アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】
【レンゲツツジ】
見つけた。
たまたまテレビを見ていた男は驚き、頬がゆるんだ。
だが顔に浮かべた笑みは決して純粋ではなく、歪んだ寒々しいものだった。
本当に偶然だった。
たまたまつけたテレビでは、ワイドショーのような番組をしていた。
アイドルだか女優だか知らない若い女性タレントが芸能記者に囲まれていた。
写真週刊誌に男と2人の写真を撮られてしまったらしく、その説明の会見らしい。
くだらないと思った。
男はこの女性タレントを知らなかったし、知っていてもどうでもいいと思っただろう。
この女は20歳か、10代後半くらいだろうか。
この年齢で芸能界なんて場所で仕事をしているのだ。
男の1人や2人いたって不思議はないではないか。
チャンネルを変えようとした途端に、男はリモコンを取り落とした。
会見に割って入って「すみません。もうこのへんで」と声を張り上げた青年を見たからだ。
まさかと思った。
最後に会ったのは、もう10年以上昔のことだ。
あの頃はまだかわいい少年だった。
彼と引き離されることになり、ようやく自由の身になった時には消息がわからなくなっていた。
テレビ画面に一瞬映った青年は、昔の面影を充分に残していた。
やわらかい茶色の髪と、整った美貌、そして綺麗な色の瞳。
間違うはずがない。
彼は男が捜し求めたあの少年だ。
小日向杏。男は女性タレントの名を頭に刻み込んだ。
記者会見の場にいて、それに割り込んで終了させたのなら、この女の関係者だ。
おそらくは彼女の事務所の人間だろう。
もうすぐ迎えに行くよ。律。
テレビはもう別の話題に変わっている。
だが男はまだそこにあの青年が映っているかのように、不気味な笑顔を向けていた。
*****
「今回も力作だな」
蛭魔は今日も自分の爪に精緻な絵を施すセナに声をかけた。
爪の上には少しオレンジがかったピンク色の花が咲き始めている。
セナは顔を伏せたまま「頑張ります」と答え、筆を動かしていた。
蛭魔はその真剣な横顔が愛おしいと思う。
「今回はレンゲツツジです。」
セナは蛭魔にそれだけ言うと、黙々と絵を入れる作業にかかった。
普段のセナなら、こういう花が綺麗だとか、でもこんな毒があるとか、その花について語るのに。
今のセナにはそんな余裕はない。
蛭魔にもその理由はよくわかっていた。
小日向杏が蛭魔のネイルアートに模したものをしていたことはセナにとって衝撃だった。
単にパクられたという話ではない。
問題は先日蛭魔の爪に新しいデザインの絵を入れてから、ほとんど時間が経っていないことだった。
蛭魔は前回の「曼珠沙華」ではテレビ出演をしていない。
いくつかのステージはこなしたが、いずれもカメラなどでの撮影は禁止していた。
つまり蛭魔の爪を見て、その絵を盗んだ可能性はほとんどなかった。
そうなると可能性は1つしかない。
セナは蛭魔の爪の花のデザインをイラスト風の図案にして、ネイルサロンに置いてある。
蛭魔は爪にすごく気を使っているが、万が一のアクシデントで傷が入ってしまう可能性もある。
そんなときセナがサロンに不在でも、他の担当者が手直しできるようにだ。
これは店の決まりで、セナだけでなく他のネイルアーティストたちも同様にしている。
幸い蛭魔の爪はセナ以外の人間が触ったことはないが、セナは担当以外の客の対応をしたこともある。
つまり店の誰かがセナのデザインを盗んだと考えるのが、一番自然なのだ。
セナは顔色も悪く、目の下にクマができていた。
これから先に描く予定だった「毒花」シリーズは全て破棄し、新しいデザインを作っていたせいだ。
盗まれてしまったものを使うのは、セナのプロとしてのプライドが許さないのだ。
さらに同じ店で働く者たちを疑うのがつらくて、眠れないらしい。
蛭魔はとにかくセナのことが心配だった。
まったく誰の仕業か知らないが、セナを追い詰める者は許せない。
「まぁパクられるってことは、いいデザインだってことだよな。」
「え?」
蛭魔の言葉にセナは顔を上げた。
やつれたその顔も艶っぽいなどと、蛭魔は不埒なことを考えた。
「自信を持て。お前の絵がいいからパクろうなんてヤツがいるんだ。」
「あ、ありがとうございます。」
「今日の夜は『エメラルド』で飲んでるから、店が終わったら来いよ。」
セナは顔を赤らめると、すぐにコクンと頷いた。
もちろんそれは食事だけではなく、その後夜を一緒に過ごそうという意味がこもっている。
同時作業で阿部が髪に染色を施していたが、蛭魔は気にしなかった。
背後の阿部は聞こえていない様子で手を動かしているが、きっと苦笑しているに違いない。
*****
「こ、こんにち、は」
三橋廉はネイルサロンの個室に入ると、初対面の美容師に挨拶をした。
相手は人懐っこい笑顔で「よろしく。水谷です」と笑った。
三橋はネイルサロン「デビルバッツ」に来ていた。
週に1度、毎回決まった日、決まった時間に三橋は通っている。
最初は爪の手入れにわざわざお金を払う必要などないと思っていた。
だけどセナに爪を頼んでから、本当に投球の調子がいい。
同じビルの1階の風変わりなカフェは面白いし、会員になった今は美味しいものを食べさせてもらっている。
髪を切るのは2週間に1度、爪の手入れと同時作業で頼んでいる。
美容師の阿部と会うのも楽しい。
口下手で人見知りの三橋だったが、阿部とは普通に話せる。
むしろ積極的に話をしたいと思うのは、身内以外では阿部が初めてかもしれない。
だが今日は違った。
