生きる5題+
「病気のこと、セナのご両親に聞いたの。」
姉崎まもりは隣を歩く男に、そっと告げた。
だが男は「そうか」と短く答え、それ以上は何も言わなかった。
まもりは帰宅する途中だった。
遅くまで練習した後、今まではモン太が家まで送るのが習慣だった。
以前はセナが送っていたが、まもりと2人になりたいモン太に譲ったらしい。
だがここ最近は、それをヒル魔がしていた。
それは数日前に起こったある事件のためだ。
「セナをアメフト部から辞めさせて、治療に専念させるように説得してって頼まれたわ。」
まもりは並んで歩くヒル魔に、さらに話し続ける。
密かに想いを寄せるヒル魔と、2人並んで歩けるのは嬉しい。
だが弟のように大事に思う少年のことを考えると、どうしても気が重くなる。
「セナとは話したわ。私もご両親と同じ気持ちだった。」
「セナはまだ1年生。来年もチャンスがあるけど、病気は待ってくれない。」
「でも、セナは頑として、聞き入れてくれなかったの。」
「ヒル魔くんに見出してもらった足だから。一緒に戦えないなんて意味がないって。」
「絶対に、ヒル魔くんや栗田くんや武蔵くんと一緒に行くって。」
「そのためなら来年がなくてもいいって。性別が変わってもいいって。」
まもりは返事がない相手に、一方的に話し続けた。
だがヒル魔は決してまもりを無視しているわけではない。
言ってもどうしようもないことを、わざわざ口にしないだけなのだ。
ここまでの付き合いで、まもりもこの謎多き男の性格がかなりわかっていた。
「セナのために何かしたい。でも私ができることは何もないの。」
まもりの声が微かに震えた。
涙が溢れそうになるのを堪えているからだ。
だがそのことにもヒル魔は何も言わない。
気づかない振りをしてくれているのだ。
「だからヒル魔くん、セナをよろしくね。助けてあげて。」
「できる限りのことはする。」
いつも寡黙なヒル魔が、最後だけは雄弁に言い切った。
まもりはその言葉に、ようやく少しだけ笑うことができた。
まもりにとって、クリスマスボウルも恋も大切なものだ。
だがそれをもたらしてくれたセナは、それ以上に大切なのだ。
だからこの恋が実らなくても、セナが幸せなら諦められる。
こうして一緒に帰ったことも、いつかいい思い出になるだろう。
そしてヒル魔には、絶対にセナを幸せにしてもらわなければ困る。
花嫁の父ってこういう気持ちなのかしら。
まもりはヒル魔の涼しげな横顔を見ながら、苦笑するしかなかった。
「俺、ヒル魔さんのことがずっと好きだったんですよ。」
ヒル魔は不躾なその言葉に顔をしかめた。
好きという言葉は好意を持たない人間から言われると、迷惑以外の何物でもない。
だがそれがヒル魔がまもりを送って帰ることになったきっかけだった。
泥門デビルバッツの次の相手は、西部と白秋の勝者となる。
作戦を練りつつ、とにかく練習するしかない。
授業が終わったヒル魔は、部活に向かおうとしていた。
「ヒル魔さん」
早足で部室に向かうヒル魔は、聞き慣れない声に呼び止められた。
振り向いて、その声の主の正体に、かすかに眉をひそめる。
一見顔立ちは整っているのに、どこか卑屈に見える目つきとへらへらとした笑い。
確かアメフト部の入部テストに来ていた1年生だ。
ヒル魔のおこぼれに預かりたいなどとふざけたことを言っていた。
名前は確か、三宅だったか。
だが今のヒル魔には、会話するに値しない人間だ。
ヒル魔はそのまま通り過ぎようとする。
だが三宅は小走りにヒル魔を追い抜き、その前に立ちはだかった。
「話があるんです」
「俺にはない。そこを退け。」
「俺、ヒル魔さんのことがずっと好きだったんですよ。」
ヒル魔の表情が、嫌悪に微かに歪んだ。
だがそのまま横をすり抜けて、立ち去ろうとする。
「ヒル魔さん、好きな人とかいるんですか?」
「何?」
「姉崎さんでしょ?何かいい雰囲気だし、お似合いですもんね。」
「何が言いたい?」
「付き合ってくれないなら俺、ヒル魔さんの大事なものを壊しちゃうかも。」
その時、ヒル魔の脳裏に浮かんだのはセナの顔だった。
こんな下劣な男など、会話する価値もない。
