アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】
【アジサイ】
「おなか、すいた」
律はポツリとそう呟いた。
1人暮らしのマンションの部屋はシンとしていて、わずかな独り言も妙に響く。
部屋に買い置いていた食料は、底をついた。
だけど律は外に出ることができないでいた。
律はもう数日、自分の部屋に引きこもっている。
会社にはもう行くつもりはない。
すでに辞表を出していたが、すぐに辞めさせてくれと直訴した。
同僚、特にタレントに迷惑をかける事態は避けたかった。
会社は律を引き止めたが、ストーカーに狙われていると打ち明けたら、あっさり受け入れられた。
律を利用しようという気はあっても、守ろうという気はないらしい。
警察や弁護士などに問い合わせて、犯人の近況は聞いている。
かつて律を誘拐した男は、刑期を終えて出所し、実家に身を寄せていた。
だがたまたま例のネイルサロンの騒動で、チラリとカメラに映ってしまった律を見た。
男は律を見つけると「また捕まえる」と喚き散らして、暴れたそうだ。
そして入院という名目で、精神科の病院に隔離された。
現在の男の消息はわからない。
とりあえず病院で治療をし、興奮状態は治まったので、退院した。
だがその後は実家を飛び出して、帰っていないのだという。
律としては気が気ではなかった。
現在の律の住まいや仕事先などを、男はどこまで掴んでいるのだろう。
会社を辞めて、部屋に逃げ帰った律は、恐怖で部屋から出られなくなった。
男に誘拐されて、監禁されたあの日々は地獄だった。
何年経ってもあのときの恐怖は、心の奥底に燻っていて消えることがない。
もう1度あんな目に合わされたら、2度とまともに生きられないような気がする。
仕事もせずにずっと家にいると、時間の感覚がなくなる。
何をする気も起きずに、ベットでゴロゴロと過ごしているからなおさらだ。
空腹になると、買い置きのインスタントラーメンなどを作って食べる。
だがそれらの食料がなくなっても、外に出る気がしなかった。
宅配の食事を注文するのも怖い。
知らない人間が部屋に来ると想像するだけで、身体が震えるのだ。
このままいつまでも外界と途絶された部屋にいられないことはわかっている。
食べるものもないし、なにより仕事をしなければ金もなくなる。
「高野さん」
律はポツリと頭に浮かんだ男の名を呼んだ。
身体の関係もあるし、律に何度も好きだとアプローチする物好きな男。
だけどやはり高野の恋人になるかと問われれば、素直に首を縦には振れない。
過去に自分が巻き込まれた事件を思い出すと、誰かに自分を預けるということが怖くなる。
何よりも今高野を受け入れれば、高野にも危険が及ぶかもしれない。
それだけは避けなければいけないと思った。
「まだお米、あったよな」
律はまたポツリと呟きながら、米の残量を確認した。
おかずになるものはないが、調味料はあるから食べられないことはない。
これでしばらくはまだ凌げるだろう。
「1人でいると、独り言が増えるんだな」
まだ現実と向かい合う気になれない律は、怖さと後ろめたさに目を背けるようにまた呟いた。
*****
「今回はアジサイです。」
セナはデザイン画を見ながら、苦笑する。
さすがに今回のチョイスは、ちょっと皮肉が強すぎる気がしたのだ。
だが蛭魔は「今回も綺麗だな」といつもと同じリアクションだ。
気付かない振りをしているのか。
いや花などにまるで関心がない蛭魔には、その意味がわからないのかもしれない。
ネイルサロン「デビルバッツ」は、もう営業していない。
元々近々移転する予定だったが、この近所にいい物件が見つかったのだ。
その上、このビルの前で通り魔事件があったこともあって、移転時期を早めた。
事件現場として、このビルの周辺がテレビのニュース映像にのってしまったのだ。
客が見れば、すぐにわかってしまうだろう。
ネイルサロンの客は若い女性が多いし、治安が悪い場所というイメージは客足に影響する。
誰もいなくなったこのフロアをセナは独占していた。
ネイルサロン「デビルバッツ」ではなく、セナにネイルを頼みたい客のためだ。
蛭魔や三橋を初めとした数人の客は、相変わらずここに通っている。
仕方がないことだが、やはり寂しい。
セナはそんな思いを込めて、時期はずれのアジサイを選んだ。
花言葉は「移り気」とか「無情」などと、相手の心変わりを責める言葉が多い。
セナを置いて、去ってしまったかつての仲間たちへの抗議を込めて、アジサイの花を描く。
今日はいつもの個室ではなく、オープンスペースだ。
他の客も従業員もいないから、個室にこもる必要がないのだ。
誰もいないという点では個室と変わらないが、広い分開放的な気分になる。
売れっ子だったセナは、一転してずっと1人でのんびりとした時間を過ごしている。
セナの時間が増えたことで、蛭魔ももう髪と爪を同時作業で進めることはなくなった。
髪は相変わらずヘアサロン「らーぜ」に予約を取って、個室で阿部にやってもらう。
だがそれ以外の時は、もう予約なしだ。
時間が空けばフラリとやってきてセナに爪を頼むし、ただ話だけして帰ることも多い。
「1人でここを管理するのは、大変だろ?」
「そうでもないですよ」
蛭魔はふと思いついたようにそう聞いたが、セナは首を振った。
確かに今までサロンのメンバーで交代でしていた雑用は1人でしなければならない。
だがビル全体で管理や清掃業者が入っているので、大したことはない。
「家賃なしで置いていただいてるんだから、贅沢は言えませんよ。」
セナは蛭魔の爪に目を落としたまま、苦笑した。
