生きる5題+
「!」
泥門デビルバッツの面々のみならず、その場にいた誰もが息を飲んだ。
試合の最中に、武蔵がヒル魔を殴り飛ばしたからだ。
武蔵の拳はワナワナと震えていたし、ヒル魔の口は切れている。
実は事前に武蔵とヒル魔で示し合わせていたことだ。
演技しているヒル魔はともかく、他の全員が驚いた顔をしている。
つまり、この芝居は成功なのだろう。
だが武蔵が怒っていることだけは真実だった。
泥門デビルバッツは、関東大会の初戦、神龍寺ナーガと対戦していた。
組み合わせが決まった時、武蔵は正直言って「運が悪い」と思った。
いきなり強豪、しかも因縁浅からぬ相手との対戦なのだから。
そしてその因縁に、セナを巻き込んでしまったことがつらかった。
わかっていた。
阿含がその狂気をセナに向けていることを。
薄々は感じていたが、確信したのはあの抽選会のときだ。
阿含は明らかに、セナの目を狙ってボールを投げた。
セナだから狙われたし、セナだから避ける事ができたのだ。
「せいぜい足元すくわれないようにな、天才さんよ。」
ヒル魔は阿含にそう言い放ち「ケケケ」と笑った。
だが切ないような焦燥感とセナへの庇護欲を押し隠していたのだと思う。
何としても勝たなければならず、その勝利のためにセナは必要不可欠だ。
そしてセナは、また過酷な戦いの最前線に立たされる。
武蔵は自分の怒りの正体がわかっている。
いたぶるように執拗にセナを狙う阿含への怒り。
セナと阿含のマッチアップを決め、セナを酷使するヒル魔への怒り。
そしてこの状況でヒル魔の筋書きに乗り、セナを止めない自分への怒り。
それらが複雑に入り混じって、武蔵を駆り立てる。
ヒル魔は「フリ」だけでいいと言っていたが、思い切り殴った。
それでも少しも気が晴れない。
だが同じ怒りを感じているであろうヒル魔は、殴られることで少しだけ気が晴れている。
特に根拠はないが、そんな気がしてならなかった。
「女性仮性半陰陽先天性副腎皮質過形成症」
「何だって?」
その長い名称を、ヒル魔は淀みなくスラスラと口にした。
だが栗田と武蔵は困惑し、顔を見合わせた。
神龍寺ナーガとの試合の数日ほど前の昼休み。
ヒル魔は栗田と武蔵を部室に呼び出し、それを伝えた。
なるべくセナに気を配らなくてはならないが、ヒル魔1人では限界もある。
それに栗田も武蔵もセナの不調に気づき始めている。
だからヒル魔は、まずは栗田と武蔵には話すことにしたのだろう。
本当はセナが自分で伝えると言ったという。
だがヒル魔は自分が話をすると、セナを納得させた。
セナにもう1度、同じ話をさせるのは酷過ぎる。
ヒル魔はそう考えたのだろう。
「それがアイツの病名だ。」
ヒル魔は冷静にそう告げる。
だが武蔵も栗田も、返す言葉がなかった。
長い病名には少しも馴染みがなく、どういう病気なのか見当もつかないのだ。
「要は遺伝子異常で元々女だったのに、男として育っちまったんだとよ。」
「はぁ?」
「最近、体調が悪いのは、ホルモンのバランスってやつが崩れてきてるんだと。」
「つまりセナは女ってことか?」
武蔵はようやく搾り出すようにそう言うのがやっとだった。
だがその言葉の重みに呆然とする。
元々女として生まれたのに、ホルモンの異常とやらで男として育ってしまった。
言葉にしてしまえば、あまりにあっけない。
だが性別が違うなんて、自分の存在の根本を揺るがせる一大事だ。
もし自分だったら、きっとアメフトどころではないだろう。
「考えてみりゃ納得だよな。あの身長と細さ。」
ヒル魔は武蔵の気持ちとは関係なしに、淡々と言葉を続けた。
確かにそれには武蔵も同意できる。
高1男子としては、あまりにも華奢なセナの身体。
体毛もほとんどないし、ヒゲなども皆無だ。
実は女性であり、ホルモンの異常だと言われれば、なるほどと思える。
「セナ君、このままアメフト続けられるの?」
ずっと黙っていた栗田が、口を開いた。
細い目はもうすでに涙で濡れている。
無類のお人好しは、セナの境遇に同情しているのだろう。
「糞チビは続けるつもりだ。だけどそうなると、やっかいな問題がある。」
ヒル魔の言葉に、武蔵は思わず眉をひそめた。
性別が違うというだけで、すでにかなりやっかいなのに。
「この病気は元々の性別に戻すより、結局そのまま生きるヤツの方が多いらしい。」
「そういうものなのか?」
「まぁ、性別が変わるなんて、なかなか受け入れられる話じゃねぇし。」
