年下5題
辞めるの?
セナは静かにそう聞いた。
穏やかな表情も、優しい声も、いつもと変わらない。
セナの前に立つ少年は固い表情で頷くと、白い封筒を差し出した。
アメフト部、泥門デビルバッツの部室。
週が明けたばかりの月曜日の朝練の開始前、1人の1年生部員がセナに退部を申し出たのだ。
彼は中坊のクラスメイトであり、セナに憧れてRBを志望する1年生だ。
泥門高校でRBになったからには、どうしても目標はセナになる。
そしてセナとの力の差が、高い壁として立ちはだかるのだ。
今のセナは日本の高校アメフトではナンバーワンRBと言っても過言ではない。
そのセナと絶えず実力を比較されるのは、かなりのプレッシャーだ。
入部して数日で試合に出場して、王城の進を抜いた。
半ば伝説と化したその話の前では、キャリアの違いなどという言い訳は通用しない。
なぜならセナは高校になってから、アメフトを始めた。
だが件の1年生RBは中学ではフラッグフットボールの選手だった。
つまり1年前のセナに比べたら、はるかに力が上であるはずだ。
それなのに練習を重ねるにつれて、セナとの力の差を思い知らされる。
きつい練習も地道な努力も厭わないが、その差を埋められる気がしない。
事前に彼のそんな心の内を聞いていた中坊は、何とか退部を思いとどまるようにと説得していた。
だが彼は中坊の忠告も聞かず、ついに主将のセナに退部を申し出た。
わかった。
彼が告げた退部の理由を聞いたセナが、おもむろに口を開いた。
朝錬に参加するために身支度をしていた部員たちが、聞き耳を立てている。
そんな気配に気づいているのか、いないのか。
セナは「退部届」と書かれた白い封筒を受け取った。
1週間。これは預かるから。とセナが微笑した。
キョトンとした表情の彼に、セナがさらに続ける。
1週間の間にまたやりたくなったら戻っておいでよ。これは返すよ。
セナは受け取ったばかりの封筒を目で指し示した。
気持ちが変わらなかったら来なくていいよ。来週退部の手続きをするからね。
彼が無言で頭を下げると、部室を出て行った。
ドアが閉まる音と共に、一気に部員たちがざわめく。
そんな雰囲気の中、中坊はセナに駆け寄ると、一気に不満をぶちまけた。
何で止めなかったんですか?アイツはアメフトが好きなのに!
あと少しでセナの胸倉を掴んでしまいそうになり、中坊は慌てて胸元まで上げた両手を下ろした。
同じクラスで、同じ練習をしてきて、彼が今までどれだけ真剣だったかよく知っている。
このまま彼がアメフトを辞めてしまうなんて、悔しいし、悲しい。
セナが何か一言彼に言ってやれば、彼は思いとどまったかもしれないと思えば、尚更だ。
だがセナは中坊の剣幕に驚くこともなく、落ち着いた様子だ。
本当にアメフトが好きなら、戻ってくるよ。
さらに言葉を続けようとする中坊を遮るように、セナは言った。
あまりにも冷静なセナや他の2年生たちの様子に、中坊はもう何も言えなくなった。
放課後の練習に向かう中坊は、クラスメイトの背中を見て、大きくため息をついた。
いつもなら一緒に部室へと向かうはずの彼が、校門を出て行く。
彼は本当にもうアメフトを辞めてしまうのだろうか?
どうしたの?ため息なんかついて。
不意に背後から声をかけられて、中坊は振り返った。
巨体に似合わぬ優しい声と表情。
栗田がニコニコと笑いながら、立っていた。
中坊が上手く説明できずに口ごもっているうちに、栗田が中坊の視線を追う。
そして校門を出て行く彼の姿に気づいて「あれ?」と声を上げた。
今日は、彼はお休み?
無邪気な様子で、栗田が聞いてくる。
栗田は彼が退部届を出したことを知らないのだろう。
中坊は栗田に、全てを話した。
彼が退部届を出したこと、セナが1週間と言ったこと、そして中坊の悔しさ、寂しさ。
栗田は相変わらずニコニコと穏やかな表情で、中坊の話を聞いていた。
どうしてセナ先輩は、退部届を受け取ったんだろう?