このビルの賃料は、当然毎月オーナーである高野に払わなくてはいけない。
だが高野は賃料は取らないかわりに、空いた部屋を管理して欲しいとセナに言ったのだ。
次の入居者が決まるまでの間、綺麗にしておいてくれれば、どう使おうとかまわないと言う。
「高野さんっていい人ですよね。当面は家賃なしでいいなんて」
「何言ってんだ。下心が見え見えだろ。」
高野はネイルサロン「デビルバッツ」の後、阿部たちが立ち上げる会社を入れるつもりなのだ。
それは新会社に律が関わっているからに他ならない。
律がこのビルで働くようになれば、今よりも会える回数は格段に増える。
「そう言えば律君、最近見ませんね」
「今の仕事を辞めるんだし、忙しいんじゃねーのか?」
「そうかぁ。そうですよね。」
セナも蛭魔も世間話のように、律のことを口にする。
この時、律の身に起こっていることなど、知る由もなかったからだ。
*****
「三橋さんは、阿部のことをどう思ってるんですか?」
それはあまりにも不躾で、唐突な質問だった。
三橋は、思わず口に含んでいたコーヒーを吐き出しそうになった。
三橋はカフェ「エメラルド」で阿部を待っていた。
今日は阿部は休日で、三橋は初めて阿部の家に遊びに行くことになっていた。
阿部は職場から徒歩で20分程の場所に、部屋を借りて1人暮らしをしている。
当初は住所を聞いて、直接阿部の部屋に行くつもりだった。
だが三橋は東京の道には不案内であることと、阿部の部屋は細い入り組んだ路地の中にある。
だからカフェ「エメラルド」で待ち合わせすることになったのだ。
少し早めについた三橋は、コーヒーを頼んだ。
阿部の部屋はどんな感じなのかと想像するだけで、顔がニヤけてしまう。
ウェイターの千秋が「どうしたんです?」と聞いてきたほどだ。
三橋が「阿部さん、と、待ち合わせ、で」と答えると、千秋は「ヒュ~ヒュ~!」と冷やかす。
頬が熱で熱くなってくるのが恥ずかしくて、三橋は下を向いて俯いた。
きっと顔はかなり赤くなっているに違いない。
「あれ?」
向かいの席の椅子が引かれた気配に顔を上げると、見知った人物が腰を下ろしていた。
だが残念ながら三橋の待ち人ではない。
「水谷、さん」
三橋は恐る恐る声をかけた。
ヘアサロン「らーぜ」で働く阿部の同僚、水谷だ。
かつて彼に「阿部は女性スタッフと付き合っている」というデマを聞かされた。
理由はわからないが、彼は三橋にあまりいい感情を持っていないような気がする。
「チキンランチプレートとコーヒー」
水谷は千秋にそうオーダーした。
千秋は「かしこまりました」と答えながら、三橋に目だけで「いいのか?」と聞いてくる。
阿部との待ち合わせを知っているので、水谷が同席してていいのかと心配してくれているのだ。
三橋は目だけで頷くと、大丈夫であることを伝えた。
水谷は何か三橋に用があるようで、それは阿部と関係がある話に違いない。
それならきちんと聞くべきだし、逃げるような真似はしたくない。
「阿部は今日は休みですよ」
「知って、ます。水谷、さんは、仕事、ですか?」
「ええ。今は昼休憩です。」
ヘアサロン「らーぜ」は年中無休であり、スタッフは交代で休みを取るのだ。
水谷さん、ここのランチ、食べるのか。
三橋はふとこの店のメニューを思い出して、首を傾げた。
カフェ「エメラルド」のランチメニューは値段が高い割りには、あまり美味しくないのだ。
だから三橋は、昼の時間帯には絶対にコーヒーしか飲まない。
だがそんなことは口には出せない。
微妙な沈黙を破るように、先に口を開いたのは水谷だった。
「三橋さんは、阿部のことをどう思ってるんですか?」
それはあまりにも不躾で、唐突な質問だった。
三橋は、思わず口に含んでいたコーヒーを吐き出しそうになった。
だが水谷は真剣な表情で、三橋の答えを待っている。
「うちのスタッフに阿部のことを好きなコがいます。俺はそのコを応援したいんです。」
「それって、この前の?」
三橋はいつかサロンの部屋でコーヒーを出してくれた女性スタッフを思い出す。
水谷は黙って頷いた。
「だけど阿部は三橋さんに恋してるのを隠そうともしない。」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出た。
三橋も今でははっきりと、阿部のことが好きだとは自覚している。
だが阿部も自分に恋をしてくれているなんて、考えたこともなかった。
「三橋さんは有名人でしょ?男との恋愛なんてバレたらまずいですよね?」
水谷はすがるような表情で、三橋を見ている。
きっと阿部を好きだというあの女性を、この人はすごく好きなのだろう。
恋愛沙汰に疎い三橋にもはっきりわかるほど、水谷は真剣な表情だった。
「俺は」
三橋は懸命に考えを巡らせながら、口を開いた。
水谷は自分の想いが成就しないのを覚悟で、真っ直ぐに彼女の幸せを祈っている。
それならば三橋も、きちんと答えなくてはいけないだろう。
*****
「俺は、阿部さんが、好きです。」
三橋が凛とした声で、はっきりとそう告げた。
阿部は一瞬驚き、次の瞬間には怒りに震えていた。
朝から、いや正確には数日前から阿部は浮かれていた。
何せ今日は三橋が初めて自分の部屋に来ることになっているからだ。
部屋は念入りに掃除したし、食事は羽鳥から簡単で見栄えのいい料理を習った。
今夜阿部は三橋に告白をして、あわよくば一緒に夜を過ごそうと思っていた。
待ち合わせ場所のカフェ「エメラルド」につくと、千秋が心配そうな表情をしていた。
その視線の先では、三橋と水谷が向かい合っている。
阿部は不吉な予感がした。
