ムサまも5題
瀬那の部屋は全然変わっていない。
多分瀬那の母親が毎日きちんと掃除をして、空気を入れ替えていたのだろう。
まもりは10年ぶりに訪れたその部屋の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「この子のためにいろいろ買わなくちゃいけないな。」
「ええ、部屋も模様替えした方がいいかもね。」
瀬那の両親が顔を見合わせて、そんなことを話している。
瀬那によく似た小さな少年は、初めて見る部屋をキョロキョロと見回している。
「まもりちゃん、ありがとう。」
瀬那の母親が、部屋の中をチョコチョコと動き回るセナを見ながら言った。
お礼を言われれば、少しは救われたような気分になる。
何といっても入院していた病院から、ヒル魔の目を掠めるようにして連れて来たのだ。
ヒル魔はきっと取り乱しているだろうし、宥め役のムサシにも申し訳ないと思う。
この子にとっても、瀬那のご両親にとっても、これが一番いい筈。
それでもまもりは懸命に、自分にそういい聞かせていた。
最近この少年しか眼中にない様子のヒル魔と、すっかりヒル魔に懐いてしまった少年。
割り込めない雰囲気を築く2人に、いつしか嫉妬してしまっていた。
だから少年とヒル魔を引き離すことは、まもりにとっても望むところではあったのだ。
しいてはこれがヒル魔くんのためなんだから。
まもりは懸命に、後ろめたい思いを飲み込もうとしていた。
部屋の中を一通り見回した少年-セナは、窓際の机に向かって座った。
そして3段ある引き出しのうち、一番上段の取っ手に指をかけて引いた。
だが引き出しはガチっと音を立てて、開くことを拒否していた。
どうやら鍵がかかっているようだった。
「あ、その引き出しは鍵がかかってて開かないのよ。」
瀬那の母親が声をかけると、セナは振り返ってこちらを見た。
「瀬那が鍵をどこかにやっちゃったみたいで、その引き出しは開かないの。」
まもりにともセナにともつかない口調で、そう付け加える。
「じゃあもう10年間、開けてないんですか?」
まもりの言葉に、瀬那の母親は「そうなの」と同意して、頷いた。
セナは小首を傾げてしばらく何かを考えるような表情をしていたが、すぐに笑顔になった。
そして立ち上がると、本棚の間から一冊の雑誌を引っ張り出す。
それは10年前のアメフト雑誌で、高校時代の泥門デビルバッツの特集が載っているものだ。
セナはパラパラと雑誌を繰り、真ん中あたりのページを開く。
そしてページの間に挟まっていた小さな欠片のようなものを取り出した。
まもりや瀬那の両親の唖然とした様子など、目に入らない様子で。
セナは慣れた様子で、取り出した小さな欠片を机の鍵穴に指して、回す。
そして10年間、閉ざされていた引き出しはあっけなく開いた。
この子はいったい誰なの?
まもりは混乱と恐怖で、手が震えていた。
ヒル魔は瀬那が生まれ変わって戻ってきたのだと言っていた。
でもそんなことはありえないと思っていた。
だが発見された時に握っていたピアス。
そして瀬那しか知らないであろう引き出しの鍵の在り処を知っていた。
まもりは言葉もなく、開いた引き出しの中を探るセナを見ていた。
ヒル魔が目を開けると、そこには見知った顔が2つ。
ムサシと栗田が、ヒル魔の顔を覗き込んでいた。
ヒル魔は自宅のマンションで意識を失って、倒れた。
そしてこの2人かまもりに発見されて、病院に運び込まれる。
セナが小早川家に引き取られて以来、すっかりお馴染みのルーティーンだ。
ヒル魔が状況を把握したのが、わかったのだろう。
病室のベットの横でパイプ椅子に並んで腰掛けていた2人が、顔を見合わせて大きく息をついた。
少しは身体のことを考えるようにと、何度言ったかわからない。
だがヒル魔ときたら、まるでそんなことを気にかけない。
