アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】
【フクジュソウ】
「ピッチャーの交代をお知らせします。」
三橋はベンチへと戻りながら、ぼんやりと球場の場内アナウンスを聞いていた。
いったいどうしたというのだろう?
プロに入ってから、いや今までの野球経験の中でも初めてかもしれない。
どうしても投球に集中できず、コントロールがバラついた。
三橋は思い通りにならない自分の投球に、焦りを感じていた。
それでも今日は味方の打線も調子がいいのが、幸いだった。
何とか際どいリードを保ちながら6回まで投げた。
だがついに同点に追いつかれたとき、ついに監督は投手交代を告げたのだった。
「まぁこんな日もあるさ」
同期でチームの中では一番仲がいい田島が、三橋の肩をポンと叩いて励ましてくれる。
他のチームメイトも同様だった。
今シーズン榛名に次ぐ勝ち星を上げ、チームはもうクライマックスシリーズへの出場を決めている。
少々調子が悪い日があっても、誰も三橋を咎めるようなことはしなかった。
「すみ、ません、でした」
三橋は辛抱強く6回まで使ってくれた監督に一礼すると、ベンチに腰を下ろした。
集中力を欠いている理由はたった1つ、阿部のことだ。
阿部が女性スタッフと付き合っているのだと聞かされて、どうにも気持ちが落ち着かない。
やっぱり多分これは恋なのだと、三橋は最近になってようやく気がついた。
とにかく阿部に会いたいし、阿部のことが気になる。
ふとした瞬間に阿部のことが頭に浮かんでしまって、集中力を欠いてしまうのだ。
さすがに三橋もプロであり、マウンドの上で阿部のことを思うようなことはなかった。
だがこの不調が万が一にも阿部への恋心から来るものだったら。
三橋は不安な気持ちを懸命に抑えながら、試合の行方を見守っていた。
もうネイルサロンには行かない方がいいのかもしれない。
ふとそう思った三橋は、ブンブンと首を振った。
セナに爪の施術を頼んでから、いつも以上にボールに爪がしっくり馴染むようになったのだ。
これを止めてしまうのは、プロとしていかがなものか。
それなら爪の手入れだけ頼んで、髪は頼まなければいいのだろうか?
試合はどうにか三橋のチームが勝ったが、三橋に勝ち星はつかない。
マウンドを降りた6回の時点で、同点だったからだ。
三橋は思わず「ハァァ」とため息をついた。
こうして勝ち星を取れるはずの試合を逃してしまったことが悔しい。
大好きな野球で、給料をもらって暮らしていけているのだ。
恋なんかにうつつを抜かして、立ち止まってなんかいられない。
*****
「今回はフクジュソウですよ」
セナは蛭魔にデザインの下絵を見せながら、口元をほころばせた。
だがその笑顔は固く、セナの今の気持ちを物語っている。
セナはまた蛭魔の爪に花を描いている。
今回の場所はネイルサロンの個室ではなく、蛭魔の自宅だ。
デザインを盗まれたという事態を受けて、徹底的に秘密厳守を考えた末のことだ。
蛭魔としては心置きなくセナと2人の時間が過ごせるので、喜ばしい事態だ。
ネイルサロン「デビルバッツ」の中には出張サービスもある。
だがやはり出張料や交通費もいただくので、利用する者はあまりいない。
セナもほとんど客の自宅に出向くのは、これが初めてだそうだ。
唯一、試合直前に爪を傷めたと榛名元希から依頼があったと知ったときは、蛭魔は少々嫉妬した。
だがその時は試合前のロッカールームで、とにかく慌ただしかったと聞いて、ほっとしたのだった。
「せっかく自宅なのに、爪がこんなんじゃ抱けねーな。」
蛭魔は爪の上で咲き始めた黄色い花を見ながら、文句を言った。
自宅で2人きりという艶っぽいシチュエーションだが、まだ爪が乾いていない。
不埒なことが仕掛けられないのが、残念で仕方がない。
「な、何を言ってるんですか!」
セナは顔を赤くしながら、筆を止めて抗議した。
気持ちを確かめ合った2人は、もう何度もお互いの家を訪れている。
もちろんキスも身体を重ねることもしてしまっている。
だがセナはいつまでたってもそういう行為に慣れない。
蛭魔はそこがかわいいと思うのだが、歯痒い気持ちもあるのだ。
「ところで蛭魔さん、髪はどうするんです?今は阿部君が怪我をしてますし。」
セナは相変わらず真剣な表情で爪に目を落としながら、そう聞いてきた。
今まではサロンの個室で、セナが爪を施術するのと同時に阿部に蛭魔の髪を任せていた。
だが今はセナだけがこうして蛭魔の部屋で爪を手入れしている。
髪は別に誰かに頼まなければならないのだ。
洗うのはセナが通ってしているのだが、切ったり染めるのは無理だ。
「さぁどうするかな。」
「『らーぜ』に頼んでおきますか?誰か代わりにやってくれると思いますが」
「気が進まない」
蛭魔は心持ち不機嫌な様子で、素っ気ない。
以前も阿部が都合が悪かった時に「らーぜ」の他の美容師に頼んだことはある。
だがやたらと話しかけてきて、ウンザリさせられたのだ。
やれ髪の色を変えたらどうだとか、新しいデザインをしてみないかとか。
挙句の果てには、次からは自分を指名しないかとまで言い出した。
いろいろと店内でも指名争いなどの競争は、こちらの気分を読まない美容師だった。
徹底して黙々と、でもきちんと希望通りの髪にしてくれる阿部とは大違いだ。
だからもう蛭魔はもう阿部以外の美容師に頼むのは面倒だと思っている。