爪の手入れをしてくれるのはセナだったが、美容師は阿部ではなかった。
阿部はコンテストに出場するのでその準備に忙しく、今日はどうしても時間が取れないのだという。
残念だが、仕方がない。
阿部は「次回は必ず時間を取ります」と言ってくれたし、今では時々個人的に食事をする仲だ。
アドレスも交換して、メールで他愛のない話をしたりもする。
「ネイルは終わりです。お疲れ様でした。」
先に爪の施術が終わって、セナが個室を出て行った。
三橋は急に緊張して、気まずい気持ちになった。
髪をを切ってくれている水谷という美容師は明るくて、冗談を言ったりして楽しませてくれる。
だけど何と言っていいかわからないが、彼は三橋をよく思っていないような気がした。
言葉尻や態度に、微妙な棘のようなものを感じるのだ。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
セナと入れ替わるように現れたのは、手にコーヒーのポットを持った女性のスタッフだ。
店の客にサービスするコーヒーは、カフェ「エメラルド」から取り寄せている物で味もいい。
水谷と2人の空気がつらかった三橋はすがるように「お願い、します」と頼んだ。
女性スタッフは笑顔で「かしこまりました」と答えて、空のカップにコーヒーを注いでくれた。
だがそんな時間はものの1分で終わってしまう。
また居心地の悪い気分になった三橋に、水谷が「実は、ですね」と口を開いた。
何だかその言い方が不気味で、何だかその先は聞きたくない。
だけど水谷はそんな三橋の気持ちなど気付かない様子で、言葉を続けた。
「コーヒーを持ってきたあの女性と、阿部は付き合ってるんですよ。」
水谷はいかにも秘密ですよと言いたげな口調で、そう告げた。
それはもちろん嘘だ。
コーヒーを持ってきた女性-篠岡が一方的に阿部に片想いをしているだけだ。
その篠岡に好意を寄せる水谷は、ちょっとした悪戯を仕掛けたつもりだった。
「そ、そう、なんですか」
三橋は曖昧にそう答えた。
阿部は三橋にとっては単なる美容師ではなく、友人のつもりだった。
その友人が恋をしているなら祝福するべきだと思うのに、悲しい気持ちの方が先に立つ。
どうしてだろう?この気持ちは何だ?
三橋は自分自身の心がわからず、ただただ困惑していた。
*****
「よろしくお願いします。」
セナは一同に向かって、頭を下げた。
店長の姉崎まもりは「仕方ないわね」と難しい顔だ。
店のスタッフたちは微妙な表情のまま、頷き合った。
セナが蛭魔専用にデザインした「毒花」シリーズが無断で盗用された。
まもりは直ちに小日向杏の所属事務所に連絡し、猛烈に抗議をした。
杏のネイルアートはセナによって描かれたものではないからだ。
だが杏の事務所は逆にセナによって施術したものとして欲しいと言い、謝礼金を出すことを匂わせた。
埒があかない。
まもりはインターネット上にある店のホームページに、説明文を掲載した。
このネイルサロンはまもりの大事な城であり、プライドを持って店を切り盛りしている。
パクリ作品を出された上に、金で解決しようとした相手のやり方は、まもりのプライドを刺激したのだ。
おかげで一部のネットなどでは、杏を攻撃するような感じになっている。
それ以上に深刻な問題は、どういう経緯でセナのデザインが漏れたかということだった。
蛭魔本人がテレビなどの映像で露出したことがないのだから、このサロンの中に犯人がいる。
だからセナは蛭魔の爪の新作のデザインを全て破棄し、作り直すことにした。
そしてそのデザイン画はサロンに置かずに、自宅で保管すると決めたのだ。
その旨を閉店後のスタッフミーティングで告げたのだった。
「蛭魔様には御了承をいただいています。不慮の事態で僕がいないときは絵柄を潰して黒1色でいいと」
「そんなに私たちが信用できないの?」
聞き返したのは、セナの同僚である瀧鈴音だ。
鈴音はスタッフの中でも、特にセナとは仲がよかった。
ネイルサロン「デビルバッツ」の総勢12名のスタッフはセナ以外、全員が女性だ。
そういう意味で少々やりにくい部分はあり、性別など関係なく自然に接してくれる鈴音は嬉しい存在だ。
鈴音も親しいセナに他のスタッフと同様に疑われるのは、不本意なのだろう。
「ごめんね、鈴音。でも蛭魔様とは契約をしてるんだ。それを最優先にしないと。」
「でも蛭魔様からデザインが漏れた可能性もあるんじゃない?例えばお金をもらったとか。」
セナが鈴音に謝罪すると、今度はスタッフの若菜小春から抗議の声が上がった。
他のスタッフたちも顔を見合わせて、頷きあっている。
だがセナは「ありえない」と呟くと、首を振った。
仮に蛭魔がこのネイルアートで金銭を得ようとするなら、絶対にこんなやり方はしない。
セナに直接話を持ちかけて、もっと合理的で効果的な売り方をするだろう。
「とにかく決定事項よ。『毒花』シリーズの絵はセナの個人所有にします。」
まもりはキッパリとそう言ったが、スタッフたちはまだ不満そうな顔だった。
微妙な沈黙が漂っている。
この件では電話などで問い合わせが相次ぎ、仕事にも支障が出ている。
その上疑われたのでは気分が悪いだろうと思うが、セナには他に方法を思いつけなかった。
「ここまでしてもセナのデザインが漏れるようだったら蛭魔様が犯人。そういうことです。」
まもりがこれでもう終わりだと言わんばかりの強い口調でそう言うと、今度はもう誰も何も言わなかった。
その時セナは、1人の女性スタッフの表情が異様に強張っているのを見つけた。
まさか彼女が?
