アイシ×おお振り×セカコイ【お題:セフィロト(生命の樹)10題+α】

【ケセドの手のひら】

これでは絵が可哀想だ。
瀬那は壁に掛けられた絵を見ながら、小さくため息をついた。

深夜、瀬那はとある避暑地の別荘にいた。
ある資産家の別荘に、蛭魔幽也の絵があるのだ。
まったくもったいない話だと思う。
その資産家一家は夏のわずかな期間にしか、この別荘を使わないのだという。
それだけでも金の無駄に思える。
その上、この別荘の中の調度品は一見してどれも高級品だ。
そしてこうして絵まで飾っている。

「ケセドの手のひら。。。だっけ?」
瀬那が呟いた絵の名前が、誰もいない別荘に響く。
何が描いてあって、どういう意味なのか、瀬那には見当もつかない。
だが絵をよくよく見てみると、所有している資産家もまた絵に愛着を持っていないことがわかる。
絵の正面には窓があり、陽の光にさらされているのだ。
これでは絵が傷むだろう。可哀想だ。
瀬那は壁に掛けられた絵を見ながら、小さくため息をついた。

瀬那は慌てて首を振った。
ぼんやりしている時間などない。
電線からこの別荘へ電気を引き込むユニットは破壊したし、電話線も切った。
つまり警備会社のセキュリティシステムは停止している状態だ。
だが長居は無用、さっさと退散するべきだろう。

瀬那は絵を壁から下ろすと、すばやく作業に取り掛かる。
今回は東京から離れた避暑地なので、また絵を返しにくるのが難しい。
だからいつもは絵を持ち帰ってからすることを、この場でやる。
そして絵とメッセージカードを残して帰るのだ。

時間勝負だ。
瀬那は背負っているデイバックを下ろすと、中から必要なものを取り出した。
今身にまとっているのは、黒いジャージの上下とスニーカー、手袋、そして黒い目出し帽。
このデイバックも黒で、まさに全身黒ずくめだ。

正直言って、目出し帽は鬱陶しいし、何より手袋が邪魔だ。
だが瀬那はそれらを外さずに作業を始めた。
万が一にも誰かに見られないとも限らないし、帽子を取れば髪が落ちるかもしれない。
手袋はもちろん指紋を残さないためだ。

集中、集中!
瀬那は自分にそう言い聞かせながら、黙々と手を動かしていた。

*****

「出て来ねーな。」
草むらに潜んだ高野が、そっと呟く。
阿部が目の前の別荘から目を離さないまま、小さく頷いた。

怪盗アイシールドの犯行現場に先回りする。
それが蛭魔の立てた作戦だった。
蛭魔幽也の絵の数は、それほど多いわけではない。
しかも今どこにあるのか、すべて所在はわかっている。
それならばそこに張り込めば、あの三姉妹が現れるはずだ。

さすがにすべての場所に張り込むのは難しい。
蛭魔は3つの場所を候補として絞り出し、人数を分けて見張ることになった。
そのうちの1つがこの避暑地の別荘だ。
理由はそろそろ目先を変えて、東京ではなく遠い場所を狙うかもしれないから。
担当の高野と阿部は、蛭魔の読みの鋭さに改めて感心した。

現れたのは、全身黒ずくめの小柄な2人だった。
誰だかはわからないが、一目見て怪しい。
2人は別荘の外の配電盤を壊して、1人が中に侵入する。
もう1人は別荘の外に残り、見張りをするようだ。

「出てくるのを待とう。」
高野は声を潜めて、そう言った。
まだ事を起こす前なら、とぼけられてしまうかもしれない。
別荘の中まで追えば、こっちだって不法侵入だ。
ならば絵を持って出てきたところを押さえるのが、一番いい。
さすがに言い訳もできないはずだ。

だが別荘に侵入した1人はなかなか出て来ない。
ようやく姿を現したときには、何と30分近く経過していた。
しかも絵を持っていない。

「とりあえず、追うか」
阿部の言葉に高野が頷き、走り出そうとした瞬間。
高野がいきなり「痛ってぇ!」と叫び、その場に倒れた。
どうやら足に何かのダメージを受けたらしく、座り込んで右足を押さえている。
その原因がよくわからないうちに、阿部は左の腿に衝撃を感じて、その場に蹲った。
そして目の前には何か拳ほどの大きさの白い球体が2つ、落ちていた。

阿部と高野はそれが飛んできたと思しき方角を見て、唖然とした。
別荘に入らずに見張りをしていた人物が、まるで野球の投球のようなポーズを取っていたのだ。
つまり見張り役が高野と阿部に、これを投げてきたのだろう。

そして2人は顔を見合わせると、高野と阿部に背を向けて走り出した。
アスリートのような見事な脚力に、再び唖然とするしかなかった。

*****

「ごめん、ね!」
廉は思い切り振りかぶると、思い切りボールを投げ込んだ。
できれば深刻な怪我をさせないように、一応足を狙う。
だけど百発百中というわけではない。

今回の目的の絵は、避暑地の別荘にある。
別荘に侵入するのは瀬那、見張るのが廉。
そして少し離れた場所で、律が車で待機している。

すべては適材適所だ。
一番身が軽くて俊足の瀬那が、実際の盗みを行う。
頭の回転が速い律は作戦の立案、そして今回は運転手。
そして見張り役の律の武器は、この投球だ。
最近は投球練習をしていないから、制球力は少し落ちている気もする。
だけど人間くらい大きい的なら、まず外さない自信はある。