「阿部、通り魔にやられたらしいな」
「ええ。狙われたのは『エメラルド』のお客さんで、それをかばったそうですが。」
「お前も気をつけろ。変なヤツが多いからな。」
蛭魔は勤めてさり気ない口調でそう言った。
阿部とは美容師と客という関係ではあるが、理不尽に怪我をさせられたと聞けば犯人に怒りが湧く。
もしセナが同じ目に合わされたら、怒りと悲しみで自分がどうなるか想像もつかない。
「蛭魔さんもですよ。有名人な分、狙われる確率は高いんですから。」
セナもまたさり気ない口調でそう言い返してきた。
心配する気持ちは同じなのだと思うと、蛭魔はどこか甘酸っぱいような気分になった。
*****
「一応、俺のストーカーっていうことなんでしょうね。」
律はまるで自分には関係がないと言わんばかりの口調でそう言った。
高野はそんな律の表情をじっと見ていた。
阿部が店まで襲われる事件があり、高野の店はカフェもバーも臨時休業していた。
元々小日向杏の件で、ネイルサロン「デビルバッツ」が注目されていた。
同じビル前での事件ということで注目が集まり、店の前には記者やカメラマンがうろついている。
普通の経営者ならチャンスとばかりに、報道陣まで客に取り込もうとするのかもしれない。
だが高野にはそんな欲もなく、ただただ鬱陶しいだけだ。
1週間ほど休んで、ようやくマスコミらしい人間もいなくなった。
翌日から店を開けようという夜、高野は今回の事件の関係者である2人を店に呼んでいた。
犯人に狙われた律と、とばっちりを食った阿部だ。
阿部はなぜ自分が怪我をすることになったのか、知りたいだろう。
律は嫌がるかと思ったが、意外にも素直に応じた。
どうやら律は責任感が強いようで、きちんと説明する義務があると思っているらしい。
ちょうど仕事を終えたセナが明かりがついているのを見て、店に入ってきた。
店は通常営業ではないのだと知って帰ろうとしたが、律は「別にかまいませんよ」と言った。
結局店内は高野と律、阿部とセナ、そしてバーテンダーの羽鳥とウエイターの千秋の6名になった。
「今から10年前、俺、誘拐されたことがあるんですよ。」
律はテーブル席の1つを陣取って、口を開いた。
高野が「10年前だと学生?」と聞いた。
カウンター席の椅子を客席の方に向けながら、じっと律を見ている。
阿部も同じように座りながら、包帯を巻いていない左手でグラスを口に運んでいた。
セナは律の隣のテーブル席におり、羽鳥と千秋はカウンターの中に立っている。
「高校生でした。でも童顔なんでせいぜい中学生にしか見えなかったようです。」
律は事務的な口調で自分の過去を話し始めた。
あまりにも淡々としすぎて、聞く者には逆に妙な壮絶さを感じさせた。
律は大企業の社長の息子として生まれ育った。
いわゆる温室育ちのお坊ちゃんでしたよ、と律は苦笑まじりに言った。
その律がある日突然、見知らぬ男に誘拐された。
営利目的の誘拐であり、律の両親に身代金の要求があったらしい。
らしいというのは、律当人は捕らえられており後から聞かされた話だからだ。
だが犯人は身代金を用意させたものの、受け取りの指示はなかった。
そして目撃証言などから警察は犯人を探り当て、律も救出された。
だが律は心身ともに、男に陵辱されていた。
服を剥ぎ取られ、散々身体を触られ。殴られた末に、ナイフで切りつけられた。
身体には今も傷が残っている。
レイプこそされていないが、レイプされたも同然だった。
犯人は元々金目的だったが、次第に律本人にこだわるようになったのだ。
「その犯人、最近出所したようです。この件があって初めて聞きました。」
律はその時だけ、唯一忌々しそうな口調だった。
こんな事件が起きて初めて、警察はその事実を教えてくれたそうだ。
その男はもうすでに警察に身柄を押さえられているという。
「一応、俺のストーカーっていうことなんでしょうね。」
律はまるで自分には関係がないと言わんばかりの口調でそう言った。
高野はそんな律の表情をじっと見ていた。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。治療費は必ず払いますから。」
律は席を立つと、阿部の前に立って頭を下げた。
そして高野にも一礼すると、そのまま店を出て行こうとする。
羽鳥が出したカクテルにも、律はついに口をつけなかった。
律は説明と謝罪のためだけに、ここに来たのだろう。
高野は「帰るなら、送る」と声をかけたが、律は首を振った。
「これ以上迷惑をかけたくありませんから。」
律はそれだけ言うと、さっさと店を出て行った。
高野は羽鳥に「後を頼む」と言い残すと、その背中を追いかけた。
このまま1人で帰してはいけない。
高野は咄嗟にそう思った。
律は多分、自分が傷ついていることさえ気付いていない。
とにかくこの危なっかしい状態から律を救い上げてやらなくてはいけないと思った。
*****
「阿部君、ちょっといいかな?」
律と高野が店を出て行った後、セナが阿部に声をかけてきた。
同じビルで働いているから、顔を合わせることはよくある。
だがこんな風に話を切り出したのは、初めてのことだ。
セナはどこか困ったような、迷うような表情だった。
「羽鳥さん、もう1杯だけお酒をいただいてもいいですか?」
阿部はカウンターの中の羽鳥に声をかける。
今日は営業ではなく高野に呼ばれてきたし、その高野は帰ってしまった。