水谷は以前、三橋に「阿部と篠岡が付き合っている」と嘘をついたのだ。
三橋はそれを本気にして、一時期阿部と距離を取ろうとしていた。
「またアイツは!」
阿部は小さく悪態をつくと、三橋たちのテーブルに近づいた。
2人は真剣に話し込んでいるようで、阿部に気付かない。
だが阿部が三橋に声をかける前に、三橋が水谷に話している声が聞こえていた。
「俺は、阿部さんが、好きです。」
三橋が凛とした声で、はっきりとそう告げた。
阿部は一瞬驚き、次の瞬間には怒りに震えていた。
今夜阿部から告白して、三橋の答えを聞くつもりだったのだ。
こんな場所で、しかも自分ではなくて水谷に言うなんて、ひどすぎる。
「俺は、誰に知られても、かまわない、です。でも、阿部さん、が迷惑、なら」
「阿部も迷惑じゃないと思うよ」
いち早く阿部が近づいてきたことに気付いた水谷が、苦笑まじりにそう言った。
水谷の視線に気付いた三橋が、阿部を見つけて「えええ!?」と声を上げる。
「この人のコーヒー代、水谷につけて」
阿部は自分でも信じられないほど不機嫌な声が出していた。
ちょうど水谷の分のチキンランチプレートを持ってきた千秋が「へ!?」と驚く。
だが知ったことではない。
阿部は三橋の方に向き直ると「さっさと行きましょう」と声をかけた。
三橋は阿部の剣幕に驚きながら「はい!」と立ち上がっていた。
その後、阿部は自分の部屋に「お持ち帰り」した三橋と楽しい時間を過ごした。
三橋は阿部が用意した食事を「美味しい」を連発して、綺麗に食べてくれた。
そして阿部は三橋を美味しく味わったりもした。
心も身体も結ばれた記念すべき日だった。
だけど後々三橋との馴れ初めを思い出すとき、どうしても水谷のことを思い出してしまう。
三橋が阿部を好きだと言ったとき、三橋は水谷を見ており、阿部には背を向けていた。
それだけが阿部の唯一の心残りであり、最大の不満だった。
*****
「律と連絡が取れないって?」
蛭魔はカウンターで酒をあおっている高野の隣に座った。
高野は不機嫌そうにチラリと蛭魔を見たが、すぐにプイッと目をそらしてしまった。
「いい男が台無しだぞ」
蛭魔はなおもからかうように声をかける。
だが高野は「うるせぇ」と呻いた。
まったくオーナーがこんな商売っ気のない店も珍しい。
カフェ「エメラルド」の人気は、高野によるところも大きい。
そもそもランチタイムはともかく、夜のバータイムの客は高野が認めた会員ばかりなのだ。
その中でもさらに常連になる客は、単に美味い酒と料理を味わいにくるだけではない。
高野や羽鳥、千秋との会話を楽しむのも、この店の醍醐味なのだ。
「で、律はどうしたんだ?」
「わかんねーよ。電話もメールも応答なしだ。」
「仕事が忙しいんじゃねーの?」
「会社に電話したら、もう10日も前に辞めてるんだとさ。」
高野はそう吐き捨てると、グラスの中の琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
まったくヤケになっているとしか思えない飲み方だ。
蛭魔は「酒に強いってのも困ったもんだな」と苦笑した。
高野としては一応ヤケ酒なのだろうが、酒に強い体質のせいでなかなか酔わないのだ。
自分の店だから気にする必要はないとは思うが、何とも不経済な飲み方だ。
「もしかして具合が悪くて寝てるってオチはねーか?アイツ1人暮らしだろ?」
「そりゃ考えないでもないが」
「自宅に行ってみたらどうだ?」
「場所、知らねーんだよ。一応アイツの元の会社に聞いたけど、教えてくれなかった。」
蛭魔は羽鳥に「ミネラルウォーターくれよ。グラスはいらねぇ」と頼んだ。
もちろん自分ではなく、高野の分だ。
羽鳥が目礼だけで、蛭魔に感謝の意を伝えてきた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを持ってきた千秋もホッとした顔だ。
羽鳥も千秋も、高野のことを心配しているのだろう。
いくら酒に強くても、こういう飲み方が身体によくないのは間違いない。
「そういうこともあろうかと。高野。これ。」
蛭魔は勿体つけた動作で、1枚の紙切れをすべらせた。
少し右上がりのクセのある文字で書かれているのは、とある住所だ。
最後に1202号とあるのは、どうやらマンションの1室のようだ。
「律の住所だとさ。ヤツら会社作るって言ってたろ?その登記書類からセナが書き写した。」
「蛭魔」
「ネイルサロンが移転しても、セナを居させてくれてる礼だ。」
蛭魔は千秋からミネラルウォーターのボトルを受け取ると、そのまま高野に差し出した。
高野は「悪い」と言いながらボトルを受け取ると、一気にミネラルウォーターを飲み干す。
そして羽鳥と千秋に「後を頼む」と言い残して、スタッフルームに飛び込んだ。
身支度をして、律の部屋へ直行するつもりのようだ。
「蛭魔さんはそういうキャラじゃないと思った。」
千秋が蛭魔を見ながら、ニヤニヤと笑う。
実は蛭魔本人もそう思っている。
自分がこんなドラマに出てくるおせっかい焼きみたいな真似をするなど予想外だ。
しかもこんなに照れくさいというか、バツが悪いものだとは思わなかった。
「羽鳥と千秋も、阿部と三橋もラブラブなんだ。そろそろ高野たちの番が来てもいいだろ?」
「蛭魔さんとセナさんのラブラブッぷりにはかないませんよ。」
今度はカウンターの中の羽鳥がからかうように笑う。
蛭魔は苦笑しながら「高野のおごりでアレくれ」とカウンターの中の棚を指差した。
シングルモルトの年代物、この店の中で一番高価なウィスキーだ。
*****
「はぁっ、はぁ。。。」
律は自分の部屋に飛び込むと、バタンとドアを閉めた。