だが自分以外の相手に危害を加えるなどと匂わされれば、そうはいかない。
本当にそんなことをするなら、全力で潰さなければならない。
「テメーと付き合うつもりなんか金輪際ねぇ。二度と俺の視界に入るな。」
ヒル魔は三宅の襟首を掴んで捻りあげ、三宅を睨みつけた。
静かな声に怒りが滲んでいる。
大声で怒鳴るときよりも、銃を乱射するときよりも。
叩きつけるように三宅を掴んでいた手を離し、ヒル魔は部室に向かった。
そして三宅は相変わらずへらへらと、何事もなかったようにその場を立ち去っていった。
「姉崎さんでしょ?何かいい雰囲気だし、お似合いですもんね。」
頭の中では、ヒル魔と三宅の言葉が何度も反芻されている。
部活が終わり、セナは帰宅する途中だった。
病気が発覚してから、セナは毎日ヒル魔に家まで送ってもらっていた。
だが今はヒル魔はまもりを送っている。
その原因となるヒル魔と三宅のやり取りを、セナは偶然知ってしまったのだ。
その日はクラスの当番で、いつもより時間が少し遅かった。
小走りで部室に向かう途中で、ヒル魔と三宅が話しているのを見かけたのだ。
咄嗟に通路の陰に隠れて、2人の会話を聞いた。
三宅の言葉は、セナも聞き捨てならないと思った。
まもりのことは姉のように大事に思っており、三宅が傷つけるなど断じて許さない。
だがそれ以上に、三宅がヒル魔の想い人をまもりと思ったことがショックだった。
ヒル魔は悪魔のような男と恐れられている。
だがその裏にはクリスマスボウルへのひたむきな情熱と、仲間思いの優しさがある。
そして綺麗な金色の髪と秀麗な顔立ち、美しい身体と立ち居振る舞い。
まもりだって美人で優しい、魅力的な女性だ。
この2人がお似合いだと思うのは、不思議なことではない
チビで平凡、何より同性である自分はヒル魔とは釣り合わない。
わかっていたことだ。
ヒル魔にとって、自分は単なる後輩に過ぎないと。
セナは両手でパンっと自分の両頬を叩いた。
「セナ?どうした?」
並んで歩いていた男に声をかけられ、我に返る。
ここ数日はセナの身体の事情を知っている武蔵と栗田と十文字が交代で送ってくれる。
今日は十文字だ。
「ごめん。ちょっとボンヤリした。」
セナが小さく詫びる。
考え事をしているうちに、もうセナの家の前まで来ていた。
セナは「送ってくれて、ありがとう」と軽く頭を下げた。
「じゃあな。疲れてるみたいだし、ゆっくり休めよ。」
十文字が笑顔でそう告げると、くるりと踵を返す。
セナはその後姿を見送りながら、セナは申し訳なくなった。
わざわざ送ってくれたのに、さらに気を使わせるなんて。
気を取り直して、門扉に手をかけた瞬間、セナのポケットで携帯電話が鳴った。
ポケットから携帯を取り出し、相手も確認せずに通話ボタンを押した。
セナに電話をしてくる相手は気心の知れた者ばかりだから、いちいち確認などしないのだ。
「もしもし」
だが気安い口調で電話に出たセナは「ええ?」と声を上げた。
そして次の瞬間、家には入らずに走り出していた。
「ったく、馬鹿が!家まで送る意味がねぇだろうが!」
ヒル魔はここにいない人物に悪態をついていた。
ヒル魔は部室に来ていた。
夜になって、まもりから「セナが帰宅していない」と電話があったのだ。
取り乱すまもりに、こちらで捜すから絶対に家から出るなと言い聞かせる。
そしてセナの両親に家で待つようにと伝言を言い渡すと、電話を切った。
すぐに今日セナを送って行ったはずの十文字に電話をかける。
『家の前まで送ったぜ!』
セナが帰っていないと知った十文字は、電話口でそう叫んだ。
ヒル魔には、まもり以上に取り乱しているように聞こえた。
「落ち着け、糞長男。とりあえず部室に来い!」
ヒル魔はそう言い放った。
電話を切ると、今度は武蔵と栗田にも電話をかけ、同様に部室に呼んだ。
そしてヒル魔は、恐ろしいスピートでノートパソコンのキーを叩いていた。
学校とセナの自宅近辺の防犯カメラネットワークへのハッキング。
そして三宅という人間のデータと、立ち回りそうな先だ。
ヒル魔はセナが三宅に誘い出されたものと確信している。
「ふざけた真似、しやがって」
いくら時間が経過しても、ヒル魔の怒りは収まらない。
