ヒルセナ5題4

セナを乗せた飛行機の事故のニュースを見たヒル魔は、自宅を出た。
墜落の可能性大。生存は絶望的。
テレビやネットのニュースを見ても、現実の出来事とは思えなかった。
乗客名簿に名前を見つけても、まだ信じられなかった。
そしてフラリとした足取りで、セナが住んでいたアパートへとやってきた。

古いアパートの鍵を破るなど、ヒル魔には造作もない。
そうして押し入った部屋は、ヒル魔のマンションとは違い、狭くて質素な部屋だった。
もう夜遅い時間だが、外から街灯の光が差し込んでいる。
部屋の照明をつけなくても、動き回るのに支障はないだろう。

今日の夕方、日本を発ったのだから、今朝まではセナはこの部屋にいたはずだ。
おそらく出発日当日まで使った荷物は、後日セナの両親か誰かが運び出すことになっているのだろう。
部屋にはまだベットと布団が残されている。
だがそれ以外はいくつかダンボールが積まれているだけで、ガランとしていた。

ヒル魔はそのままベットへと倒れこんだ。
そこにはまだほのかに残されたセナの匂い。
久々に嗅ぎ取った懐かしい匂いに、ヒル魔は動揺する。

ふとヒル魔は視線の隅に何かキラリと煌めく光を感じた。
どうやら外の道路を走る車のヘッドライトが室内の何かに反射したらしい。
光源は荷物が詰められ、ガムテープで梱包されたダンボールの上に置かれたもの。
ヒル魔は起き上がって、ダンボール箱に近づき、それを手に取った。

それは初めてヒル魔がセナに与えたもの。
緑色のプラスチック製の、アイシールドだった。


残されたアイシールドを見た途端、ヒル魔の中で何かが弾けた。
セナはもういない。帰ってこない。
もう2度と見ることも、触れることも、抱きしめることもできない。
そのことが実感となって、ヒル魔の心を凍りつかせていく。

こんなことなら、やはり手元に置くべきだった。
セナがどんなに逃げようと、抵抗しようと。
しっかりと捕まえて、離さなければよかった。
何度でも抱いて、キスをして。
どれだけセナのことが好きなのかをしっかりとわからせてやればよかった。
4年間も手をこまねいて、ただ見ているだけで。
今さらこんなに後悔するなど、馬鹿げている。

ヒル魔は手の中のアイシールドに視線を落とした。
セナはこれを置いていったのだろうか。
ヒル魔との決別のつもりで。
新たなスタートには不要なものだと思ったのだろうか。

目頭が熱くなる。
もう何年も生理的な涙しか流したことなどなかったのに。
そしてヒル魔の瞳に、涙が浮かびかけた瞬間。
鍵穴が回るガチャガチャという音が鳴った。

鍵が回り、ドアが開く。
セナの両親が来たのだろうと思ったヒル魔が、そちらに目を向けた。
そして「あ~疲れた」という声と共に、ドア横にある部屋の明かりのスイッチが入れられる。
ヒル魔がそちらの方向を見ると、そこにはいるはずのない人物が立っていた。


「ヒル魔さん?何でうちにいるんですか?」
現れた人物は、妙にのんびりした様子でヒル魔に声をかけてきた。
「テメー、幽霊か?」
ヒル魔はいるはずのない部屋の主、セナに恐る恐る問いかける。
「幽霊?いえ生きてますけど」
セナは朗らかに笑った。

「ああ、アメリカに行ったはずなのにってことですか?」
呆然とするヒル魔には気づかない様子で、セナは肩に背負っていた荷物を床に降ろしながら言う。
「忘れ物しちゃって。取りに戻ったんです。搭乗手続きしちゃった後だったんで、何か大変で」
なるほど、だから搭乗名簿に名前が記載されたままだったのだ。
「荷物返してもらって、チケットの予約をし直してたら、こんな時間です。」
ヒル魔の思いを他所に、セナの表情がどこかバツが悪そうなものに変わった。
そんなセナの表情に、今までの悲壮な緊張感が一気に解けていく。
ヒル魔は言葉を失い、セナを凝視した。
もうこの世にはいない、2度と会えないと思っていたのに。
セナは実にあっさりと、ヒル魔の前に戻ってきたのだ。

「とりあえずテメー、さっさと親に電話しろ。あと他の知り合いも、とにかく片っ端から」
「え?忘れ物をしたことをですか?」
「生きてることを、だ。」
どうやら自分が乗るはずだった飛行機がどうなったか、セナは何も知らない様子だ。
「生きてる。飛行機に乗ってない。それだけでいいからメールで一斉送信しろ。」
キョトンとした表情の様子のセナは、それでも携帯電話を取り出した。

「あ、お母さん?」と電話に向かって喋るセナを見ながら、ヒル魔は大きく息をついた。
まったく一気にどん底に突き落とされて、また急激に引き上げられた。
ヒル魔はいつのまにかしっかりと握り締めていたアイシールドをダンボールの上にそっと戻した。


