アイシ×おお振り×セカコイ【お題:セフィロト(生命の樹)10題+α】

【ホドの歩み】

「まったく。いい迷惑だ!」
2シーターの車の助手席で、律は盛大に文句を言う。
ハンドルを握る高野は、そんな律の様子を見ながら、盛大にため息をついた。

カフェに謎の男が現れて、日和を襲おうとし、律たちに取り押さえた。
その男の正体は、最近桐嶋と横澤が潜入していた組織の残党だった。
桐嶋たちは警察の依頼でその組織に入り込み、犯罪の証拠を掴んだ。
それを報告し、警察に報告して一件落着。
だがどうにかして逮捕を免れた男は、桐嶋たちを恨んでいた。
そこで報復として、桐嶋の娘の日和を狙ったのだ。

「まぎわらしい!」
律はまた文句を言う。
ここのところ殺気を感じていたので、ついに「敵」が現れたのかと思ったのだ。
まさか全然関係ない逆恨みだったとは。
しかもその関係ない相手に刺されてしまうとは。
まったくカッコ悪いとしかいいようがない。

刺された傷は、命に別状はない。
だが思いのほか深く切れており、出血が多かった。
蛭魔に「救急車を呼ぶか」と問われたが、律は首を振った。
救急車を呼んでしまえば、律は事件の関係者となり、警察に事情を聴かれるだろう。
それだけは絶対にまずい。
そもそも男のくせに女の格好をしているのがバレるだけで、相当ヤバい。

そこでこうして高野の車で、医者に連れて行ってもらうことになった。
金さえ払えば、訳ありの患者でも何も言わずに見てくれる。
律はそんな闇医者を何人か知っている。
今向かっているのも、そんな中の1人だ。

「蛭魔はこの詫びに、半年分の家賃をタダにするってよ。」
「そんなに長いこと、いるつもりないし。」
高野の言葉に、律は素っ気なく応じた。
色々と文句はあるが、見返りなど求めていない。
結局目の前で少女が襲われれば、理屈抜きに助けてしまうのが性分なのだ。

「そこで止めて下さい。あとは歩くから。」
古い雑居ビルが立ち並ぶ一角で、律は高野に声をかけた。
どうやら少し発熱しているようだが、何とか歩けるだろう。
高野が車を止めると、律は怪我など感じさせない足取りで車を降りた。

「送っていただいて、ありがとうございます。」
律は礼の言葉を冷たく告げると、高野が車を発進させるのを待った。
高野は何か言いたそうにしていたが、思い切り拒絶する雰囲気を出してやった。
大したことはなくたって、やっぱり痛い。
だから今は、余計な駆け引きなんかしたくないのだ。

ようやく高野が車を発進させたのを見送ると、律はゆっくりと歩き出した。
肩を押さえた手のひらが血で濡れているが、目的地まではもつはずだ。

*****

「つぅ!」
廉は小さく声を上げて、慌てて指を引っ込めた。
指先に微かに血が滲んでいるのを見て、顔をしかめた。

高野と律が医者に向かった後、廉と瀬那はカフェで掃除に追われていた。
瀬那が濡れた雑巾で、床を拭いている。
それは刺された律の血の跡だった。
瀬那はまるで自分が怪我をしたように、痛みをこらえるような表情だ。
廉も血の跡を見ているだけで、肩が痛いような気がする。

倒れたテーブルと椅子は、幸いなことに壊れていない。
割れてしまった皿とグラスを片づければ、何とかなりそうだ。
廉は箒を使って、割れた破片をかき集め始めた。

犯人の男は、警察に連れて行かれた。
隠しようもなかったのだ。
蛭魔たちを密告したことで、この店は警察に見張られていた。
これだけの乱闘があれば、誤魔化せない。

「ちょっと、行ってくるわ。」
警察には、蛭魔が出頭することになった。
3人で男を取り押さえたことは、隠しておいてくれるらしい。
元々あの男との因縁は警察からの依頼が原因だし、うまく誤魔化せるのだという。
借りを作ったようでいい気分ではないが、異存はなかった。

「つぅ!」
箒で取り切れない小さな破片を拾おうとした廉は小さく声を上げて、慌てて指を引っ込めた。
指先に微かに血が滲んでいるのを見て、顔をしかめる。
破片で指先を切ったのだ。