だから羽鳥にまだ店にいてもいいかと声をかけたのだ。
「かまいません。こちらも明日の開店準備でまだ帰りませんので。1杯と言わず、ごゆっくり。」
羽鳥は何もかも心得た様子でそう答えると、奥のテーブルを手で示した。
千秋がすぐに察して、一番奥まった場所のテーブルに阿部とセナを案内した。
ここならばよほど声を張り上げない限り、羽鳥たちにも会話は聞こえない。
程なくして2人分の新しいカクテルが運ばれてくる。
本当に流れるような作業だった。
高野がサービス精神など欠片もない分、羽鳥と千秋は心遣いを鍛えられたのかもしれない。
「言おうか、どうしようか、迷ったんだけど。偶然今、阿部君と会ったし。」
セナはここまで来てまだ迷いを見せながら、切り出した。
阿部は焦れる気持ちを抑えながら「何でも言ってよ」と、答えた。
セナはカクテルで喉を湿らせると、思い切ったように口を開いた。
「三橋さんのことなんだけど」
「え?」
「この前、頼まれて自宅に行ったんだ。ネイルケアの出張サービス。」
「どうして!」
阿部は信じられない気持ちだった。
それはつまりもう髪を切るのを阿部には頼まないと言っているようなものではないか。
一緒に食事に行く程度には仲良くなったつもりなのに。
ここ最近会っていないし、メールも数回に1度しか返信が来ない
ひょっとして避けられているような気がしたが、気のせいではなかったのだ。
「実はその前に、阿部君が時間取れなくて、水谷君と代わった日があったでしょ?」
「ああ。コンテストの予選の日だ。」
「あの時から気になってて。水谷君、何か棘がある感じで。」
「どんな風に?」
「阿部君は女性スタッフや女性客にモテるとか、男性客の相手は本当は嫌なんだとか、遠ざける感じかな。」
「ハァァ?」
阿部は思わず声を上げていた。
真相は真逆だ。
阿部はどちらかというと女性の相手が苦手で、男性客の方が気楽だったりする。
「僕は先に終わったから後は任せたんだけど。帰りの会計の時、三橋さんしょんぼりしてて。」
セナは言い終ったものの、まだ困ったような表情だ。
三橋の様子が気になりつつ、告げ口みたいな真似をするのも躊躇われて迷ったのだろう。
だがセナだって人気のネイルアーティスト、それなりに人を見る目はある。
おそらく勘のようなもので、三橋と水谷の間で何かがあったと確信しているのだ。
「僕の思い過ごし、かもしれないけど」
「わかった。教えてくれて、サンキュ」
阿部は短く礼を言うと、グラスの酒を飲み干した。
まだ仕事は休みだが、明日は店に来て早急に水谷にしなくてはいけないだろう。
*****
「やっぱり君だったんだ。」
セナは肩を落として、ため息をついた。
予想した人物の予想通りの行動だったのだが、内心はまさかと思っていたからだ。
セナは「毒花」シリーズのデザインを盗んだ犯人に、心当たりがあった。
ミーティングでデザインの下絵を店に置かないと通達した日、様子がおかしい人物がいたのだ。
彼女はこれからはデザインを自宅に置くと告げた瞬間、剣呑な表情で唇を噛みしめていた。
まさかと思い、でももしやと思ったセナは、行動に出た。
ネイルサロン「デビルバッツ」は、年中無休で営業している。
必然的にスタッフは交代で休みを取る。
今日はセナは出勤日だが、彼女は休日だ。
だがセナは当日、理由をつけて急に店を休んだ。
そして借りているマンションを出ると、物陰からずっとエントランスを見張っていた。
2時間ほど待った後、彼女が現れたときにはセナは絶望的な気分になった。
仕事中にこっそりとスタッフルームのロッカーを開けて、セナの部屋の合鍵を作るのは簡単だろう。
彼女はセナの部屋に忍び込んで、絵を盗もうとしに来たとしか思えない。
セナは少しだけ時間を空けて、自分の部屋に戻った。
それでも何かの偶然であって欲しいと心のどこかで思っていた。
例えばたまたま彼女の友人が、このマンションに住んでいるとか。
だが自分の部屋のドアを開けて、彼女がいたときにはもう疑う余地などなかった。
「やっぱり君だったんだ。」
セナは肩を落として、ため息をついた。
彼女-瀧鈴音はセナを見た瞬間、何が起きたのか悟ったようだ。
いつも人懐っこい笑顔の鈴音が、不貞腐れたような表情に変わった。
「どうしてこんなことしたの?」
「どうして?こっちのセリフよ。何でこんな騙まし討ちをするのよ!」
「『毒花』シリーズは蛭魔さんのために作った、大事なものなんだ。だから」
「そうよね。セナはたまたま蛭魔妖一の担当になったから、私たちとは違うもんね!」
「僕のことを、そんな風に思ってたんだ。」
鈴音の剣幕に圧倒されながら、セナは必死で困惑する自分を隠していた。
確かに最初にセナが蛭魔の担当になったのは、偶然だ。
だがそのせいで何かが特別なのだと思ったことはない。
その後も蛭魔と店でも個人的にも付き合いがあるのは偶然ではない、と思いたい。
「小日向杏のネイルに『毒花』シリーズを描いたのは私よ。それを雑な絵ですって?」
鈴音の言葉に、セナは驚き、目を見開いた。
確かにテレビ越しに小日向杏の爪を見たとき、盗まれたことと同じくらいその雑さに腹が立った。
だからあのとき確かにそんなことを口走ったかもしれない。
「とにかく帰って。店長には報告するから。」
セナが最後とばかりにそう言うと、鈴音は黙って部屋を出て行く。
その背中にセナは声をかけた。
「悪いけど『毒花』シリーズの下絵はここにはない。蛭魔さんに預かってもらってるんだ。」
