アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】

【ヒルガオ】

「まぁ大したことがなくてよかった。」
高野は安堵のため息と共にそう言った。
羽鳥も同意するように大きく頷く。
千秋は恥ずかしそうに「面目ないです」と俯いた。

店の前でナイフで切りつけられた千秋だったが、傷自体は小さなものだった。
ただ千秋が血を見たショックで失神してしまったために、大騒ぎになったのだ。
救急車を呼んで病院に運ばれたものの、入院はおろか消毒だけで縫う必要もないと言われてしまった。

その後高野、羽鳥、千秋は警察の事情聴取を受けた。
担当の刑事は先日律が襲われ、阿部が怪我をしたときと同じ人物だった。
高野を見るなり「またあなたですか」と少々ウンザリした顔をされた。
3人が警察署を出たのは結局朝だった。
何となく帰る気にならなかった3人は、そのまま店に戻った。
カウンターに並んで座って、カフェ「エメラルド」特製ブレンドコーヒーを飲み、興奮を鎮めている。

気になるのは前回の事件との関連だった。
たまたまこんなに短い期間に、襲撃事件が続くとは考えにくい。
一連の事件だと考えるのが正解だろう。
だがわからないのはそこから先だ。
果たして犯人の狙いは何なのだろう?

「犯人の狙いは千秋で、小野寺さんは間違えて襲われたとは考えられませんか?」
おもむろに口を開いたのは、羽鳥だ。
高野は煙草を燻らせながら「うん」と肯定とも否定ともつかない返事をした。

高野だってそういう可能性を考えなかったわけではない。
律と千秋は小柄で細身、体格だけを見たら似ていると言える。
夜ならば人違いをする可能性もなくはない。
でもそれならば間違えられたのは千秋の方ではないかと思う。
千秋はこの店で昼も夜も働いており、高野は人柄も交友関係も把握している。
刃物で襲われるほど恨まれているとは思えない。
狙われるとしたら、律の方ではないだろうか。
誘拐された過去を持ち、芸能プロダクションという欲望渦巻く職場で働いているのだから。

だがそれも違うような気がしてくる。
下手をすれば律だって千秋だって死んでいたかもしれない。
そんな凶行を犯す犯人が、標的を間違えるなんてありえるだろうか?
ではやはり通り魔なのだろうか?
高野は堂々巡りする思考に、ため息をついた。
この状況で、事件を判断するのは無理がある。

高野はそっと羽鳥を見た。
羽鳥も高野の視線の受け止めると、頷きを返してくる。
羽鳥は千秋を、高野は律を。
今は徹底的にガードするしかないだろう。
こんなことで大事な想い人を失うわけにはいかないのだから。

*****

「今回はヒルガオです。」
セナはいつものように、蛭魔にデザインの下絵を見せる。
その表情は相変わらず、ひかえめな笑顔だ。
蛭魔が黙って頷くのも、まったくいつもと同じだった。

蛭魔は久しぶりにネイルサロン「デビルバッツ」に来ていた。
ここ最近はずっと自宅への出張サービスを頼んでいたからだ。
セナのデザインを守るためにそうしていた。
久しぶりにサロンに出向いた蛭魔は、店の雰囲気が変わっていることに気付いた。

瀧鈴音はネイルサロン「デビルバッツ」を辞めていた。
表向きはあくまでも「本人の希望による退職」だったが、実際は解雇だ。
鈴音がデザインを盗んだことは、セナから店長のまもりに報告された。
まもりは鈴音から事情を聴取し、鈴音はあっさりと事実を認めたのだった。

それにセナは知らなかったことだが、鈴音はセナのことが好きだったらしい。
デザインを盗むなどという愚かな行為の目的は、セナと蛭魔の間に亀裂を入れることだった。
蛭魔がセナを疑うように仕向け、2人の関係を壊したかった。
鈴音はまもりにそう白状したそうだ。

もちろんセナにはまったく非がない。
鈴音のしたことは背任行為であり、プロとしては見過ごすことなどできない。
だがやはり気分がよくないのは間違いないだろう。
一番仲がよかった同僚の裏切りと退職。
しかも鈴音の恋心にまったく気付かなかったセナは、一番残酷なやり方でフったことになる。

さらに「デビルバッツ」のスタッフたちは、セナに批判的だ。
元々蛭魔の専属になったことで、セナはネイルサロンのスタッフからも嫉妬されていた。
そんな不満から鈴音に同情が集まり、セナは孤立しつつある。
何となく刺々しい雰囲気を感じ取った蛭魔は、店長のまもりからそれを聞かされて納得した。

