理性と本能8題
小早川瀬那は指定されたホテルのロビーで待っていた。
こちらは相手の顔を知らないが、向こうは知っているという。
だから声をかけられるまで、ここで待っていればいい。
15歳、高校1年生の瀬那は小柄で童顔で可愛らしい容姿をしている。
ロビーでちょこんと座っている彼を見ても誰も気がつかないだろう。
彼が男に抱かれることを仕事としており、客を待っていることなど。
じっとエントランスを見ていた瀬那は、ちょうど入ってきた1人の男に目を奪われた。
上等な仕立てのスーツに身を包んだ長身の若い青年。
顔立ちは恐ろしいほど整っており、その体躯も立ち居振る舞いも優美だ。
そして逆立てた金髪と、尖った耳に2連のピアス。インパクトのある容姿。
瀬那はその青年に見とれた。
なんて綺麗な人なんだろう。この人だったらいいな。
初めての相手がこんなに綺麗な人とだったら。
そう思うとドキドキしてしまう。
でも青年は瀬那の前を素通りして、エレベーターホールへと歩き去ってしまった。
瀬那は大きくため息をついて、肩を落とした。
瀬那は再びエントランスに目を向けながら、身構えた。
金のために身体を売る。でも心だけは強くありたい。
その時、瀬那は懸命にそう思おうとしていた。
瀬那の物心ついた頃には母親と2人きりだった。父も兄弟もいない。
兄弟はともかく父は存在したのだろうが、何も知らない。
母親に聞くと悲しい顔をするので、もう聞かないことにしている。
日本では知らぬ者はいないほど有名な会社、姉崎ホールディングス。
古くは財閥と呼ばれた由緒ある企業集団であったが、戦後に解体された。
だが現在は、多岐にわたる多くのそれらの子会社を束ねる持ち株会社として、未だ財界に君臨している。
瀬那の母親は、その会長宅の住み込みの家政婦だった。
瀬那もまた母親と共に姉崎家に住み、学校に通いながら、母の仕事を手伝っていた。
姉崎会長は瀬那を息子のように可愛がってくれた。
そして令嬢のまもりも弟のように接してくれていた。
普通の高校生に比べて少し違うところはあるが、穏やかで幸せな生活だった。
それが一変したのは、突然だった。
たまたまその姉崎家の主である会長は瀬那の母である美生を伴って外出した際、事故にあった。
姉崎会長は亡くなり、美生は瀕死の重傷を負って病院に入院している。
可愛がってくれた雇い主の死、最愛の母の大怪我。
嘆き悲しんだ瀬那には、絶望的な現実問題が待ち受けていた。
聞かされた美生の治療費は大金だった。
ごく普通の高校生である瀬那は金など持っていないし、手にする手段もわからない。
瀬那は考えた末、故・先代会長の妻であり、会長を引き継いだ姉崎夫人に借金を申し込んだ。
姉崎夫人の答えは冷たいものだった。
姉崎ホールディングスはその名こそ有名であるが、不況であるこの時期、財政は極めて苦しい。
ましてや姉崎家の財政もまた同様。
働けない美生と瀬那を置くことさえ、苦しい状況である。
とても金を用立てることはできない。
それどころか遠回しではあるが、働けない美生と瀬那には姉崎家から出て行って欲しいとさえ言われた。
唯一の手段を絶たれた瀬那は、ただただ途方に暮れるしかなかった。
「君が瀬那くんかい?」
エントランスばかり注視していた瀬那の背後に、いつのまにか別の男が立っている。
驚いて振り返った瀬那は、男を見上げて、慌てて「はい」と答えた。
立っていたのは、恰幅のよい中年の男性だった。
無遠慮に値踏みするような視線には、淫らな情欲を宿している。
途方に暮れていた瀬那に、ある提案をしてきたのは姉崎邸の執事を務める三宅だった。
三宅の紹介するある「仕事」をしないか。
そうすれば美生の治療費を用立てて、今まで通りに姉崎邸に住めるように姉崎夫人に頼んでやろうと。
だが「仕事」の内容を聞かされた瀬那は驚愕した。
接待という名目で、身体を売ること。しかも男相手と言う特殊なものだ。