中坊はポツリと呟いた。
今回の件で、中坊の一番の不満はそれだった。
一緒にクリスマスボウルを目指す仲間が、辞めると言っているのに。
1週間などと期限を決めたセナの真意がわからない。
彼を止めようとしないセナがひどく冷たく思えるのだ。
もし仮に中坊が辞めたいと言っても、セナは同じようにするのだろうか。
そう考えると、中坊はひどく落ち込んでしまう。
セナくんはきっと無理強いはしたくなかったんだよ。
栗田は静かにそう言うと「セナくんは優しいから」と付け加えて、笑う。
栗田にはセナの思うことがわかっているらしい。
そのことがなんだか面白くなくて、中坊は口を尖らせる。
そんな中坊の心を知ってか知らずか、栗田は微笑をのこした表情のままゆっくりと話し始めた。
今の2年生、セナくんたちの代はほとんど誘拐するみたいな感じだったからなぁ。
僕たちだって、本当は心からアメフトが好きな人に入部して欲しかったよ。
でもそんな余裕なんてなかったんだ。
とにかく試合が出来るだけのメンバーを集めなくちゃ、クリスマスボウルに間に合わないからね。
セナくんとモン太くんなんか、ヒル魔に縄でグルグル巻きにされて、連行されてきたんだよ。
1年前を懐かしむように語る栗田の横顔を、中坊はじっと見ていた。
それこそ幸せなんじゃないですか?
縄でグルグル巻きにされてまでなんて。
すごく期待されてるってことじゃないですか。
中坊はすっかり拗ねた口調で、言い返した。
自分なら無理矢理でも辞めさせないでいてくれた方が嬉しいだろう。
無理強いしないことが優しさだとは思えない。
うん、チューボーくんの言うこともわかるけど。
栗田がまた控えめに口を開く。
そこまで期待されたら、大変だと思わない?
しっかり結果を出して、応えなくちゃって。
そう言われて、中坊は想像してみた。
自信を失って、それでも辞めることを許してくれなくて、そして結果を求められる。
セナのようにヒル魔の期待に応えられればいいが、もし出来なければ?
アメフト部に縛り付けた先輩を恨むだろうか?
自分を許せずに、責めるだろうか?
アメフトを好きでいられるだろうか?
そこまで考えて、ゾクっと背筋が震えた。
そのプレッシャーを知っているセナくんだから、無理強いはしたくないんだよ。
中坊の心の内がわかったのだろう。
栗田は諭すようにそう言うと、中坊の肩をポンと叩く。
そして「部活、頑張ってね」と言い足すと、そのまま歩き去った。
優しいな。セナ先輩も、栗田先輩も。
中坊は栗田の背中を見送りながら、ひとりごちた。
去年の泥門デビルバッツは、後輩を1人でも失うことはクリスマスボウルを諦めるも同じだった。
だから後輩を縛らなければならなかった昨年の2年生。
それを経験しているからこそ、後輩を縛りたくない今年の2年生。
どちらも後輩のことを大事に思ってくれているのだ。
退部届を提出した1年生RBが再び部室に姿を現したのは、週末の金曜日だった。
やっぱりアメフトが好きなんです。
もう1度フィールドを走らせてください。
涙で目を潤ませながらそう言った彼に、セナは退部届を返した。
そして「また頑張ろうね」と笑ったセナに、彼は何度も頭を下げた。
1年生部員たちは全員ホッと胸を撫で下ろし「よかった」と彼の復帰を喜んだ。
2年生部員たちも何事もなかったように彼を迎え入れた。
セナ先輩はこうなることがわかっていたのだろうか?
彼はやっぱりアメフトが大好きで、結局辞めることなどできないことを。
それともただ単に、無理矢理部に留めることをしたくなかっただけだろうか?