だからもう忍び込んでも無駄だと釘を刺したつもりだった。
もちろんデザイン画を蛭魔が持っているのも本当のことだった。
言葉もないまま、バタンと大きな音がした。
鈴音が怒りと共にドアを閉めた音だ。
続いて聞こえるカツカツと遠ざかる足音で、セナは友人を失ったのだと思った。
涙は出なかったが、どうしようもなく寂しかった。
*****
「俺、どうなっちゃうんだろう」
律はポツリとそう呟くと、両手でグシャグシャと髪をかき回した。
律は高野の部屋で朝を迎えていた。
昨晩カフェ「エメラルド」に呼ばれて、阿部に謝罪した後、すぐに帰るつもりだった。
なのに高野に追いつかれて、タクシーに押し込まれた。
そしてそのままここに連れてこられたのだ。
おかしい。絶対におかしい。
高野は確かに「帰るなら、送る」って言ったはずだ。
それなのにどうして高野の部屋で、しかも2人とも裸で、ベットの中にいるんだろう。
しかも前のように酒に酔って連れ込まれたわけじゃないのだ。
だが過去の事件も今回の事件も「お前が悪いんじゃない」と言われて、その腕にすがってしまった。
「もしかして俺、この人が好きになったのか?」
律は未だに眠っている高野を見ながら、ため息をつく。
高野は何度も律を好きだ、愛してると甘い言葉を囁き、ごく自然に唇を重ねた。
そしてほんの一瞬で、身体もその一線を越えてしまったのだ。
正直言って、快感などなかった。
ただただ痛くてつらくて、ボロボロと涙が零れた。
それでも不思議と満たされるような気もした。
過去に陰惨な事件に巻き込まれたせいで、律は誰かに恋をするということがなかった。
だからこの気持ちがなんなのか、よくわからないのだ。
ふと聞き慣れた電子音がして、律はベットから出た。
律の携帯電話が鳴っているのだ。
杏も活動停止中だし、律も事件のことがあるので、仕事はしばらく休んでいる。
なにか事務所で不測の事態でもあったのだろうか。
『もしもし、小野寺さん?』
よく確認しないで電話に出た律は「どうも」と声を上げた。
相手は先日の事件を担当した警察官だ。
そして聞かされた内容に、律は思わず携帯電話を取り落とした。
「何だ?電話か?」
電話の気配で目を覚ました高野が身体を起こした。
だが律は動揺のあまり、すぐに答えることができなかった。
ただならぬ気配に、高野は律の携帯を拾い上げた。
通話はすでに切れている。
高野が律の肩を掴んで「どうしたんだ?」と揺さぶる。
「10年前の犯人は、出所した後、入院していたようです。」
「何?」
「この前襲ってきた男は、10年前の犯人ではないって。。。」
律はうわ言のように、刑事から聞かされた事実を繰り返した。
10年前のあの犯人が今回の犯人でないなら、誰だというのだろう?
わかっているのはただ1つ。
律を襲い、阿部に怪我をさせたあの通り魔は、今も普通に街で暮らしているのだ。
高野が律の肩を引き寄せると、そっと抱き寄せた。
律は高野の肌の温かさにすがるように、身体を預けていた。
*****
「今日は早めに閉店しようか。」
高野は誰もいない店内を見回すと、苦笑する。
羽鳥も「そうですね」と頷くと、千秋に目で合図をする。
千秋は「了解!」と元気よく答えて、店を出て行く。
店の外に掲げている「OPEN」の札を「CLOSE」に変えるためだ。
「しばらくはお客様もいらっしゃらないかもしれませんね。」
羽鳥は苦笑しながら、カクテルを作り始める。
閉店なので従業員用、つまり高野と羽鳥と千秋の分を作るためだ。
夜は会員制の「エメラルド」だが、会員はさほど多くない。
多分会員が全員来店しても、全員余裕で座ることができるほどだ。
しかもついこの間は予告もなく1週間も店を閉めていた。
客足が遠のいてしまっても仕方がない。
「お前もこんな暇な店のバーテンダーでつまらなくないか?」
高野はからかうようにそう言った。
羽鳥も昔は銀座の老舗のバーでシェイカーを振っていたのだ。
「いえ。味のわかるお客様にお作りできるのは楽しいですから。」
羽鳥は高野の前にグラスを置きながら、そう言った。
それは偽りのない羽鳥の本心だった。
高野が認めた会員は、みな舌が肥えている。
そんな客たちが真剣に味わってくれるカクテルを作るのは、バーテンダーの醍醐味だ。
その時、バタンと店の外で大きな音がした。
おそらくは何か大きな物、もしくは人が店のドアにぶつかった音だ。
高野は一瞬だけ羽鳥と顔を見合わせたが、すぐにグラスを置いてドアに向かう。
羽鳥も何だか嫌な予感がして、高野の後に続いた。
「千秋!?」
外に出た瞬間、羽鳥は声を上げた。
店のドアの前に千秋が倒れていたのだ。
そして黒い人影がバタバタと逃げ去っていく。
高野はその黒い影を追いかけて、走り出した。
「大丈夫か、千秋?」
羽鳥は抱き起こして声をかけたが、千秋は目を開けない。
そしてその脇腹から出血している見つけて、愕然とした。
多分自分が怪我をしたとしても、これほど身体が震えないだろう。
結局犯人を取り逃がした高野が戻ってきて、救急車を呼んでくれた。
羽鳥は何も考えられず、ただ千秋を呼びながら震えることしかできなかった。
先日の通り魔と同じ犯人なのかなどと考えたのは、随分後になってからだ。
【続く】
「ピッチャーの交代をお知らせします。」
三橋はベンチへと戻りながら、ぼんやりと球場の場内アナウンスを聞いていた。
いったいどうしたというのだろう?