震える手で施錠をして、チェーンもかける。
そしてハァハァと肩で荒い呼吸をしながら、ドアにもたれかかっていた。
ついに食料もなくなり、食料を買いに出ようとした。
場所は自分の部屋の窓からも見えるコンビニだ。
マンションは一応オートロックだし、コンビニは比較的交通量が多い道を挟んだ向かい。
子供でもできる買い物のはずだった。
だが部屋を出てエレベーターの前まで来たところ、律がボタンを押す前に動き出した。
普通なら単に同じマンションの住人がエレベーターを使ってると思うだけだろう。
だがもしあの男だったら?と思ってしまったら、もうダメだった。
心臓がバクバクと不穏な鼓動をし始め、身体中の毛穴から冷たい汗が流れ出す。
そして呼吸が苦しくなった瞬間、律は自分の部屋に引き返した。
「俺ってこんなにダメなヤツだったっけ」
ようやく何とか呼吸を整えた律は、ポツリと呟いた。
自分が強いなどとは思っていなかったが、まさか昔の事件にここまで怯えるとも思わなかった。
何とかしなくては、このままでは社会生活を営めなくなる。
「セナさんと阿部さん、怒ってるかな」
律はため息をついた。
新しい会社を作ろうと話をしていて、まだまだ詰めなければならないこともあった。
だが電話の音が怖くて、携帯電話の電源を落としたままだ。
セナも阿部も律のことを無責任なヤツだと怒っているかもしれない。
それとももう律のことなどさっさと切り捨てて、2人で話を進めているだろうか。
「高野さんに会いたいな」
律はまたポツリと呟いた。
だが今の状態で会ったら、彼に頼ってしまいそうな気がする。
彼だって別の通り魔事件で、めんどくさいことになったはずなのだ。
この上律の個人的なことに巻き込むのは、申し訳ない。
とにかくまずはもう1度、コンビニだ。
気を取り直してまたドアに手をかけた瞬間、ドアフォンが鳴った。
律はその瞬間、ピタリと動きを止めて固まった。
こんな深夜に配送業者が来ることはない。
知り合いの訪問にしたって、時間が遅すぎる。
ドアフォンのモニターで相手を確認すればいいのだが、律は怖くて見ることができずにいた。
だがドアフォンは律を嘲笑うように何度も何度も連打されている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。」
律は呼吸が苦しくなり、胸を押さえた。
パニックで過呼吸になっている。
頭の隅でチラリとそう思ったが、何も出来ない。
息苦しさを堪えきれずにそのままドアにもたれながら、ズルズルとしゃがみ込んだ。
*****
高野は12階でエレベーターを降りると、目指す部屋の前に立つ。
そしてドアの横のチャイムを何度も連打した。
蛭魔に律の住所を教えられた高野は、タクシーでそのマンションまで来た。
さほど築年数が経っていないらしいマンションは、当然のようにオートロックだ。
部屋番号を何回呼び出しても、応答がない。
どうしたものかと迷ったが、ちょうど帰宅したマンションの住人がいた。
高野はさり気なくその住人の後に続いて、玄関ホールに入ることができた。
高野は12階でエレベーターを降りると、目指す部屋の前に立つ。
そしてドアの横のチャイムを何度も連打した。
ドアスコープからは明かりが漏れている。
部屋の中にいる可能性は高いだろう。
だが何度チャイムを押しても、応答がない。
これは明かりをつけたまま外出しているか、頑として出たくないかどちらかだろう。
高野はハァとため息をつくと、肩を落とした。
よくよく考えれば、初めての家を訪問するにしては時間が遅すぎる。
これは明日、出直した方がいいだろうか。
だがその瞬間、ドアからガンと大きな音がした。
内側で何か大きな物、もしくは人がドアに当たったようだ。
「律、いるか?俺だ。高野だ!」
高野は声を張り上げながら、ガンガンとドアを叩いた。
近所迷惑かとは思ったが、非常事態だ。
するとドアスコープを覗く気配があり、ドアロックが外された。
そして開いたドアから、律が顔をのぞかせた。
だがすぐにグラリと身体が揺れて、こちらに倒れこんでくる。
高野は律の身体を支えながら、すばやくドアの中に身体を滑り込ませた。
「お前、何があった?」
高野が思わずそう声をかけるほど、律は変わっていた。
頬がこけて、表情がやつれている。
それに抱きしめた身体は、かなり痩せたようだ。
「高野さん、俺、住所教えましたっけ?」
どう見てもただ事ではない様子なのに、律はわかっていないようだ。
キョトンとした表情で、どうでもいいようなことを聞いてくる。
「とにかく病院だ。お前、すごく具合が悪そうだぞ」
「結局、高野さんに、迷惑、かけちゃった、な」
律はポツリと独り言のようにそう呟くと、目を閉じた。
とにかく何があったかわからないが、律は高野を嫌って避けていたわけではないようだ。
高野はホッとした思いで、律の身体をそっと抱きしめた。
病院に運ぶか、救急車を呼ぶか。
ああ、その前にこの部屋の鍵はどこだ。戸締りをしなくては。
高野は腕の中で眠ってしまった律を見ながら、考えを巡らせた。
律はひどく衰弱しているが、どうにか間に合ったようだ。
無事なうちにこの腕に抱きしめることができたのだから。
「それにしても散らかった部屋だな」
考えた末に救急車を呼んだ高野は、ひとりごちた。
綺麗な顔をしているくせに、部屋は荒れている。
入院させて体調が戻ったら、自分の部屋に連れて行こう。
そのまま一緒に住んで、身も心も自分のものにしてしまおうか。
妄想が佳境に入った頃、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