三宅は最初からセナを狙っていたのだ。
だが校内ではいつもアメフト部員たちと一緒にいるし、帰りはヒル魔が送っている。
病気のことがあり、特に最近は1人にならないように気を配っていた。
三宅にしたら、さぞかし隙がないように見えただろう。
だからわざとまもりの名前を出して、注意をそちらに逸らした。
そしてセナの周辺が手薄になるのを、待っていたのだ。
まったくそんな単純な手に引っかかったのが、忌々しい。
「おい、まだかよ!」
十文字が焦れた声で、ヒル魔に突っかかった。
武蔵も栗田もそれを止める余裕がないようだ。
ヒル魔はそんな彼らを見ながら、冷静になろうと努めた。
焦っては三宅の思うツボだ。
「行くぞ!」
頭脳と情報を駆使して、ヒル魔はようやく1つの場所を割り出した。
3人にその場所を伝え、とにかく急ぐことにする。
本当は誰にも頼らず、1人でセナを迎えに行きたい。
だが三宅がどういう準備をしているかわからない以上、人手があった方がいい。
セナを無事に取り戻す確率が高くなる。
「乗れ!」
部室を出たところで、武蔵が軽トラックの運転席に乗り込むとそう叫んだ。
実家である工務店の車だ。
当然高校生である武蔵は無免許なのだが、それを注意する人間は誰もいなかった。
「どうしてこんなことを?」
セナは文句を言った。
だが三宅は「わからない?」と逆に質問を投げてきた。
セナと三宅は、空き家と思しき古い家にいた。
電話で呼び出されたのだ。
そしてこうして2人、床に座り込んで、話している。
三宅が持ち込んだ懐中電灯の灯りだけが、2人を照らしている。
「大変なんです!すぐ来てください。ヒル魔さんとまもりさんが!」
電話口で、三宅は名前を名乗らずにそう叫んだ。
呼び出された場所はキミドリスポーツ前だ。
訳も分からないまま駆け付けたセナは、そこで三宅と会った。
薄々おかしいと思っていたが、三宅の顔を見て確信に変わった。
セナは誘き出されたのだ。
だが逆にセナは覚悟を決めた。
自分の病気のことで、ヒル魔たちには迷惑をかけている。
ここで三宅と話をして、ヒル魔の問題を1つ減らすことができれば。
だからセナは促されるままに、この家までついてきたのだった。
「もうヒル魔さんに迷惑をかけるの、やめてもらえないかな?」
セナは恐る恐る声をかける。
だが三宅は何も答えなかった。
他にもいろいろ話しかけてみたものの、何も返事がない。
別に拘束されているわけでもないから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。
だがセナはそのまま動けずにいた。
「三宅くんは、ヒル魔さんが好きなんだよね?」
「まさか!そんなわけあるわけないじゃん。」
答えが返ってくると思わなかったセナは、驚いた。
そしてその答えにもう1度驚く。
ヒル魔が好きでないなら、目的は何だ?
三宅はいったい何がしたいのだろう。
ふと胸に何がが詰まったような感覚に、セナは激しくせき込んだ。
何かが口から吐き出されてしまい、慌てて手のひらで口を押さえる。
そしてその手のひらを見て、驚愕した。
それは、体を流れる真っ赤なモノ。
血を吐いたのだ。
そう思った瞬間、目の前の三宅がグラリと歪み、気が遠くなってきた。
三宅は何か叫んでいるようだが、よく聞こえない。
せっかくヒル魔さんの役に立ちたいと思ったのに。
セナは薄れゆく意識の中でそう思いながら、目を閉じた。
「糞チビ!」
ヒル魔が声を上げながら、古い家に踏み込んだ。
十文字が続いて入り、武蔵と栗田が続いた。
この家はずいぶん前から空き家で、三宅が溜まり場にしていると調べがついている。
暗い室内に、三宅が蒼白な顔で立ちすくんでいるのが見えた。
その横に横たわっているのは、セナだ。
セナはぐったりと目を閉じており、口元が赤く染まっていた。
ヒル魔たちはその姿を見て、驚愕に目を見開いた。
「血を吐いて、倒れたんだ。」
三宅はうわ言のように、そう呟いた。
この声も身体も小刻みに震えている。
「テメー!」
十文字が三宅に駆け寄ると、襟首をねじり上げた。
そして拳を振り下ろそうとする。
だがヒル魔に「やめろ!」と一喝されて、動きを止める。