セナは信じられない気持ちで、その後のミーティングは完全に上の空だった。
*****
「アンタたちがそうやって甘やかすから、あの子はあんなバカ娘になったんでしょうが!!」
小野寺律は会社の重鎮たちに向かって、思い切り叫んでいた。
後になってみれば、何と大人気なかったことかと思う。
だがこの時はそんなことに注意が回らないほど、怒っていたのだ。
「彼は蛭魔妖一さんも担当してて、同じ絵を描いてもらっちゃいました~!」
小日向杏がそう叫んだ瞬間、律は思わず会見の場に飛び込み、中断させていた。
冗談じゃない。何という嘘をつくのだ。
確かに蛭魔妖一と同じ担当にして欲しいと頼んだが、ネイルサロン側の事情でそれは無理だった。
その担当と同じ程度の技量を持つネイルアーティストが担当することで決着したはずだ。
「何であんな嘘を言うの?」
「だって蛭魔妖一と同じネイルをしたかったんだも~ん」
律が詰め寄っても、杏は涼しい顔だ。
単にネイルのデザインが美しいというだけではない。
蛭魔は最近テレビなどにもよく出ており、その美貌と話術と華麗なマジックは人気がある。
あわよくば蛭魔の人気にも便乗できるという下心もあるはずだ。
杏は欲しいと思った者は、何でも取りに行こうとする。
それは芸能界で生きていくには、武器となる資質だ。
律も前向きに貪欲に、なりふり構わず突き進む杏には、尊敬する部分は大いにあると思っている。
だがそれも限度がある。
蛭魔妖一と担当ネイルアーティストの間にはきちんと契約が結ばれており、杏に同じ絵は提供できないのだ。
約束を守らず関係ない他人を巻き込んだ時点で、杏の方に一方的に非がある。
「すぐに謝罪するべきです!」
律は事の次第を会社に報告すると、そう進言した。
ネイルサロンに謝罪し、蛭魔妖一氏に謝罪する。
マスコミには事務所から謝罪文を出し、杏本人にはブログやツイッターで詫びさせればいい。
蛭魔妖一のネイルが美しかったから、真似をしたくなったと言えばいい。
さほど悪気がなかったことをアピールして、うまくやれば話題づくりにもなる。
だが事務所はあろうことか、ネイルサロンに裏取引を持ちかけたのだ。
蛭魔妖一と杏が同じネイルアーティストに絵を入れてもらったことにすれば、金を払うと。
だがネイルサロン側は折れず、ネット上に盗作だとする説明文を出した。
おかげで杏はネット上ではかなり叩かれており、仕事も減っている。
事務所は今まで杏のワガママの尻拭いをこういう形でして来た。
だからこそ杏は嘘をついたり、約束を破ることを平気でやってのける大人になってしまったのだ。
しかもこの期に及んで、マネージャーの律に責任があると言い出した。
お偉方が集まる会議に呼び出されて糾弾された律は、ついにブチ切れた。
「アンタたちがそうやって甘やかすから、あの子はあんなバカ娘になったんでしょうが!!」
律は会社の重鎮たちに向かって、思い切り叫んでいた。
後になってみれば、何と大人気なかったことかと思う。
だがこの時はそんなことに注意が回らないほど、怒っていたのだ。
こんな会社、今度こそ辞めてやる!
鼻息荒く会議室を飛び出した律だったが、ふと気になることを思い出して足を止めた。
律は杏の嘘を止めるために会見の場に割って入って、一瞬だがテレビに映ってしまった。
あの男はまだ律を捜しているだろうか。
もしかしてあの映像を見たら、また律の前に場に現れるのだろうか?
また危害を加えられるのか、今度こそ殺されるのか。
律は震える手で、スーツの上からそっと古い傷痕に手を触れた。
だがすぐに首を振って、妄想を追い払う。
考えすぎだ。
律は懸命に後ろ向きになってしまう思考を前に戻した。
まずは小日向杏がやらかした馬鹿げたことを収拾しなくてはならない。
先程の悪態でまたクビにならなければの話だが。
*****
「高野さんは、何でこんな感じで店をやってんの?」
阿部は羽鳥の作ったカクテルを飲みながら、そう聞いてきた。
こんな感じとはもちろん、この独特な会員制のことだろう。
昼間のカフェではコーヒー以外はとにかく手抜き料理を出す。
夜のバーは酒も肴も美味いが、高野が気に入った者しか入店できない会員制。
この風変わりな営業方針のことを聞いているのだ。
並んでカウンターに座っていた高野は、意味ありげな微笑と共にグラスの中のウィスキーを飲み干した。
「あ、もしかして言いたくない話だった?」
「そんなことはない。聞かれれば誰にでも答えてるし、羽鳥や千秋も知ってる。」
「じゃあ教えてくれよ。」
阿部はさして興味もなさそうな口調でそう言った。
最近はまたカウンターで1人で飲むことが増えた。
ちょっと前までは仲良くなった三橋と、何度かここで食事をしたり酒を飲んだりしたのに。
この頃の三橋は「忙しい」を連発して、阿部の誘いをことわることが増えた。
まさかこの前、自分の代わりに水谷にカットを頼んだことを怒っているのだろうか。
「長いわりにつまらないぞ。それでもいいか?」
「ああ。どうせ暇だしな。」
阿部が自嘲気味に笑うと、高野はフンと鼻を鳴らした。
それでも羽鳥から新しいグラスを受け取ると、おもむろに口を開いた。
高野の父親は有名なレストランのオーナーシェフ、母親は料理評論家だった。
2人ともテレビに出ることも多いし、料理本も売れている。
知り合ったのも確かテレビ番組で共演したのがきっかけと聞いたことがある。
だが2人とも家庭では一切料理をしたことがない。
仕事で料理をしているのに、家でまでしたくなかったらしい。
そうすると必然的に高野のような人間ができあがる。
