筧水5題
「何が、留学中だよ。」
セナはポツリとそう呟いた。
誰にも聞こえないくらいの小さな声。
だがセナの隣にいた水町は、確かにその声を聞き取った。
セナが久しぶりにヒル魔の姿を見たのは、テレビの中だった。
スポーツ番組の中の短い特集。
アメリカのカレッジフットボールを撮り続けるカメラマンの話だ。
セナは思わず「珍しい」と小さく呟いていた。
日本の地上波のテレビでは、せいぜいNFLの話がチラリと出る程度だ。
大学アメフトのことなど、ぜんぜん放送されない。
寮の部屋で水町と2人、ぼんやりとテレビを見ていたセナは身を乗り出した。
事の発端は、かつて対戦したアメリカのユース代表だったクリフォード・D・ルイスだ。
今は大学でプレーする彼もまた、ヒル魔のようなトリックプレーが売り物だ。
そしてとある試合で、クリフォードが仕掛けたビックプレイ。
撮影する何人かのカメラマンもまた騙されてしまい、誰もその決定的瞬間を捕らえられなかった。
唯一そのプレイの決定的瞬間を捉えたのが、ヒル魔だった。
アメリカのマスコミはクリフォードの策を読んで、見事にカメラに納めたヒル魔を絶賛している。
テレビ番組のスポーツキャスターは、ヒル魔の経歴を紹介した後、そう伝える。
アシスタント役の女子アナが「かっこいいですね」と締めくくった。
「ヒル魔さんがカメラマンになったなんて、知らなかったな。」
「え?そうなの?」
セナの小さく呟く。
それを聞いた水町は、意外そうな表情になった。
「何してるんですか?って聞いたら、留学中なんて言ってたんだよ。」
「そっか」
水町はセナがまたポツリと呟くその声が、涙を含んでいることに気がついた。
泣くのを我慢しているのだ。
ここはセナだけの部屋ではないから。水町がいるから。
「俺、今日はモン太たちの部屋に行くよ。」
水町はベットから枕と毛布を掴むと、そう言った。
「え?」
セナが驚いたように声を上げて、水町を見た。
その瞳はもう涙で潤んでいる。
「何かあれば呼んで。すぐ来るから。」
水町はそう言って、セナの頭をクシャクシャと撫でた。
大きな水町の手と小さなセナの頭。乱暴だが親しみの込もった仕草。
まるで歳の離れた兄弟のようだ。
そして水町は「おやすみ」と言いながら、部屋を出て行った。
水町が部屋のドアを閉めた途端、セナの瞳からは涙が溢れた。
さすがに水町がいるのに泣くのは憚られて、我慢していたのだ。
セナは付けっぱなしのテレビを消すと、ベットに倒れこんだ。
そして頭から毛布をかぶると、声を押し殺して泣いた。
寮の壁は、隣室の話し声も聞き取れるほど薄いのだ。
声を上げて泣いたら、騒ぎになってしまうかもしれない。
そしてそんなことを冷静に考えてしまう自分が嫌になる。
水町はヒル魔がアメリカでカメラマンになっていることを知っている様子だった。
おそらくは筧から聞いていたのだろう。
でもそんなことさえも、セナは教えてもらえなかった。
なぜアメフトを辞めたのか、なぜカメラマンなのか、その理由も何も聞いていない。
せめて新しい夢に向かって進むなら、その応援くらいさせてくれてもいいではないか。
思えば思うほど、涙がボロボロと零れて止まらない。
いっそ別れてしまえばいいのだろうか。
遠距離恋愛にありがちなのは「自然消滅」だ。
そうやって連絡を取らなければ、忘れられるのだろうか?