「じゃあセナも男のままで?」
「だが治療ってのは、薬や注射で不足しているホルモンを補充するんだそうだ。」
「それってドーピングになるんじゃないのか?」
武蔵は短く言葉を挟みながら、ヒル魔の話を促す。
すぐにヒル魔の言わんとすることがわかった。
ホルモン剤の投与は、一般的にはドーピング。
スポーツでは禁止されている行為だ。
「前例がない。だからどうなるのかわからない。」
「でもセナ君は病気なんだよ?診断書を提出して、特例として交渉できないの?」
「時間がかかる上、許可が出る保障もない。それに。」
「セナの秘密も公になるってことか。」
ヒル魔が大きく頷いた。
その表情には、かすかに疲れが見える。
ヒル魔はどうするのが最善なのか、いろいろシュミレーションしたのだろう。
セナがホルモン投与の類の治療を受けた場合、身体が変化する可能性が高い。
不自然に外見が変われば、ドーピングを疑う者が増えるだろう。
だが馬鹿正直にそれをアメフト協会に届けたらどうなるか。
そのような前例はなく、どういう裁定になるかわからない。
そして届けた場合、間違いなくセナの病気は知れ渡る。
つまり出た答えは「わからない」なのだ。
「セナはどうしたいって?」
「外にバレるのは嫌だと言っていた。もう今でいっぱいいっぱいだと。」
栗田はただただ話を聞きながら、涙を流していた。
武蔵ももう言葉がない。
バレたくないなら、方法は1つしかない。
病気の治療をしないことだ。
「治療の開始はクリスマスボウルが終わってから。糞チビはそう決めた。」
「大丈夫なのか?」
「わからねぇ。頭痛やめまいや吐き気なんかがあるって聞いた。それは続くだろう。」
「セナ君のご両親は何て?」
「両親は反対したが、説得したってことだ。」
「そっかぁ。そうだよね。」
栗田はあっさり納得しているが、おそらくそんな簡単なことではないだろう。
普通の親なら、アメフトより治療に専念して欲しいと思うはずだ。
セナはきっと何度も親と衝突し、涙したに違いない。
それきり誰も口を開かなかった。
セナのことは心配でならないが、このままでいいのかどうかもわからない。
何も言うべき言葉が見つからなかった。
「40ヤード、4秒2よ」
セナはゴールラインを走り抜けて、ストップウォッチを押したまもりを見た。
まもりがセナにニコリと笑いかけて答える。
「いいじゃん。もうケルベロスにも勝てちゃうぜ!」
まるで自分のことのように喜ぶモン太に、セナもふわりと笑った。
ここ何日かは調子がいいし、足にもスピードが乗ってきた気がする。
「セナ、少し休憩したら。」
まもりがセナにタオルを渡してくれた。
最近のセナの不調には、まもりだってきっと気がついている。
だがあえて気づいてないフリをしてくれているのは、ありがたかった。
盤戸戦で正体を明かしてから、まもりもいろいろと考えるところがあったようだ。
「うん、ありがとう。」
ちょうどその時ヒル魔が部室に入っていくのが見えた。
今日は取材とやらで出かけていたのだが、今戻ってきたらしい。
セナは休憩がてらヒル魔を追って部室に向かった。
いろいろ迷惑をかけてしまったから、ここ何日かの好調を伝えたいと思ったのだ。
「ヒル魔さん」
部室のドアを軽くノックして、ドアを開けたセナは言葉を失った。
ヒル魔が怖い表情をして立っていたからだ。
取材のための黒尽くめの服装が、怖さに拍車をかけている。
しかもカジノテーブルの奥には、武蔵が座っている。
どうやら2人で何か話をするつもりらしい。
「す、すみません。」
本当は取材の話などを聞こうと思っていた。
だがヒル魔のあまりの迫力に、謝罪の言葉が出てしまった。
何だか機嫌が悪そうだし、後にしよう。
セナは慌てて出て行こうとしたが、ヒル魔は「糞チビ」と声をかけて、それを止めた。
「体調はどうだ?」
「ここ2、3日調子がいいんです。今日の40ヤード走、全部4秒2でした!」
怖い表情とは別に、ヒル魔のヒル魔の口調は穏やかだった。
セナは違和感を感じながら、伝えたかったことを告げた。
「神龍寺戦、絶対勝ちましょうね。僕、頑張りますから。」
セナは今度こそ部室を後にしようと、ヒル魔に一礼して背を向けた。
だがヒル魔はもう1度「糞チビ」と声をかけて、止めた。
「壊れるんじゃねーぞ。」
ヒル魔の唐突な言葉と真剣な口調に、セナは戸惑った。
取材では神龍寺の阿含もいたはずで、そこで何かあったのだろうか?