そして忌々しそうに、掴んだ襟首を話した。
「すぐに病院に!」
栗田が意識のないセナを抱き上げた。
ヒル魔は一瞬、何か言いたそうに口を開く。
だが何も言わなかった。
ヒル魔はきっと自分でセナを運びたかったのだろう。
武蔵も栗田も十文字もそう思った。
「テメーが本当に好きだったのは小早川瀬那。そうだな?」
ヒル魔が三宅にそう告げた。
それは今の三宅の動揺した表情から推察し、導き出した答えだった。
他の3人が「え?」と驚きの声を上げる。
三宅は何も答えずに、ガックリと項垂れた。
「こんな方法で興味を引いて、揚句にこんな場所に連れて来て。何がしたかったんだ?」
「わからない」
ヒル魔に畳み掛けられ、三宅はポツリとそう答えた。
いつぞやのふてぶてしさはもうない。
目の前でセナが血を吐いたことが、相当ショックだったのだろう。
「ずっとひねくれてきたから。正しい恋の仕方なんて、わからない。」
弱音を吐くようにそう告げた三宅は、ひどくやつれているように見える。
この大騒ぎの発端は、実は恋情だった。
最初の入部テストから、きちんと向かい合わなかったアメフト部。
いまさらそのエースに惹かれても、どうしようもなかった。
だからこんな支離滅裂な行動に打って出たのだ。
「コイツが好きなら、真正面から来い。それなら誰も邪魔しない。」
ヒル魔はきっぱりとそう言い放つと、さっさと家を出て行く。
セナを抱えた栗田がそれに従い、武蔵と十文字も続いた。
病院に運ばれたセナは、幸い大事に至らなかった。
意識を飛ばしたのは、血を見たショックによる貧血と聞いて、大いに脱力した。
だがやはり血を吐いたのは尋常でない事態であり、心配は尽きない。
結局セナは一晩だけ入院し、翌々日には学校に戻った。
ヒル魔は自分たちが駆け付けて、セナを連れ戻ったことだけ話した。
三宅の恋心を話すかどうか決めるのは、三宅本人だ。
自分の恋心を持て余すヒル魔は、この点だけは三宅に同乗していたのだった。
「はい、ヒル魔さん」
セナは隠しカメラと盗聴器をヒル魔に返した。
ヒル魔は相変わらず、部室の指定席でパソコンをカチャカチャと叩いている。
短く「ああ」と応じたが、セナに目線は向けなかった。
セナは、白秋の高校生とは思えないやたら色っぽいマネージャーに呼び出された。
そして白秋が対戦相手のQBを潰して、勝ち進んでいるということを聞かされたのだ。
その事はセナの心をますます動揺させた。
「どうした?もう帰っていいぞ。」
ボーっと考え込んでいたセナはヒル魔に声をかけられて、ハッとした。
そして何か言いたげに微かに唇を震わせる。
ヒル魔は何か反応が悪いセナに視線を向け、その唇に釘付けになった。
引き寄せて唇を重ねてしまいたい衝動を懸命におさえる。
その唇が「ヒル魔さんを守らなくちゃ」と小さく呟いた。
「あ?」
「何でもありません。お先に失礼します。」
セナはニコリと微笑むと、部室を出て行った。
多分ヒル魔さんには聞き取れなかっただろうな。
小走りに校門に向かいながらセナは少し笑った。
思わず声に出してしまった決意。
でもヒル魔にしてみれば、失笑モノだろう。
ここ最近迷惑をかけまくっているセナにそんなことを言われても、説得力がない。
ヒル魔は聞こえない振りをしたが、実はセナの呟きは耳に届いていた。
そして途方に暮れている。
ただでさえつらいであろうセナに、そんな心配をさせている。
そして守りたいという気持ちは、ヒル魔も同じだった
もし自分が潰された場合、次のQBに一番適任なのはセナだと思う。
でもそれは下手をすると、セナもまた潰されてしまう可能性が高い。
それにセナがそんな目に遭う局面があるとしたら、自分はすでにフィールドにいない。
セナを守ることなど出来ないのだ。
何としてでもクリスマスボウルに行く。
それは何年もの間見てきた夢であり、栗田や武蔵と交わした約束。
揺らぐことのない決意のはずだった。
でも苦しんでいるセナを見ていると、どうでもいい事のように思えてしまう。
ヒル魔はそんな考えを打ち消すように、再びパソコンに向かう。
セナが今苦痛に耐えているのだって、クリスマスボウルのためだ。