それでもセナは蛭魔とはまったく普通に接していた。
グチも言わず、暗い表情もせず、いつもと同じように仕事に集中している。
セナのこういうプロ意識を、蛭魔は秘かに尊敬している。
客の前では決してネガティブな部分をのぞかせないのだ。
だが恋人としては、不満だった。
弱い部分を見せて、思い切り甘えて欲しいと思う。

「そう言えば、また事件があったらしいな。」
「ええ。しかも犯人は『エメラルド』の千秋君だそうですよ。」
蛭魔は内心の葛藤を押し隠しながら、まったく違う話題を切り出した。
セナは蛭魔の爪に目を落としながら、心配そうに答えた。
決しておざなりではなく、心から心配している声だ。
こういう優しさも蛭魔を魅了してやまない。

「多分、来年にはイギリスに拠点を移すことになる。一緒に来る気はないか?」
蛭魔は真剣なセナの横顔を見ながら、そう切り出した。
セナは思わず手を止めて顔を上げると、蛭魔を見た。
セナにしてみれば唐突な申し出だったかもしれない。
だが蛭魔にとっては、考えた末の結論だった。
店内の雰囲気が悪い上に、店の前で物騒な事件があった。
こんな状態の店で、セナを働かせるのは嫌だった。

「返事は今ここでなくていい。」
蛭魔は驚いた表情のまま、固まっているセナにそう言った。
とにかくできる限り、セナを取り巻く苦境を取り除いてやりたかった。

*****

「やっぱりきびしいな。。。」
律はガックリと肩を落とすと、ため息をついた。
簡単ではないとわかってはいたが、こうも予想通りだとヘコむものだ。

律は所属する「丸川プロ」には退職の意向を伝えていた。
訳がわからない事件が起きていて、また襲われるかもしれない。
そんな状態で人気タレントのマネージャーなどできない。
タレントを守るべきマネージャーなのに、これでは律のせいで杏まで危険になるかもしれない。

会社側からはまだ了承の返事はもらっていない。
どうやら律をまだタレントとして売り出すことを諦めていないようだ。
しかも今回の事件のせいで、律が昔誘拐されていたことまで知られてしまった。
これをアピールして律を売り出す作戦まで考えているらしい。
冗談ではない。
あの忌まわしい誘拐事件を忘れたくて、こんなに悪あがきしているというのに。

だが現実は厳しい。
履歴書を持っていくつも会社を回った。
だがすぐにことわられてしまう。
新卒の大学生でなかなか就職できないご時世なのだ。

しかも律は誘拐された当時、名前が出てしまっている。
フルネームでネット検索すれば、あの事件の被害者だとわかってしまうのだ。
わざわざそんないわく付きの人間を採用しようなどとは思わないだろう。
そもそもそういう理由でなかなか就職できないから、好きでもない芸能プロダクションに入社したのだ。

「そもそも俺って、何がしたいのかな」
もう何社目かわからない会社を後にしながら、律はポツリと呟いた。
元々何の疑いもなく、親の会社を継ぐものと思っていた。
だがあの事件の後は、何とか世間の目や犯人から逃げることばかり考えている。
自分は何者なのか、どこへ行こうとしているのか。
何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな風に生きているのだろう。

「あ、こ、こんにち、は」
不意に声をかけられた律は、一瞬驚き、立ちすくんだ。
目の前にいるのは、律と同じくらいの年齢の青年だ。
見覚えのある顔に瞬誰だろうと首を傾げたが、すぐに思い出した。
かの有名なプロ野球選手、三橋廉だ。
三橋もカフェ「エメラルド」の会員で、何度か顔を合わせたことがある。

「どうも。久しぶりですね。」
律はすぐに笑顔で、挨拶を返した。
正直言って、落ち込んでいるときにさほど親しくない知り合いに会うのは面倒だ。
それでも如才ない笑顔が作れるのは、芸能プロダクションに所属してから身についた特技だった。
ちょっとした笑顔1つで、タレントの仕事が増えたりする。
タレントを売り出すのは、本人の才能より人脈がモノを言うものなのだ。

「服をお買いになるんですか?」
律は三橋にそう聞いた。
三橋が立っていたのは、最近若い男性に人気のブランドショップの前だったからだ。
高給をもらっているであろう三橋には、何てこともない買い物だろう。
だが次に三橋から出た言葉に、律は思わず目を剥いた。