「馬鹿!さっさと消毒しろ!」
不意に背後から声がして、廉は乱暴に腕を引かれた。
阿部がなぜか怒りの表情で、廉を睨みつけている。
誰も見てないと思ったのに、しっかり見られていたらしい。
阿部は「ほら、来い!」と廉をソファに座らせると、救急箱を持って来た。

「大事な右手だろ!」
「別に、もう。それに、大した、怪我、じゃ。。。」
「いいから!」
阿部はスプレータイプの消毒液を、廉の指先に吹き付けた。
何でこんなに怒られるんだと、律は阿部を睨んだ。
だが阿部の真剣な表情にたじろぎ、思わず視線を逸らしてしまう。
すると隅のソファにもたれかかって眠る日和が目に入り、思わず微笑した。

「日和ちゃん、眠ったのか。疲れたのかな。」
廉の視線を追った阿部も、思わず頬を緩ませている。
日和はつい先程までは、軽い興奮状態にあったのだ。
目の前での乱闘と流血は、少なからずショックだったのだろう。

「ジュース、に、少しだけ。ブランデー。」
廉は悪戯っぽく笑った。
余りにも日和が落ち着かない様子だったから、冷たいオレンジジュースを出してやった。
その中にスプーン1杯だけ、ブランデーを垂らしたのだ。
効果はてきめんで、日和はすやすやと寝入っている。
とにかく一度眠って、怖い出来事が少しでも和らげはいいと思う。

「お前、いいヤツだな。」
不意に阿部は手を伸ばすと、グリグリと廉の頭を撫でた。
さっきまで怒っていたのに、急に楽しそうな表情なのがよくわからない。
だけど頭を撫でる手が妙に心地いいのが、不思議だった。

*****

「帰っていいって言ったのに。」
律は相変わらず素っ気なく、不機嫌に眉を寄せている。
だが高野はお構いなしに「送るから」と言った。

雑居ビルが立ち並ぶ路地で律を下ろした後、一度は立ち去った高野はすぐにUターンした。
いくら大したことはないと言われても、刃物で刺されたのだ。
やはり痛いし、立って歩くのもつらいはずだ。
高野はそのまま適当な空きスペースに車を置いて、律を捜した。
駐車禁止の場所だったが、そんなことは気にならなかった。

「そんなに長いこと、いるつもりないし。」
先程律に、怪我をさせた代わりに半年分の家賃を棒引きすると言った時の答えだ。
つまり半年後には、律はもう高野たちの前から消えるつもりということだ。
高野はそのことにショックを受け、ショックを受けた自分に驚いた。
つまり高野は律を気に入っていて、このまま別れたくないと思っているのだ。

それを自覚した瞬間、律のことが気になって、我慢できなくなったのだ。
本名で学校に通うことも、写真を残すことも許されなかった。
そして今も、大きな怪我をしても、救急車を呼ぶこともできない。
そんな身の上なのに、律は一生懸命突っ張って生きている。
そう思うと、何だかひどく焦れたような落ち着かない気分になるのだ。

律に追いついた高野は、そのまま少し距離を置きながら後をつけた。
肩を手で押さえながら、ゆっくりと歩いていく。
勘のいい律が高野の尾行に気付かないのは、やはり怪我のせいだろう。
そしてある古いビルの中に消えた律を、高野はじっと待っていた。

「帰っていいって言ったのに。」
「送るから。意地を張らずに来い。」
ビルから出て来た律は、高野の姿を見て驚いたようだ。
だがすぐにいつもの素っ気ない態度で、突き放す。
高野は動じることなく、律を車へと誘った。
逆らえば力づくでも車に乗せるつもりだったが、律は素直について来た。

「じゃあカフェまで送ってください。」
「家までだ。お前、熱出てるだろ。帰って寝ろ。」
高野はエンジンをかけると、静かに車を発進させた。
律は車が走り出すや否や、すぐに眠ってしまった。
顔はいつもより紅潮しており、怪我のせいで発熱しているのは明らかだ。