親から遺伝した味覚だけは鋭敏で、味の良し悪しの判別は完璧。
そして飲食店で何の疑問も持たずに食事をする客をバカにする。
実の息子に食事を作ったことがない両親の料理をありがたがる客たちが、バカにしか見えないからだ。
料理は独学で勉強した。
両親に愛されたくて、自分で料理を作ろうとした健気な時期もあったのだ。
これまた才能が遺伝してくれたようで、そこらの料理人よりは美味いものが作れるようになった。
だがほとんど家に居つかなかった両親は高野の料理を食べたことがない。
そして両親の離婚を機に家を出て、こんな店を経営することになったのだ。
「そりゃまた、波乱万丈だな。」
「そうでもない。楽して金が儲かるから、笑いが止まらないぜ。」
阿部は抜け抜けと言い切りながらグラスを口に運ぶ鷹野の横顔を見た。
だが「笑いが止まらない」ようにはとても見えない。
高野は高野なりに思うところもあり、割り切れない部分もあるのだろう。
「高野さん、小野寺さんがいらっしゃいましたよ!」
不意にウエイターの千秋が高野に声をかけると、高野はもう阿部には目もくれない。
グラスを持って立ち上がると、さっさと新しい客の方へ行ってしまった。
阿部はその動きを目で追う。
高野がさっさと隣の椅子を陣取った、あの綺麗な青年が高野の想い人らしい。
「俺も三橋さんにメールでもするか。」
阿部はポケットからスマートフォンを取り出すと、メール画面を開いた。
蛭魔といい高野といい、ここ最近のラブラブオーラはきつすぎる。
せめてこんなことでもしなければ、やってられない。
*****
「ったく、やってられっかぁぁ~~!」
相変わらずかわいい顔に似合わず酒グセが悪い。
高野は苦笑しながら「はいはい」と相槌を打った。
「高野しゃんは、いいれすね。こんなカフェのオーナーしゃんで」
律は店に現れてから、とにかくひたすら飲んでいる。
というか、すでに酒を飲んでから来店したようだ。
そして延々と高野にからんでいた。
だいたい察しはつく。
律は今ネットなどで叩かれているあの小日向杏のマネージャーなのだ。
対応が大変であることも、ストレスが溜まっているらしいことも、想像に難くない。
だが「どうした?」といくら聞いても、律は詳細は語らなかった。
杏の名も、会社やネイルサロンの話も、いくら話題を振っても絶対に喋らない。
どうやら律の職業倫理は、どんなに酔った状態でもしっかり発動しているらしい。
それはそれで大した技能だが、それならばこんなに酒グセが悪いくせに酔うなと言いたくなる。
「高野しゃん、儲かって、笑いが止まらない、でしょ。」
奇しくも律は、先程高野が阿部に言ったのとまったく同じことを言う。
高野は曖昧に笑って誤魔化した。
阿部にも話さなかったが、高野は実は資産家なのだ。
離婚した両親はそれぞれ別の相手と再婚したが、そのときに高野は財産分与を受けている。
新しい伴侶の間に子供もいるし、いくら実の子供でも高野とは縁が切りたかったのだろう。
高野は遠慮なく受け取った。
2人ともやたらと高給取りだから、金額も並外れた額だ。
その金を全部つぎ込んで、高野はこのビルを買ったのだ。
つまりビルオーナーであり「デビルバッツ」や「らーぜ」などから見れば「大家」になる。
この「エメラルド」はカフェでぼったくるが、バーでは安値で美味いものを出す。
結果儲けはほとんどないのだが、高野はまったくかまわなかった。
家賃収入だけで、高野の生活費もと羽鳥たちの給料も充分、おつりがくる。
「またお持ち帰りですか?」
バーテンダーの羽鳥がまたしても酔いつぶれて眠ってしまった律を見て、苦笑した。
高野としても苦笑するしかない。
酔っ払いは抱かない主義なのだが、こう毎回だと主義を変えた方がいいかもしれない。
今日は前回と違い、高野も酒が入ってしまったので運転は無理だ。
タクシーを拾って連れて帰るしかない。
そんなことを考えていたら、阿部が「タクシーに乗せるの、手伝おうか?」と声をかけてきた。
親切心もあるだろうが、ついでに便乗しようという魂胆が大きいだろう。
高野と阿部は両側から律の手を肩にかけさせて、店の外へ出た。
前回は抱き上げて運んだが、やはりこの方が楽だ。
高野が「タクシー捕まえてくるわ」と通りに出て、阿部はそのまま律の身体を支えながら待つ。
事件はその一瞬に起きた。
不意に目出し帽をかぶったその男がビルの陰から走り出てきたのだ。
男は高野の横をすり抜け、阿部たちの方へ走っていく。
驚いて振り向いた高野は、男の手で何かが銀色に光るのを見た。
あれはおそらく何かの刃物だ。
「阿部、気をつけろ!」
高野の叫びで気付いた阿部は、男を見た。
ナイフを構えた男の目は阿部ではなくて律を見ている。
男の狙いは律だ。
だが当の律は未だ酔いが醒めず、スヤスヤと寝息を立てている。
阿部は咄嗟に律の身体を背中にかばった瞬間、ナイフの刃先が阿部の腕を掠めた。
「ってぇ!」
阿部が叫ぶのと、高野が駆け寄ってきたのはほぼ同時だった。
2対1では不利と見たのか、目出し帽の男は高野とは反対の方向へと走って逃げていく。
「阿部、大丈夫か?」
「あ~あ、コンテスト。東京予選は突破したんだけどな。」
阿部は意識もあり冷静だったが、右の二の腕から派手に出血していた。
高野は騒ぎを聞きつけて出て来た千秋に「救急車を呼べ」と指示した。
阿部は「大げさだ」と顔をしかめたが、高野は譲らなかった。
右腕は大事な阿部の商売道具なのだから、ちゃんと処置をするに越したことはない。
すっかり酔いが醒めた律は店の前に座り込んで、震えている。
阿部は目だけで先程の男は律を狙っていたのだと伝えた。