自分が揺らぐわけにはいかないのだ。
【続く】
姉崎まもりは隣を歩く男に、そっと告げた。
だが男は「そうか」と短く答え、それ以上は何も言わなかった。
まもりは帰宅する途中だった。
遅くまで練習した後、今まではモン太が家まで送るのが習慣だった。
以前はセナが送っていたが、まもりと2人になりたいモン太に譲ったらしい。
だがここ最近は、それをヒル魔がしていた。
それは数日前に起こったある事件のためだ。
「セナをアメフト部から辞めさせて、治療に専念させるように説得してって頼まれたわ。」
まもりは並んで歩くヒル魔に、さらに話し続ける。
密かに想いを寄せるヒル魔と、2人並んで歩けるのは嬉しい。
だが弟のように大事に思う少年のことを考えると、どうしても気が重くなる。
「セナとは話したわ。私もご両親と同じ気持ちだった。」
「セナはまだ1年生。来年もチャンスがあるけど、病気は待ってくれない。」
「でも、セナは頑として、聞き入れてくれなかったの。」
「ヒル魔くんに見出してもらった足だから。一緒に戦えないなんて意味がないって。」
「絶対に、ヒル魔くんや栗田くんや武蔵くんと一緒に行くって。」
「そのためなら来年がなくてもいいって。性別が変わってもいいって。」
まもりは返事がない相手に、一方的に話し続けた。
だがヒル魔は決してまもりを無視しているわけではない。
言ってもどうしようもないことを、わざわざ口にしないだけなのだ。
ここまでの付き合いで、まもりもこの謎多き男の性格がかなりわかっていた。
「セナのために何かしたい。でも私ができることは何もないの。」
まもりの声が微かに震えた。
涙が溢れそうになるのを堪えているからだ。
だがそのことにもヒル魔は何も言わない。
気づかない振りをしてくれているのだ。
「だからヒル魔くん、セナをよろしくね。助けてあげて。」
「できる限りのことはする。」
いつも寡黙なヒル魔が、最後だけは雄弁に言い切った。
まもりはその言葉に、ようやく少しだけ笑うことができた。
まもりにとって、クリスマスボウルも恋も大切なものだ。
だがそれをもたらしてくれたセナは、それ以上に大切なのだ。
だからこの恋が実らなくても、セナが幸せなら諦められる。
こうして一緒に帰ったことも、いつかいい思い出になるだろう。
そしてヒル魔には、絶対にセナを幸せにしてもらわなければ困る。
花嫁の父ってこういう気持ちなのかしら。
まもりはヒル魔の涼しげな横顔を見ながら、苦笑するしかなかった。
「俺、ヒル魔さんのことがずっと好きだったんですよ。」
ヒル魔は不躾なその言葉に顔をしかめた。
好きという言葉は好意を持たない人間から言われると、迷惑以外の何物でもない。
だがそれがヒル魔がまもりを送って帰ることになったきっかけだった。
泥門デビルバッツの次の相手は、西部と白秋の勝者となる。
作戦を練りつつ、とにかく練習するしかない。
授業が終わったヒル魔は、部活に向かおうとしていた。
「ヒル魔さん」
早足で部室に向かうヒル魔は、聞き慣れない声に呼び止められた。
振り向いて、その声の主の正体に、かすかに眉をひそめる。
一見顔立ちは整っているのに、どこか卑屈に見える目つきとへらへらとした笑い。
確かアメフト部の入部テストに来ていた1年生だ。
ヒル魔のおこぼれに預かりたいなどとふざけたことを言っていた。
名前は確か、三宅だったか。
だが今のヒル魔には、会話するに値しない人間だ。
ヒル魔はそのまま通り過ぎようとする。
だが三宅は小走りにヒル魔を追い抜き、その前に立ちはだかった。
「話があるんです」
「俺にはない。そこを退け。」
「俺、ヒル魔さんのことがずっと好きだったんですよ。」
ヒル魔の表情が、嫌悪に微かに歪んだ。
だがそのまま横をすり抜けて、立ち去ろうとする。
「ヒル魔さん、好きな人とかいるんですか?」
「何?」
「姉崎さんでしょ?何かいい雰囲気だし、お似合いですもんね。」
「何が言いたい?」
「付き合ってくれないなら俺、ヒル魔さんの大事なものを壊しちゃうかも。」
その時、ヒル魔の脳裏に浮かんだのはセナの顔だった。
こんな下劣な男など、会話する価値もない。
だが自分以外の相手に危害を加えるなどと匂わされれば、そうはいかない。