高野は舌打ちを1つすると、部屋の電気や戸締りの確認を始めた。
【続く】
「おなか、すいた」
律はポツリとそう呟いた。
1人暮らしのマンションの部屋はシンとしていて、わずかな独り言も妙に響く。
部屋に買い置いていた食料は、底をついた。
だけど律は外に出ることができないでいた。
律はもう数日、自分の部屋に引きこもっている。
会社にはもう行くつもりはない。
すでに辞表を出していたが、すぐに辞めさせてくれと直訴した。
同僚、特にタレントに迷惑をかける事態は避けたかった。
会社は律を引き止めたが、ストーカーに狙われていると打ち明けたら、あっさり受け入れられた。
律を利用しようという気はあっても、守ろうという気はないらしい。
警察や弁護士などに問い合わせて、犯人の近況は聞いている。
かつて律を誘拐した男は、刑期を終えて出所し、実家に身を寄せていた。
だがたまたま例のネイルサロンの騒動で、チラリとカメラに映ってしまった律を見た。
男は律を見つけると「また捕まえる」と喚き散らして、暴れたそうだ。
そして入院という名目で、精神科の病院に隔離された。
現在の男の消息はわからない。
とりあえず病院で治療をし、興奮状態は治まったので、退院した。
だがその後は実家を飛び出して、帰っていないのだという。
律としては気が気ではなかった。
現在の律の住まいや仕事先などを、男はどこまで掴んでいるのだろう。
会社を辞めて、部屋に逃げ帰った律は、恐怖で部屋から出られなくなった。
男に誘拐されて、監禁されたあの日々は地獄だった。
何年経ってもあのときの恐怖は、心の奥底に燻っていて消えることがない。
もう1度あんな目に合わされたら、2度とまともに生きられないような気がする。
仕事もせずにずっと家にいると、時間の感覚がなくなる。
何をする気も起きずに、ベットでゴロゴロと過ごしているからなおさらだ。
空腹になると、買い置きのインスタントラーメンなどを作って食べる。
だがそれらの食料がなくなっても、外に出る気がしなかった。
宅配の食事を注文するのも怖い。
知らない人間が部屋に来ると想像するだけで、身体が震えるのだ。
このままいつまでも外界と途絶された部屋にいられないことはわかっている。
食べるものもないし、なにより仕事をしなければ金もなくなる。
「高野さん」
律はポツリと頭に浮かんだ男の名を呼んだ。
身体の関係もあるし、律に何度も好きだとアプローチする物好きな男。
だけどやはり高野の恋人になるかと問われれば、素直に首を縦には振れない。
過去に自分が巻き込まれた事件を思い出すと、誰かに自分を預けるということが怖くなる。
何よりも今高野を受け入れれば、高野にも危険が及ぶかもしれない。
それだけは避けなければいけないと思った。
「まだお米、あったよな」
律はまたポツリと呟きながら、米の残量を確認した。
おかずになるものはないが、調味料はあるから食べられないことはない。
これでしばらくはまだ凌げるだろう。
「1人でいると、独り言が増えるんだな」
まだ現実と向かい合う気になれない律は、怖さと後ろめたさに目を背けるようにまた呟いた。
*****
「今回はアジサイです。」
セナはデザイン画を見ながら、苦笑する。
さすがに今回のチョイスは、ちょっと皮肉が強すぎる気がしたのだ。
だが蛭魔は「今回も綺麗だな」といつもと同じリアクションだ。
気付かない振りをしているのか。
いや花などにまるで関心がない蛭魔には、その意味がわからないのかもしれない。
ネイルサロン「デビルバッツ」は、もう営業していない。
元々近々移転する予定だったが、この近所にいい物件が見つかったのだ。
その上、このビルの前で通り魔事件があったこともあって、移転時期を早めた。
事件現場として、このビルの周辺がテレビのニュース映像にのってしまったのだ。
客が見れば、すぐにわかってしまうだろう。
ネイルサロンの客は若い女性が多いし、治安が悪い場所というイメージは客足に影響する。
誰もいなくなったこのフロアをセナは独占していた。
ネイルサロン「デビルバッツ」ではなく、セナにネイルを頼みたい客のためだ。
蛭魔や三橋を初めとした数人の客は、相変わらずここに通っている。
仕方がないことだが、やはり寂しい。
セナはそんな思いを込めて、時期はずれのアジサイを選んだ。
花言葉は「移り気」とか「無情」などと、相手の心変わりを責める言葉が多い。
セナを置いて、去ってしまったかつての仲間たちへの抗議を込めて、アジサイの花を描く。
今日はいつもの個室ではなく、オープンスペースだ。
他の客も従業員もいないから、個室にこもる必要がないのだ。
誰もいないという点では個室と変わらないが、広い分開放的な気分になる。
売れっ子だったセナは、一転してずっと1人でのんびりとした時間を過ごしている。
セナの時間が増えたことで、蛭魔ももう髪と爪を同時作業で進めることはなくなった。
髪は相変わらずヘアサロン「らーぜ」に予約を取って、個室で阿部にやってもらう。
だがそれ以外の時は、もう予約なしだ。
時間が空けばフラリとやってきてセナに爪を頼むし、ただ話だけして帰ることも多い。
「1人でここを管理するのは、大変だろ?」
「そうでもないですよ」
蛭魔はふと思いついたようにそう聞いたが、セナは首を振った。
確かに今までサロンのメンバーで交代でしていた雑用は1人でしなければならない。
だがビル全体で管理や清掃業者が入っているので、大したことはない。
「家賃なしで置いていただいてるんだから、贅沢は言えませんよ。」
セナは蛭魔の爪に目を落としたまま、苦笑した。
