アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】
【曼珠沙華】
「セナくん、災難だったねぇ」
ネイルサロンの個室で、セナの得意客がニヤニヤ笑いながらそう言った。
彼はいつも饒舌で、施術中もとにかく話題が絶えない。
セナは「お騒がせして申し訳ありません」と詫びながら、ていねいに彼の爪にやすりをかけている。
榛名元希はセナの客の中でも、古株だ。
プロ野球の選手で、1軍ローテーションにも入る一流の投手。人気もある。
この店に来たのは偶然だった。
たまたまこの近所のカフェで食事をしようとしたときに、手をぶつけて先端が割れたのだ。
普通だったら騒ぐほどの話でもない。
だが投手である榛名はそうはいかない。
一番手近にあるネイルサロンに飛び込んできて、担当になったのがセナだった。
セナとネイルサロンの客でありタレントの小日向杏との2ショットが、写真週刊誌に掲載された。
榛名が言う災難とはこのことだ。
2人は腕を組んでおり、芸能人でもないセナは目元に黒い線を入れて顔を隠されていた。
顔が出ないのはありがたいが、これではまるで犯罪者ではないか。
ひょっとしたら目を出してくれた方がよかったのかもしれない。
セナはこのとき彼女のしつこさにウンザリしており、きっとそれが目に現れていたと思う。
「まぁすぐにみんな忘れるよ」
榛名はセナを励ますように、そう言ってくれた。
セナの性格を知る知り合いは、みなだいたいこんな反応だ。
ネイルアーティストなんて派手な肩書きがあっても、セナ本人はどちらかといえば真っ当で控え目な人間だ。
それを知っているから、この件は不運なアクシデントに巻き込まれたと思うのだ。
セナが一番不安だったのは、蛭魔に無用の誤解をされるかもしれないということだった。
だが蛭魔はまったく気にする様子もなかった。
淡々とした様子で「こういう商売も大変だな」と苦笑していた。
理解してもらっているのは嬉しかったし、信頼されているんだと胸が熱くなったのだ。
「俺さ、多分、来年はメジャーなんだ。セナくんに爪の管理を頼めないのが不安なんだよな。」
不意に榛名が話題を変えた。
セナは「え?」と小さく驚いたが、すぐに微妙な表情になった。
そんなニュース報道はセナも見ており、嬉しいような寂しいような複雑な気分なのだ。
「メジャーリーガーの榛名さんは見たいですが、サロンに来ていただけないのは残念ですね。」
セナはていねいに榛名の爪を磨きながら、そう答えた。
*****
どうしてこういうことになっているんだろう。
律は勧められるままに酒をあおりながら、ぼんやりとそう思った。
律が勤める芸能プロダクションに、写真週刊誌から小日向杏の写真を掲載するという連絡があった。
社長室に呼ばれた律は、社長にこっぴどく怒鳴られることになった。
マネージャーとして管理がなってないと言われても、辞めてしまえと罵られても、返す言葉がない。
律はひたすら「すみません」と謝り続けるしかなかった。
でもどうしたらよかったというのだろう?
あの日、杏を家まで送り届けて、明日は早いのだからよく休むようにと言った。
その後勝手に外出して、写真に撮られてしまったのだ。
まさか24時間、張り込まなくてはいけないのだろうか?
