ヒルセナ5題4

目を覚ましたセナは、自分の状況を把握するのに少しの時間を要した。
目を開けたはずなのに、視界が真っ暗であること。
手がまったく動かせないこと。
そして声を発しようとしても、くぐもった呻きのような音しか出ない。

忘れ物をしたから、飛行機に乗らなかった。
アパートに帰って、乗るはずだった飛行機の事故を聞かされて、抱かれた。
誰に?ヒル魔に。
そしてその後、部屋に誰かが侵入してきて、タオルみたいな何かを押し付けられた。
どうやら薬で眠らされて、誘拐されたようだ。
目も口も塞がれて、手足を後ろ手に縛られて、床に転がされている。
埃っぽい床と、古い油のような匂い。
目が見えなくても、ここが自分の部屋ではないことはわかる。

不意に人の気配を感じた。
1人ではない。2人、いやそれ以上だ。
どうやらセナが目を覚ましたのが、わかったのだろう。
セナが着ているシャツの胸倉が掴まれて、乱暴に引き起こされた。
縛られ、身体を支えられない状態で襟首を持ち上げられて、呼吸が苦しい。


「おまえ、やっぱりヒル魔とは別れてなかったんだな」
セナのシャツを掴んでいるらしい男が、言った。
セナにとっては、聞き覚えがない声。
相手は多分、セナが知らない人物だろう。
ヒル魔とはもう4年も前に別れたのだと言おうとしたが、それは声にならなかった。
口に何か布のようなものが詰め込まれているからだ。
くぐもった呻き声しか出せないことがわかったセナは、首を何度も振って否定した。

「ヒル魔がおまえの部屋から出てきたのを見た。下手な嘘をつくな。」
そう言われた途端、顔に衝撃を感じて、首が捩れた。
次の瞬間には頬からジンと痺れたような痛み、そして口の中に鉄のような味。
拳で殴られたのだとわかるまでに、少々の時間を要した。
男が掴んでいたシャツの胸倉を不意に離すと、支えを失ったセナの身体が再び汚れた床に転がる。
間髪おかずに男はセナの上に馬乗りになると、さらに右に左にと数回セナの顔を殴った。

どうやらヒル魔に恨みを持つものの仕業のようだ。
セナは混乱しながら、どうにかそれだけはわかった。
すぐにセナを殴っていた男が、セナから離れた。
しかし解放されたわけではなかった。
今度は別の男がセナの胸や腹を蹴り上げる。
とっさに腹をかばうように身体を丸めると、今度はさらに別の男が背中を蹴り込んだ。
セナはようやく男たちは3人組なのだとわかった。


男たちはセナをどうするつもりなのだろう。
まさか殺すのだろうか?
でも考えてみれば、どうせ事故で死ぬはずだった。
ここで死ぬことになったところで、結果は同じだろう。
理不尽な攻撃に、しだいに身体のダメージ増していく。
それに比例するように、セナは弱気になっていった。

不思議なほど、ヒル魔に対しては何も感じなかった。
ヒル魔がセナの部屋に来たせいで、今こうなっているわけだが、それはどうでもいい。
最後に会うことが出来て、抱いてもらえてよかったとさえ思う。
結局ヒル魔を愛しているのだ。
そのためにどんなひどい目に遭わされても、変わらない。

ヒル魔も同じ思いなのだろうか。
ヒル魔はセナが事故で死んだものだと思ったらしい。
彼は最後にセナに会えなかったと思って、絶望したのだろうか。
だからセナがひょっこりと戻ったときに、もう一度と言ったのだろうか。

すれ違って、見失った恋心。
もしもう一度会えるものなら、会いたい。
そして聞いてみたい。
あなたは今でも僕を好きでいてくれているんですか。


気がつくと、嵐のような暴力が止んでいた。
思い切り痛めつけられた身体は、熱く重くだるい。
しかもひどく痛む箇所がいくつもある。
おそらく少々深刻な怪我もあるだろう。
セナは動くこともできずに、その場に転がっていた。