プロに入ってから、いや今までの野球経験の中でも初めてかもしれない。
どうしても投球に集中できず、コントロールがバラついた。
三橋は思い通りにならない自分の投球に、焦りを感じていた。
それでも今日は味方の打線も調子がいいのが、幸いだった。
何とか際どいリードを保ちながら6回まで投げた。
だがついに同点に追いつかれたとき、ついに監督は投手交代を告げたのだった。
「まぁこんな日もあるさ」
同期でチームの中では一番仲がいい田島が、三橋の肩をポンと叩いて励ましてくれる。
他のチームメイトも同様だった。
今シーズン榛名に次ぐ勝ち星を上げ、チームはもうクライマックスシリーズへの出場を決めている。
少々調子が悪い日があっても、誰も三橋を咎めるようなことはしなかった。
「すみ、ません、でした」
三橋は辛抱強く6回まで使ってくれた監督に一礼すると、ベンチに腰を下ろした。
集中力を欠いている理由はたった1つ、阿部のことだ。
阿部が女性スタッフと付き合っているのだと聞かされて、どうにも気持ちが落ち着かない。
やっぱり多分これは恋なのだと、三橋は最近になってようやく気がついた。
とにかく阿部に会いたいし、阿部のことが気になる。
ふとした瞬間に阿部のことが頭に浮かんでしまって、集中力を欠いてしまうのだ。
さすがに三橋もプロであり、マウンドの上で阿部のことを思うようなことはなかった。
だがこの不調が万が一にも阿部への恋心から来るものだったら。
三橋は不安な気持ちを懸命に抑えながら、試合の行方を見守っていた。
もうネイルサロンには行かない方がいいのかもしれない。
ふとそう思った三橋は、ブンブンと首を振った。
セナに爪の施術を頼んでから、いつも以上にボールに爪がしっくり馴染むようになったのだ。
これを止めてしまうのは、プロとしていかがなものか。
それなら爪の手入れだけ頼んで、髪は頼まなければいいのだろうか?
試合はどうにか三橋のチームが勝ったが、三橋に勝ち星はつかない。
マウンドを降りた6回の時点で、同点だったからだ。
三橋は思わず「ハァァ」とため息をついた。
こうして勝ち星を取れるはずの試合を逃してしまったことが悔しい。
大好きな野球で、給料をもらって暮らしていけているのだ。
恋なんかにうつつを抜かして、立ち止まってなんかいられない。
*****
「今回はフクジュソウですよ」
セナは蛭魔にデザインの下絵を見せながら、口元をほころばせた。
だがその笑顔は固く、セナの今の気持ちを物語っている。
セナはまた蛭魔の爪に花を描いている。
今回の場所はネイルサロンの個室ではなく、蛭魔の自宅だ。
デザインを盗まれたという事態を受けて、徹底的に秘密厳守を考えた末のことだ。
蛭魔としては心置きなくセナと2人の時間が過ごせるので、喜ばしい事態だ。
ネイルサロン「デビルバッツ」の中には出張サービスもある。
だがやはり出張料や交通費もいただくので、利用する者はあまりいない。
セナもほとんど客の自宅に出向くのは、これが初めてだそうだ。
唯一、試合直前に爪を傷めたと榛名元希から依頼があったと知ったときは、蛭魔は少々嫉妬した。
だがその時は試合前のロッカールームで、とにかく慌ただしかったと聞いて、ほっとしたのだった。
「せっかく自宅なのに、爪がこんなんじゃ抱けねーな。」
蛭魔は爪の上で咲き始めた黄色い花を見ながら、文句を言った。
自宅で2人きりという艶っぽいシチュエーションだが、まだ爪が乾いていない。
不埒なことが仕掛けられないのが、残念で仕方がない。
「な、何を言ってるんですか!」
セナは顔を赤くしながら、筆を止めて抗議した。
気持ちを確かめ合った2人は、もう何度もお互いの家を訪れている。
もちろんキスも身体を重ねることもしてしまっている。
だがセナはいつまでたってもそういう行為に慣れない。
蛭魔はそこがかわいいと思うのだが、歯痒い気持ちもあるのだ。
「ところで蛭魔さん、髪はどうするんです?今は阿部君が怪我をしてますし。」
セナは相変わらず真剣な表情で爪に目を落としながら、そう聞いてきた。
今まではサロンの個室で、セナが爪を施術するのと同時に阿部に蛭魔の髪を任せていた。
だが今はセナだけがこうして蛭魔の部屋で爪を手入れしている。
髪は別に誰かに頼まなければならないのだ。
洗うのはセナが通ってしているのだが、切ったり染めるのは無理だ。
「さぁどうするかな。」
「『らーぜ』に頼んでおきますか?誰か代わりにやってくれると思いますが」
「気が進まない」
蛭魔は心持ち不機嫌な様子で、素っ気ない。
以前も阿部が都合が悪かった時に「らーぜ」の他の美容師に頼んだことはある。
だがやたらと話しかけてきて、ウンザリさせられたのだ。
やれ髪の色を変えたらどうだとか、新しいデザインをしてみないかとか。
挙句の果てには、次からは自分を指名しないかとまで言い出した。
いろいろと店内でも指名争いなどの競争は、こちらの気分を読まない美容師だった。
徹底して黙々と、でもきちんと希望通りの髪にしてくれる阿部とは大違いだ。
だからもう蛭魔はもう阿部以外の美容師に頼むのは面倒だと思っている。
「阿部、通り魔にやられたらしいな」
「ええ。狙われたのは『エメラルド』のお客さんで、それをかばったそうですが。」
「お前も気をつけろ。変なヤツが多いからな。」