本当にそんなことをするなら、全力で潰さなければならない。
「テメーと付き合うつもりなんか金輪際ねぇ。二度と俺の視界に入るな。」
ヒル魔は三宅の襟首を掴んで捻りあげ、三宅を睨みつけた。
静かな声に怒りが滲んでいる。
大声で怒鳴るときよりも、銃を乱射するときよりも。
叩きつけるように三宅を掴んでいた手を離し、ヒル魔は部室に向かった。
そして三宅は相変わらずへらへらと、何事もなかったようにその場を立ち去っていった。
「姉崎さんでしょ?何かいい雰囲気だし、お似合いですもんね。」
頭の中では、ヒル魔と三宅の言葉が何度も反芻されている。
部活が終わり、セナは帰宅する途中だった。
病気が発覚してから、セナは毎日ヒル魔に家まで送ってもらっていた。
だが今はヒル魔はまもりを送っている。
その原因となるヒル魔と三宅のやり取りを、セナは偶然知ってしまったのだ。
その日はクラスの当番で、いつもより時間が少し遅かった。
小走りで部室に向かう途中で、ヒル魔と三宅が話しているのを見かけたのだ。
咄嗟に通路の陰に隠れて、2人の会話を聞いた。
三宅の言葉は、セナも聞き捨てならないと思った。
まもりのことは姉のように大事に思っており、三宅が傷つけるなど断じて許さない。
だがそれ以上に、三宅がヒル魔の想い人をまもりと思ったことがショックだった。
ヒル魔は悪魔のような男と恐れられている。
だがその裏にはクリスマスボウルへのひたむきな情熱と、仲間思いの優しさがある。
そして綺麗な金色の髪と秀麗な顔立ち、美しい身体と立ち居振る舞い。
まもりだって美人で優しい、魅力的な女性だ。
この2人がお似合いだと思うのは、不思議なことではない
チビで平凡、何より同性である自分はヒル魔とは釣り合わない。
わかっていたことだ。
ヒル魔にとって、自分は単なる後輩に過ぎないと。
セナは両手でパンっと自分の両頬を叩いた。
「セナ?どうした?」
並んで歩いていた男に声をかけられ、我に返る。
ここ数日はセナの身体の事情を知っている武蔵と栗田と十文字が交代で送ってくれる。
今日は十文字だ。
「ごめん。ちょっとボンヤリした。」
セナが小さく詫びる。
考え事をしているうちに、もうセナの家の前まで来ていた。
セナは「送ってくれて、ありがとう」と軽く頭を下げた。
「じゃあな。疲れてるみたいだし、ゆっくり休めよ。」
十文字が笑顔でそう告げると、くるりと踵を返す。
セナはその後姿を見送りながら、セナは申し訳なくなった。
わざわざ送ってくれたのに、さらに気を使わせるなんて。
気を取り直して、門扉に手をかけた瞬間、セナのポケットで携帯電話が鳴った。
ポケットから携帯を取り出し、相手も確認せずに通話ボタンを押した。
セナに電話をしてくる相手は気心の知れた者ばかりだから、いちいち確認などしないのだ。
「もしもし」
だが気安い口調で電話に出たセナは「ええ?」と声を上げた。
そして次の瞬間、家には入らずに走り出していた。
「ったく、馬鹿が!家まで送る意味がねぇだろうが!」
ヒル魔はここにいない人物に悪態をついていた。
ヒル魔は部室に来ていた。
夜になって、まもりから「セナが帰宅していない」と電話があったのだ。
取り乱すまもりに、こちらで捜すから絶対に家から出るなと言い聞かせる。
そしてセナの両親に家で待つようにと伝言を言い渡すと、電話を切った。
すぐに今日セナを送って行ったはずの十文字に電話をかける。
『家の前まで送ったぜ!』
セナが帰っていないと知った十文字は、電話口でそう叫んだ。
ヒル魔には、まもり以上に取り乱しているように聞こえた。
「落ち着け、糞長男。とりあえず部室に来い!」
ヒル魔はそう言い放った。
電話を切ると、今度は武蔵と栗田にも電話をかけ、同様に部室に呼んだ。
そしてヒル魔は、恐ろしいスピートでノートパソコンのキーを叩いていた。
学校とセナの自宅近辺の防犯カメラネットワークへのハッキング。
そして三宅という人間のデータと、立ち回りそうな先だ。
ヒル魔はセナが三宅に誘い出されたものと確信している。
「ふざけた真似、しやがって」
いくら時間が経過しても、ヒル魔の怒りは収まらない。
三宅は最初からセナを狙っていたのだ。