「絶対に壊れるな。いいな?」
それでもなお念を押されて、セナは「はい」と頷いた。
どうなるかはわからないが、壊れる前に勝てばいいと思った。
「本当にこれでいいのか?」
セナが部室を出て行った後、武蔵はポツリと呟いた。
ヒル魔ではなく、自分自身に問いかけるような口調だった。」
「当たり前だろ。勝つためだ。」
「そりゃ勝ちたい。神龍寺には因縁もある。でもセナを壊してまで勝たなきゃいけねぇのか?」
ヒル魔は睨みつけてくる武蔵を見返し「ケケケ」と笑った。
「何としてもクリスマスボウルに行く。その勝たなきゃ意味がねぇ。」
「それはわかるが」
「糞チビを走らせる。神龍寺との試合では阿含にぶつける。毎回超光速でだ。」
「ヒル魔!」
あまりにも無慈悲な物言いに、武蔵は思わず立ち上がった。
そしてヒル魔の襟首を掴んで、ねじ上げる。
「その調子だ、糞ジジィ。神龍寺戦でも同じことしてもらうぜ。」
「何?」
「俺を殴って大芝居を打つんだ。」
武蔵は驚き、掴んでいたヒル魔の襟首を離した。
そしてヒル魔の目の中に悲しげな色を見つけて、悟る。
ヒル魔もつらいのだ。
この先病気を抱えて苦しみながら、セナは戦い続ける。
金剛阿含や進清十郎といった天才プレイヤーとぶつからなくてはいけないのだ。
きっと心も身体もボロボロになるだろう。
そしてヒル魔は、それを見続けなければならない。
それに治療しないことで、セナの身体はどう変わるのだろう。
これもまた予想がつかない。
女らしい体つきも変わってくるのかもしれない。
体力は落ちてくるだろう。
ひょっとして男に戻れなくなる可能性さえある。
ヒル魔はそんなセナを見守り続ける覚悟を決めているのだろうか。
ヒル魔は淡々と神龍寺戦のプランを話し続けた。
最後のタイムアウトで武蔵がわざとヒル魔を殴るという途方もない作戦だった。
あの神龍寺に勝った。
誰もデビルバッツのメンバーだけでなく、会場全体が大騒ぎになった。
まるで優勝したかのような異様な熱気だ。
ロッカールームに引き上げた悪魔の申し子たち。
全員が心配そうに、ベンチに横たわった小さなエースを取り囲んでいた。
その中心でトレーナーの溝六がセナの足をチェックしている。
揉んだり掴んだりしながら、ダメージを確認しているのだ。
セナの身体は阿含によって徹底的に痛めつけられていた。
膝はガクガクと震えている。
腕と胸は手刀によってあちこちに青黒い痣が出来ていた。
背中の痣は最後のデビルバットダイブで打ちつけたものだ。
呼吸は未だに整わず、ハァハァと荒い。
セナは溝六のマッサージの手に力がこもるたびに小さく呻き、顔をしかめた。
ボロボロの小さなエースに、切ない思いがこみ上げる。
それでも骨折はしていないし、一晩寝ればよくなるという溝六の言葉に全員が安堵した。
この身体は、女。
そう考えた途端、武蔵の脳裏に「レイプ」という言葉が浮かんだ。
男なら「随分やられたな」と苦笑するだけで終わる。
だが女なのだと思うだけで、痛々しかった。
こんな目に合うセナが、かわいそうでならない。
「よし、手当てするからな。おいオメーらはさっさと着替えちまいな。」
溝六の言葉に、武蔵は我に返った。
デビルバッツの面々がセナから離れて着替え始め、武蔵もそれに倣った。
「次の対戦相手の偵察だ。着替えたやつからスタンドに行け。」
ヒル魔の指示で着替え終わった者はロッカールームを出て行く。
まもりや鈴音、モン太はセナを心配して行くのを渋った。
だが「後は俺らで看る」というヒル魔の言葉に頷き、出て行った。
セナの手当てを終えた溝六も出て行く。
ロッカールームにはセナとヒル魔、栗田、武蔵が残った。
「セナが入部したとき、おまえら二人とも俺に電話してきたんだぜ。」
武蔵は懐かしむように目を細めた。
ようやく着替え終わったセナは、ベンチに横たわって眠っている。
その寝顔を見ながら元祖デビルバッツの3人が静かに話をしていた。