一瞬考えたセナは、諦めたように首を振った。
やはりどうしようもなくヒル魔が好きなのだ。
ヒル魔がはっきりと「別れる」と言うのならともかく、セナから別れるなどできない。
ならば泣いている場合ではない。
セナは手でグイと涙を拭うと、毛布から抜け出した。
「ヒル魔のバカ」
モン太と陸の部屋に来た水町は、もう何度も繰り返した台詞をまた言った。
モン太が「ヒル魔センパイの悪口を言うな」と言い、陸が「しつこい!」と言う。
陸とセナのベットの間にストレッチ用のマットを敷いて、水町が横になっている。
真ん中が長い奇妙な「川」の字状態だ。
毛布と枕を抱えてやってきた水町を、モン太と陸は何も聞かずに部屋に入れてくれた。
彼らもまたスポーツニュースで、ヒル魔を見ていたのだ。
セナが1人で思う存分、泣いたり考えたり出来るように。
口に出さなくても、2人は水町の気持ちを理解していた。
ヒル魔がアメフトの試合を撮って回っていることを、水町は筧から聞いていた。
だから当然セナも知っているものだと思っていたのだ。
セナがヒル魔の話をしないものだから、そんな話題で喋ったことがない。
だからセナが知らないなんて、思わなかった。
セナはヒル魔のことを、ずっと想っている。
言葉にはしないけど、それは痛いほどわかる。
セナにあそこまで想われているというのに、ヒル魔は何を考えているのだろう。
「ヒル魔のバカ」
水町はため息とともにまた言った。
モン太が律儀に「ヒル魔センパイの悪口を言うな」と言い、陸が「早く寝ろ!」と怒鳴った。
早朝、3人が眠る部屋が控えめにノックされた。
爆睡する3人の中で、それに気付いて起きたのは陸だ。
立ち上がって、ドアを開けて「セナ!」と声を上げる。
その声で目覚めた水町とモン太も、やって来たセナを見る。
そしてその様子を見て、驚いた。
セナはしっかりと身支度をして、肩から大きなディパックを提げている。
あからさまに今から旅行という格好だ。
「ヒル魔のところに行くのか?」
水町がそう聞くと、セナは頷いた。
「住所を頼りに行くんだろ?」
「1人で行けるのか?」
「一応、僕もアメリカに留学してたんだけど。」
モン太と陸が心配そうに聞くと、セナは苦笑する。
悩んで苦しんで、セナは決断したのだ。
その表情は何だかすごく綺麗だと、水町は思う。
もしヒル魔がセナと別れたいと思っていたとしても。
今セナを見たら惚れ直してしまうのではないかと思えるほどだ。
「ヒル魔さんの留学中を終わらせてくる。」
セナはそう言い残して、アメリカへと旅立った。
【続く】
セナはポツリとそう呟いた。
誰にも聞こえないくらいの小さな声。
だがセナの隣にいた水町は、確かにその声を聞き取った。
セナが久しぶりにヒル魔の姿を見たのは、テレビの中だった。
スポーツ番組の中の短い特集。
アメリカのカレッジフットボールを撮り続けるカメラマンの話だ。
セナは思わず「珍しい」と小さく呟いていた。
日本の地上波のテレビでは、せいぜいNFLの話がチラリと出る程度だ。
大学アメフトのことなど、ぜんぜん放送されない。
寮の部屋で水町と2人、ぼんやりとテレビを見ていたセナは身を乗り出した。
事の発端は、かつて対戦したアメリカのユース代表だったクリフォード・D・ルイスだ。
今は大学でプレーする彼もまた、ヒル魔のようなトリックプレーが売り物だ。
そしてとある試合で、クリフォードが仕掛けたビックプレイ。
撮影する何人かのカメラマンもまた騙されてしまい、誰もその決定的瞬間を捕らえられなかった。
唯一そのプレイの決定的瞬間を捉えたのが、ヒル魔だった。
アメリカのマスコミはクリフォードの策を読んで、見事にカメラに納めたヒル魔を絶賛している。
テレビ番組のスポーツキャスターは、ヒル魔の経歴を紹介した後、そう伝える。
アシスタント役の女子アナが「かっこいいですね」と締めくくった。
「ヒル魔さんがカメラマンになったなんて、知らなかったな。」
「え?そうなの?」
セナの小さく呟く。
それを聞いた水町は、意外そうな表情になった。
「何してるんですか?って聞いたら、留学中なんて言ってたんだよ。」
「そっか」
水町はセナがまたポツリと呟くその声が、涙を含んでいることに気がついた。