だが校内ではいつもアメフト部員たちと一緒にいるし、帰りはヒル魔が送っている。
病気のことがあり、特に最近は1人にならないように気を配っていた。
三宅にしたら、さぞかし隙がないように見えただろう。
だからわざとまもりの名前を出して、注意をそちらに逸らした。
そしてセナの周辺が手薄になるのを、待っていたのだ。
まったくそんな単純な手に引っかかったのが、忌々しい。
「おい、まだかよ!」
十文字が焦れた声で、ヒル魔に突っかかった。
武蔵も栗田もそれを止める余裕がないようだ。
ヒル魔はそんな彼らを見ながら、冷静になろうと努めた。
焦っては三宅の思うツボだ。
「行くぞ!」
頭脳と情報を駆使して、ヒル魔はようやく1つの場所を割り出した。
3人にその場所を伝え、とにかく急ぐことにする。
本当は誰にも頼らず、1人でセナを迎えに行きたい。
だが三宅がどういう準備をしているかわからない以上、人手があった方がいい。
セナを無事に取り戻す確率が高くなる。
「乗れ!」
部室を出たところで、武蔵が軽トラックの運転席に乗り込むとそう叫んだ。
実家である工務店の車だ。
当然高校生である武蔵は無免許なのだが、それを注意する人間は誰もいなかった。
「どうしてこんなことを?」
セナは文句を言った。
だが三宅は「わからない?」と逆に質問を投げてきた。
セナと三宅は、空き家と思しき古い家にいた。
電話で呼び出されたのだ。
そしてこうして2人、床に座り込んで、話している。
三宅が持ち込んだ懐中電灯の灯りだけが、2人を照らしている。
「大変なんです!すぐ来てください。ヒル魔さんとまもりさんが!」
電話口で、三宅は名前を名乗らずにそう叫んだ。
呼び出された場所はキミドリスポーツ前だ。
訳も分からないまま駆け付けたセナは、そこで三宅と会った。
薄々おかしいと思っていたが、三宅の顔を見て確信に変わった。
セナは誘き出されたのだ。
だが逆にセナは覚悟を決めた。
自分の病気のことで、ヒル魔たちには迷惑をかけている。
ここで三宅と話をして、ヒル魔の問題を1つ減らすことができれば。
だからセナは促されるままに、この家までついてきたのだった。
「もうヒル魔さんに迷惑をかけるの、やめてもらえないかな?」
セナは恐る恐る声をかける。
だが三宅は何も答えなかった。
他にもいろいろ話しかけてみたものの、何も返事がない。
別に拘束されているわけでもないから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。
だがセナはそのまま動けずにいた。
「三宅くんは、ヒル魔さんが好きなんだよね?」
「まさか!そんなわけあるわけないじゃん。」
答えが返ってくると思わなかったセナは、驚いた。
そしてその答えにもう1度驚く。
ヒル魔が好きでないなら、目的は何だ?
三宅はいったい何がしたいのだろう。
ふと胸に何がが詰まったような感覚に、セナは激しくせき込んだ。
何かが口から吐き出されてしまい、慌てて手のひらで口を押さえる。
そしてその手のひらを見て、驚愕した。
それは、体を流れる真っ赤なモノ。
血を吐いたのだ。
そう思った瞬間、目の前の三宅がグラリと歪み、気が遠くなってきた。
三宅は何か叫んでいるようだが、よく聞こえない。
せっかくヒル魔さんの役に立ちたいと思ったのに。
セナは薄れゆく意識の中でそう思いながら、目を閉じた。
「糞チビ!」
ヒル魔が声を上げながら、古い家に踏み込んだ。
十文字が続いて入り、武蔵と栗田が続いた。
この家はずいぶん前から空き家で、三宅が溜まり場にしていると調べがついている。
暗い室内に、三宅が蒼白な顔で立ちすくんでいるのが見えた。
その横に横たわっているのは、セナだ。
セナはぐったりと目を閉じており、口元が赤く染まっていた。
ヒル魔たちはその姿を見て、驚愕に目を見開いた。
「血を吐いて、倒れたんだ。」
三宅はうわ言のように、そう呟いた。
この声も身体も小刻みに震えている。
「テメー!」
十文字が三宅に駆け寄ると、襟首をねじり上げた。
そして拳を振り下ろそうとする。
だがヒル魔に「やめろ!」と一喝されて、動きを止める。