むしろ逆らうかのように、身体を酷使するのだ。
食事を抜き、睡眠を削り、一日パソコンに向かっている。
衰弱して意識を失っているところを発見されて、病院で点滴を受け、薬を投与される。
ある程度回復すれば、自宅マンションに戻って。
そんな同じ事を、もう何回も繰り返していた。
ムサシも栗田もまもりも、そんなヒル魔が心配で、定期的にヒル魔の様子を身に来るのだ。
ヒル魔の真意がわからない。
もし死にたいのならば、もっとスマートな方法はいくらでもある。
セナをヒル魔から引き離したムサシやまもりへの無言の抗議か。
それもどうも違うような気がする。
ムサシは思い切って「テメーは何がしたいんだ」と聞いたことがある。
だがヒル魔は無愛想な沈黙を守るだけだった。
「あ、ダメだよ。ヒル魔ぁ」
栗田が慌てた様子で、声を上げた。
起き上がったヒル魔が、点滴の針を引き抜いたのだ。
意識がない間に、点滴は9割方終わっていたから、問題はないだろうが。
それでも薬液がすべて落ちきってから、診察を受ける手はずになっているのだ。
ヒル魔はそれを待たずに、帰宅するつもりのようだ。
さっさとベットから身を起こし、少しふらつきながら立ち上がった。
その拍子に、耳を飾る2連のピアスが揺れる。
あの少年が握っていたピアスは、10年ぶりにヒル魔の左耳を飾っていた。
そして「帰る」と言い捨てて、ヒル魔がさっさと病室を出て行こうとする。
「いい加減にしろよ、ヒル魔!」
ムサシは病室の扉の前に立ちはだかり、その行く手を阻んだ。
右手でヒル魔の襟首を掴み、ねじ上げる。
どういうつもりかは知らないが、周りに迷惑をかけ過ぎだ。
「ムサシ、ヒル魔は倒れたばかりなんだから。」
栗田にそう口を挟まれて、ムサシは渋々ヒル魔から手を離した。
「俺は今、賭けをしてるんだ。」
ヒル魔は怒るムサシもオロオロと取り成そうとする栗田も、眼中にはないといった感じだった。
涼しい表情でムサシに乱された襟元を直している。
「賭けだと?何のことだ!」
「テメーには関係ない。」
ヒル魔は凄みのある表情で、睨みつけるムサシを真っ直ぐに見返してきた。
かつて「地獄の司令塔」と呼ばれたあの頃のヒル魔をどこか彷彿とさせる顔だ。
「迷惑しているなら俺に関わらなければいい。誰も頼んじゃいねぇし。」
ヒル魔は最後にそういい残すと、さっさと病室を出て行った。
セナは小早川家に引き取られてから、日に日に元気を失っていった。
病院から連れ出されるときに、セナは「ヒル魔さんは?」と聞いた。
すると「お父さん」と「お母さん」だと名乗る2人も、まもりも「後から来るから」と答えたのだ。
だからずっと待っているのに、ヒル魔は来ない。
「お父さん」も「お母さん」も頻繁に顔を出すまもりもムサシも優しい。
セナは皆、大好きだった。
だがヒル魔は違う。
好きの中でも一番、誰よりも好きで特別だった。
最初のうちは、暇さえあれば「ヒル魔さんはいつ来るの?」と聞いた。
だが周りの大人たちは曖昧に笑うだけだった。
最近では笑うことすらせず、うんざりした表情をする。
そこでようやくセナは悟ったのだ。
自分とヒル魔は意図的に引き離されたのだということを。
ヒル魔の名を口に出すだけで、皆が嫌そうな顔をする。
だから言ってはいけない。我慢しなくてはいけない。もう会えない。
そう思うと、何を見ても楽しくないし、食事も味がしないし、夜もあまり眠れない。
次第に表情も口数も少なくなっていくセナを瀬那の両親も持て余し始めている。
「お母さん」が「お父さん」に「無愛想な子になったわね」とため息混じりに漏らしたのを聞いた。
周りを悲しませているのかと思うと、セナは悲しい気持ちになった。
何か大事なことを忘れている。
ヒル魔のこととは別に、セナはずっと考えている。
あの日お寺でヒル魔たちに拾われるまでの間、どうしていたのか?