蛭魔は勤めてさり気ない口調でそう言った。
阿部とは美容師と客という関係ではあるが、理不尽に怪我をさせられたと聞けば犯人に怒りが湧く。
もしセナが同じ目に合わされたら、怒りと悲しみで自分がどうなるか想像もつかない。
「蛭魔さんもですよ。有名人な分、狙われる確率は高いんですから。」
セナもまたさり気ない口調でそう言い返してきた。
心配する気持ちは同じなのだと思うと、蛭魔はどこか甘酸っぱいような気分になった。
*****
「一応、俺のストーカーっていうことなんでしょうね。」
律はまるで自分には関係がないと言わんばかりの口調でそう言った。
高野はそんな律の表情をじっと見ていた。
阿部が店まで襲われる事件があり、高野の店はカフェもバーも臨時休業していた。
元々小日向杏の件で、ネイルサロン「デビルバッツ」が注目されていた。
同じビル前での事件ということで注目が集まり、店の前には記者やカメラマンがうろついている。
普通の経営者ならチャンスとばかりに、報道陣まで客に取り込もうとするのかもしれない。
だが高野にはそんな欲もなく、ただただ鬱陶しいだけだ。
1週間ほど休んで、ようやくマスコミらしい人間もいなくなった。
翌日から店を開けようという夜、高野は今回の事件の関係者である2人を店に呼んでいた。
犯人に狙われた律と、とばっちりを食った阿部だ。
阿部はなぜ自分が怪我をすることになったのか、知りたいだろう。
律は嫌がるかと思ったが、意外にも素直に応じた。
どうやら律は責任感が強いようで、きちんと説明する義務があると思っているらしい。
ちょうど仕事を終えたセナが明かりがついているのを見て、店に入ってきた。
店は通常営業ではないのだと知って帰ろうとしたが、律は「別にかまいませんよ」と言った。
結局店内は高野と律、阿部とセナ、そしてバーテンダーの羽鳥とウエイターの千秋の6名になった。
「今から10年前、俺、誘拐されたことがあるんですよ。」
律はテーブル席の1つを陣取って、口を開いた。
高野が「10年前だと学生?」と聞いた。
カウンター席の椅子を客席の方に向けながら、じっと律を見ている。
阿部も同じように座りながら、包帯を巻いていない左手でグラスを口に運んでいた。
セナは律の隣のテーブル席におり、羽鳥と千秋はカウンターの中に立っている。
「高校生でした。でも童顔なんでせいぜい中学生にしか見えなかったようです。」
律は事務的な口調で自分の過去を話し始めた。
あまりにも淡々としすぎて、聞く者には逆に妙な壮絶さを感じさせた。
律は大企業の社長の息子として生まれ育った。
いわゆる温室育ちのお坊ちゃんでしたよ、と律は苦笑まじりに言った。
その律がある日突然、見知らぬ男に誘拐された。
営利目的の誘拐であり、律の両親に身代金の要求があったらしい。
らしいというのは、律当人は捕らえられており後から聞かされた話だからだ。
だが犯人は身代金を用意させたものの、受け取りの指示はなかった。
そして目撃証言などから警察は犯人を探り当て、律も救出された。
だが律は心身ともに、男に陵辱されていた。
服を剥ぎ取られ、散々身体を触られ。殴られた末に、ナイフで切りつけられた。
身体には今も傷が残っている。
レイプこそされていないが、レイプされたも同然だった。
犯人は元々金目的だったが、次第に律本人にこだわるようになったのだ。
「その犯人、最近出所したようです。この件があって初めて聞きました。」
律はその時だけ、唯一忌々しそうな口調だった。
こんな事件が起きて初めて、警察はその事実を教えてくれたそうだ。
その男はもうすでに警察に身柄を押さえられているという。
「一応、俺のストーカーっていうことなんでしょうね。」
律はまるで自分には関係がないと言わんばかりの口調でそう言った。
高野はそんな律の表情をじっと見ていた。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。治療費は必ず払いますから。」
律は席を立つと、阿部の前に立って頭を下げた。
そして高野にも一礼すると、そのまま店を出て行こうとする。
羽鳥が出したカクテルにも、律はついに口をつけなかった。
律は説明と謝罪のためだけに、ここに来たのだろう。
高野は「帰るなら、送る」と声をかけたが、律は首を振った。
「これ以上迷惑をかけたくありませんから。」
律はそれだけ言うと、さっさと店を出て行った。
高野は羽鳥に「後を頼む」と言い残すと、その背中を追いかけた。
このまま1人で帰してはいけない。
高野は咄嗟にそう思った。
律は多分、自分が傷ついていることさえ気付いていない。
とにかくこの危なっかしい状態から律を救い上げてやらなくてはいけないと思った。
*****
「阿部君、ちょっといいかな?」
律と高野が店を出て行った後、セナが阿部に声をかけてきた。
同じビルで働いているから、顔を合わせることはよくある。
だがこんな風に話を切り出したのは、初めてのことだ。
セナはどこか困ったような、迷うような表情だった。
「羽鳥さん、もう1杯だけお酒をいただいてもいいですか?」
阿部はカウンターの中の羽鳥に声をかける。
今日は営業ではなく高野に呼ばれてきたし、その高野は帰ってしまった。
だから羽鳥にまだ店にいてもいいかと声をかけたのだ。