このビルの賃料は、当然毎月オーナーである高野に払わなくてはいけない。
だが高野は賃料は取らないかわりに、空いた部屋を管理して欲しいとセナに言ったのだ。
次の入居者が決まるまでの間、綺麗にしておいてくれれば、どう使おうとかまわないと言う。
「高野さんっていい人ですよね。当面は家賃なしでいいなんて」
「何言ってんだ。下心が見え見えだろ。」
高野はネイルサロン「デビルバッツ」の後、阿部たちが立ち上げる会社を入れるつもりなのだ。
それは新会社に律が関わっているからに他ならない。
律がこのビルで働くようになれば、今よりも会える回数は格段に増える。
「そう言えば律君、最近見ませんね」
「今の仕事を辞めるんだし、忙しいんじゃねーのか?」
「そうかぁ。そうですよね。」
セナも蛭魔も世間話のように、律のことを口にする。
この時、律の身に起こっていることなど、知る由もなかったからだ。
*****
「三橋さんは、阿部のことをどう思ってるんですか?」
それはあまりにも不躾で、唐突な質問だった。
三橋は、思わず口に含んでいたコーヒーを吐き出しそうになった。
三橋はカフェ「エメラルド」で阿部を待っていた。
今日は阿部は休日で、三橋は初めて阿部の家に遊びに行くことになっていた。
阿部は職場から徒歩で20分程の場所に、部屋を借りて1人暮らしをしている。
当初は住所を聞いて、直接阿部の部屋に行くつもりだった。
だが三橋は東京の道には不案内であることと、阿部の部屋は細い入り組んだ路地の中にある。
だからカフェ「エメラルド」で待ち合わせすることになったのだ。
少し早めについた三橋は、コーヒーを頼んだ。
阿部の部屋はどんな感じなのかと想像するだけで、顔がニヤけてしまう。
ウェイターの千秋が「どうしたんです?」と聞いてきたほどだ。
三橋が「阿部さん、と、待ち合わせ、で」と答えると、千秋は「ヒュ~ヒュ~!」と冷やかす。
頬が熱で熱くなってくるのが恥ずかしくて、三橋は下を向いて俯いた。
きっと顔はかなり赤くなっているに違いない。
「あれ?」
向かいの席の椅子が引かれた気配に顔を上げると、見知った人物が腰を下ろしていた。
だが残念ながら三橋の待ち人ではない。
「水谷、さん」
三橋は恐る恐る声をかけた。
ヘアサロン「らーぜ」で働く阿部の同僚、水谷だ。
かつて彼に「阿部は女性スタッフと付き合っている」というデマを聞かされた。
理由はわからないが、彼は三橋にあまりいい感情を持っていないような気がする。
「チキンランチプレートとコーヒー」
水谷は千秋にそうオーダーした。
千秋は「かしこまりました」と答えながら、三橋に目だけで「いいのか?」と聞いてくる。
阿部との待ち合わせを知っているので、水谷が同席してていいのかと心配してくれているのだ。
三橋は目だけで頷くと、大丈夫であることを伝えた。
水谷は何か三橋に用があるようで、それは阿部と関係がある話に違いない。
それならきちんと聞くべきだし、逃げるような真似はしたくない。
「阿部は今日は休みですよ」
「知って、ます。水谷、さんは、仕事、ですか?」
「ええ。今は昼休憩です。」
ヘアサロン「らーぜ」は年中無休であり、スタッフは交代で休みを取るのだ。
水谷さん、ここのランチ、食べるのか。
三橋はふとこの店のメニューを思い出して、首を傾げた。
カフェ「エメラルド」のランチメニューは値段が高い割りには、あまり美味しくないのだ。
だから三橋は、昼の時間帯には絶対にコーヒーしか飲まない。
だがそんなことは口には出せない。
微妙な沈黙を破るように、先に口を開いたのは水谷だった。
「三橋さんは、阿部のことをどう思ってるんですか?」
それはあまりにも不躾で、唐突な質問だった。
三橋は、思わず口に含んでいたコーヒーを吐き出しそうになった。
だが水谷は真剣な表情で、三橋の答えを待っている。
「うちのスタッフに阿部のことを好きなコがいます。俺はそのコを応援したいんです。」
「それって、この前の?」
三橋はいつかサロンの部屋でコーヒーを出してくれた女性スタッフを思い出す。
水谷は黙って頷いた。
「だけど阿部は三橋さんに恋してるのを隠そうともしない。」
「へ?」
思わず間の抜けた声が出た。
三橋も今でははっきりと、阿部のことが好きだとは自覚している。
だが阿部も自分に恋をしてくれているなんて、考えたこともなかった。
「三橋さんは有名人でしょ?男との恋愛なんてバレたらまずいですよね?」
水谷はすがるような表情で、三橋を見ている。
きっと阿部を好きだというあの女性を、この人はすごく好きなのだろう。
恋愛沙汰に疎い三橋にもはっきりわかるほど、水谷は真剣な表情だった。
「俺は」
三橋は懸命に考えを巡らせながら、口を開いた。
水谷は自分の想いが成就しないのを覚悟で、真っ直ぐに彼女の幸せを祈っている。
それならば三橋も、きちんと答えなくてはいけないだろう。
*****
「俺は、阿部さんが、好きです。」
三橋が凛とした声で、はっきりとそう告げた。
阿部は一瞬驚き、次の瞬間には怒りに震えていた。
朝から、いや正確には数日前から阿部は浮かれていた。
何せ今日は三橋が初めて自分の部屋に来ることになっているからだ。
部屋は念入りに掃除したし、食事は羽鳥から簡単で見栄えのいい料理を習った。
今夜阿部は三橋に告白をして、あわよくば一緒に夜を過ごそうと思っていた。
待ち合わせ場所のカフェ「エメラルド」につくと、千秋が心配そうな表情をしていた。
その視線の先では、三橋と水谷が向かい合っている。
阿部は不吉な予感がした。
水谷は以前、三橋に「阿部と篠岡が付き合っている」と嘘をついたのだ。
三橋はそれを本気にして、一時期阿部と距離を取ろうとしていた。