セナはまもりやムサシだけでなく、病院の医師や警察官にも聞かれた。
だがまったく答えられなかった。
セナとしては、ずっと長い間あの寺の墓地にいたつもりだった。
あの場所で、季節の移り変わりを感じながら、お参りにくる人たちを見守っていた。
だがら「ずっとお寺にいたよ」とセナは答えた。
だが大人たちは「その前は?」と聞いてくる。
ずっとお寺にいたと言っているのに、その前のことを聞かれても困るのだ。
答えられないでいるセナのことを、大人たちは勝手に「記憶喪失」だと言い捨てた。
結局「ずっとお寺にいた」以外にセナは何も答えられなかった。
名前を聞かれても、ずっと寺で誰と話すこともなくふわふわと過ごしていた自分を呼ぶ者もいない。
ヒル魔に「セナ」と呼ばれたときに、初めて自分は「セナ」なんだなと思った。
何故「ピアス」を持っているのだと言われても、わからなかった。
とにかく気がついたら持っていたのだ。
聞かれて初めてあの輪のようなものが「ピアス」というものなのだと知った。
わかっているのは「ピアス」はセナにとって、とても大事なものだということだ。
それを病院に置いてきてしまい、セナはひどく落ち着かない。
自分はいったい何者なのか。
ヒル魔に会えない寂しさを紛らわすように、セナはずっとそのことを考えている。
【続く】
多分瀬那の母親が毎日きちんと掃除をして、空気を入れ替えていたのだろう。
まもりは10年ぶりに訪れたその部屋の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「この子のためにいろいろ買わなくちゃいけないな。」
「ええ、部屋も模様替えした方がいいかもね。」
瀬那の両親が顔を見合わせて、そんなことを話している。
瀬那によく似た小さな少年は、初めて見る部屋をキョロキョロと見回している。
「まもりちゃん、ありがとう。」
瀬那の母親が、部屋の中をチョコチョコと動き回るセナを見ながら言った。
お礼を言われれば、少しは救われたような気分になる。
何といっても入院していた病院から、ヒル魔の目を掠めるようにして連れて来たのだ。
ヒル魔はきっと取り乱しているだろうし、宥め役のムサシにも申し訳ないと思う。
この子にとっても、瀬那のご両親にとっても、これが一番いい筈。
それでもまもりは懸命に、自分にそういい聞かせていた。
最近この少年しか眼中にない様子のヒル魔と、すっかりヒル魔に懐いてしまった少年。
割り込めない雰囲気を築く2人に、いつしか嫉妬してしまっていた。
だから少年とヒル魔を引き離すことは、まもりにとっても望むところではあったのだ。
しいてはこれがヒル魔くんのためなんだから。
まもりは懸命に、後ろめたい思いを飲み込もうとしていた。
部屋の中を一通り見回した少年-セナは、窓際の机に向かって座った。
そして3段ある引き出しのうち、一番上段の取っ手に指をかけて引いた。
だが引き出しはガチっと音を立てて、開くことを拒否していた。
どうやら鍵がかかっているようだった。
「あ、その引き出しは鍵がかかってて開かないのよ。」
瀬那の母親が声をかけると、セナは振り返ってこちらを見た。
「瀬那が鍵をどこかにやっちゃったみたいで、その引き出しは開かないの。」
まもりにともセナにともつかない口調で、そう付け加える。
「じゃあもう10年間、開けてないんですか?」
まもりの言葉に、瀬那の母親は「そうなの」と同意して、頷いた。
セナは小首を傾げてしばらく何かを考えるような表情をしていたが、すぐに笑顔になった。
そして立ち上がると、本棚の間から一冊の雑誌を引っ張り出す。
それは10年前のアメフト雑誌で、高校時代の泥門デビルバッツの特集が載っているものだ。
セナはパラパラと雑誌を繰り、真ん中あたりのページを開く。
そしてページの間に挟まっていた小さな欠片のようなものを取り出した。
まもりや瀬那の両親の唖然とした様子など、目に入らない様子で。
セナは慣れた様子で、取り出した小さな欠片を机の鍵穴に指して、回す。
そして10年間、閉ざされていた引き出しはあっけなく開いた。
この子はいったい誰なの?
まもりは混乱と恐怖で、手が震えていた。
ヒル魔は瀬那が生まれ変わって戻ってきたのだと言っていた。
でもそんなことはありえないと思っていた。
だが発見された時に握っていたピアス。
そして瀬那しか知らないであろう引き出しの鍵の在り処を知っていた。
まもりは言葉もなく、開いた引き出しの中を探るセナを見ていた。
ヒル魔が目を開けると、そこには見知った顔が2つ。
ムサシと栗田が、ヒル魔の顔を覗き込んでいた。
ヒル魔は自宅のマンションで意識を失って、倒れた。
そしてこの2人かまもりに発見されて、病院に運び込まれる。
セナが小早川家に引き取られて以来、すっかりお馴染みのルーティーンだ。
ヒル魔が状況を把握したのが、わかったのだろう。
病室のベットの横でパイプ椅子に並んで腰掛けていた2人が、顔を見合わせて大きく息をついた。
少しは身体のことを考えるようにと、何度言ったかわからない。
だがヒル魔ときたら、まるでそんなことを気にかけない。
むしろ逆らうかのように、身体を酷使するのだ。