廉が高野と阿部に気が付いたのは、瀬那が仕事を終えて別荘から出てくる直前だった。
彼らは見事に気配を消して、隠れていたのだ。
こんな隠れ方をするのは、警察や警備会社ではないだろう。
多分あの裏組織「デビルバッツ」のメンバーだ。

瀬那も廉も脚力には自信があるから、追いかけっこでも捕まらない自信はある。
だがやはり万全を期しておくべきだろう。
瀬那が別荘を出て、彼らが身を乗り出した瞬間、廉はボールを投げ込んだ。
どうやら1発目は、見事に1人の足に命中してくれた。

「もう、いっちょ!」
廉はすかさずもう1球を、残る1人の足めがけて投げ込んだ。
それもうまく命中したようで、2人の男はその場に座り込んでいる。
これでも一応硬球だから、それなりに痛いだろう。
この場の足止めには、充分役に立つはずだ。

瀬那の目出し帽から覗く目が笑っている。
どうやら瀬那の作業は上手くいったようだ。
廉も久しぶりの投球に、テンションがかなり上がっていた。
大声で笑い出しそうになるのをこらえながら、律が待つ車へと走っていた。

*****

「結局またやられたわけか。」
蛭魔は苦笑しながら、白い2つの球体を手の中で転がしていた。
高野と阿部が持ち帰った犯人の「遺留品」だ。

バー「デビルバッツ」のドアには「本日貸切」の札がかかっている。
とはいえ、店にいるのは従業員ばかりだ。
カウンター席に座るのは、蛭魔と桐嶋と横澤。
テーブル席では阿部と高野がズボンの裾をまくり、怪我をした足を冷やしている。
カウンターの中では羽鳥が全員分の飲み物を用意していた。

その夜の彼らのミッションは失敗だった。
怪盗アイシールドが出没する場所に見当をつけて張り込んでいたものの、まんまと逃げられたのだ。
まさか野球のボールなどという飛び道具を使ってくるとは思わなかった。

怪盗アイシールドが逃げた後、阿部と高野は足を引きずりながら、別荘に侵入した。
するとそこには例によって、カードが残されていた。
そして署名と共に「絵は堪能させていただきました」とメッセージがついていたのだ。

「黒ずくめで目出し帽、顔も特定できず、か。」
蛭魔は羽鳥の用意した酒を、一気に飲み干した。
客には出さないお気に入りのウィスキーのオンザロックだ。
他の面々もそれぞれ好みの酒を飲んでいる。

「ああ。体型はしっかりあの三姉妹なんだがな。」
高野が痣になった足を睨みながら、悔しそうに吐き捨てた。
いくら体型が似ていたって、仕方がない。
この状況では問い詰めたって、とぼけられるだけだ。

「結局連中は、絵をどうしたいんだ?」
首を傾げたのは桐嶋だった。
絵を盗み、百歩譲って返却するのはまだわかる。
持ち去りもせず、メッセージだけ残すというのは不可解以外の何物でもない。

「だけど収穫はあったぜ。」
阿部が意味ありげに、カラカラとグラスを揺らした。
全員が驚きの表情で、そちらを見る。
だが阿部は不敵な笑みで、一同を見回し、頷いた。

*****

「おはようございまーす♪」
翌朝、出勤してきた三姉妹は「あれ?」と声を上げる。
いつもは誰もいない店内に、人がいたからだ。

「阿部さん、おはようございます。」
如才なく挨拶するのは、長女の律だ。
「昨日は徹夜仕事ですかぁ?」
次女の瀬那も明るく声をかけてくる。
だが未だに足に痛みが残る阿部には、そのわざとらしさが忌々しい。

「いや、今日は早朝出勤。廉ちゃんに話があって。」
「廉に?」
律と瀬那が顔を見合わせた後、後ろに隠れるようにしていた廉を振り返る。
廉は思わぬ指名に、キョドキョドと視線を泳がせている。
吃音気味の三女は、いつもカウンターの奥にいて、ほとんど前に出てこない。
今だって2人の姉の前に、隠れるようにひっそりと立っている。

「夕べはどうも。俺も高野も痣になってるよ。」
「あ、え?」
「まったく見事なコントロールだったよ。廉ちゃん。」
「な、なに、を」
「いや、三橋廉君って言うべきかな。」

阿部の言葉に三姉妹から人懐っこい笑顔が消えた。
3人とも男でも女でも通用する名前だから、下の名前は本名を使っている。
だが名字は「小早川」としか名乗っていないのだ。

「あんな見事なピッチングされたら、野球経験者ってわかるからね。」
阿部は苦笑しながら、種を明かす。
かくいう阿部も学生時代に野球をしていたのだ。
廉の年齢を推測して、その頃の高校野球の情報をネットで拾ったところ、よく似た顔の投手がいた。
その名前が廉だと知れば、もはや疑う余地はない。

だが当の廉はかすかに唇を歪めて、笑っていた。
カフェ用の明るい表情ではなく、開き直ったふてぶてしい笑みだ。
だがその方がずっとかわいいじゃないか。
一瞬そんなことを考えた阿部は、男相手に胸が高鳴る自分に困惑していた。

【続く】
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