ヒルセナ朝5題

「朝ご飯ですよ。」
制服にエプロン姿の瀬那が、ニッコリと笑う。
キッチンからはパンの焼ける香りとコーヒーの香りがする。
典型的でごくありふれた朝の光景。
だが蛭魔は大げさにため息をつくと、顔をしかめた。

蛭魔妖一は高校2年生。
父はアメリカ人で、母は日本人。
仕事の都合でアメリカに居住しており、蛭魔もアメリカで生まれ育った。
だが日本の大学を受験したいと思い、2年の途中で帰国。
そして泥門高校に編入し、学校近くの高級マンションで弟と2人暮らし。

それが蛭魔の表向きのプロフィールだった。
日本の高校に編入するに当たり「組織」が用意したシナリオだ。
確かに蛭魔の金色の髪と彫りの深い顔立ちは、日本人離れしている。
だからそんなわかりやすい設定にしたのだろう。

問題は瀬那だ。
蛭魔とはまったく似ておらず、純日本人という顔立ちで、弟と言うには無理がある。
そもそも危険なことが待ち受けているであろう場所に連れて行きたくない。
だが瀬那はポツリと「1度でいいから高校というところに行ってみたい」と言った。
これを逃せばもう高校生として過ごす機会などないだろう。
だから蛭魔はかわいい瀬那のおねだりを聞いてやることにしたのだった。



「朝ご飯って言ったって」
「1度やって見たかったんですよ。今日の朝ご飯担当は僕!とか。」
「俺たちには必要ない。時間の無駄だろ。」
「今日だけですよ。記念すべき高校生活の初日だから。」

深緑色の高校の制服に身を包んだ瀬那が苦笑する。
その表情はどこかほろ苦い。
蛭魔は手を伸ばすと、長い指先で瀬那の髪をくしゃりとなでた。
普通の生活に憧れる瀬那の気持ちを思うと、不憫でならない。

蛭魔の正体は人間ではない。
いわゆる吸血鬼とかヴァンパイアとか呼ばれる、人間の血を捕食の対象とする亜人類だ。
見た目は10代後半くらいの青年の姿をしているが、実際はもう数百年も生きている。
人間の血さえ摂取し続ければ、基本的には不老不死だ。

蛭魔の種族の存在は一般には知られていない。
だが人間に比べれば格段に数は少ないものの、確かに存在している。
そして人間側には魔の者と人間の共存を目的とする秘密の「組織」が存在する。
主に魔力を封じる能力を持つ人間で構成されており、人間に害をなす魔物には制裁が加えられるのだ。

瀬那はそんな蛭魔の「伴侶」-血を与える者として、ずっと行動を共にしてきた。
人間でありながらそんな数奇な運命を生きることになった瀬那は「普通」への思いが強いのだ。



「ホントの朝メシ、食わせろよ」
蛭魔は瀬那を抱き寄せると、耳元でそう囁いた。
血だけではなく「気」も、蛭魔にとっては貴重な栄養源だ。
抱きしめて瀬那の気配を感じるだけで、力が湧いて来る。
もちろん血を飲んで得られる力とは比べ物にならない。
だが朝から血を取られれば、瀬那は貧血で動けなくなってしまう。

「すみません。血をあげられなくて。」
瀬那は蛭魔の腕の中で申し訳なさそうに言った。
蛭魔は「気にするな」と答えて、抱きしめる腕の力を少しだけ強くした。
愛しい「伴侶」が、自分を気遣ってくれるというだけで、さらに魔力が増したような気がするから不思議だ。

「呼び方、どうしましょうか?」
「は?」
「兄弟ってことでしょ?校内で蛭魔さんって呼ぶわけにもいかないでしょう。」
甘いムードから一転、瀬那は現実的なことを言い出した。
だが蛭魔も今の今まで思いつかなかったことだ。
瀬那は「蛭魔瀬那」という名で、同じ高校の1年に編入する。
普段の呼び名「蛭魔さん」ではどうにも不自然だ。

「ベタに兄さんとか、兄ちゃんでいいんじゃねーの?」
「兄さん。兄ちゃん。何かテレますね。」
「他にいいのがあるか?」
「いえ。じゃあ兄さんで」

2人は同じ制服に身を包んで、マンションを出た。
編入する高校までは、徒歩で10分ほどだ。
その間生真面目な瀬那はずっと口の中で「兄さん」と繰り返し、蛭魔を呼ぶ練習をしていた。



「大丈夫か?」
学校の門を入ったところで、蛭魔は瀬那に声をかけた。
瀬那はコクリと頷いたものの、かなり怯んでいるようだ。
無理もないことだ。
学校の中は強い魔物の気配-妖気が漂っているからだ。

蛭魔が「組織」から依頼されたのは、この学校の魔の者たちと接触することだった。
泥門高校には妖気が渦巻いており、魔物が潜伏しているのは間違いないのだ。
その実態を把握し、もし敵対するようなら排除する。
それが蛭魔に課せられたミッションだ。

もちろんただ命令されているだけではない。
やり遂げた後、蛭魔と瀬那は「エイジング処理」を受けることになっている。
今は2人も10代にしか見えない容姿をしている。
それを「組織」の特殊能力者に施術を受けて、外見に加齢を加えるのだ。
そして同時に戸籍も作ってもらう。
昨今は成人の戸籍や住民票がないと、人間の中で生きていくのが難しいのだ。

「平気ですよ。行きましょう。」
「わかった。でもつらいようならすぐに言えよ。」
「はい。」
蛭魔は元気づけるように、瀬那の頭をポンポンと叩く。
そして2人は校舎へと足を踏み入れた。



蛭魔と瀬那はまず職員室に向かった。
ノックをし、扉をあけて、今日転校していたと告げる。
すぐに事務員だという若い女性が応対してくれた。

「蛭魔妖一君は2年1組、瀬那君は1年2組ね。」
女性事務員はそう告げると、すぐに担任教師を呼んでくれる。
テキパキとした事務員からは、特に妖気など感じない。
瀬那も蛭魔の耳元で「この人は普通の人間ですね」と囁いた。

「2年1組の三宅先生と1年2組の姉崎先生よ。後は先生、お願いします。」
事務員が教師に後を託すと、自分の席に戻っていく。
三宅は男性、姉崎は女性で、共に20代後半くらいの若い教師だ。
その瞬間、瀬那の表情は強張った。
蛭魔も思わず身構え、警戒する。
担任だという2人の教師からは、強い魔の気配を感じたのだ。

「まもり、姉ちゃん」
瀬那は小さな声でポツリと呟く。
2人の教師に聞こえたかどうかはわからない。
だが蛭魔の耳には小さいが、はっきりと聞き取れた。
そして姉崎という女性教師の顔を見た蛭魔も、まさかと思った。
姉崎は瀬那の実の姉、まもりに面差しがよく似ていた。

数百年前に別れたセナの姉は、普通の人間。
とっくに死んでいるものと思っていた。
ではこの魔の気配を持ったそっくりな女は何者なのか。
しかも面倒なことにもう1人の教師、三宅も妖気を持っている。

瀬那が困ったように、蛭魔を見上げている。
蛭魔は瀬那を安心させるように頷くと、懸命に考えを巡らせた。

【続く】
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