「栗田はかわいい主務が、ヒル魔は光速のRBが入ったって。まさかそれが同一人物だとは」
「でもセナ君のおかげで、デビルバッツは一気に走り始めたんだよ。僕らを除くメンバーはほぼ全員、セナ君が連れてきたようなもんだし。」
「怖いから試合に出ないって泣いてたくせに、初陣でいきなりタッチダウンだからな。しかも運動靴に逆走のオマケ付き。」
セナを起こさないように3人は声を潜めて笑う。
「俺たちの因縁に思いっきり巻き込んじまったみたいだな。こんなになるまで走らせちまった。」
「あの糞ドレッドもこいつは無視できなかったみてぇだな。」
「セナ君は女の子なんだよね。」
栗田の言葉にヒル魔と武蔵がハッとする。
頭でわかってはいたことだが、改めて口に出されて驚いてしまったのだ。
「すごい女の子だよね。阿含君や進君みたいな天才とアメフトで渡り合えるんだもの。」
言われてみれば、その通りだ。
まもりや鈴音など、周りに女はたくさんいる。
でも一緒にアメフトができる女なんていなかった。
セナにとっては忌まわしいことだろうが、武蔵には崇高に思えた。
セナはまるでフィールドに咲く華だ。
武蔵はその美しさに、赤い華に憧れる。
きっとヒル魔は、もうこの赤い華に心奪われているだろう。
そして他にも、この華に惹かれる男は後を絶たないだろう。
この恋はきっと前途多難だ。
【続く】
泥門デビルバッツの面々のみならず、その場にいた誰もが息を飲んだ。
試合の最中に、武蔵がヒル魔を殴り飛ばしたからだ。
武蔵の拳はワナワナと震えていたし、ヒル魔の口は切れている。
実は事前に武蔵とヒル魔で示し合わせていたことだ。
演技しているヒル魔はともかく、他の全員が驚いた顔をしている。
つまり、この芝居は成功なのだろう。
だが武蔵が怒っていることだけは真実だった。
泥門デビルバッツは、関東大会の初戦、神龍寺ナーガと対戦していた。
組み合わせが決まった時、武蔵は正直言って「運が悪い」と思った。
いきなり強豪、しかも因縁浅からぬ相手との対戦なのだから。
そしてその因縁に、セナを巻き込んでしまったことがつらかった。
わかっていた。
阿含がその狂気をセナに向けていることを。
薄々は感じていたが、確信したのはあの抽選会のときだ。
阿含は明らかに、セナの目を狙ってボールを投げた。
セナだから狙われたし、セナだから避ける事ができたのだ。
「せいぜい足元すくわれないようにな、天才さんよ。」
ヒル魔は阿含にそう言い放ち「ケケケ」と笑った。
だが切ないような焦燥感とセナへの庇護欲を押し隠していたのだと思う。
何としても勝たなければならず、その勝利のためにセナは必要不可欠だ。
そしてセナは、また過酷な戦いの最前線に立たされる。
武蔵は自分の怒りの正体がわかっている。
いたぶるように執拗にセナを狙う阿含への怒り。
セナと阿含のマッチアップを決め、セナを酷使するヒル魔への怒り。
そしてこの状況でヒル魔の筋書きに乗り、セナを止めない自分への怒り。
それらが複雑に入り混じって、武蔵を駆り立てる。
ヒル魔は「フリ」だけでいいと言っていたが、思い切り殴った。
それでも少しも気が晴れない。
だが同じ怒りを感じているであろうヒル魔は、殴られることで少しだけ気が晴れている。
特に根拠はないが、そんな気がしてならなかった。
「女性仮性半陰陽先天性副腎皮質過形成症」
「何だって?」
その長い名称を、ヒル魔は淀みなくスラスラと口にした。
だが栗田と武蔵は困惑し、顔を見合わせた。
神龍寺ナーガとの試合の数日ほど前の昼休み。
ヒル魔は栗田と武蔵を部室に呼び出し、それを伝えた。
なるべくセナに気を配らなくてはならないが、ヒル魔1人では限界もある。
それに栗田も武蔵もセナの不調に気づき始めている。
だからヒル魔は、まずは栗田と武蔵には話すことにしたのだろう。
本当はセナが自分で伝えると言ったという。