食事を抜き、睡眠を削り、一日パソコンに向かっている。
衰弱して意識を失っているところを発見されて、病院で点滴を受け、薬を投与される。
ある程度回復すれば、自宅マンションに戻って。
そんな同じ事を、もう何回も繰り返していた。
ムサシも栗田もまもりも、そんなヒル魔が心配で、定期的にヒル魔の様子を身に来るのだ。
ヒル魔の真意がわからない。
もし死にたいのならば、もっとスマートな方法はいくらでもある。
セナをヒル魔から引き離したムサシやまもりへの無言の抗議か。
それもどうも違うような気がする。
ムサシは思い切って「テメーは何がしたいんだ」と聞いたことがある。
だがヒル魔は無愛想な沈黙を守るだけだった。
「あ、ダメだよ。ヒル魔ぁ」
栗田が慌てた様子で、声を上げた。
起き上がったヒル魔が、点滴の針を引き抜いたのだ。
意識がない間に、点滴は9割方終わっていたから、問題はないだろうが。
それでも薬液がすべて落ちきってから、診察を受ける手はずになっているのだ。
ヒル魔はそれを待たずに、帰宅するつもりのようだ。
さっさとベットから身を起こし、少しふらつきながら立ち上がった。
その拍子に、耳を飾る2連のピアスが揺れる。
あの少年が握っていたピアスは、10年ぶりにヒル魔の左耳を飾っていた。
そして「帰る」と言い捨てて、ヒル魔がさっさと病室を出て行こうとする。
「いい加減にしろよ、ヒル魔!」
ムサシは病室の扉の前に立ちはだかり、その行く手を阻んだ。
右手でヒル魔の襟首を掴み、ねじ上げる。
どういうつもりかは知らないが、周りに迷惑をかけ過ぎだ。
「ムサシ、ヒル魔は倒れたばかりなんだから。」
栗田にそう口を挟まれて、ムサシは渋々ヒル魔から手を離した。
「俺は今、賭けをしてるんだ。」
ヒル魔は怒るムサシもオロオロと取り成そうとする栗田も、眼中にはないといった感じだった。
涼しい表情でムサシに乱された襟元を直している。
「賭けだと?何のことだ!」
「テメーには関係ない。」
ヒル魔は凄みのある表情で、睨みつけるムサシを真っ直ぐに見返してきた。
かつて「地獄の司令塔」と呼ばれたあの頃のヒル魔をどこか彷彿とさせる顔だ。
「迷惑しているなら俺に関わらなければいい。誰も頼んじゃいねぇし。」
ヒル魔は最後にそういい残すと、さっさと病室を出て行った。
セナは小早川家に引き取られてから、日に日に元気を失っていった。
病院から連れ出されるときに、セナは「ヒル魔さんは?」と聞いた。
すると「お父さん」と「お母さん」だと名乗る2人も、まもりも「後から来るから」と答えたのだ。
だからずっと待っているのに、ヒル魔は来ない。
「お父さん」も「お母さん」も頻繁に顔を出すまもりもムサシも優しい。
セナは皆、大好きだった。
だがヒル魔は違う。
好きの中でも一番、誰よりも好きで特別だった。
最初のうちは、暇さえあれば「ヒル魔さんはいつ来るの?」と聞いた。
だが周りの大人たちは曖昧に笑うだけだった。
最近では笑うことすらせず、うんざりした表情をする。
そこでようやくセナは悟ったのだ。
自分とヒル魔は意図的に引き離されたのだということを。
ヒル魔の名を口に出すだけで、皆が嫌そうな顔をする。
だから言ってはいけない。我慢しなくてはいけない。もう会えない。
そう思うと、何を見ても楽しくないし、食事も味がしないし、夜もあまり眠れない。
次第に表情も口数も少なくなっていくセナを瀬那の両親も持て余し始めている。
「お母さん」が「お父さん」に「無愛想な子になったわね」とため息混じりに漏らしたのを聞いた。
周りを悲しませているのかと思うと、セナは悲しい気持ちになった。
何か大事なことを忘れている。
ヒル魔のこととは別に、セナはずっと考えている。
あの日お寺でヒル魔たちに拾われるまでの間、どうしていたのか?
セナはまもりやムサシだけでなく、病院の医師や警察官にも聞かれた。
だがまったく答えられなかった。
セナとしては、ずっと長い間あの寺の墓地にいたつもりだった。
あの場所で、季節の移り変わりを感じながら、お参りにくる人たちを見守っていた。
だがら「ずっとお寺にいたよ」とセナは答えた。
だが大人たちは「その前は?」と聞いてくる。
ずっとお寺にいたと言っているのに、その前のことを聞かれても困るのだ。
答えられないでいるセナのことを、大人たちは勝手に「記憶喪失」だと言い捨てた。
結局「ずっとお寺にいた」以外にセナは何も答えられなかった。
名前を聞かれても、ずっと寺で誰と話すこともなくふわふわと過ごしていた自分を呼ぶ者もいない。
ヒル魔に「セナ」と呼ばれたときに、初めて自分は「セナ」なんだなと思った。
何故「ピアス」を持っているのだと言われても、わからなかった。
とにかく気がついたら持っていたのだ。
聞かれて初めてあの輪のようなものが「ピアス」というものなのだと知った。
わかっているのは「ピアス」はセナにとって、とても大事なものだということだ。
それを病院に置いてきてしまい、セナはひどく落ち着かない。
自分はいったい何者なのか。
ヒル魔に会えない寂しさを紛らわすように、セナはずっとそのことを考えている。
【続く】