魔様。
瀬那はこっそりと心の中で、その名前を呼んでみた。
綺麗な人だった。
その輝きに誰もが目を奪われる、太陽のように眩しい人。
薄汚れて、ひっそりと闇の中で朽ちていくような自分とは大違いだ。
そう思って瀬那は諦めたように目を閉じて、ため息をついた。
この「仕事」をするようになって、ため息が増えたと思う。
でも誰にも言えない「仕事」なのだ。
せめて人知れずため息とともに、逃がさなければ。
このやるせない思いも、蛭魔への気持ちも。
そしてまた1つ、ため息をついて。
瀬那は誰に見送られることもなく姉崎家を出て、指定された場所へと向かう。
まもりの母であり、姉崎家の主となった夫人は瀬那の母、美生が好きではないと瀬那は思う。
結婚もせず、誰の子供かもわからない瀬那を産んだからだろう。
そして当然、その子供である瀬那も嫌悪の対象なのだ。
それでもどうにか今まで通り、姉崎邸で暮らすことは許してもらった。
亡くなった先代会長が学費を払ってくれたという高校にも、引き続き通わせてもらっている。
それに母の入院費を貸してくれて「仕事」を紹介してくれたのは、この家の執事だ。
今、姉崎家の庇護がなければ、瀬那はどうすることもできない。
だから感謝するべきなのだろう。
姉崎夫人は瀬那に辛く当たるけど、まもりは瀬那に優しい。
まもりはよく「弟みたい」という表現をする。
でも弟に対するというよりはペットに対するような感じだと瀬那は思っている。
気が向いたときにカワイイと頭を撫でて、それだけなのだ。
それでも優しくはしてもらっている。
これだって感謝するべきだ。
また好きでもない男に身体を任せる。
ともすればネガティブになる発想を、瀬那は懸命に上向ける。
そして約束の場所、先日と同じホテルのロビーについた。
ソファに腰掛ける前に、瀬那は自分に向かって歩いてくる男に気がついた。
「君が瀬那くんか?」
逞しい体躯の長身の男が瀬那を見下ろしていた。
蛭魔妖一は退屈していた。
初めて招かれた婚約者の家は、すべてが作り物じみていた。
使用人によって飾り立てられた家、料理人によって作られた食事。
裕福な家で生まれ育った蛭魔にとって、珍しくも何ともない。
最も蛭魔を退屈させたのが、親に決められた婚約者だ。
そういえばあいつはどうしたんだろう。
可愛らしい顔立ちに悲しみを滲ませていたあの瀬那という少年は。
それでも主であるまもりの婚約者である蛭魔に精一杯の笑いを見せた。
蛭魔の前で笑う人間の多くは、蛭魔の家の権力や財力に媚びている場合が多い。
屈託なく笑う人間はほんの一握りだ。
でもあの少年の笑いはそのどちらでもないと思う。
「あの瀬那って少年はどうしたんだ?住み込みなんだろ?」
「瀬那は今日は朝から出かけているわ。帰りは遅いみたい。」
蛭魔はまもりに聞いたが、素っ気ないな答えが返って来た。
だが一瞬、まもりの顔がひきつったように見えた。
蛭魔にとって拷問ともいえる時間が過ぎ、ようやく夕食が終了した。
まだいいじゃないですか、と何度も引き止める姉崎母子の誘いを固辞し、姉崎邸を出る。
迎えの車に乗りこもうとした瞬間、あの少年が入ってくるのが見えた。
瀬那だ。今帰宅したところなのだろう。
蛭魔は運転手に手で待てと合図をして、瀬那に歩み寄った。
ぼんやりと歩いていた瀬那が蛭魔に気づき、驚いたような表情になった。
「よぉ、今帰りか?」
瀬那が小さな声で「はい」と応じた。
「この前も今日も元気ねぇな。どっか悪ぃのか?」
「いえ、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。」
瀬那はゆっくりと蛭魔に視線を合わせて、少しだけ笑った。
ふわりとした笑顔は可愛らしく、不思議に蛭魔を魅了する。
触れれば壊れそうなほど儚げで、切ないほど健気な表情。
蛭魔の回りにはこんな風に笑う人間はいない。
皆、媚びるようなどこか打算的な顔だ。
これから親族になる姉崎母子ですらそうだ。
なのに、こいつは。
蛭魔はじっと瀬那の顔を見つめ続けた。