「あの、助けて、ください」
三橋はすがるように律のジャケットの袖を掴んで、そう言ったのだ。
助けるとは何のことだろう?
律は困惑しながら、ウルウルと目を潤ませる三橋を凝視した。

*****

「お前、三橋さんに何を言ったんだ?」
阿部は水谷を問い詰めた。
だが水谷はふてくされたような表情で、視線を合わせようとはしない。

水谷の三橋への接客態度が変だった。
それをセナから聞いた阿部は、職場であるヘアサロン「らーぜ」に顔を出した。
怪我をしたことで、未だに休暇中ではある。
だがどうしても水谷に聞かなければならないと思ったのだ。

店に顔を出した阿部を見て、スタッフたちは最初は声をかけてくれた。
暴漢に襲われて怪我をしたと聞いて、みんな心配していたのだ。
だが阿部は生返事の上、怒りで表情が強張っている。
触らぬ神に祟りなし。
スタッフルームに陣取って水谷が休憩に入るのを待つ阿部に、次第に誰も話しかけなくなっていた。

「お前、三橋さんに何を言ったんだ?」
水谷がスタッフルームに入ってくるなり、阿部は水谷を問い詰めた。
だが水谷はふてくされたような表情で、視線を合わせようとはしない。
2人きりのスタッフルームに重苦しい沈黙が流れる。

「三橋さんが阿部に言ったのか?それともセナさん?」
「そんなの関係ねーよ!」
「デカイ声出すなよ。店内に声が聞こえるだろ。」
「お前がさっさと答えればいい話だ!」

ようやく口を開いた水谷だったが、まともに答えるつもりはないらしい。
どこかふざけた口調に、阿部は焦れて声を荒げる。
はぐらかすつもりだった水谷も、あまりに強い阿部の口調に次第に頭に血が上ったようだ。

「阿部、三橋さんのことになるとおかしいぞ!」
「何だと?」
「ちょっとでも気に障るようなことしたら許さないつもりか?まるで恋人気取りだな!」
「誤魔化すな。そういう問題じゃねーだろ!」
「誤魔化してるのはそっちだろ!お前本当はホモなんじゃねーのか?」

かみ合わないやりとりは、ついに喧嘩に発展した。
阿部が水谷の襟首をねじ上げ、拳を振り上げる。
だがあわや乱闘となる寸前、スタッフたちが飛び込んできて止めた。
2人のやりとりは店内には丸聞こえで、まずいと思った店長の百枝の指示だった。

三橋のことが好きで、誰にも傷つけられたいのは間違いない。
だが面と向かって「ホモ」呼ばわりされても冷静でいられるほど、まだ覚悟はできていない。
そのことが阿部にはショックだった。

「今日は帰ります」
阿部は百枝に短くそそう告げると、職場を後にした。
水谷に何か言われたくらいのことで、こんなに動揺するなどダメだ。
もっと強くならなくてはいけないのだと思った。

*****

「ど、ど、です、か?」
「ああ、イメージ通りです。やっぱり似合いますよ。」
試着室から出ると、律が笑顔で褒め称えてくれる。
ホッとした三橋は、ようやく少し緊張が解けたような気がした。

三橋はテレビ番組に出演することになった。
スポーツニュースの特集コーナーで、対談するのだ。
相手はかつての名選手で、三橋が所属する球団のOBだ。
今はスポーツキャスターとして活躍しており、対談の相手に三橋を指名したのだ。

人前で話すのは苦手だし、ことわってしまいたい。
だが今回ばかりはどうしても無理のようだ。
何しろ球団命令だと言い渡されてしまったら、もう観念するしかなかった。
ようやく諦めて覚悟を決めたら、次に悩むのは服だった。

なにしろ三橋は着る物には無頓着だ。
夏はTシャツと短パン、冬はGパンにセーター。
持っているものは洗濯を繰り返して、それもくたびれてしまっている。
スーツは葬儀にも結婚式にも着られるブラックフォーマルが1着しかない。
それを着るのはもっぱら年に1回の契約更改のときだけだ。
だがテレビの対談番組でフォーマルスーツというのは、さすがに違う気がする。

服を買おうと意を決して人気のブランドショップの前まで来たものの、店に入れない。
何を選べばいいのか、何と言って買えばいいのかわからないのだ。
途方に暮れる三橋の前に現れたのが、律だった。
思わず「「助けてください」と口走ってしまった。
最初は戸惑った様子の律だったが、事情を知ると「わかりました」と笑った。
そして悩める三橋の手から、重荷を引き受けてくれたのだった。

