ヒルセナ5題4

「妖ー兄、まも姉と付き合ってるって」
「うん、そうみたいだね。」
鈴音の言葉に、セナは同意した。

あと1ヶ月ほどで卒業という大学4年生の冬。
セナは大学に近い喫茶店で、鈴音と向かい合っていた。
鈴音は就職が決まっていた。
高校、大学とチアガールを務めてきた鈴音は、衣装などを調達するうちに服飾に興味を持った。
そして念願の女の子に人気の高いブランドのショップの採用が決まったのだった。
対するセナの進路は、卒業と共に渡米してNFL入りを目指すという実に不安定なものだった。

それは決して単なる思い付きではなかった。
いつかは渡米するというつもりで英会話も勉強した。
反対する両親も説得した。
日本のXリーグのチームからもいくつも声がかかり、心は揺れた。
だが少しでも早くNFLでプレーするために、セナは渡米することを決めたのだ。

NFLプレーヤーであるパンサーらとも何度も電話やメールでやりとりをした。
いくつかのチームの入団テストを受けられるようにといろいろ手配をしてくれている。
すでに渡米しているかつてのライバル、筧にも相談した。
筧は大いに賛成してくれて、セナの渡米を心待ちにしてくれている。


「妖ー兄には言ってないの?アメリカへ行くこと」
「うん。でも多分、知ってるんじゃないかな。」
セナの答えと、コーヒーのカップがソーサーに戻されてカチャという音が重なった。
鈴音は探るように、向かいに座るセナを見た。
セナはぼんやりと窓の外に視線を向けている。

セナとヒル魔が別れたという話を、鈴音はセナ本人から聞かされた。
高校最後の半年、ノートルダムへ留学していたセナ。
別れたのは留学の少し前だった。
セナが渡米する前には、もうその事実は知れ渡っていた。
今思えば、この半年は冷却期間としては最適だったのだろう。
2人は傍目には実にあっさりと恋人関係を解消してしまったのだ。

大学在学中、ヒル魔とセナは何回も顔を合わせた。
同じアメフト選手なのだから、自分の試合や観戦のための観客席で会うのは当然だ。
そういう場面で、2人がかつて付き合っていたことを知る者たちは少なからず慌てた。
だが本人たちは冷静だった。
先輩と後輩。かつてのチームメイト。
その枠組みから少しも外れることなく、挨拶し、談笑していた。
そこには何の違和感もなかった。

最近では、セナと鈴音が付き合っていると皆が噂している。
鈴音はいつもセナと共に行動していたから、そう見えてもおかしくはない。
だがそれは事実ではなかった。
鈴音はセナに告白をした。何度も「好き」と想いを伝えた。
だがセナはその都度、申し訳なさそうな声で「ごめん」と断ったのだ。


「セナはどうして妖ー兄と別れたの?」
そう問われたセナは、ゆっくりと視線を窓から鈴音へと移した。
曖昧な笑みを向けるセナに、鈴音は真っ直ぐな視線を向けた。
誤魔化しは許さない。
そんな鈴音の心が伝わったのだろう。
セナは微かに苦笑すると、硬い表情になった。

「足首にくちづけて」
セナがポツリとそう呟いた。
唐突な言葉に、鈴音が「え?」と声を返す。
「その意味を考えたら、わからなくなったんだ」
セナはまるで呪文のように、言葉を続けた。

そしてそれきりまたぼんやりした表情に戻る。
セナの心の奥底に眠るヒル魔への想い。
それはやはり鈴音の踏み込めない場所にあるのだろう。
未だにセナが好きで諦めきれない鈴音にとって、残酷な事実だ。
鈴音はつらい気持ちを持て余しながら、思い出の世界に沈み込んだセナを見ていた。