やっぱり自分は、こういう仕事は向いていないのだろう。
律は深々と、もう何度目になるのかわからないため息をついた。
結局写真が掲載された週刊誌が出てしまったし、周囲の風当たりも強い。
事務所の冷淡さの理由はわかっている。
律にマネージャーではなく別の仕事をさせたいという意図があるのだ。
あのネイルサロンのビルの1階のカフェの男に会ったのは、そんなときだった。
杏はしばらくは頭を冷やすために仕事を休ませている。
律は杏が出演する番組の関係者やCMスポンサーらの対応に追われた。
そして夕方、会社からの帰り道で駅に向かう途中、律の横に赤いスポーツカーが止まった。
顔を出したのは、あのカフェで出会ったイケメン店員だった。
「よぉ、元気ねーな。」
男は律の様子を見てそう言った。
こんな気分の時には嫌なヤツに会ったと、最初は確かにそう思ったのだ。
だけど「飲みに行かねーか?」と誘われた時には、素直に頷いていた。
やはり気が滅入っており、ウサ晴らしをしたいというのが本音だった。
「すごく、美味しいですね。」
連れて来られたのは、やはりあのカフェ「エメラルド」だった。
すでにバー営業に切り替わっている。
そして最初に食べたあのチキンプレートが嘘のように、出される料理は全て美味い。
それにバーテンダーが目の前で作ってくれるカクテルも、口当たりが爽やかだった。
「お前ってルックスいいじゃん。マネージャーよりタレントがいいんじゃねーの?」
高野と名乗ったその男はさり気ない口調でそう言った。
だが律は思わず「アンタまでそんなこと言うんですか!?」と食ってかかった。
その勢いに思わず高野も、他の店のスタッフも一瞬黙り込んだ。
元々律を歩いていたところをスカウトされて、今の事務所に入ったのだ。
タレント以外の仕事ならしたいと言った律に、スカウト担当は相当驚いたようだ。
結局マネージャーとして採用されたが、事務所はタレントに転向させる気満々のようだ。
だから今回のようなことがあると、容赦なく怒られる。
そしてマネージャーではなくタレントの方がいいと仄めかすのだ。
「そんな話はやめて、もっと飲みましょう!」
律は重くなってしまった雰囲気を壊すように、律は明るく声を上げた。
どうしていきなり高野と酒を飲んでいるんだろうなどと、ふと今さらなことを思う。
だが酔いが回った頭でいろいろ考えるのは面倒だ。
律は一気にグラスの酒を飲み干すと「もう1杯下さい」とバーテンダーに頼んだ。
*****
顔に似合わず、酒グセが悪い。
高野はかわいらしい青年の寝顔を見ながら、ため息をついた。
律の会社の近くで、高野が律に声をかけたのは偶然ではない。
名前も知らないその男は、小日向杏の関係者らしいというところまでわかっている。
だからずっと杏が所属する芸能プロダクションの前で、待ち伏せをしていたのだ。
ちょうど写真週刊誌の件で、律が落ち込んでいたのも幸いした。
高野は言葉巧みに律を車に乗せ、まんまと自分のテリトリーに連れ込んだのだった。
「小野寺と申します。」
店に着くなり、青年は慣れた動作で名刺を差し出した。
丸川プロダクション、小野寺律。
高野は初対面の相手には名刺を出す律の礼儀正しさに感謝した。
名刺には会社の電話番号だけでなく、律の携帯電話の番号も印字されていたからだ。
心の中で「ケー番、ゲット!」とガッツポーズをしたが、あくまで表面上は冷静だ。
「お前ってルックスいいじゃん。マネージャーよりタレントがいいんじゃねーの?」
「アンタまでそんなこと言うんですか!?」
高野の何気ない言葉に、律はあまりにも過敏に反応した。
勢いよく『アンタまで』という言葉が返ってきたのは、今まで何度も言われてきたのだろう。
律はその後もカクテルを飲み続けた。
あまりの勢いに心配したバーテンダーの羽鳥が、途中からはアルコール抜きのジュースを出したほどだ。