「何かすごいことになってたみたいですね。」
あちこちに電話をしていたセナは、ようやく携帯電話を閉じた。
「まったく人騒がせは変わんねぇな」
ヒル魔は呆れたような口調でそう言い、舌打ちをする。
「そうだ。ヒル魔さんはどうし。。。」
どうしてここに。そう言いかけたセナの言葉をヒル魔は遮った。
そのまま叩きつけるようにセナを押し倒すと、覆い被さるように組み敷いた。

「一緒のベットは、久しぶりだな」
ヒル魔は事もなげにそう言うと、セナのシャツのボタンに手をかける。
「ちょっ。。。ヒル魔さん!待って。。。」
ヒル魔の意図を理解したセナが慌てて身を捩り、逃れようとする。
だがヒル魔はやすやすとそれを押さえ込んだ。
「4年も我慢してたんだ。もう待てねぇ。」
ヒル魔は荒々しい動きで、セナの衣服を剥ぎ取っていく。

久々に触れるセナの肌は、吸い付くようにしっとりとヒル魔の手に馴染んだ。
立ち昇る芳しい匂いは、ベットに残されたものよりも甘い。
もう2度と会えないという絶望の後だけに、この上なくヒル魔を煽る。

セナの荒い呼吸、ヒル魔自身の心臓の鼓動。
服のどこかが裂けたようなビリリという音。
ボタンが取れて床に当たるカタンという音。
全てが遠くに聞こえた。

「せめて、シャワーを」
切れ切れに聞こえるセナの懇願さえ、聞き届ける余裕もない。
ヒル魔は飢えた肉食獣のような激しさで、貪るようにセナを抱いた。


「もう一度、俺と付き合わねぇか?」
激しい情事の後、裸のままベットに寝転んでいたヒル魔は隣に横たわるセナに言った。
ぐったりと身体を投げ出しているセナは、じっと目を閉じて動かない。
眠ってしまったのかとセナの顔を覗き込んだヒル魔は、言葉を失った。

窓から差し込む街灯の薄明かりに、セナの瞼が震えているのが浮かび上がった。
つまりセナは起きているのに、眠ったふりをしている。
そしてなかったことにしようとしているのだ。
予定外の再会、情事、もう一度付き合おうというヒル魔の言葉を。

つまりフラれたということか。
ヒル魔は自嘲するようにフン、と鼻を鳴らした。
死んでしまったと思ったセナが生きていた。
だが最後のつもりで差し伸べた手は、届かなかった。

ヒル魔はゆっくりと身体を起こすと、身支度を始めた。
セナにとって、ヒル魔は招かれざる客でしかない。
ならばいつまでもこの場に留まるべきではないだろう。
絶望、歓喜、そして失望を一気に味わった慌しい夜だった。
さっさと終わりにして、今度こそセナを自由にしてやろう。

「アメリカに行っても、頑張れよ」
着替え終わったヒル魔が、目を閉じたままのセナにそう告げた。
セナの答えを待たずに、背を向けてドアを開けて外へ出る。
そしてゆっくりと夜の闇へと消えていった。


部屋を出たヒル魔の足音が遠ざかっていく。
それをぼんやりと聞きながら、セナはゆっくりと目を開けた。

眠ったふりをしたことは、やはりあっさりと看破された。
でもセナの葛藤を、ヒル魔はどこまで見抜いただろう。
もう一度付き合わないかと問われて、どれほど心が乱れたか。
アメリカ行きも何もかも捨てて、その手を取ってしまいたいという誘惑。
アメフトさえ捨ててもいいと思った。

だがそれでは今までと同じだ。
好きということ以外は何も考えず、言われるままに別れと再会を繰り返す。
ただヒル魔の言葉だけに従って、そこにセナの意思はない。
それではもうセナはセナでなく、ただのヒル魔の所有物だ。
その繰り返しがつらいから、セナはヒル魔と違う道を選んだのだ。

もう眠ろう。
明日こそアメリカへ向けて、出発するのだから。
セナは手早く服を身に着けると、再びベットに横になって目を閉じた。
空港までの往復と、先程の激しい情事。身体は疲れている。
さっさと眠ってしまうのが一番だ。

すぐにうとうとと眠りに落ち始めたセナは、他人の気配を感じた。
半分寝ぼけた頭で薄目を開けて確認すると、一気に覚醒する。
覆面のようなものをした人物が、一緒のベットにいるのだ。
そしてセナの上に馬乗りになって、セナの口元にタオルのようなものを押し付けてきた。
その布にはクロロホルムが染み込ませてあるのだが、セナは知る由もない。

ヒル魔が帰ったときに、ドアに鍵をかけていなかった。
セナは遠のく意識の中でそんなことを考えながら、再び眠りの中に落ちていった。

【続く】
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