泣くのを我慢しているのだ。
ここはセナだけの部屋ではないから。水町がいるから。
「俺、今日はモン太たちの部屋に行くよ。」
水町はベットから枕と毛布を掴むと、そう言った。
「え?」
セナが驚いたように声を上げて、水町を見た。
その瞳はもう涙で潤んでいる。
「何かあれば呼んで。すぐ来るから。」
水町はそう言って、セナの頭をクシャクシャと撫でた。
大きな水町の手と小さなセナの頭。乱暴だが親しみの込もった仕草。
まるで歳の離れた兄弟のようだ。
そして水町は「おやすみ」と言いながら、部屋を出て行った。
水町が部屋のドアを閉めた途端、セナの瞳からは涙が溢れた。
さすがに水町がいるのに泣くのは憚られて、我慢していたのだ。
セナは付けっぱなしのテレビを消すと、ベットに倒れこんだ。
そして頭から毛布をかぶると、声を押し殺して泣いた。
寮の壁は、隣室の話し声も聞き取れるほど薄いのだ。
声を上げて泣いたら、騒ぎになってしまうかもしれない。
そしてそんなことを冷静に考えてしまう自分が嫌になる。
水町はヒル魔がアメリカでカメラマンになっていることを知っている様子だった。
おそらくは筧から聞いていたのだろう。
でもそんなことさえも、セナは教えてもらえなかった。
なぜアメフトを辞めたのか、なぜカメラマンなのか、その理由も何も聞いていない。
せめて新しい夢に向かって進むなら、その応援くらいさせてくれてもいいではないか。
思えば思うほど、涙がボロボロと零れて止まらない。
いっそ別れてしまえばいいのだろうか。
遠距離恋愛にありがちなのは「自然消滅」だ。
そうやって連絡を取らなければ、忘れられるのだろうか?
一瞬考えたセナは、諦めたように首を振った。
やはりどうしようもなくヒル魔が好きなのだ。
ヒル魔がはっきりと「別れる」と言うのならともかく、セナから別れるなどできない。
ならば泣いている場合ではない。
セナは手でグイと涙を拭うと、毛布から抜け出した。
「ヒル魔のバカ」
モン太と陸の部屋に来た水町は、もう何度も繰り返した台詞をまた言った。
モン太が「ヒル魔センパイの悪口を言うな」と言い、陸が「しつこい!」と言う。
陸とセナのベットの間にストレッチ用のマットを敷いて、水町が横になっている。
真ん中が長い奇妙な「川」の字状態だ。
毛布と枕を抱えてやってきた水町を、モン太と陸は何も聞かずに部屋に入れてくれた。
彼らもまたスポーツニュースで、ヒル魔を見ていたのだ。
セナが1人で思う存分、泣いたり考えたり出来るように。
口に出さなくても、2人は水町の気持ちを理解していた。
ヒル魔がアメフトの試合を撮って回っていることを、水町は筧から聞いていた。
だから当然セナも知っているものだと思っていたのだ。
セナがヒル魔の話をしないものだから、そんな話題で喋ったことがない。
だからセナが知らないなんて、思わなかった。
セナはヒル魔のことを、ずっと想っている。
言葉にはしないけど、それは痛いほどわかる。
セナにあそこまで想われているというのに、ヒル魔は何を考えているのだろう。
「ヒル魔のバカ」
水町はため息とともにまた言った。
モン太が律儀に「ヒル魔センパイの悪口を言うな」と言い、陸が「早く寝ろ!」と怒鳴った。
早朝、3人が眠る部屋が控えめにノックされた。
爆睡する3人の中で、それに気付いて起きたのは陸だ。
立ち上がって、ドアを開けて「セナ!」と声を上げる。
その声で目覚めた水町とモン太も、やって来たセナを見る。
そしてその様子を見て、驚いた。
セナはしっかりと身支度をして、肩から大きなディパックを提げている。
あからさまに今から旅行という格好だ。
「ヒル魔のところに行くのか?」
水町がそう聞くと、セナは頷いた。
「住所を頼りに行くんだろ?」
「1人で行けるのか?」
「一応、僕もアメリカに留学してたんだけど。」
モン太と陸が心配そうに聞くと、セナは苦笑する。
悩んで苦しんで、セナは決断したのだ。
その表情は何だかすごく綺麗だと、水町は思う。
もしヒル魔がセナと別れたいと思っていたとしても。
今セナを見たら惚れ直してしまうのではないかと思えるほどだ。
「ヒル魔さんの留学中を終わらせてくる。」
セナはそう言い残して、アメリカへと旅立った。
【続く】