「かまいません。こちらも明日の開店準備でまだ帰りませんので。1杯と言わず、ごゆっくり。」
羽鳥は何もかも心得た様子でそう答えると、奥のテーブルを手で示した。
千秋がすぐに察して、一番奥まった場所のテーブルに阿部とセナを案内した。
ここならばよほど声を張り上げない限り、羽鳥たちにも会話は聞こえない。
程なくして2人分の新しいカクテルが運ばれてくる。
本当に流れるような作業だった。
高野がサービス精神など欠片もない分、羽鳥と千秋は心遣いを鍛えられたのかもしれない。
「言おうか、どうしようか、迷ったんだけど。偶然今、阿部君と会ったし。」
セナはここまで来てまだ迷いを見せながら、切り出した。
阿部は焦れる気持ちを抑えながら「何でも言ってよ」と、答えた。
セナはカクテルで喉を湿らせると、思い切ったように口を開いた。
「三橋さんのことなんだけど」
「え?」
「この前、頼まれて自宅に行ったんだ。ネイルケアの出張サービス。」
「どうして!」
阿部は信じられない気持ちだった。
それはつまりもう髪を切るのを阿部には頼まないと言っているようなものではないか。
一緒に食事に行く程度には仲良くなったつもりなのに。
ここ最近会っていないし、メールも数回に1度しか返信が来ない
ひょっとして避けられているような気がしたが、気のせいではなかったのだ。
「実はその前に、阿部君が時間取れなくて、水谷君と代わった日があったでしょ?」
「ああ。コンテストの予選の日だ。」
「あの時から気になってて。水谷君、何か棘がある感じで。」
「どんな風に?」
「阿部君は女性スタッフや女性客にモテるとか、男性客の相手は本当は嫌なんだとか、遠ざける感じかな。」
「ハァァ?」
阿部は思わず声を上げていた。
真相は真逆だ。
阿部はどちらかというと女性の相手が苦手で、男性客の方が気楽だったりする。
「僕は先に終わったから後は任せたんだけど。帰りの会計の時、三橋さんしょんぼりしてて。」
セナは言い終ったものの、まだ困ったような表情だ。
三橋の様子が気になりつつ、告げ口みたいな真似をするのも躊躇われて迷ったのだろう。
だがセナだって人気のネイルアーティスト、それなりに人を見る目はある。
おそらく勘のようなもので、三橋と水谷の間で何かがあったと確信しているのだ。
「僕の思い過ごし、かもしれないけど」
「わかった。教えてくれて、サンキュ」
阿部は短く礼を言うと、グラスの酒を飲み干した。
まだ仕事は休みだが、明日は店に来て早急に水谷にしなくてはいけないだろう。
*****
「やっぱり君だったんだ。」
セナは肩を落として、ため息をついた。
予想した人物の予想通りの行動だったのだが、内心はまさかと思っていたからだ。
セナは「毒花」シリーズのデザインを盗んだ犯人に、心当たりがあった。
ミーティングでデザインの下絵を店に置かないと通達した日、様子がおかしい人物がいたのだ。
彼女はこれからはデザインを自宅に置くと告げた瞬間、剣呑な表情で唇を噛みしめていた。
まさかと思い、でももしやと思ったセナは、行動に出た。
ネイルサロン「デビルバッツ」は、年中無休で営業している。
必然的にスタッフは交代で休みを取る。
今日はセナは出勤日だが、彼女は休日だ。
だがセナは当日、理由をつけて急に店を休んだ。
そして借りているマンションを出ると、物陰からずっとエントランスを見張っていた。
2時間ほど待った後、彼女が現れたときにはセナは絶望的な気分になった。
仕事中にこっそりとスタッフルームのロッカーを開けて、セナの部屋の合鍵を作るのは簡単だろう。
彼女はセナの部屋に忍び込んで、絵を盗もうとしに来たとしか思えない。
セナは少しだけ時間を空けて、自分の部屋に戻った。
それでも何かの偶然であって欲しいと心のどこかで思っていた。
例えばたまたま彼女の友人が、このマンションに住んでいるとか。
だが自分の部屋のドアを開けて、彼女がいたときにはもう疑う余地などなかった。
「やっぱり君だったんだ。」
セナは肩を落として、ため息をついた。
彼女-瀧鈴音はセナを見た瞬間、何が起きたのか悟ったようだ。
いつも人懐っこい笑顔の鈴音が、不貞腐れたような表情に変わった。
「どうしてこんなことしたの?」
「どうして?こっちのセリフよ。何でこんな騙まし討ちをするのよ!」
「『毒花』シリーズは蛭魔さんのために作った、大事なものなんだ。だから」
「そうよね。セナはたまたま蛭魔妖一の担当になったから、私たちとは違うもんね!」
「僕のことを、そんな風に思ってたんだ。」
鈴音の剣幕に圧倒されながら、セナは必死で困惑する自分を隠していた。
確かに最初にセナが蛭魔の担当になったのは、偶然だ。
だがそのせいで何かが特別なのだと思ったことはない。
その後も蛭魔と店でも個人的にも付き合いがあるのは偶然ではない、と思いたい。
「小日向杏のネイルに『毒花』シリーズを描いたのは私よ。それを雑な絵ですって?」
鈴音の言葉に、セナは驚き、目を見開いた。
確かにテレビ越しに小日向杏の爪を見たとき、盗まれたことと同じくらいその雑さに腹が立った。
だからあのとき確かにそんなことを口走ったかもしれない。
「とにかく帰って。店長には報告するから。」
セナが最後とばかりにそう言うと、鈴音は黙って部屋を出て行く。
その背中にセナは声をかけた。