そして忌々しそうに、掴んだ襟首を話した。
「すぐに病院に!」
栗田が意識のないセナを抱き上げた。
ヒル魔は一瞬、何か言いたそうに口を開く。
だが何も言わなかった。
ヒル魔はきっと自分でセナを運びたかったのだろう。
武蔵も栗田も十文字もそう思った。
「テメーが本当に好きだったのは小早川瀬那。そうだな?」
ヒル魔が三宅にそう告げた。
それは今の三宅の動揺した表情から推察し、導き出した答えだった。
他の3人が「え?」と驚きの声を上げる。
三宅は何も答えずに、ガックリと項垂れた。
「こんな方法で興味を引いて、揚句にこんな場所に連れて来て。何がしたかったんだ?」
「わからない」
ヒル魔に畳み掛けられ、三宅はポツリとそう答えた。
いつぞやのふてぶてしさはもうない。
目の前でセナが血を吐いたことが、相当ショックだったのだろう。
「ずっとひねくれてきたから。正しい恋の仕方なんて、わからない。」
弱音を吐くようにそう告げた三宅は、ひどくやつれているように見える。
この大騒ぎの発端は、実は恋情だった。
最初の入部テストから、きちんと向かい合わなかったアメフト部。
いまさらそのエースに惹かれても、どうしようもなかった。
だからこんな支離滅裂な行動に打って出たのだ。
「コイツが好きなら、真正面から来い。それなら誰も邪魔しない。」
ヒル魔はきっぱりとそう言い放つと、さっさと家を出て行く。
セナを抱えた栗田がそれに従い、武蔵と十文字も続いた。
病院に運ばれたセナは、幸い大事に至らなかった。
意識を飛ばしたのは、血を見たショックによる貧血と聞いて、大いに脱力した。
だがやはり血を吐いたのは尋常でない事態であり、心配は尽きない。
結局セナは一晩だけ入院し、翌々日には学校に戻った。
ヒル魔は自分たちが駆け付けて、セナを連れ戻ったことだけ話した。
三宅の恋心を話すかどうか決めるのは、三宅本人だ。
自分の恋心を持て余すヒル魔は、この点だけは三宅に同乗していたのだった。
「はい、ヒル魔さん」
セナは隠しカメラと盗聴器をヒル魔に返した。
ヒル魔は相変わらず、部室の指定席でパソコンをカチャカチャと叩いている。
短く「ああ」と応じたが、セナに目線は向けなかった。
セナは、白秋の高校生とは思えないやたら色っぽいマネージャーに呼び出された。
そして白秋が対戦相手のQBを潰して、勝ち進んでいるということを聞かされたのだ。
その事はセナの心をますます動揺させた。
「どうした?もう帰っていいぞ。」
ボーっと考え込んでいたセナはヒル魔に声をかけられて、ハッとした。
そして何か言いたげに微かに唇を震わせる。
ヒル魔は何か反応が悪いセナに視線を向け、その唇に釘付けになった。
引き寄せて唇を重ねてしまいたい衝動を懸命におさえる。
その唇が「ヒル魔さんを守らなくちゃ」と小さく呟いた。
「あ?」
「何でもありません。お先に失礼します。」
セナはニコリと微笑むと、部室を出て行った。
多分ヒル魔さんには聞き取れなかっただろうな。
小走りに校門に向かいながらセナは少し笑った。
思わず声に出してしまった決意。
でもヒル魔にしてみれば、失笑モノだろう。
ここ最近迷惑をかけまくっているセナにそんなことを言われても、説得力がない。
ヒル魔は聞こえない振りをしたが、実はセナの呟きは耳に届いていた。
そして途方に暮れている。
ただでさえつらいであろうセナに、そんな心配をさせている。
そして守りたいという気持ちは、ヒル魔も同じだった
もし自分が潰された場合、次のQBに一番適任なのはセナだと思う。
でもそれは下手をすると、セナもまた潰されてしまう可能性が高い。
それにセナがそんな目に遭う局面があるとしたら、自分はすでにフィールドにいない。
セナを守ることなど出来ないのだ。
何としてでもクリスマスボウルに行く。
それは何年もの間見てきた夢であり、栗田や武蔵と交わした約束。
揺らぐことのない決意のはずだった。
でも苦しんでいるセナを見ていると、どうでもいい事のように思えてしまう。
ヒル魔はそんな考えを打ち消すように、再びパソコンに向かう。
セナが今苦痛に耐えているのだって、クリスマスボウルのためだ。
自分が揺らぐわけにはいかないのだ。
【続く】