セナとヒル魔の恋愛。
付き合おうと言い出したのも、別れようと言い出したのもヒル魔だった。
セナはただただヒル魔が好きだった。
いつからと聞かれたら、高校1年の春だと迷わず即答するだろう。
簀巻きにされて、部室に連れ込まれて、銃を突きつけられた。
あの時にもう恋に落ちていたのだと思う。

多分ヒル魔にはバレバレだったと思う。
クリスマスボウルが終わったら。
ヒル魔は幾度となくそう暗示した。
そしてクリスマスボウルを制覇した直後に、2人は結ばれた。

最初は幸せで、幸せ過ぎて、何も見えなかった。
2人の恋愛を知ったとき、親しい者たちは2人が男同士であることを心配した。
でもセナには関係なかった。
性別なんかどうでもいい。ヒル魔だから好きなのだ。

だがそのヒル魔には秘密が多すぎた。
あの黒い手帳を武器に戦うと決めてから、弱みを見せることを許されなかったからだ。
ヒル魔はあの手帳を埋めるためにしていることを一切セナには話さなかった。
そして万が一にもその余波でセナに危害が及ばないようにと、注意を払っていた。
ヒル魔と付き合い始めてから、セナの身にはいろいろな出来事が起きた。

無言電話が続いたことがあった。誰かに尾行されたこともあった。
夜道で待ち伏せされて、車に引きずり込まれそうになったこともあった。
その都度ヒル魔はどこからともなく現れて、セナを助けてくれた。
そういう時、ヒル魔は何も説明してくれなかった。
解決したから、もう何も心配しなくていいのだとだけ言われた。


週末はヒル魔の部屋で身体を重ねる。
ヒル魔はいつも必ずセナの足首にそっとキスを落とした。

最初のうちは誇らしかった。
ヒル魔の夢を叶えて、勝利に導く自分の足が。
この足が絆なのだと思えた。
でもだんだんそれがつらくなった。
好きなのは足なのだ、と宣言されているような気になったからだ。
足がなかったら、そもそもこの関係はなかった。
足がなくなったら、この関係は終わりだ。
いくら身体を重ねても、語られない秘密が多すぎるヒル魔のこの癖はセナを弱気にさせた。

ヒル魔が別れを切り出したのは、ノートルダムへの留学が決まった頃だ。
そのときもヒル魔はセナを組み敷いて、足首にくちづけて。
まるで睦み事を言うように「別れよう」と言った。
ああ、まただ。
聞かされるのは結論だけ。理由はない。
もう疲れてしまった。
足首へのキス、そして結論しか語られない言葉。
セナは何も聞かずに、それを受け入れた。

それから4年間。
セナとヒル魔の繋がりは、もうアメフトだけだった。


「今でも妖ー兄のこと、まだ好き?」
鈴音がまたセナに聞いてくる。
セナはまた曖昧に笑った。

時間はかかるだろうが確実で安全な日本でのプレーを捨てて、渡米する。
そんな道を選ぶのは、ヒル魔と同じ道を避けたからだ。
フィールドで顔を合わせて、ドキドキと心乱れる自分はもう嫌だった。
それくらい意識してしまうほど、まだセナはヒル魔が好きだ。
それを声に出して答える余裕がないほど、ヒル魔を忘れることが出来ていない。

鈴音は諦めたようにため息をついた。
言葉で語られることはなくても、セナの答えは明白だった。
もし否定してくれたら、もう一度告白するつもりだった。
そして受け入れてくれたら、就職を取り消して一緒にアメリカへ行こうとまで思っていた。

鈴音は視線をセナから外して、自分の前に置かれた紅茶のカップに移す。
すっかり冷めてしまった紅茶。
セナの前に置かれているコーヒーも同じだ。
冷めてしまっても飲み干すことが出来ずに、いつまでも見ている。

「元気でね、セナ。アメリカでも頑張って」
「鈴音、気が早いよ。まだ卒業式までに何回も会うだろうし。」
鈴音がやや強引に話を逸らした。
気だるい雰囲気を追い払うように、セナは無理矢理笑った。

【続く】
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