高野は阿部に頷き返すと、律の隣に腰を下ろして、そっと細い肩を抱きしめた。
やがて救急車のサイレンが聞こえてくるまで、3人ともずっと黙ったままだった。
【続く】
見つけた。
たまたまテレビを見ていた男は驚き、頬がゆるんだ。
だが顔に浮かべた笑みは決して純粋ではなく、歪んだ寒々しいものだった。
本当に偶然だった。
たまたまつけたテレビでは、ワイドショーのような番組をしていた。
アイドルだか女優だか知らない若い女性タレントが芸能記者に囲まれていた。
写真週刊誌に男と2人の写真を撮られてしまったらしく、その説明の会見らしい。
くだらないと思った。
男はこの女性タレントを知らなかったし、知っていてもどうでもいいと思っただろう。
この女は20歳か、10代後半くらいだろうか。
この年齢で芸能界なんて場所で仕事をしているのだ。
男の1人や2人いたって不思議はないではないか。
チャンネルを変えようとした途端に、男はリモコンを取り落とした。
会見に割って入って「すみません。もうこのへんで」と声を張り上げた青年を見たからだ。
まさかと思った。
最後に会ったのは、もう10年以上昔のことだ。
あの頃はまだかわいい少年だった。
彼と引き離されることになり、ようやく自由の身になった時には消息がわからなくなっていた。
テレビ画面に一瞬映った青年は、昔の面影を充分に残していた。
やわらかい茶色の髪と、整った美貌、そして綺麗な色の瞳。
間違うはずがない。
彼は男が捜し求めたあの少年だ。
小日向杏。男は女性タレントの名を頭に刻み込んだ。
記者会見の場にいて、それに割り込んで終了させたのなら、この女の関係者だ。
おそらくは彼女の事務所の人間だろう。
もうすぐ迎えに行くよ。律。
テレビはもう別の話題に変わっている。
だが男はまだそこにあの青年が映っているかのように、不気味な笑顔を向けていた。
*****
「今回も力作だな」
蛭魔は今日も自分の爪に精緻な絵を施すセナに声をかけた。
爪の上には少しオレンジがかったピンク色の花が咲き始めている。
セナは顔を伏せたまま「頑張ります」と答え、筆を動かしていた。
蛭魔はその真剣な横顔が愛おしいと思う。
「今回はレンゲツツジです。」
セナは蛭魔にそれだけ言うと、黙々と絵を入れる作業にかかった。
普段のセナなら、こういう花が綺麗だとか、でもこんな毒があるとか、その花について語るのに。
今のセナにはそんな余裕はない。
蛭魔にもその理由はよくわかっていた。
小日向杏が蛭魔のネイルアートに模したものをしていたことはセナにとって衝撃だった。
単にパクられたという話ではない。
問題は先日蛭魔の爪に新しいデザインの絵を入れてから、ほとんど時間が経っていないことだった。
蛭魔は前回の「曼珠沙華」ではテレビ出演をしていない。
いくつかのステージはこなしたが、いずれもカメラなどでの撮影は禁止していた。
つまり蛭魔の爪を見て、その絵を盗んだ可能性はほとんどなかった。
そうなると可能性は1つしかない。
セナは蛭魔の爪の花のデザインをイラスト風の図案にして、ネイルサロンに置いてある。
蛭魔は爪にすごく気を使っているが、万が一のアクシデントで傷が入ってしまう可能性もある。
そんなときセナがサロンに不在でも、他の担当者が手直しできるようにだ。
これは店の決まりで、セナだけでなく他のネイルアーティストたちも同様にしている。
幸い蛭魔の爪はセナ以外の人間が触ったことはないが、セナは担当以外の客の対応をしたこともある。
つまり店の誰かがセナのデザインを盗んだと考えるのが、一番自然なのだ。
セナは顔色も悪く、目の下にクマができていた。
これから先に描く予定だった「毒花」シリーズは全て破棄し、新しいデザインを作っていたせいだ。
盗まれてしまったものを使うのは、セナのプロとしてのプライドが許さないのだ。
さらに同じ店で働く者たちを疑うのがつらくて、眠れないらしい。
蛭魔はとにかくセナのことが心配だった。
まったく誰の仕業か知らないが、セナを追い詰める者は許せない。
「まぁパクられるってことは、いいデザインだってことだよな。」
「え?」
蛭魔の言葉にセナは顔を上げた。
やつれたその顔も艶っぽいなどと、蛭魔は不埒なことを考えた。
「自信を持て。お前の絵がいいからパクろうなんてヤツがいるんだ。」
「あ、ありがとうございます。」
「今日の夜は『エメラルド』で飲んでるから、店が終わったら来いよ。」
セナは顔を赤らめると、すぐにコクンと頷いた。
もちろんそれは食事だけではなく、その後夜を一緒に過ごそうという意味がこもっている。
同時作業で阿部が髪に染色を施していたが、蛭魔は気にしなかった。
背後の阿部は聞こえていない様子で手を動かしているが、きっと苦笑しているに違いない。
*****
「こ、こんにち、は」
三橋廉はネイルサロンの個室に入ると、初対面の美容師に挨拶をした。
相手は人懐っこい笑顔で「よろしく。水谷です」と笑った。
三橋はネイルサロン「デビルバッツ」に来ていた。
週に1度、毎回決まった日、決まった時間に三橋は通っている。
最初は爪の手入れにわざわざお金を払う必要などないと思っていた。
だけどセナに爪を頼んでから、本当に投球の調子がいい。
同じビルの1階の風変わりなカフェは面白いし、会員になった今は美味しいものを食べさせてもらっている。
髪を切るのは2週間に1度、爪の手入れと同時作業で頼んでいる。
美容師の阿部と会うのも楽しい。
口下手で人見知りの三橋だったが、阿部とは普通に話せる。
むしろ積極的に話をしたいと思うのは、身内以外では阿部が初めてかもしれない。
