夏鈴5題

瀧夏彦は「契約書」にサインをしようとして、ふとペンを止めた。

ワールドカップユースの決勝で対戦したアメリカのペンタゴンの1人、バッド。
新作のアメフト映画への主演が決まった彼から、日本人選手役を捜しているという話を聞いた。
かくして夏彦は単身ハリウッドに渡り、その役を射止めてしまった。

そして今日はその契約の日。
相手方はわざわざ日本人の夏彦に合わせて、契約書の日本語訳まで用意してくれていた。
でも残念ながら、それは無駄だ。
夏彦は普通の日本語も、かなり不自由なのだ。
漢字だらけでの専門用語も多い日本語訳など、見せられてもあまり意味がない。
それでも最後の一文だけははっきりと読めた。

What?
夏彦は契約書の最後の一文を指差して聞いた。
すると担当者は納得したようで、笑顔で教えてくれた。
バッドにナツヒコを紹介した友人からのたっての依頼だって。
紹介してくれた人。それはつまりセナのことだ。

ナツヒコのことが大切なんだ。その友人も妹さんもね。
担当者がもう1度、夏彦に笑いかけた。
夏彦もまた担当者に笑顔を返すと、契約書にペンを走らせた。


瀧くんは元気なの?
大学のキャンパスで、セナは鈴音に聞いた。
うん、毎日メールくるよ。
鈴音はそう答えると、セナに自分の携帯電話を見せた。

セナは鈴音の携帯を見ながら、苦笑した。
メールの文面は、どれも短い。ほんの数文字だ。
「元気だよ」とか彼の口癖である「アハーハー」とか笑顔の絵文字とか。
それでも文面を変えて、毎日欠かさず送ってきていた。

ホントに3年前が嘘みたいに、嫌んなるほどメールが来るのよ。
週末には家に電話も来るしね。
うんざりした表情ながら、鈴音はどこか嬉しそうだ。

3年前のデスマーチの時。
鈴音は言葉も通じない土地で、懸命に兄を捜していた。
今思えば、慣れない異国で女の子1人での捜索は無謀で危険だ。
バッドに頼まれて、夏彦を紹介したものの、また同じことになったら。
セナはそれだけが気がかりだった。
だからバッドに頼んで、映画の契約書に一文入れてもらったのだ。

毎日必ず妹にメールすること。メールの内容は1文字でも空メールでも可。
週に1回は必ず実家に電話をすること。

大切なんだ。鈴音も。瀧くんも。
セナは心の中でひとりごちると「よかったね」と鈴音に笑いかけた。

【終】
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