男たちは相変わらずセナを取り囲んだまま、何やらひそひそと話をしている。
嫌な予感がしたセナに、男たちの手が伸びた。
そしてビリビリという音が響き渡った。
着ているシャツが剥ぎ取られたのだ。
素肌が冷たい外気に晒されて、上半身が裸にされてしまったのだとわかる。
男たちはセナの肌に手をかけて、忍び笑いをもらした。

目を塞がれているのに、男たちの視線が突き刺さるような気がする。
先程ヒル魔に痕を刻まれた首や胸元に、男たちの指が這った。
どうやらセナの裸身にヒル魔との情事の痕跡を見つけたのだ。
そして彼らの纏う雰囲気が、一気に獲物を狙う獣のような攻撃的なものに変わった。
彼らの目的は、ヒル魔の所有の印を刻まれたセナの身体をいたぶること。
身体の外側も内側もボロボロに傷つけて、心まで貶めることだ。

男たちの意図を悟ったセナは、最後の抵抗とばかりに暴れた。
幸いなことに足は拘束されていない。
上半身を懸命に揺すりながら、足を大きくバタつかせた。


「これ以上暴れたら、殺すぞ」
今まで無言だった1人の男が、静かだが凄みのある声でそう言った。
同時に何か冷たいものが頬に当てられる。
ナイフかなにかの刃だと思った瞬間、セナの身体が恐怖で凍りついた。
殺される。死にたくない。
今までどこか呆然としていたセナだったが、冷たい刃にリアルな「死」を意識した。
セナの身体から力が抜けて、抵抗がピタリと止んだ。

男たちが勝ち誇るように笑い、セナの身体に手をかけ、肌に触れる。
ふと気がつくと、目を塞いでいる布が湿っていた。
セナは自分が涙を流して、泣いているのだと気がついた。
こんなことで死ぬのなら、自分の気持ちに正直になればよかった。
ヒル魔の手を取り、心を受け入れればよかった。
心を過ぎるのは後悔ばかりだ。
それでも目を塞がれていてよかったかもしれない。
自分の身体を自由にしているのがヒル魔だと想像できるかもしれないから。

ついに男たちの手が下半身にかかった瞬間、セナは叫んだ。
口を塞がれているから、名前を呼ぶ声は明確な音にはならない。
それでもセナは、何度もヒル魔の名を呼んだ。
やはり知らない男の手をヒル魔と思うことなどできない。
押さえつけられて動けないセナは、必死にその名を呼び続けた。


名前を呼ぶ声が聞こえて、セナは目を開けた。
どうやらしばらく意識をなくしていたのだとわかる。
すぐ目の前には、愛する彼の心配そうな顔がある。
これは夢かと思い、身体を起こそうとした途端に身体中が軋むように痛んだ。
あの暴虐は夢ではなく、現実のことだったのだと思った。

セナはゆっくりと辺りを見回して、状況を確認した。
身体の拘束はすべて解かれていた。
倉庫のような廃工場のような、ガランとした埃っぽい空間。
先程までその名を呼び続けたヒル魔が、服が汚れるのも構わずに座り込んでいる。
セナはその腕の中にしっかりと抱きかかえられていた。
裸にされた上半身を守るように包んでいるのは、ヒル魔の黒いジャケット。
下はセナが連れ去られたときに履いていた部屋着のままだ。
どうやら身体の中まで汚されることはなかったのだと、セナはホッと胸を撫で下ろした。
着せ掛けられているジャケットから香るヒル魔の香りに、心が解けていく。

ヒル魔がセナを抱く腕に力を込めた。
どうして助けに来てくれたのか、あの男たちは誰で、どうなったのか。
聞きたいことがいくつも浮かんで、でもすぐに消えた。
答えは今セナを抱く彼がヒル魔だから。他に説明はいらない。
セナはヒル魔の背中に腕を回して、その胸に顔を埋めた。

「セナ」
「ヒル魔さん」
お互いの名前を呼ぶ声だけが響く。
今はそれだけで充分だった。

【続く】
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