だが瀬那に他に道はなかった。
そして今日、初めての仕事の為にここに来た。
理性さえしっかり保っていれば、心の底までは汚れないでいられる。
そう思っていた瀬那の勇気は、一気に萎えた。
嫌だ。怖い。こんな男に抱かれたくない。
でももう逃げ道はないのだ。
瀬那は震える足に懸命に力を入れて、立ち上がった。
蛭魔妖一は、ホテルのパーティ会場にいた。
今日は自分の婚約披露パーティ。
それなのに全然気が乗らない。
むしろ面倒だとか馬鹿馬鹿しいという気持ちの方が強い。
親が決めた自分の婚約相手は、なんと偶然にもクラスメートだった。
一応美人だが、性格は真面目で自分とは合わないであろうことは間違いない。
ぶっちゃけた話が今時ありか?といいたくなるような政略結婚だった。
蛭魔は親に意見できない気弱な性格ではない。
むしろ気に入らない話ならば、親にだって平気で逆らう。
それでも今こうして気が乗らないパーティに出席しているのは姉崎ホールディングスの存在だ。
先代会長が事故で急逝して、今はその未亡人が会長に就任している。
だがあくまで仮の会長だと言う。
娘婿はつまり姉崎ホールディングスの次期会長ということになる。
婚約者である姉崎まもりはドレスで着飾って、客たちの間を艶やかに泳ぎまわっている。
彼女が財力だけでなく、見栄えもいいのは喜ばしいことだ。
そんな婚約者の様子を横目で見ながら、蛭魔もにこやかに客たちと挨拶を交わし、談笑する。
邪心を隠して笑うなど、蛭魔には造作もないことだった。
姉崎家が欲しいのは優しい娘婿ではない。有能な会長なのだ。
愛だの恋だのというベタベタした関係など望んでいないヒル魔にとっては、願ってもない。
この上なくめでたい話だ。愛情がまったくないこと以外には。
蛭魔にとっては茶番以外の何者でもないパーティも終盤。
まもりが不意に1人の少年を連れて、蛭魔のところへやってきた。
Gパンにセーター姿のその少年は明らかに場違いだ。
まもりの母親である現会長が、遠くからチラリと不快そうな視線を少年に投げている。
「蛭魔くん、この子はうちで働いてくれている小早川美生さんの息子なの。」
「小早川。。。って事故で入院してる人だったか?」
「そうよ。私には弟も同然の子なの。たまたま見かけたから連れてきちゃった。」
まもりが屈託なく笑った。
蛭魔は少年を見て、怪訝に思う。
可愛らしい顔立ちの少年の顔色があまりにも悪かったからだ。
それに表情が、まるで人生に絶望しているかのように悲しげだった。
「小早川瀬那です。」
それでも少年は蛭魔に向かって丁寧に頭を下げ、ほんの少しだけ笑った。
そのあまりにも儚げな笑顔が蛭魔の心を掴み、捉えた。
愛情などない、利害のみで受け入れた婚約。
そんなのは違うと訴える本能を、理性で武装して押さえ込んだ。
そんな蛭魔の理性は、少年の笑みで剥がれ落ちた。
神様は何て残酷なんだろう。
瀬那はただただ自分の境遇を嘆くことしかできなかった。
通りすがりに一瞬見えた美しい人。
同性なのに、一目で好きになってしまった。
でももう会うこともないと思った。
次の瞬間、好きでもない男に抱かれた。
お金のために、散々に嬲られ、羞恥と屈辱の地獄に落ちた。
心だけは自由でありたいと思ったけれど、それは空しい抵抗だった。
老練な客の手管によって、剥がれ落ちた理性。
そして今、好きな人は別の人の婚約者として汚れてしまった瀬那の前に立っている。
目の前にいる2人は、理想のカップルに見えた。
若くて、美しくて、富も名声もある。
瀬那にないものをすべて持っている。
沈みかけた心を瀬那は無理矢理押し込めた。
お世話になっている家の令嬢と婚約者を祝福しなくてはならない。
先程あの男に抱かれたときに、散々に泣いておいてよかった。
もう涙も出きって、枯れ果ててしまった。
だから今は泣かずにいられる。嘘でも少し笑える。
【続く】