「またアイツは!」
阿部は小さく悪態をつくと、三橋たちのテーブルに近づいた。
2人は真剣に話し込んでいるようで、阿部に気付かない。
だが阿部が三橋に声をかける前に、三橋が水谷に話している声が聞こえていた。
「俺は、阿部さんが、好きです。」
三橋が凛とした声で、はっきりとそう告げた。
阿部は一瞬驚き、次の瞬間には怒りに震えていた。
今夜阿部から告白して、三橋の答えを聞くつもりだったのだ。
こんな場所で、しかも自分ではなくて水谷に言うなんて、ひどすぎる。
「俺は、誰に知られても、かまわない、です。でも、阿部さん、が迷惑、なら」
「阿部も迷惑じゃないと思うよ」
いち早く阿部が近づいてきたことに気付いた水谷が、苦笑まじりにそう言った。
水谷の視線に気付いた三橋が、阿部を見つけて「えええ!?」と声を上げる。
「この人のコーヒー代、水谷につけて」
阿部は自分でも信じられないほど不機嫌な声が出していた。
ちょうど水谷の分のチキンランチプレートを持ってきた千秋が「へ!?」と驚く。
だが知ったことではない。
阿部は三橋の方に向き直ると「さっさと行きましょう」と声をかけた。
三橋は阿部の剣幕に驚きながら「はい!」と立ち上がっていた。
その後、阿部は自分の部屋に「お持ち帰り」した三橋と楽しい時間を過ごした。
三橋は阿部が用意した食事を「美味しい」を連発して、綺麗に食べてくれた。
そして阿部は三橋を美味しく味わったりもした。
心も身体も結ばれた記念すべき日だった。
だけど後々三橋との馴れ初めを思い出すとき、どうしても水谷のことを思い出してしまう。
三橋が阿部を好きだと言ったとき、三橋は水谷を見ており、阿部には背を向けていた。
それだけが阿部の唯一の心残りであり、最大の不満だった。
*****
「律と連絡が取れないって?」
蛭魔はカウンターで酒をあおっている高野の隣に座った。
高野は不機嫌そうにチラリと蛭魔を見たが、すぐにプイッと目をそらしてしまった。
「いい男が台無しだぞ」
蛭魔はなおもからかうように声をかける。
だが高野は「うるせぇ」と呻いた。
まったくオーナーがこんな商売っ気のない店も珍しい。
カフェ「エメラルド」の人気は、高野によるところも大きい。
そもそもランチタイムはともかく、夜のバータイムの客は高野が認めた会員ばかりなのだ。
その中でもさらに常連になる客は、単に美味い酒と料理を味わいにくるだけではない。
高野や羽鳥、千秋との会話を楽しむのも、この店の醍醐味なのだ。
「で、律はどうしたんだ?」
「わかんねーよ。電話もメールも応答なしだ。」
「仕事が忙しいんじゃねーの?」
「会社に電話したら、もう10日も前に辞めてるんだとさ。」
高野はそう吐き捨てると、グラスの中の琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
まったくヤケになっているとしか思えない飲み方だ。
蛭魔は「酒に強いってのも困ったもんだな」と苦笑した。
高野としては一応ヤケ酒なのだろうが、酒に強い体質のせいでなかなか酔わないのだ。
自分の店だから気にする必要はないとは思うが、何とも不経済な飲み方だ。
「もしかして具合が悪くて寝てるってオチはねーか?アイツ1人暮らしだろ?」
「そりゃ考えないでもないが」
「自宅に行ってみたらどうだ?」
「場所、知らねーんだよ。一応アイツの元の会社に聞いたけど、教えてくれなかった。」
蛭魔は羽鳥に「ミネラルウォーターくれよ。グラスはいらねぇ」と頼んだ。
もちろん自分ではなく、高野の分だ。
羽鳥が目礼だけで、蛭魔に感謝の意を伝えてきた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを持ってきた千秋もホッとした顔だ。
羽鳥も千秋も、高野のことを心配しているのだろう。
いくら酒に強くても、こういう飲み方が身体によくないのは間違いない。
「そういうこともあろうかと。高野。これ。」
蛭魔は勿体つけた動作で、1枚の紙切れをすべらせた。
少し右上がりのクセのある文字で書かれているのは、とある住所だ。
最後に1202号とあるのは、どうやらマンションの1室のようだ。
「律の住所だとさ。ヤツら会社作るって言ってたろ?その登記書類からセナが書き写した。」
「蛭魔」
「ネイルサロンが移転しても、セナを居させてくれてる礼だ。」
蛭魔は千秋からミネラルウォーターのボトルを受け取ると、そのまま高野に差し出した。
高野は「悪い」と言いながらボトルを受け取ると、一気にミネラルウォーターを飲み干す。
そして羽鳥と千秋に「後を頼む」と言い残して、スタッフルームに飛び込んだ。
身支度をして、律の部屋へ直行するつもりのようだ。
「蛭魔さんはそういうキャラじゃないと思った。」
千秋が蛭魔を見ながら、ニヤニヤと笑う。
実は蛭魔本人もそう思っている。
自分がこんなドラマに出てくるおせっかい焼きみたいな真似をするなど予想外だ。
しかもこんなに照れくさいというか、バツが悪いものだとは思わなかった。
「羽鳥と千秋も、阿部と三橋もラブラブなんだ。そろそろ高野たちの番が来てもいいだろ?」
「蛭魔さんとセナさんのラブラブッぷりにはかないませんよ。」
今度はカウンターの中の羽鳥がからかうように笑う。
蛭魔は苦笑しながら「高野のおごりでアレくれ」とカウンターの中の棚を指差した。
シングルモルトの年代物、この店の中で一番高価なウィスキーだ。
*****
「はぁっ、はぁ。。。」
律は自分の部屋に飛び込むと、バタンとドアを閉めた。
震える手で施錠をして、チェーンもかける。