だが律はきっとそれすら気がついていないようだった。
「高野さん、お持ち帰り~~!?」
閉店後、酔いつぶれて眠ってしまった律を抱え上げた律を見て、ウェイターの千秋が冷やかした。
だが高野はまったく動じることなく「もちろん美味しくいただくさ」とニンマリと笑う。
あまりにもあっけらかんとした高野の様子に、千秋は逆に驚き、黙り込んでしまった。
そして今、律は高野の部屋のベットで眠っている。
ぐったりと力が抜けた身体から服を脱がすのは大変だった。
邪な願望よりもむしろ律が寝苦しいだろうと思ったからだ。
千秋には「美味しくいただく」などと言ってみたものの、その気はなかった。
律に対して欲情する部分は大いにあるが、いくら何でも早すぎる。
それに酔って意識がない人間を抱くのは、高野の流儀に反するものだ。
「かわいい顔して、ワケありってか」
高野は眠っている律の髪をサラリとなでながら、ポツリと呟いた。
服を脱がせてみてわかったのは、律の身体には目立つ傷痕がいくつもあることだ。
特に大きいのは右わき腹の切り傷で、古い傷なのにしっかりと痕を残している。
手術痕とかではなく、意図的に傷つけられたものにしか見えない。
最初は単なる興味だったが、今はもう本気だ。
この綺麗な青年を、自分のものにしたい。
っていうか、いつか本当に抱いてやる。
高野は律の寝顔を見ながら、不穏な決意を固めたのだった。
*****
メジャーかぁ。
三橋はコーヒーのカップをソーサーに戻すと、ため息をついた。
メジャーへの挑戦は三橋にとっても夢であり、いつかはたどり着きたい場所だ。
だがそれが現実味を帯びてくると、急に怖気づいてしまう。
三橋はカフェ「エメラルド」でコーヒーを飲んでいた。
早く来過ぎてしまったので、ネイルサロンの予約時間までここで待つつもりだった。
小腹が空いてサンドウイッチを食べたのだが、あまり美味くなかった。
ただコーヒーがすごく美味なのが、ありがたかった。
これなら今後も時間つぶしに使えそうだ。
最近の三橋の興味は、もっぱらメジャーリーグのことだった。
もうすぐ同じ球団の先輩投手、榛名の移籍が報道されるだろう。
もちろんそれは喜ばしいことだが、同時に危機感もある。
現在、球団で一番年俸が高い投手は榛名、その次が三橋だ。
つまり次にメジャー移籍の話が来るとしたら、三橋の可能性が高いのだ。
ある選手の年俸が高くなりすぎると、どうしても球団の経営を圧迫する。
特に三橋が所属する球団は、あまり資金が潤沢ではないのだ。
おそらくそう遠からず、メジャー行きを促されるだろう。
その移籍金で球団は多少なりとも潤うことになる。
三橋本人は金には無頓着で、高い年俸にはあまり興味がない。
だがだからと言って、高い給料はいらないというわけにもいかない。
成績に見合った給料をもらわないと、他の選手にも影響する。
三橋よりも勝ち星や防御率が低い選手はいつまでも給料が上がらないことになってしまう。
「あれ?三橋さん」
不意に声をかけられて、三橋はそちらを見た。
立っていたのは、三橋の髪を切ってくれた美容師の阿部だった。
三橋は「こ、こんにち、は」とたどたどしく挨拶を返した。
「もしかして予約までの時間つぶしですか?」
「は、はい。阿部、さん、は」
「俺は休憩時間なんでコーヒーを飲みに来たんです。ご一緒してもいいですか?」
阿部の申し出に、三橋はコクコクと首を縦に振った。
1人でいてもついついネガティブなことを考えてしまう。
阿部と一緒に楽しく過ごせるならば、嬉しい。
そこまで考えてから、三橋は「あれ?」と思った。
基本的に人見知りで、話すことが苦手な自分なのに。
どうして阿部と一緒だと嬉しいなどと思うのだろう。
「ここで何か食いました?」
「サンド、ウィッチ。でもコーヒー、ほど、美味、しく、なかった。」