こちらは相手の顔を知らないが、向こうは知っているという。
だから声をかけられるまで、ここで待っていればいい。
15歳、高校1年生の瀬那は小柄で童顔で可愛らしい容姿をしている。
ロビーでちょこんと座っている彼を見ても誰も気がつかないだろう。
彼が男に抱かれることを仕事としており、客を待っていることなど。
じっとエントランスを見ていた瀬那は、ちょうど入ってきた1人の男に目を奪われた。
上等な仕立てのスーツに身を包んだ長身の若い青年。
顔立ちは恐ろしいほど整っており、その体躯も立ち居振る舞いも優美だ。
そして逆立てた金髪と、尖った耳に2連のピアス。インパクトのある容姿。
瀬那はその青年に見とれた。
なんて綺麗な人なんだろう。この人だったらいいな。
初めての相手がこんなに綺麗な人とだったら。
そう思うとドキドキしてしまう。
でも青年は瀬那の前を素通りして、エレベーターホールへと歩き去ってしまった。
瀬那は大きくため息をついて、肩を落とした。
瀬那は再びエントランスに目を向けながら、身構えた。
金のために身体を売る。でも心だけは強くありたい。
その時、瀬那は懸命にそう思おうとしていた。
瀬那の物心ついた頃には母親と2人きりだった。父も兄弟もいない。
兄弟はともかく父は存在したのだろうが、何も知らない。
母親に聞くと悲しい顔をするので、もう聞かないことにしている。
日本では知らぬ者はいないほど有名な会社、姉崎ホールディングス。
古くは財閥と呼ばれた由緒ある企業集団であったが、戦後に解体された。
だが現在は、多岐にわたる多くのそれらの子会社を束ねる持ち株会社として、未だ財界に君臨している。
瀬那の母親は、その会長宅の住み込みの家政婦だった。
瀬那もまた母親と共に姉崎家に住み、学校に通いながら、母の仕事を手伝っていた。
姉崎会長は瀬那を息子のように可愛がってくれた。
そして令嬢のまもりも弟のように接してくれていた。
普通の高校生に比べて少し違うところはあるが、穏やかで幸せな生活だった。
それが一変したのは、突然だった。
たまたまその姉崎家の主である会長は瀬那の母である美生を伴って外出した際、事故にあった。
姉崎会長は亡くなり、美生は瀕死の重傷を負って病院に入院している。
可愛がってくれた雇い主の死、最愛の母の大怪我。
嘆き悲しんだ瀬那には、絶望的な現実問題が待ち受けていた。
聞かされた美生の治療費は大金だった。
ごく普通の高校生である瀬那は金など持っていないし、手にする手段もわからない。
瀬那は考えた末、故・先代会長の妻であり、会長を引き継いだ姉崎夫人に借金を申し込んだ。
姉崎夫人の答えは冷たいものだった。
姉崎ホールディングスはその名こそ有名であるが、不況であるこの時期、財政は極めて苦しい。
ましてや姉崎家の財政もまた同様。
働けない美生と瀬那を置くことさえ、苦しい状況である。
とても金を用立てることはできない。
それどころか遠回しではあるが、働けない美生と瀬那には姉崎家から出て行って欲しいとさえ言われた。
唯一の手段を絶たれた瀬那は、ただただ途方に暮れるしかなかった。
「君が瀬那くんかい?」
エントランスばかり注視していた瀬那の背後に、いつのまにか別の男が立っている。
驚いて振り返った瀬那は、男を見上げて、慌てて「はい」と答えた。
立っていたのは、恰幅のよい中年の男性だった。
無遠慮に値踏みするような視線には、淫らな情欲を宿している。
途方に暮れていた瀬那に、ある提案をしてきたのは姉崎邸の執事を務める三宅だった。
三宅の紹介するある「仕事」をしないか。
そうすれば美生の治療費を用立てて、今まで通りに姉崎邸に住めるように姉崎夫人に頼んでやろうと。
だが「仕事」の内容を聞かされた瀬那は驚愕した。
接待という名目で、身体を売ること。しかも男相手と言う特殊なものだ。
だが瀬那に他に道はなかった。
そして今日、初めての仕事の為にここに来た。