「濃い目の茶で合わせましょうか。三橋さんの目と髪の色が映えると思うんで。」
律は三橋の手を引いて、テキパキと服を選んでくれる。
しかも一方的に押し付けるようなこともなかった。
いくつもの色やデザインのものを出しては「どっちがいいですか?」と聞いてくれる。
それで三橋の好みを入れながら、似合うようにコーディネイトしてくれたのだ。
確か芸能プロダクションに所属していると聞いたが、センスはさすがだと思う。
律はあっという間に、服だけでなく靴やアクセサリーまで選んでくれた。

「テレビ出演までに何回か着てくださいね。」
律はニコニコと笑顔でそう言った。
三橋と律はブランドショップの近くのカフェで向かい合っていた。
せめてお礼がしたいと三橋が律を誘ったのだ。

「何回、か、着る?」
「ええ。いきなり着ると身体に馴染まないんですよ。どうしても借り物っぽくなっちゃう。」
「そんな、もん、ですか?」
「ええ。モデルさんなんかは綺麗に着こなしちゃうけど、普通はなかなかそうはいきません。」
三橋は律のアドバイスに、何度も首を縦に振った。
今や三橋にとって律の言葉は、神からの啓示にも似た響きを持つ。

「そういえば、阿部さん、怪我の具合はどうなんですか?」
不意に思い出したように、律がそう聞いてきた。
だが三橋は「怪我?」と聞き返した。
阿部とはもうしばらく会っておらず、メールの数も減っている。
怪我をしたなどという話は知らなかった。

「実は俺が暴漢に襲われて。阿部さんが助けてくれたんですが、腕に怪我をして。」
律の言葉がどこか遠くに聞こえる。
三橋は手が震えるのを感じて、慌てて持っていたカップをソーサーに戻した。

「特に後遺症が残るような深刻な怪我じゃないそうですが。ヘアサロンは休んでいるらしいですよ。」
律は意外そうな表情でそう付け加えた。
確かにカフェ「エメラルド」で律と顔を合わせたとき、三橋はいつも阿部と一緒だった。
親しい関係だと思われていたのだろう。
今日だって本当は阿部を誘おうかと考えなかったわけではなかった。

「気になるなら連絡したらどうですか?阿部さんもきっと喜びますよ。」
律は三橋に優しく言葉をかけてくれる。
三橋は今日の恩人の言葉にそっと頷いた。

もし迷惑なら怪我の具合を確かめるだけでもいい。
とにかく名前を聞いてしまえば気になるし、会いたい気持ちが止まらなかった。

*****

「どういうことですか!」
セナは思わず声を荒げて、聞き返した。

ネイルサロン「デビルバッツ」は営業を終えて、スタッフが帰宅していく。
だがセナはそのまま店に残っていた。
店長のまもりに話があるから残るようにと言われていたからだ。
悪い話の予感がするし、あまり気が進まない。
案の定2人きりになった店内で、まもりは重い口を開いた。

「蛭魔様の『毒花』シリーズ、打ち切りにした方がいいと思うの。」
「どういうことですか!」
セナは思わず声を荒げて、聞き返した。
聞き捨てならない発言だった。
「毒花」シリーズは、セナのネイルアーティストとしてのプライドと情熱の集大成なのだ。

「鈴音ちゃんがああいうことになって。スタッフの不満が多いのはセナも感じてるでしょう?」
「でも悪いことをしたとは思えません。」
「今はお店の雰囲気が悪いのを何とかしたいのよ。しばらくセナは目立たない方がいいと思う。」

鈴音がデザインを盗んだことは悪く、それを指摘したセナは正しい。
だがその結果店内は、微妙にギクシャクしている。
そして蛭魔の専属であることから何かと注目が集まるセナは孤立しつつあった。
あの「毒花」シリーズのネイルアーティストとして、有名になりつつあるセナへの嫉妬。
それが一気に噴出したのだ。

「わかりますが、蛭魔様との契約を反故にしていい理由にはなりませんよ。」
「それはセナがお願いすれば、何とかなるんじゃない?」
「店長の発言とは思えません。店内の雰囲気よりお客様を優先するものと思っていました。」
「だから命令じゃないわ。お願いできないかと言ってるのよ。」