「・・・三橋さんもここの会員資格がありますね」
バー「エメラルド」の会員制の話を知らない三橋は、何のことかわからず首を傾げた。
だが阿部の笑顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
三橋は阿部と共につかの間のコーヒータイムを楽しんだ。
*****
「今回のヤツは一段と手が込んでるな。」
蛭魔は一心不乱に爪に色を重ねるセナに感嘆しながら、そう言った。
セナは「ええ、まぁ」と答えながら、顔を上げることはなかった。
今回セナが選んだ花は曼珠沙華だった。
別名「彼岸花」などとも呼ばれ、不吉な花と嫌う者も少なくない。
だがセナはこの花が好きだと言う。
放射状に開いた花の鮮やかな美しさがいいらしい。
ベースの色は曼珠沙華の茎と葉をイメージしたつややかな深緑にした。
その上に深紅の細い花弁を、丹念に書き込んでいく。
そもそもこの「毒花」シリーズは手間がかかるのだが、今回はさらに大変だった。
花弁が細かいので、極細の筆で幾重にも重ねないと花が咲かない。
個室内はエアコンで、適度な温度と湿度が保たれている。
だが緻密な作業を長時間続けるセナの額からは、汗が滴り落ちていた。
「綺麗だな」
「そうでしょう?今回は特に自信作です。」
蛭魔は真剣なセナの表情のことを言ったのだが、セナは爪の上の曼珠沙華のことだと思ったようだ。
その間違いを訂正しようと思ったが、今はやめておくことにした。
セナは今細かい作業に没頭している。
甘いセリフは爪が仕上がってからでいいし、何より今は同時作業で髪を切っている阿部もいる。
「そう言えば三橋廉、バー『エメラルド』の会員になったらしいぜ。」
「そうなんですか。じゃあいつか一緒にお食事とかできるかもしれませんね!」
「嬉しいのか?」
「そりゃあもう。現役のプロ野球選手と食事した、なんて自慢できるじゃないですか~!」
セナは嬉しそうだが、蛭魔は少々気に入らなかった。
蛭魔だってテレビに出る有名人なのだから、三橋との食事をそんなに喜ぶ必要などないではないか。
だが嫉妬めいたことを口に出すのも、妙に気恥ずかしい。
蛭魔は表面上は素知らぬ顔で「そんなもんか?」と聞き返した。
三橋がバー「エメラルド」の会員になった経緯をよく知る阿部は、素知らぬ顔でハサミを動かしている。
阿部の操るハサミの音と、セナの軽やかな笑いが個室の中で静かに響いていた。
*****
「コンテスト、出たいんスけど」
阿部はボソリと手を上げた。
ヘアサロン「らーぜ」の面々は、皆一様に驚き「え~?」と叫んでいた。
それはスタッフ全員が顔を揃えたミーティングの場でのことだ。
店長の百枝が「コンテスト出場希望でまだエントリーしてない人、いる?」と声をかけた。
コンテストとは年に一度開催される美容師の全国大会だ。
毎年全国から約1万人の美容師が参加し、頂点を競う。
ヘアサロン「らーぜ」からも、毎年何名かの美容師が参加している。
だが阿部は今までそういうものには一切出たことがなく、むしろ避けていた。
はっきり言ってコンテストに勝つためのヘアスタイルは、あくまでもコンテスト用だと思っている。
その証拠に過去のコンテストの受賞作を見ると、街をそのまま歩けるような髪型は1つもない。
実際に客に合わせて、その顔や表情を引き立たせるのが美容師のそもそもの仕事。
コンテストなど邪道、単なるショーに過ぎないというのが阿部の持論だった。
だが今回は出てみたいと思った。
それは先日、カフェ「エメラルド」で三橋と話をしたせいだ。
三橋の口から聞かされたいつかはメジャーに行くという話は衝撃だった。
世界の最高峰を見つめるあの瞳に、強烈に惹かれた。
手が届かないと思っていたが、やはりもっと三橋に近づきたい。
少しでもつりあう人間になるために、と思ったときに思いついたのがコンテストだった。