理性さえしっかり保っていれば、心の底までは汚れないでいられる。
そう思っていた瀬那の勇気は、一気に萎えた。
嫌だ。怖い。こんな男に抱かれたくない。
でももう逃げ道はないのだ。
瀬那は震える足に懸命に力を入れて、立ち上がった。
蛭魔妖一は、ホテルのパーティ会場にいた。
今日は自分の婚約披露パーティ。
それなのに全然気が乗らない。
むしろ面倒だとか馬鹿馬鹿しいという気持ちの方が強い。
親が決めた自分の婚約相手は、なんと偶然にもクラスメートだった。
一応美人だが、性格は真面目で自分とは合わないであろうことは間違いない。
ぶっちゃけた話が今時ありか?といいたくなるような政略結婚だった。
蛭魔は親に意見できない気弱な性格ではない。
むしろ気に入らない話ならば、親にだって平気で逆らう。
それでも今こうして気が乗らないパーティに出席しているのは姉崎ホールディングスの存在だ。
先代会長が事故で急逝して、今はその未亡人が会長に就任している。
だがあくまで仮の会長だと言う。
娘婿はつまり姉崎ホールディングスの次期会長ということになる。
婚約者である姉崎まもりはドレスで着飾って、客たちの間を艶やかに泳ぎまわっている。
彼女が財力だけでなく、見栄えもいいのは喜ばしいことだ。
そんな婚約者の様子を横目で見ながら、蛭魔もにこやかに客たちと挨拶を交わし、談笑する。
邪心を隠して笑うなど、蛭魔には造作もないことだった。
姉崎家が欲しいのは優しい娘婿ではない。有能な会長なのだ。
愛だの恋だのというベタベタした関係など望んでいないヒル魔にとっては、願ってもない。
この上なくめでたい話だ。愛情がまったくないこと以外には。
蛭魔にとっては茶番以外の何者でもないパーティも終盤。
まもりが不意に1人の少年を連れて、蛭魔のところへやってきた。
Gパンにセーター姿のその少年は明らかに場違いだ。
まもりの母親である現会長が、遠くからチラリと不快そうな視線を少年に投げている。
「蛭魔くん、この子はうちで働いてくれている小早川美生さんの息子なの。」
「小早川。。。って事故で入院してる人だったか?」
「そうよ。私には弟も同然の子なの。たまたま見かけたから連れてきちゃった。」
まもりが屈託なく笑った。
蛭魔は少年を見て、怪訝に思う。
可愛らしい顔立ちの少年の顔色があまりにも悪かったからだ。
それに表情が、まるで人生に絶望しているかのように悲しげだった。
「小早川瀬那です。」
それでも少年は蛭魔に向かって丁寧に頭を下げ、ほんの少しだけ笑った。
そのあまりにも儚げな笑顔が蛭魔の心を掴み、捉えた。
愛情などない、利害のみで受け入れた婚約。
そんなのは違うと訴える本能を、理性で武装して押さえ込んだ。
そんな蛭魔の理性は、少年の笑みで剥がれ落ちた。
神様は何て残酷なんだろう。
瀬那はただただ自分の境遇を嘆くことしかできなかった。
通りすがりに一瞬見えた美しい人。
同性なのに、一目で好きになってしまった。
でももう会うこともないと思った。
次の瞬間、好きでもない男に抱かれた。
お金のために、散々に嬲られ、羞恥と屈辱の地獄に落ちた。
心だけは自由でありたいと思ったけれど、それは空しい抵抗だった。
老練な客の手管によって、剥がれ落ちた理性。
そして今、好きな人は別の人の婚約者として汚れてしまった瀬那の前に立っている。
目の前にいる2人は、理想のカップルに見えた。
若くて、美しくて、富も名声もある。
瀬那にないものをすべて持っている。
沈みかけた心を瀬那は無理矢理押し込めた。
お世話になっている家の令嬢と婚約者を祝福しなくてはならない。
先程あの男に抱かれたときに、散々に泣いておいてよかった。
もう涙も出きって、枯れ果ててしまった。
だから今は泣かずにいられる。嘘でも少し笑える。
【続く】
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