だが今日は違った。
爪の手入れをしてくれるのはセナだったが、美容師は阿部ではなかった。
阿部はコンテストに出場するのでその準備に忙しく、今日はどうしても時間が取れないのだという。
残念だが、仕方がない。
阿部は「次回は必ず時間を取ります」と言ってくれたし、今では時々個人的に食事をする仲だ。
アドレスも交換して、メールで他愛のない話をしたりもする。
「ネイルは終わりです。お疲れ様でした。」
先に爪の施術が終わって、セナが個室を出て行った。
三橋は急に緊張して、気まずい気持ちになった。
髪をを切ってくれている水谷という美容師は明るくて、冗談を言ったりして楽しませてくれる。
だけど何と言っていいかわからないが、彼は三橋をよく思っていないような気がした。
言葉尻や態度に、微妙な棘のようなものを感じるのだ。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
セナと入れ替わるように現れたのは、手にコーヒーのポットを持った女性のスタッフだ。
店の客にサービスするコーヒーは、カフェ「エメラルド」から取り寄せている物で味もいい。
水谷と2人の空気がつらかった三橋はすがるように「お願い、します」と頼んだ。
女性スタッフは笑顔で「かしこまりました」と答えて、空のカップにコーヒーを注いでくれた。
だがそんな時間はものの1分で終わってしまう。
また居心地の悪い気分になった三橋に、水谷が「実は、ですね」と口を開いた。
何だかその言い方が不気味で、何だかその先は聞きたくない。
だけど水谷はそんな三橋の気持ちなど気付かない様子で、言葉を続けた。
「コーヒーを持ってきたあの女性と、阿部は付き合ってるんですよ。」
水谷はいかにも秘密ですよと言いたげな口調で、そう告げた。
それはもちろん嘘だ。
コーヒーを持ってきた女性-篠岡が一方的に阿部に片想いをしているだけだ。
その篠岡に好意を寄せる水谷は、ちょっとした悪戯を仕掛けたつもりだった。
「そ、そう、なんですか」
三橋は曖昧にそう答えた。
阿部は三橋にとっては単なる美容師ではなく、友人のつもりだった。
その友人が恋をしているなら祝福するべきだと思うのに、悲しい気持ちの方が先に立つ。
どうしてだろう?この気持ちは何だ?
三橋は自分自身の心がわからず、ただただ困惑していた。
*****
「よろしくお願いします。」
セナは一同に向かって、頭を下げた。
店長の姉崎まもりは「仕方ないわね」と難しい顔だ。
店のスタッフたちは微妙な表情のまま、頷き合った。
セナが蛭魔専用にデザインした「毒花」シリーズが無断で盗用された。
まもりは直ちに小日向杏の所属事務所に連絡し、猛烈に抗議をした。
杏のネイルアートはセナによって描かれたものではないからだ。
だが杏の事務所は逆にセナによって施術したものとして欲しいと言い、謝礼金を出すことを匂わせた。
埒があかない。
まもりはインターネット上にある店のホームページに、説明文を掲載した。
このネイルサロンはまもりの大事な城であり、プライドを持って店を切り盛りしている。
パクリ作品を出された上に、金で解決しようとした相手のやり方は、まもりのプライドを刺激したのだ。
おかげで一部のネットなどでは、杏を攻撃するような感じになっている。
それ以上に深刻な問題は、どういう経緯でセナのデザインが漏れたかということだった。
蛭魔本人がテレビなどの映像で露出したことがないのだから、このサロンの中に犯人がいる。
だからセナは蛭魔の爪の新作のデザインを全て破棄し、作り直すことにした。
そしてそのデザイン画はサロンに置かずに、自宅で保管すると決めたのだ。
その旨を閉店後のスタッフミーティングで告げたのだった。
「蛭魔様には御了承をいただいています。不慮の事態で僕がいないときは絵柄を潰して黒1色でいいと」
「そんなに私たちが信用できないの?」
聞き返したのは、セナの同僚である瀧鈴音だ。
鈴音はスタッフの中でも、特にセナとは仲がよかった。
ネイルサロン「デビルバッツ」の総勢12名のスタッフはセナ以外、全員が女性だ。
そういう意味で少々やりにくい部分はあり、性別など関係なく自然に接してくれる鈴音は嬉しい存在だ。
鈴音も親しいセナに他のスタッフと同様に疑われるのは、不本意なのだろう。
「ごめんね、鈴音。でも蛭魔様とは契約をしてるんだ。それを最優先にしないと。」
「でも蛭魔様からデザインが漏れた可能性もあるんじゃない?例えばお金をもらったとか。」
セナが鈴音に謝罪すると、今度はスタッフの若菜小春から抗議の声が上がった。
他のスタッフたちも顔を見合わせて、頷きあっている。
だがセナは「ありえない」と呟くと、首を振った。
仮に蛭魔がこのネイルアートで金銭を得ようとするなら、絶対にこんなやり方はしない。
セナに直接話を持ちかけて、もっと合理的で効果的な売り方をするだろう。
「とにかく決定事項よ。『毒花』シリーズの絵はセナの個人所有にします。」
まもりはキッパリとそう言ったが、スタッフたちはまだ不満そうな顔だった。
微妙な沈黙が漂っている。
この件では電話などで問い合わせが相次ぎ、仕事にも支障が出ている。
その上疑われたのでは気分が悪いだろうと思うが、セナには他に方法を思いつけなかった。
「ここまでしてもセナのデザインが漏れるようだったら蛭魔様が犯人。そういうことです。」
まもりがこれでもう終わりだと言わんばかりの強い口調でそう言うと、今度はもう誰も何も言わなかった。
その時セナは、1人の女性スタッフの表情が異様に強張っているのを見つけた。
まさか彼女が?