この気持ちが何だが高野にはよくわかっている。
だけど認めてしまえば、ますます事態はややこしくなる。
今は敵とも味方ともわからない状態で、警戒している関係なのだ。

「それでも気になるんだよな。」
高野はハンドルを切りながら、ポツリと呟いた。
目を閉じて寝息を立てている律には、その言葉は届かなかった。

*****

完全にやられた。
瀬那は悔しさに表情を歪ませながら、唇を噛んだ。
どうやら事態は絶望的な状況のようだ。

瀬那と廉は都内某所にあるホールにいた。
ここはいわゆるレンタルスペースだ。
会議や講演、小さなライブなどのために時間単位で場所を貸してくれる。
そのホールのロビーに飾られた「ホドの歩み」という作品が、今回のターゲットだ。

今回の盗みは律なしで決行することにした。
律に相談すれば、絶対に反対しただろう。
だけど今日はチャンスなのだ。
昼間、カフェに暴漢が押し入ったことで、どこか落ち着かない雰囲気になっている。
それに警察も蛭魔たちからマークを外しているのだ。
疑いを解いたのか、こんな日に盗みはしないと判断したのか。
とにかく事態が大きく動いた今、やるしかないと思った。

それに律のこともあった。
この頃何だか疲れているのもわかっている。
休んでいる間に1つ盗んでしまえば、負担も減らせるだろう。
かくして瀬那と廉は、今回の犯行に踏み切ったのだ。

例によって瀬那がホールに侵入し、廉は見張りだ。
瀬那は絵を外すと、フレームを外し始めた。
最初は手間取ってしまったが、手際は良くなったと思う。
今ではかなり短い時間で、フレームの付け替えができる。

作業を終えて、ホールを出た時、異変に気付いた。
入口はすでに大勢の人間に取り囲まれている。
その中の何人かには、見覚えがあった。
確かカフェの前で張り込んでいた刑事たちだ。
つまり取り囲んでいるのは警察ということになる。

『瀬那、ボール、投げるから!』
耳にはめている無線のイヤホンから、廉の声が聞こえる。
だが瀬那は慌てて「投げないで」と答えた。
この人数では無理だ。
逆に廉の位置がわかってしまい、2人とも捕まってしまう。

とにかく廉だけでも逃がしたい。
それに逮捕されるのは仕方ないが、今外してきたフレームだけは何とか廉に渡したい。
これが警察に見つかれば、怪盗アイシールドの目的がバレてしまう。

ジリジリと警官たちが瀬那との距離を詰めてきた。
なすすべもないまま、瀬那は懸命に考えを巡らせる。
その思考を破るように、辺りに爆音が響いた。

*****

「よし続けて、撃ちまくれ!」
蛭魔は号令をかけると、横澤と桐嶋が続けて連射する。
もちろん実弾ではない。
エアガンを改造したもので、発射されるのは煙幕だ。

蛭魔が今回、この場に居合わせることができたのは警察の動きを見たからだ。
彼らは襲撃事件の直後に、監視を止めた。
襲撃事件があったから、今日はもう何もしないと警察が判断した。
そう思わせるためのフェイクだ。
もしも蛭魔たちが犯人なら、ここで動く。
あの武蔵刑事なら、それくらいのことは考えるだろう。

しかも今、怪盗アイシールドの司令塔である律は怪我で不在だ。
胸騒ぎを感じた蛭魔は、デビルバッツを率いて出動した。
夜、ひっそりとアパートを出た瀬那と廉を尾行し、このホールまでやって来たのだ。
そして駐車したバンの中から、事態をじっと見守る。
不安は的中し、瀬那は窮地に陥っていた。

桐嶋の娘のことで、3人には借りがある。
それが今回、蛭魔が行動を起こしたきっかけだ。
だけど本当は違う。
3人を、瀬那を、警察の手になど渡したくないと思ったのだ。

「こっちだ!」
蛭魔はすっかり煙に包まれてしまったホールの入口に向かって叫んだ。
もちろんボイスチェンジャーを使って、声色は変えている。
すぐに白い煙の中から、人影が飛び出してきた。
まるでアスリートのような、惚れ惚れするような俊足だ。

「乗れ!廉は阿部と羽鳥が回収する。」
蛭魔が声をかけると、瀬那は迷わずにバンに飛び込んできた。
ドアが閉まらないうちに、蛭魔はエンジンをかけるとアクセルを踏み込んだ。

【続く】
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