聞いてみたいと中坊は思う。
もし彼が戻らなかったら、どうしたんですか?と。
だが何だかそれを聞くのは野暮のような気もするのだ。
だって結局彼は戻っていて、またフィールドを走っている。
そしてセナたち2年生は、優しく厳しく1年生たちを導いてくれているのだから。
引退したけどアメフト部を気にかけている栗田たち3年生だって、見守っているのだから。
中坊たちがするべきことはただ1つ。
先輩たちの優しいココロに応えて、それを次の世代の後輩たちに返すことだ。
【続く】
セナは静かにそう聞いた。
穏やかな表情も、優しい声も、いつもと変わらない。
セナの前に立つ少年は固い表情で頷くと、白い封筒を差し出した。
アメフト部、泥門デビルバッツの部室。
週が明けたばかりの月曜日の朝練の開始前、1人の1年生部員がセナに退部を申し出たのだ。
彼は中坊のクラスメイトであり、セナに憧れてRBを志望する1年生だ。
泥門高校でRBになったからには、どうしても目標はセナになる。
そしてセナとの力の差が、高い壁として立ちはだかるのだ。
今のセナは日本の高校アメフトではナンバーワンRBと言っても過言ではない。
そのセナと絶えず実力を比較されるのは、かなりのプレッシャーだ。
入部して数日で試合に出場して、王城の進を抜いた。
半ば伝説と化したその話の前では、キャリアの違いなどという言い訳は通用しない。
なぜならセナは高校になってから、アメフトを始めた。
だが件の1年生RBは中学ではフラッグフットボールの選手だった。
つまり1年前のセナに比べたら、はるかに力が上であるはずだ。
それなのに練習を重ねるにつれて、セナとの力の差を思い知らされる。
きつい練習も地道な努力も厭わないが、その差を埋められる気がしない。
事前に彼のそんな心の内を聞いていた中坊は、何とか退部を思いとどまるようにと説得していた。
だが彼は中坊の忠告も聞かず、ついに主将のセナに退部を申し出た。
わかった。
彼が告げた退部の理由を聞いたセナが、おもむろに口を開いた。
朝錬に参加するために身支度をしていた部員たちが、聞き耳を立てている。
そんな気配に気づいているのか、いないのか。
セナは「退部届」と書かれた白い封筒を受け取った。
1週間。これは預かるから。とセナが微笑した。
キョトンとした表情の彼に、セナがさらに続ける。
1週間の間にまたやりたくなったら戻っておいでよ。これは返すよ。
セナは受け取ったばかりの封筒を目で指し示した。
気持ちが変わらなかったら来なくていいよ。来週退部の手続きをするからね。
彼が無言で頭を下げると、部室を出て行った。
ドアが閉まる音と共に、一気に部員たちがざわめく。
そんな雰囲気の中、中坊はセナに駆け寄ると、一気に不満をぶちまけた。
何で止めなかったんですか?アイツはアメフトが好きなのに!
あと少しでセナの胸倉を掴んでしまいそうになり、中坊は慌てて胸元まで上げた両手を下ろした。
同じクラスで、同じ練習をしてきて、彼が今までどれだけ真剣だったかよく知っている。
このまま彼がアメフトを辞めてしまうなんて、悔しいし、悲しい。
セナが何か一言彼に言ってやれば、彼は思いとどまったかもしれないと思えば、尚更だ。
だがセナは中坊の剣幕に驚くこともなく、落ち着いた様子だ。
本当にアメフトが好きなら、戻ってくるよ。
さらに言葉を続けようとする中坊を遮るように、セナは言った。
あまりにも冷静なセナや他の2年生たちの様子に、中坊はもう何も言えなくなった。
放課後の練習に向かう中坊は、クラスメイトの背中を見て、大きくため息をついた。
いつもなら一緒に部室へと向かうはずの彼が、校門を出て行く。
彼は本当にもうアメフトを辞めてしまうのだろうか?
どうしたの?ため息なんかついて。
不意に背後から声をかけられて、中坊は振り返った。
巨体に似合わぬ優しい声と表情。
栗田がニコニコと笑いながら、立っていた。
中坊が上手く説明できずに口ごもっているうちに、栗田が中坊の視線を追う。
そして校門を出て行く彼の姿に気づいて「あれ?」と声を上げた。
今日は、彼はお休み?
無邪気な様子で、栗田が聞いてくる。
栗田は彼が退部届を出したことを知らないのだろう。
中坊は栗田に、全てを話した。
彼が退部届を出したこと、セナが1週間と言ったこと、そして中坊の悔しさ、寂しさ。
栗田は相変わらずニコニコと穏やかな表情で、中坊の話を聞いていた。
どうしてセナ先輩は、退部届を受け取ったんだろう?