「悪いけど『毒花』シリーズの下絵はここにはない。蛭魔さんに預かってもらってるんだ。」
だからもう忍び込んでも無駄だと釘を刺したつもりだった。
もちろんデザイン画を蛭魔が持っているのも本当のことだった。
言葉もないまま、バタンと大きな音がした。
鈴音が怒りと共にドアを閉めた音だ。
続いて聞こえるカツカツと遠ざかる足音で、セナは友人を失ったのだと思った。
涙は出なかったが、どうしようもなく寂しかった。
*****
「俺、どうなっちゃうんだろう」
律はポツリとそう呟くと、両手でグシャグシャと髪をかき回した。
律は高野の部屋で朝を迎えていた。
昨晩カフェ「エメラルド」に呼ばれて、阿部に謝罪した後、すぐに帰るつもりだった。
なのに高野に追いつかれて、タクシーに押し込まれた。
そしてそのままここに連れてこられたのだ。
おかしい。絶対におかしい。
高野は確かに「帰るなら、送る」って言ったはずだ。
それなのにどうして高野の部屋で、しかも2人とも裸で、ベットの中にいるんだろう。
しかも前のように酒に酔って連れ込まれたわけじゃないのだ。
だが過去の事件も今回の事件も「お前が悪いんじゃない」と言われて、その腕にすがってしまった。
「もしかして俺、この人が好きになったのか?」
律は未だに眠っている高野を見ながら、ため息をつく。
高野は何度も律を好きだ、愛してると甘い言葉を囁き、ごく自然に唇を重ねた。
そしてほんの一瞬で、身体もその一線を越えてしまったのだ。
正直言って、快感などなかった。
ただただ痛くてつらくて、ボロボロと涙が零れた。
それでも不思議と満たされるような気もした。
過去に陰惨な事件に巻き込まれたせいで、律は誰かに恋をするということがなかった。
だからこの気持ちがなんなのか、よくわからないのだ。
ふと聞き慣れた電子音がして、律はベットから出た。
律の携帯電話が鳴っているのだ。
杏も活動停止中だし、律も事件のことがあるので、仕事はしばらく休んでいる。
なにか事務所で不測の事態でもあったのだろうか。
『もしもし、小野寺さん?』
よく確認しないで電話に出た律は「どうも」と声を上げた。
相手は先日の事件を担当した警察官だ。
そして聞かされた内容に、律は思わず携帯電話を取り落とした。
「何だ?電話か?」
電話の気配で目を覚ました高野が身体を起こした。
だが律は動揺のあまり、すぐに答えることができなかった。
ただならぬ気配に、高野は律の携帯を拾い上げた。
通話はすでに切れている。
高野が律の肩を掴んで「どうしたんだ?」と揺さぶる。
「10年前の犯人は、出所した後、入院していたようです。」
「何?」
「この前襲ってきた男は、10年前の犯人ではないって。。。」
律はうわ言のように、刑事から聞かされた事実を繰り返した。
10年前のあの犯人が今回の犯人でないなら、誰だというのだろう?
わかっているのはただ1つ。
律を襲い、阿部に怪我をさせたあの通り魔は、今も普通に街で暮らしているのだ。
高野が律の肩を引き寄せると、そっと抱き寄せた。
律は高野の肌の温かさにすがるように、身体を預けていた。
*****
「今日は早めに閉店しようか。」
高野は誰もいない店内を見回すと、苦笑する。
羽鳥も「そうですね」と頷くと、千秋に目で合図をする。
千秋は「了解!」と元気よく答えて、店を出て行く。
店の外に掲げている「OPEN」の札を「CLOSE」に変えるためだ。
「しばらくはお客様もいらっしゃらないかもしれませんね。」
羽鳥は苦笑しながら、カクテルを作り始める。
閉店なので従業員用、つまり高野と羽鳥と千秋の分を作るためだ。
夜は会員制の「エメラルド」だが、会員はさほど多くない。
多分会員が全員来店しても、全員余裕で座ることができるほどだ。
しかもついこの間は予告もなく1週間も店を閉めていた。
客足が遠のいてしまっても仕方がない。
「お前もこんな暇な店のバーテンダーでつまらなくないか?」
高野はからかうようにそう言った。
羽鳥も昔は銀座の老舗のバーでシェイカーを振っていたのだ。
「いえ。味のわかるお客様にお作りできるのは楽しいですから。」
羽鳥は高野の前にグラスを置きながら、そう言った。
それは偽りのない羽鳥の本心だった。
高野が認めた会員は、みな舌が肥えている。
そんな客たちが真剣に味わってくれるカクテルを作るのは、バーテンダーの醍醐味だ。
その時、バタンと店の外で大きな音がした。
おそらくは何か大きな物、もしくは人が店のドアにぶつかった音だ。
高野は一瞬だけ羽鳥と顔を見合わせたが、すぐにグラスを置いてドアに向かう。
羽鳥も何だか嫌な予感がして、高野の後に続いた。
「千秋!?」
外に出た瞬間、羽鳥は声を上げた。
店のドアの前に千秋が倒れていたのだ。
そして黒い人影がバタバタと逃げ去っていく。
高野はその黒い影を追いかけて、走り出した。
「大丈夫か、千秋?」
羽鳥は抱き起こして声をかけたが、千秋は目を開けない。
そしてその脇腹から出血している見つけて、愕然とした。
多分自分が怪我をしたとしても、これほど身体が震えないだろう。
結局犯人を取り逃がした高野が戻ってきて、救急車を呼んでくれた。
羽鳥は何も考えられず、ただ千秋を呼びながら震えることしかできなかった。
先日の通り魔と同じ犯人なのかなどと考えたのは、随分後になってからだ。
【続く】