だがヒル魔は自分が話をすると、セナを納得させた。
セナにもう1度、同じ話をさせるのは酷過ぎる。
ヒル魔はそう考えたのだろう。
「それがアイツの病名だ。」
ヒル魔は冷静にそう告げる。
だが武蔵も栗田も、返す言葉がなかった。
長い病名には少しも馴染みがなく、どういう病気なのか見当もつかないのだ。
「要は遺伝子異常で元々女だったのに、男として育っちまったんだとよ。」
「はぁ?」
「最近、体調が悪いのは、ホルモンのバランスってやつが崩れてきてるんだと。」
「つまりセナは女ってことか?」
武蔵はようやく搾り出すようにそう言うのがやっとだった。
だがその言葉の重みに呆然とする。
元々女として生まれたのに、ホルモンの異常とやらで男として育ってしまった。
言葉にしてしまえば、あまりにあっけない。
だが性別が違うなんて、自分の存在の根本を揺るがせる一大事だ。
もし自分だったら、きっとアメフトどころではないだろう。
「考えてみりゃ納得だよな。あの身長と細さ。」
ヒル魔は武蔵の気持ちとは関係なしに、淡々と言葉を続けた。
確かにそれには武蔵も同意できる。
高1男子としては、あまりにも華奢なセナの身体。
体毛もほとんどないし、ヒゲなども皆無だ。
実は女性であり、ホルモンの異常だと言われれば、なるほどと思える。
「セナ君、このままアメフト続けられるの?」
ずっと黙っていた栗田が、口を開いた。
細い目はもうすでに涙で濡れている。
無類のお人好しは、セナの境遇に同情しているのだろう。
「糞チビは続けるつもりだ。だけどそうなると、やっかいな問題がある。」
ヒル魔の言葉に、武蔵は思わず眉をひそめた。
性別が違うというだけで、すでにかなりやっかいなのに。
「この病気は元々の性別に戻すより、結局そのまま生きるヤツの方が多いらしい。」
「そういうものなのか?」
「まぁ、性別が変わるなんて、なかなか受け入れられる話じゃねぇし。」
「じゃあセナも男のままで?」
「だが治療ってのは、薬や注射で不足しているホルモンを補充するんだそうだ。」
「それってドーピングになるんじゃないのか?」
武蔵は短く言葉を挟みながら、ヒル魔の話を促す。
すぐにヒル魔の言わんとすることがわかった。
ホルモン剤の投与は、一般的にはドーピング。
スポーツでは禁止されている行為だ。
「前例がない。だからどうなるのかわからない。」
「でもセナ君は病気なんだよ?診断書を提出して、特例として交渉できないの?」
「時間がかかる上、許可が出る保障もない。それに。」
「セナの秘密も公になるってことか。」
ヒル魔が大きく頷いた。
その表情には、かすかに疲れが見える。
ヒル魔はどうするのが最善なのか、いろいろシュミレーションしたのだろう。
セナがホルモン投与の類の治療を受けた場合、身体が変化する可能性が高い。
不自然に外見が変われば、ドーピングを疑う者が増えるだろう。
だが馬鹿正直にそれをアメフト協会に届けたらどうなるか。
そのような前例はなく、どういう裁定になるかわからない。
そして届けた場合、間違いなくセナの病気は知れ渡る。
つまり出た答えは「わからない」なのだ。
「セナはどうしたいって?」
「外にバレるのは嫌だと言っていた。もう今でいっぱいいっぱいだと。」
栗田はただただ話を聞きながら、涙を流していた。
武蔵ももう言葉がない。
バレたくないなら、方法は1つしかない。
病気の治療をしないことだ。
「治療の開始はクリスマスボウルが終わってから。糞チビはそう決めた。」
「大丈夫なのか?」
「わからねぇ。頭痛やめまいや吐き気なんかがあるって聞いた。それは続くだろう。」
「セナ君のご両親は何て?」
「両親は反対したが、説得したってことだ。」
「そっかぁ。そうだよね。」
栗田はあっさり納得しているが、おそらくそんな簡単なことではないだろう。
普通の親なら、アメフトより治療に専念して欲しいと思うはずだ。