セナは信じられない気持ちで、その後のミーティングは完全に上の空だった。
*****
「アンタたちがそうやって甘やかすから、あの子はあんなバカ娘になったんでしょうが!!」
小野寺律は会社の重鎮たちに向かって、思い切り叫んでいた。
後になってみれば、何と大人気なかったことかと思う。
だがこの時はそんなことに注意が回らないほど、怒っていたのだ。
「彼は蛭魔妖一さんも担当してて、同じ絵を描いてもらっちゃいました~!」
小日向杏がそう叫んだ瞬間、律は思わず会見の場に飛び込み、中断させていた。
冗談じゃない。何という嘘をつくのだ。
確かに蛭魔妖一と同じ担当にして欲しいと頼んだが、ネイルサロン側の事情でそれは無理だった。
その担当と同じ程度の技量を持つネイルアーティストが担当することで決着したはずだ。
「何であんな嘘を言うの?」
「だって蛭魔妖一と同じネイルをしたかったんだも~ん」
律が詰め寄っても、杏は涼しい顔だ。
単にネイルのデザインが美しいというだけではない。
蛭魔は最近テレビなどにもよく出ており、その美貌と話術と華麗なマジックは人気がある。
あわよくば蛭魔の人気にも便乗できるという下心もあるはずだ。
杏は欲しいと思った者は、何でも取りに行こうとする。
それは芸能界で生きていくには、武器となる資質だ。
律も前向きに貪欲に、なりふり構わず突き進む杏には、尊敬する部分は大いにあると思っている。
だがそれも限度がある。
蛭魔妖一と担当ネイルアーティストの間にはきちんと契約が結ばれており、杏に同じ絵は提供できないのだ。
約束を守らず関係ない他人を巻き込んだ時点で、杏の方に一方的に非がある。
「すぐに謝罪するべきです!」
律は事の次第を会社に報告すると、そう進言した。
ネイルサロンに謝罪し、蛭魔妖一氏に謝罪する。
マスコミには事務所から謝罪文を出し、杏本人にはブログやツイッターで詫びさせればいい。
蛭魔妖一のネイルが美しかったから、真似をしたくなったと言えばいい。
さほど悪気がなかったことをアピールして、うまくやれば話題づくりにもなる。
だが事務所はあろうことか、ネイルサロンに裏取引を持ちかけたのだ。
蛭魔妖一と杏が同じネイルアーティストに絵を入れてもらったことにすれば、金を払うと。
だがネイルサロン側は折れず、ネット上に盗作だとする説明文を出した。
おかげで杏はネット上ではかなり叩かれており、仕事も減っている。
事務所は今まで杏のワガママの尻拭いをこういう形でして来た。
だからこそ杏は嘘をついたり、約束を破ることを平気でやってのける大人になってしまったのだ。
しかもこの期に及んで、マネージャーの律に責任があると言い出した。
お偉方が集まる会議に呼び出されて糾弾された律は、ついにブチ切れた。
「アンタたちがそうやって甘やかすから、あの子はあんなバカ娘になったんでしょうが!!」
律は会社の重鎮たちに向かって、思い切り叫んでいた。
後になってみれば、何と大人気なかったことかと思う。
だがこの時はそんなことに注意が回らないほど、怒っていたのだ。
こんな会社、今度こそ辞めてやる!
鼻息荒く会議室を飛び出した律だったが、ふと気になることを思い出して足を止めた。
律は杏の嘘を止めるために会見の場に割って入って、一瞬だがテレビに映ってしまった。
あの男はまだ律を捜しているだろうか。
もしかしてあの映像を見たら、また律の前に場に現れるのだろうか?
また危害を加えられるのか、今度こそ殺されるのか。
律は震える手で、スーツの上からそっと古い傷痕に手を触れた。
だがすぐに首を振って、妄想を追い払う。
考えすぎだ。
律は懸命に後ろ向きになってしまう思考を前に戻した。
まずは小日向杏がやらかした馬鹿げたことを収拾しなくてはならない。
先程の悪態でまたクビにならなければの話だが。
*****
「高野さんは、何でこんな感じで店をやってんの?」
阿部は羽鳥の作ったカクテルを飲みながら、そう聞いてきた。
こんな感じとはもちろん、この独特な会員制のことだろう。
昼間のカフェではコーヒー以外はとにかく手抜き料理を出す。
夜のバーは酒も肴も美味いが、高野が気に入った者しか入店できない会員制。
この風変わりな営業方針のことを聞いているのだ。
並んでカウンターに座っていた高野は、意味ありげな微笑と共にグラスの中のウィスキーを飲み干した。
「あ、もしかして言いたくない話だった?」
「そんなことはない。聞かれれば誰にでも答えてるし、羽鳥や千秋も知ってる。」
「じゃあ教えてくれよ。」
阿部はさして興味もなさそうな口調でそう言った。
最近はまたカウンターで1人で飲むことが増えた。
ちょっと前までは仲良くなった三橋と、何度かここで食事をしたり酒を飲んだりしたのに。
この頃の三橋は「忙しい」を連発して、阿部の誘いをことわることが増えた。
まさかこの前、自分の代わりに水谷にカットを頼んだことを怒っているのだろうか。
「長いわりにつまらないぞ。それでもいいか?」
「ああ。どうせ暇だしな。」
阿部が自嘲気味に笑うと、高野はフンと鼻を鳴らした。
それでも羽鳥から新しいグラスを受け取ると、おもむろに口を開いた。
高野の父親は有名なレストランのオーナーシェフ、母親は料理評論家だった。
2人ともテレビに出ることも多いし、料理本も売れている。
知り合ったのも確かテレビ番組で共演したのがきっかけと聞いたことがある。
だが2人とも家庭では一切料理をしたことがない。
仕事で料理をしているのに、家でまでしたくなかったらしい。
そうすると必然的に高野のような人間ができあがる。
親から遺伝した味覚だけは鋭敏で、味の良し悪しの判別は完璧。
そして飲食店で何の疑問も持たずに食事をする客をバカにする。