抱き締めたい、守りたい、笑顔が見たい。
その感情の答えが、瀬那を見つめ続ければわかるような気がしたからだ。
だがいくら考えてもわからず、2人の間にただゆるやかな沈黙だけが流れていた。
まもりは2階の窓から、瀬那と蛭魔が向かい合って立っているのを見ていた。
蛭魔が出て行くのを、見送るつもりで玄関口が見える2階へ上がってきた。
そこから見えた2人の様子に心が騒ぐ。
まもりは同じクラスの蛭魔が好きだった。
だが蛭魔が自分を好きではないことはわかっていた。
そもそも女性を愛するなどということをしそうにない男だった。
それにまもりには家業の姉崎ホールディングスという楔がある。
まもりには経営の才覚もなければ、興味もない。
だから姉崎ホールディングスを継ぐ者がまもりの生涯の伴侶となる。
何にしても蛭魔妖一と結ばれる可能性など皆無。諦めるしかなかった。
だが父親が亡くなって、状況は一変する。
母が会長業を継いだものの、母には経営の才覚はない。
だからまもりが早く婿を取らなくてはならない。
そしてまもりの婿候補として、浮上した何人かの男の中になんと蛭魔妖一その人がいた。
そして聞かされた蛭魔という男のバックボーン。
蛭魔家は政財界の大物を多く輩出した家系であり、蛭魔の父は政界のフィクサーと呼ばれる人物であること。
息子の妖一は、然るべき帝王教育を施された人間であるということ。
まもりの気持ちを知り、蛭魔の素性を知ったまもりの母、姉崎夫人は蛭魔家にまもりとの婚約を申し入れた。
財界の大物の息子を婿に迎えれば、姉崎ホールディングスは安泰。
蛭魔妖一を姉崎ホールディングスという餌で釣り上げようとしているのだ。
案の定、蛭魔は婚約はしたもののまもりには興味がない様子だった。
今日だって、蛭魔は退屈しきっていた。
姉崎母娘が言葉を尽くしても、食事を振る舞っても、表情1つ変えなかった。
それは納得ずくの話だった。政略結婚、いわば契約。
姉崎ホールディングスの財力が欲しい蛭魔と、蛭魔の有能な才覚が欲しい姉崎家。
まもりは今はそれでいいと思っている。
婚約して結婚すれば、蛭魔の所有者はまもりだ。
これから蛭魔と長い時間を共有して、いつか愛情を持ってもらえればと思う。
だからその日までは駆け引きだ。愛情などない、必要ない。
まもりもそういう風に振舞うつもりだった。
だがあのホテルのパーティで、瀬那を紹介したとき。
蛭魔は一応笑ってはいたものの、どこか興醒めしたような目をしていたのに。
瀬那のことだけは、眩しいものでも見るような目で見ていた。
今日の食事にしたって、そうだ。
蛭魔はまもりや母の話には、如才なく答える。
だが自分から切り出した話は、世間話以外では瀬那のことだけだ。
そして今。蛭魔は夜の遠目でもわかるほど優しい表情で、瀬那を見つめている。
まるで蛭魔の本能が、瀬那に向けて解き放たれたようだ。
得体のしれない不安が、まもりの心に巣食っていく。
まもりはその夜、すぐ近くまで破滅が迫っているような不吉な予感に恐怖した。
なぜ蛭魔は自分をじっと見ているのだろう?
瀬那はただただ戸惑う。
決して不快ではなかったが、つらかった。
まるで淫らな自分を暴かれているようだったからだ。
今日の客であった男は、慣れていない様子の瀬那を見て、ひどく喜んだ。
瀬那にとって、まだ情事で感じるのは苦痛だけだったのだ。
だが遊び慣れた様子の男は、丹念に瀬那の身体を解して、慣らした。
それは瀬那にとって、ひどく残酷な行為だった。
屈強な身体の男だったから、きっと無理矢理抱くと思っていたのに。
引き出されてしまった快楽。解き放たれた本能。
自分を裏切った浅ましい身体に、瀬那は深く絶望した。
瀬那の中で、心と身体が崩壊し、破滅した夜。
会えないと思っていた、一目惚れした人。
結ばれるはずもなく、許されるはずもない。
会わない方がいいことなど百も承知だ。
でも会いたかった。会えた。
そして優しい言葉をかけてもらえた。
それだけでもう幸せだと思える。
多分この前よりはうまく笑えているだろう。
【続く】