セナはきっと何度も親と衝突し、涙したに違いない。
それきり誰も口を開かなかった。
セナのことは心配でならないが、このままでいいのかどうかもわからない。
何も言うべき言葉が見つからなかった。
「40ヤード、4秒2よ」
セナはゴールラインを走り抜けて、ストップウォッチを押したまもりを見た。
まもりがセナにニコリと笑いかけて答える。
「いいじゃん。もうケルベロスにも勝てちゃうぜ!」
まるで自分のことのように喜ぶモン太に、セナもふわりと笑った。
ここ何日かは調子がいいし、足にもスピードが乗ってきた気がする。
「セナ、少し休憩したら。」
まもりがセナにタオルを渡してくれた。
最近のセナの不調には、まもりだってきっと気がついている。
だがあえて気づいてないフリをしてくれているのは、ありがたかった。
盤戸戦で正体を明かしてから、まもりもいろいろと考えるところがあったようだ。
「うん、ありがとう。」
ちょうどその時ヒル魔が部室に入っていくのが見えた。
今日は取材とやらで出かけていたのだが、今戻ってきたらしい。
セナは休憩がてらヒル魔を追って部室に向かった。
いろいろ迷惑をかけてしまったから、ここ何日かの好調を伝えたいと思ったのだ。
「ヒル魔さん」
部室のドアを軽くノックして、ドアを開けたセナは言葉を失った。
ヒル魔が怖い表情をして立っていたからだ。
取材のための黒尽くめの服装が、怖さに拍車をかけている。
しかもカジノテーブルの奥には、武蔵が座っている。
どうやら2人で何か話をするつもりらしい。
「す、すみません。」
本当は取材の話などを聞こうと思っていた。
だがヒル魔のあまりの迫力に、謝罪の言葉が出てしまった。
何だか機嫌が悪そうだし、後にしよう。
セナは慌てて出て行こうとしたが、ヒル魔は「糞チビ」と声をかけて、それを止めた。
「体調はどうだ?」
「ここ2、3日調子がいいんです。今日の40ヤード走、全部4秒2でした!」
怖い表情とは別に、ヒル魔のヒル魔の口調は穏やかだった。
セナは違和感を感じながら、伝えたかったことを告げた。
「神龍寺戦、絶対勝ちましょうね。僕、頑張りますから。」
セナは今度こそ部室を後にしようと、ヒル魔に一礼して背を向けた。
だがヒル魔はもう1度「糞チビ」と声をかけて、止めた。
「壊れるんじゃねーぞ。」
ヒル魔の唐突な言葉と真剣な口調に、セナは戸惑った。
取材では神龍寺の阿含もいたはずで、そこで何かあったのだろうか?
「絶対に壊れるな。いいな?」
それでもなお念を押されて、セナは「はい」と頷いた。
どうなるかはわからないが、壊れる前に勝てばいいと思った。
「本当にこれでいいのか?」
セナが部室を出て行った後、武蔵はポツリと呟いた。
ヒル魔ではなく、自分自身に問いかけるような口調だった。」
「当たり前だろ。勝つためだ。」
「そりゃ勝ちたい。神龍寺には因縁もある。でもセナを壊してまで勝たなきゃいけねぇのか?」
ヒル魔は睨みつけてくる武蔵を見返し「ケケケ」と笑った。
「何としてもクリスマスボウルに行く。その勝たなきゃ意味がねぇ。」
「それはわかるが」
「糞チビを走らせる。神龍寺との試合では阿含にぶつける。毎回超光速でだ。」
「ヒル魔!」
あまりにも無慈悲な物言いに、武蔵は思わず立ち上がった。
そしてヒル魔の襟首を掴んで、ねじ上げる。
「その調子だ、糞ジジィ。神龍寺戦でも同じことしてもらうぜ。」
「何?」
「俺を殴って大芝居を打つんだ。」
武蔵は驚き、掴んでいたヒル魔の襟首を離した。
そしてヒル魔の目の中に悲しげな色を見つけて、悟る。
ヒル魔もつらいのだ。
この先病気を抱えて苦しみながら、セナは戦い続ける。
金剛阿含や進清十郎といった天才プレイヤーとぶつからなくてはいけないのだ。
きっと心も身体もボロボロになるだろう。
そしてヒル魔は、それを見続けなければならない。