中坊はポツリと呟いた。
今回の件で、中坊の一番の不満はそれだった。
一緒にクリスマスボウルを目指す仲間が、辞めると言っているのに。
1週間などと期限を決めたセナの真意がわからない。
彼を止めようとしないセナがひどく冷たく思えるのだ。
もし仮に中坊が辞めたいと言っても、セナは同じようにするのだろうか。
そう考えると、中坊はひどく落ち込んでしまう。
セナくんはきっと無理強いはしたくなかったんだよ。
栗田は静かにそう言うと「セナくんは優しいから」と付け加えて、笑う。
栗田にはセナの思うことがわかっているらしい。
そのことがなんだか面白くなくて、中坊は口を尖らせる。
そんな中坊の心を知ってか知らずか、栗田は微笑をのこした表情のままゆっくりと話し始めた。
今の2年生、セナくんたちの代はほとんど誘拐するみたいな感じだったからなぁ。
僕たちだって、本当は心からアメフトが好きな人に入部して欲しかったよ。
でもそんな余裕なんてなかったんだ。
とにかく試合が出来るだけのメンバーを集めなくちゃ、クリスマスボウルに間に合わないからね。
セナくんとモン太くんなんか、ヒル魔に縄でグルグル巻きにされて、連行されてきたんだよ。
1年前を懐かしむように語る栗田の横顔を、中坊はじっと見ていた。
それこそ幸せなんじゃないですか?
縄でグルグル巻きにされてまでなんて。
すごく期待されてるってことじゃないですか。
中坊はすっかり拗ねた口調で、言い返した。
自分なら無理矢理でも辞めさせないでいてくれた方が嬉しいだろう。
無理強いしないことが優しさだとは思えない。
うん、チューボーくんの言うこともわかるけど。
栗田がまた控えめに口を開く。
そこまで期待されたら、大変だと思わない?
しっかり結果を出して、応えなくちゃって。
そう言われて、中坊は想像してみた。
自信を失って、それでも辞めることを許してくれなくて、そして結果を求められる。
セナのようにヒル魔の期待に応えられればいいが、もし出来なければ?
アメフト部に縛り付けた先輩を恨むだろうか?
自分を許せずに、責めるだろうか?
アメフトを好きでいられるだろうか?
そこまで考えて、ゾクっと背筋が震えた。
そのプレッシャーを知っているセナくんだから、無理強いはしたくないんだよ。
中坊の心の内がわかったのだろう。
栗田は諭すようにそう言うと、中坊の肩をポンと叩く。
そして「部活、頑張ってね」と言い足すと、そのまま歩き去った。
優しいな。セナ先輩も、栗田先輩も。
中坊は栗田の背中を見送りながら、ひとりごちた。
去年の泥門デビルバッツは、後輩を1人でも失うことはクリスマスボウルを諦めるも同じだった。
だから後輩を縛らなければならなかった昨年の2年生。
それを経験しているからこそ、後輩を縛りたくない今年の2年生。
どちらも後輩のことを大事に思ってくれているのだ。
退部届を提出した1年生RBが再び部室に姿を現したのは、週末の金曜日だった。
やっぱりアメフトが好きなんです。
もう1度フィールドを走らせてください。
涙で目を潤ませながらそう言った彼に、セナは退部届を返した。
そして「また頑張ろうね」と笑ったセナに、彼は何度も頭を下げた。
1年生部員たちは全員ホッと胸を撫で下ろし「よかった」と彼の復帰を喜んだ。
2年生部員たちも何事もなかったように彼を迎え入れた。
セナ先輩はこうなることがわかっていたのだろうか?
彼はやっぱりアメフトが大好きで、結局辞めることなどできないことを。
それともただ単に、無理矢理部に留めることをしたくなかっただけだろうか?
聞いてみたいと中坊は思う。
もし彼が戻らなかったら、どうしたんですか?と。
だが何だかそれを聞くのは野暮のような気もするのだ。
だって結局彼は戻っていて、またフィールドを走っている。
そしてセナたち2年生は、優しく厳しく1年生たちを導いてくれているのだから。
引退したけどアメフト部を気にかけている栗田たち3年生だって、見守っているのだから。
中坊たちがするべきことはただ1つ。
先輩たちの優しいココロに応えて、それを次の世代の後輩たちに返すことだ。
【続く】