まもりはセナと蛭魔の特別な関係を知っている。
かなり以前から薄々は感づいていたようだが、つい最近面と向かって聞かれたのだ。
セナはありのままに答えた。
恋人になっても客とスタッフという関係は続くのだから、店長であるまもりに隠すことはしなかった。
だからまもりは恋人のセナのお願いなら、契約破棄もできるのではないかと言っているのだ。

「まもり姉ちゃん、お客様が蛭魔さんじゃなくても同じことを言った?」
不意にセナはくだけた口調でそう言った。
元々まもりとセナは幼なじみで、仕事以外では「まもり姉ちゃん」と呼び、タメ口で話す。
今は店長とスタッフではなくて、幼なじみとして質問したのだ。

客より店の雰囲気を心配するのは、まもりらしくない。
そしてまもりは否定するだろうが、まもりも蛭魔が好きなのだとセナは思っている。
だからもしかしてこの提案は、蛭魔とセナを引き離したいのかと思ったのだ。
まもりは「当たり前でしょう?」と答えたが、声が震えており表情も強張っている。
どうやらセナの指摘はまったく的外れというわけでもなさそうだ。

セナは「今日は帰ります」と声をかけると、ネイルサロンを出た。
鈴音が去り、他のスタッフたちと敵対し、まもりさえもうセナの味方ではない。
誰を恨むつもりもないが、ただただ悲しいと思った。

*****

いったい何が起きたのか。
わからないままに三橋はただ呆然としていた。

律から阿部の怪我のことを聞いた三橋は、阿部に会いたいと思った。
そして勇気を振り絞ってメールを送ったのだ。
今夜、カフェ「エメラルド」で会えますか?と。
阿部からはすぐに「待ってる」と返信があった。
三橋は律に見立ててもらったコーディネイトで、カフェ「エメラルド」に向かった。

まるで恋する少女のようにドキドキする。
新しい服を褒めてくれるだろうか。
いや、それよりまずはあやまらなくては。
そもそも以前と同じように接してくれるかどうかもわからないのだ。
ここ最近「忙しい」を連発して、会うのをさけていたのだから。
あやまって許してもらって、これからも時々会ってもらえるか聞かなくてはいけない。

だが店に入ろうとした瞬間、三橋は背後から自分に駆け寄ってくる足音を聞いた。
ドタドタと重たい足音は、日頃運動していない人間のものだろう。
まさか阿部かと振り返った瞬間、三橋は「あ!」と声を上げた。
こちらに突進してくる男に見覚えはない。
だが明らかにこちらに危害を加えようという悪意が見て取れた。

暴漢にとって不運だったのは、律や千秋と違い、三橋はアスリートだったということだ。
しかも有名な野球選手であり、知らない人間に追いかけられるのも珍しくない。
特に対戦相手のチームのファンなど、時にはこちらを攻撃することもあったりする。

三橋は突進してくる男を、身を翻して避けた。
そうしながらチョンと右足を出して、男の足を引っかける。
男は「うおお!」と獣のような叫びを上げながら、盛大に転んだ。
ちょっとつんのめらせるだけのつもりだった三橋は慌てて「だ、だいじょぶ、ですか?」と声をかけた。

男が立ち上がった拍子に、カランと音を立てて何かが落ちた。
三橋は「何か、落ち、ました、よ」とまた声をかけた。
男がそれを拾おうとした瞬間、カフェ「エメラルド」から数人の男が飛び出してきた。
高野と羽鳥、蛭魔、そして阿部。
暴漢が転倒したときの音や叫び声を聞きつけたのだ。
最初に駆け寄った高野が三橋に「大丈夫か?」と聞いた

「お、俺は、平気、です。でも、あの人が」
三橋がもう1度視線を戻した時には、男はもう小さな後ろ姿になっていた。
店から出て来た高野たちに驚いて、逃げたようだ。
蛭魔が男が落とした「何か」を拾い上げている。
それは銀色のナイフで、街灯に照らされて不気味に光っている。

「怪我、してないな?」
いつの間にか三橋の真後ろ立っていた阿部が、そっと背後から抱きしめてくれる。
三橋は訳がわからないままに「は、はい」と答えた。
シュポーと湯気を吹き上げそうなほど顔が真っ赤になっていたが、夜なのでさほど目立たずにすんだ。

さすが現役アスリートの危機回避能力はあなどれない。
まったく自覚がないまま暴漢を撃退した三橋の武勇伝は、その後のカフェ「エメラルド」で評判になる。
だが今はとにかく怪我人が出なかったことに、店に集ったメンバーたちはホッとしていた。

【続く】
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