それに治療しないことで、セナの身体はどう変わるのだろう。
これもまた予想がつかない。
女らしい体つきも変わってくるのかもしれない。
体力は落ちてくるだろう。
ひょっとして男に戻れなくなる可能性さえある。
ヒル魔はそんなセナを見守り続ける覚悟を決めているのだろうか。
ヒル魔は淡々と神龍寺戦のプランを話し続けた。
最後のタイムアウトで武蔵がわざとヒル魔を殴るという途方もない作戦だった。
あの神龍寺に勝った。
誰もデビルバッツのメンバーだけでなく、会場全体が大騒ぎになった。
まるで優勝したかのような異様な熱気だ。
ロッカールームに引き上げた悪魔の申し子たち。
全員が心配そうに、ベンチに横たわった小さなエースを取り囲んでいた。
その中心でトレーナーの溝六がセナの足をチェックしている。
揉んだり掴んだりしながら、ダメージを確認しているのだ。
セナの身体は阿含によって徹底的に痛めつけられていた。
膝はガクガクと震えている。
腕と胸は手刀によってあちこちに青黒い痣が出来ていた。
背中の痣は最後のデビルバットダイブで打ちつけたものだ。
呼吸は未だに整わず、ハァハァと荒い。
セナは溝六のマッサージの手に力がこもるたびに小さく呻き、顔をしかめた。
ボロボロの小さなエースに、切ない思いがこみ上げる。
それでも骨折はしていないし、一晩寝ればよくなるという溝六の言葉に全員が安堵した。
この身体は、女。
そう考えた途端、武蔵の脳裏に「レイプ」という言葉が浮かんだ。
男なら「随分やられたな」と苦笑するだけで終わる。
だが女なのだと思うだけで、痛々しかった。
こんな目に合うセナが、かわいそうでならない。
「よし、手当てするからな。おいオメーらはさっさと着替えちまいな。」
溝六の言葉に、武蔵は我に返った。
デビルバッツの面々がセナから離れて着替え始め、武蔵もそれに倣った。
「次の対戦相手の偵察だ。着替えたやつからスタンドに行け。」
ヒル魔の指示で着替え終わった者はロッカールームを出て行く。
まもりや鈴音、モン太はセナを心配して行くのを渋った。
だが「後は俺らで看る」というヒル魔の言葉に頷き、出て行った。
セナの手当てを終えた溝六も出て行く。
ロッカールームにはセナとヒル魔、栗田、武蔵が残った。
「セナが入部したとき、おまえら二人とも俺に電話してきたんだぜ。」
武蔵は懐かしむように目を細めた。
ようやく着替え終わったセナは、ベンチに横たわって眠っている。
その寝顔を見ながら元祖デビルバッツの3人が静かに話をしていた。
「栗田はかわいい主務が、ヒル魔は光速のRBが入ったって。まさかそれが同一人物だとは」
「でもセナ君のおかげで、デビルバッツは一気に走り始めたんだよ。僕らを除くメンバーはほぼ全員、セナ君が連れてきたようなもんだし。」
「怖いから試合に出ないって泣いてたくせに、初陣でいきなりタッチダウンだからな。しかも運動靴に逆走のオマケ付き。」
セナを起こさないように3人は声を潜めて笑う。
「俺たちの因縁に思いっきり巻き込んじまったみたいだな。こんなになるまで走らせちまった。」
「あの糞ドレッドもこいつは無視できなかったみてぇだな。」
「セナ君は女の子なんだよね。」
栗田の言葉にヒル魔と武蔵がハッとする。
頭でわかってはいたことだが、改めて口に出されて驚いてしまったのだ。
「すごい女の子だよね。阿含君や進君みたいな天才とアメフトで渡り合えるんだもの。」
言われてみれば、その通りだ。
まもりや鈴音など、周りに女はたくさんいる。
でも一緒にアメフトができる女なんていなかった。
セナにとっては忌まわしいことだろうが、武蔵には崇高に思えた。
セナはまるでフィールドに咲く華だ。
武蔵はその美しさに、赤い華に憧れる。
きっとヒル魔は、もうこの赤い華に心奪われているだろう。
そして他にも、この華に惹かれる男は後を絶たないだろう。
この恋はきっと前途多難だ。
【続く】