実の息子に食事を作ったことがない両親の料理をありがたがる客たちが、バカにしか見えないからだ。
料理は独学で勉強した。
両親に愛されたくて、自分で料理を作ろうとした健気な時期もあったのだ。
これまた才能が遺伝してくれたようで、そこらの料理人よりは美味いものが作れるようになった。
だがほとんど家に居つかなかった両親は高野の料理を食べたことがない。
そして両親の離婚を機に家を出て、こんな店を経営することになったのだ。
「そりゃまた、波乱万丈だな。」
「そうでもない。楽して金が儲かるから、笑いが止まらないぜ。」
阿部は抜け抜けと言い切りながらグラスを口に運ぶ鷹野の横顔を見た。
だが「笑いが止まらない」ようにはとても見えない。
高野は高野なりに思うところもあり、割り切れない部分もあるのだろう。
「高野さん、小野寺さんがいらっしゃいましたよ!」
不意にウエイターの千秋が高野に声をかけると、高野はもう阿部には目もくれない。
グラスを持って立ち上がると、さっさと新しい客の方へ行ってしまった。
阿部はその動きを目で追う。
高野がさっさと隣の椅子を陣取った、あの綺麗な青年が高野の想い人らしい。
「俺も三橋さんにメールでもするか。」
阿部はポケットからスマートフォンを取り出すと、メール画面を開いた。
蛭魔といい高野といい、ここ最近のラブラブオーラはきつすぎる。
せめてこんなことでもしなければ、やってられない。
*****
「ったく、やってられっかぁぁ~~!」
相変わらずかわいい顔に似合わず酒グセが悪い。
高野は苦笑しながら「はいはい」と相槌を打った。
「高野しゃんは、いいれすね。こんなカフェのオーナーしゃんで」
律は店に現れてから、とにかくひたすら飲んでいる。
というか、すでに酒を飲んでから来店したようだ。
そして延々と高野にからんでいた。
だいたい察しはつく。
律は今ネットなどで叩かれているあの小日向杏のマネージャーなのだ。
対応が大変であることも、ストレスが溜まっているらしいことも、想像に難くない。
だが「どうした?」といくら聞いても、律は詳細は語らなかった。
杏の名も、会社やネイルサロンの話も、いくら話題を振っても絶対に喋らない。
どうやら律の職業倫理は、どんなに酔った状態でもしっかり発動しているらしい。
それはそれで大した技能だが、それならばこんなに酒グセが悪いくせに酔うなと言いたくなる。
「高野しゃん、儲かって、笑いが止まらない、でしょ。」
奇しくも律は、先程高野が阿部に言ったのとまったく同じことを言う。
高野は曖昧に笑って誤魔化した。
阿部にも話さなかったが、高野は実は資産家なのだ。
離婚した両親はそれぞれ別の相手と再婚したが、そのときに高野は財産分与を受けている。
新しい伴侶の間に子供もいるし、いくら実の子供でも高野とは縁が切りたかったのだろう。
高野は遠慮なく受け取った。
2人ともやたらと高給取りだから、金額も並外れた額だ。
その金を全部つぎ込んで、高野はこのビルを買ったのだ。
つまりビルオーナーであり「デビルバッツ」や「らーぜ」などから見れば「大家」になる。
この「エメラルド」はカフェでぼったくるが、バーでは安値で美味いものを出す。
結果儲けはほとんどないのだが、高野はまったくかまわなかった。
家賃収入だけで、高野の生活費もと羽鳥たちの給料も充分、おつりがくる。
「またお持ち帰りですか?」
バーテンダーの羽鳥がまたしても酔いつぶれて眠ってしまった律を見て、苦笑した。
高野としても苦笑するしかない。
酔っ払いは抱かない主義なのだが、こう毎回だと主義を変えた方がいいかもしれない。
今日は前回と違い、高野も酒が入ってしまったので運転は無理だ。
タクシーを拾って連れて帰るしかない。
そんなことを考えていたら、阿部が「タクシーに乗せるの、手伝おうか?」と声をかけてきた。
親切心もあるだろうが、ついでに便乗しようという魂胆が大きいだろう。
高野と阿部は両側から律の手を肩にかけさせて、店の外へ出た。
前回は抱き上げて運んだが、やはりこの方が楽だ。
高野が「タクシー捕まえてくるわ」と通りに出て、阿部はそのまま律の身体を支えながら待つ。
事件はその一瞬に起きた。
不意に目出し帽をかぶったその男がビルの陰から走り出てきたのだ。
男は高野の横をすり抜け、阿部たちの方へ走っていく。
驚いて振り向いた高野は、男の手で何かが銀色に光るのを見た。
あれはおそらく何かの刃物だ。
「阿部、気をつけろ!」
高野の叫びで気付いた阿部は、男を見た。
ナイフを構えた男の目は阿部ではなくて律を見ている。
男の狙いは律だ。
だが当の律は未だ酔いが醒めず、スヤスヤと寝息を立てている。
阿部は咄嗟に律の身体を背中にかばった瞬間、ナイフの刃先が阿部の腕を掠めた。
「ってぇ!」
阿部が叫ぶのと、高野が駆け寄ってきたのはほぼ同時だった。
2対1では不利と見たのか、目出し帽の男は高野とは反対の方向へと走って逃げていく。
「阿部、大丈夫か?」
「あ~あ、コンテスト。東京予選は突破したんだけどな。」
阿部は意識もあり冷静だったが、右の二の腕から派手に出血していた。
高野は騒ぎを聞きつけて出て来た千秋に「救急車を呼べ」と指示した。
阿部は「大げさだ」と顔をしかめたが、高野は譲らなかった。
右腕は大事な阿部の商売道具なのだから、ちゃんと処置をするに越したことはない。
すっかり酔いが醒めた律は店の前に座り込んで、震えている。
阿部は目だけで先程の男は律を狙っていたのだと伝えた。
高野は阿部に頷き返すと、律の隣に腰を下ろして、そっと細い肩を抱きしめた。
やがて救急車のサイレンが聞こえてくるまで、3人ともずっと黙ったままだった。
【続く】