そしてハァハァと肩で荒い呼吸をしながら、ドアにもたれかかっていた。
ついに食料もなくなり、食料を買いに出ようとした。
場所は自分の部屋の窓からも見えるコンビニだ。
マンションは一応オートロックだし、コンビニは比較的交通量が多い道を挟んだ向かい。
子供でもできる買い物のはずだった。
だが部屋を出てエレベーターの前まで来たところ、律がボタンを押す前に動き出した。
普通なら単に同じマンションの住人がエレベーターを使ってると思うだけだろう。
だがもしあの男だったら?と思ってしまったら、もうダメだった。
心臓がバクバクと不穏な鼓動をし始め、身体中の毛穴から冷たい汗が流れ出す。
そして呼吸が苦しくなった瞬間、律は自分の部屋に引き返した。
「俺ってこんなにダメなヤツだったっけ」
ようやく何とか呼吸を整えた律は、ポツリと呟いた。
自分が強いなどとは思っていなかったが、まさか昔の事件にここまで怯えるとも思わなかった。
何とかしなくては、このままでは社会生活を営めなくなる。
「セナさんと阿部さん、怒ってるかな」
律はため息をついた。
新しい会社を作ろうと話をしていて、まだまだ詰めなければならないこともあった。
だが電話の音が怖くて、携帯電話の電源を落としたままだ。
セナも阿部も律のことを無責任なヤツだと怒っているかもしれない。
それとももう律のことなどさっさと切り捨てて、2人で話を進めているだろうか。
「高野さんに会いたいな」
律はまたポツリと呟いた。
だが今の状態で会ったら、彼に頼ってしまいそうな気がする。
彼だって別の通り魔事件で、めんどくさいことになったはずなのだ。
この上律の個人的なことに巻き込むのは、申し訳ない。
とにかくまずはもう1度、コンビニだ。
気を取り直してまたドアに手をかけた瞬間、ドアフォンが鳴った。
律はその瞬間、ピタリと動きを止めて固まった。
こんな深夜に配送業者が来ることはない。
知り合いの訪問にしたって、時間が遅すぎる。
ドアフォンのモニターで相手を確認すればいいのだが、律は怖くて見ることができずにいた。
だがドアフォンは律を嘲笑うように何度も何度も連打されている。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ。」
律は呼吸が苦しくなり、胸を押さえた。
パニックで過呼吸になっている。
頭の隅でチラリとそう思ったが、何も出来ない。
息苦しさを堪えきれずにそのままドアにもたれながら、ズルズルとしゃがみ込んだ。
*****
高野は12階でエレベーターを降りると、目指す部屋の前に立つ。
そしてドアの横のチャイムを何度も連打した。
蛭魔に律の住所を教えられた高野は、タクシーでそのマンションまで来た。
さほど築年数が経っていないらしいマンションは、当然のようにオートロックだ。
部屋番号を何回呼び出しても、応答がない。
どうしたものかと迷ったが、ちょうど帰宅したマンションの住人がいた。
高野はさり気なくその住人の後に続いて、玄関ホールに入ることができた。
高野は12階でエレベーターを降りると、目指す部屋の前に立つ。
そしてドアの横のチャイムを何度も連打した。
ドアスコープからは明かりが漏れている。
部屋の中にいる可能性は高いだろう。
だが何度チャイムを押しても、応答がない。
これは明かりをつけたまま外出しているか、頑として出たくないかどちらかだろう。
高野はハァとため息をつくと、肩を落とした。
よくよく考えれば、初めての家を訪問するにしては時間が遅すぎる。
これは明日、出直した方がいいだろうか。
だがその瞬間、ドアからガンと大きな音がした。
内側で何か大きな物、もしくは人がドアに当たったようだ。
「律、いるか?俺だ。高野だ!」
高野は声を張り上げながら、ガンガンとドアを叩いた。
近所迷惑かとは思ったが、非常事態だ。
するとドアスコープを覗く気配があり、ドアロックが外された。
そして開いたドアから、律が顔をのぞかせた。
だがすぐにグラリと身体が揺れて、こちらに倒れこんでくる。
高野は律の身体を支えながら、すばやくドアの中に身体を滑り込ませた。
「お前、何があった?」
高野が思わずそう声をかけるほど、律は変わっていた。
頬がこけて、表情がやつれている。
それに抱きしめた身体は、かなり痩せたようだ。
「高野さん、俺、住所教えましたっけ?」
どう見てもただ事ではない様子なのに、律はわかっていないようだ。
キョトンとした表情で、どうでもいいようなことを聞いてくる。
「とにかく病院だ。お前、すごく具合が悪そうだぞ」
「結局、高野さんに、迷惑、かけちゃった、な」
律はポツリと独り言のようにそう呟くと、目を閉じた。
とにかく何があったかわからないが、律は高野を嫌って避けていたわけではないようだ。
高野はホッとした思いで、律の身体をそっと抱きしめた。
病院に運ぶか、救急車を呼ぶか。
ああ、その前にこの部屋の鍵はどこだ。戸締りをしなくては。
高野は腕の中で眠ってしまった律を見ながら、考えを巡らせた。
律はひどく衰弱しているが、どうにか間に合ったようだ。
無事なうちにこの腕に抱きしめることができたのだから。
「それにしても散らかった部屋だな」
考えた末に救急車を呼んだ高野は、ひとりごちた。
綺麗な顔をしているくせに、部屋は荒れている。
入院させて体調が戻ったら、自分の部屋に連れて行こう。
そのまま一緒に住んで、身も心も自分のものにしてしまおうか。
妄想が佳境に入った頃、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
高野は舌打ちを1つすると、部屋の電気や戸締りの確認を始めた。
【続く】