今の自分の力がどの程度なのか、見極めたくなったのだ。
「なぁ阿部。お前がコンテストに出るなんて、どういう風の吹き回しだよ。」
ミーティングの後、阿部に声をかけてきたのは、同僚の泉だ。
だが全員が興味津々の様子で、2人の会話に聞き耳を立てていた。
「ある人と対等の関係になりたくて。自分の力を試したくなったんだ。」
阿部は端的にそう答えた。
これには他の美容師たちも俄然色めき立ち「誰?」「恋人?」などと質問攻めになる。
だが阿部はそれ以上は何も語らなかった。
阿部はこのとき気がつかなかった。
篠岡が切ない目で阿部を見ていたことも、その篠岡を水谷が微妙な表情で見ていたことも。
ただ三橋の真っ直ぐな瞳を思い出して、胸を高鳴らせていた。
*****
「そんな、どうして!」
セナはテレビの画面を見ながら、思わず声を荒げていた。
予約と予約の合間の空き時間。
セナはネイルサロンの休憩スペースで、テレビを見ていた。
ちょうど午後のワイドショーのような番組だった。
芸能ニュースとして、先日写真週刊誌に撮られた小日向杏の記者会見をやっている。
ぼんやりとテレビを見ていたセナは、思わず座っていた椅子から身を乗り出していた。
『あの写真の方は、カレシですか?』
『違いますぅ。通っているネイルサロンの方でーす。』
テレビの中では記者からの質問に、杏が答えている。
それにしても「ますぅ」とか「でーす」とか間延びした語尾上げ言葉が癇に障った。
『では杏さんの担当のネールアーティストの方なんですか?』
『はい、そうでーす。』
杏の言葉に思わず叫びだしそうになったセナは、拳を口に当てて堪えた。
セナは杏の担当ではなく、ほとんど話をしたことさえないのに。
だが次の瞬間、杏が両手の甲をかざすようにしてこちらに向けたときには、セナは「え?」と声を上げた。
杏の爪には、セナが蛭魔に施したのとよく似た花が描かれていたからだ。
茎と葉の深緑の上に咲く深紅の花、曼珠沙華だ。
『彼は蛭魔妖一さんも担当してて、同じ絵を描いてもらっちゃいました~!』
取り囲んでいる記者の間から「ほ~」とため息が漏れる。
次の瞬間、杏の指先にカメラのフラッシュが光った。
「そんな、どうして!」
セナはテレビの画面を見ながら、思わず声を荒げていた。
あの「毒花」シリーズはセナが蛭魔のためだけにデザインし、蛭魔のためだけに描いてきたものだ。
こんなところで無断で使われるなど、我慢できない。
しかも手元がアップになると、絵柄が雑なことが目立った。
セナはこんなに雑な仕事はしない。
いろいろな意味で汚されたような気分だった。
好きだった曼珠沙華が、こんなにも忌々しく見えるなんて。
セナは怒りのあまり、爪の先が白くなるほどきつく手を握り締めていた。
【続く】
「セナくん、災難だったねぇ」
ネイルサロンの個室で、セナの得意客がニヤニヤ笑いながらそう言った。
彼はいつも饒舌で、施術中もとにかく話題が絶えない。
セナは「お騒がせして申し訳ありません」と詫びながら、ていねいに彼の爪にやすりをかけている。
榛名元希はセナの客の中でも、古株だ。
プロ野球の選手で、1軍ローテーションにも入る一流の投手。人気もある。
この店に来たのは偶然だった。
たまたまこの近所のカフェで食事をしようとしたときに、手をぶつけて先端が割れたのだ。
普通だったら騒ぐほどの話でもない。
だが投手である榛名はそうはいかない。
一番手近にあるネイルサロンに飛び込んできて、担当になったのがセナだった。
セナとネイルサロンの客でありタレントの小日向杏との2ショットが、写真週刊誌に掲載された。
榛名が言う災難とはこのことだ。
2人は腕を組んでおり、芸能人でもないセナは目元に黒い線を入れて顔を隠されていた。
顔が出ないのはありがたいが、これではまるで犯罪者ではないか。
ひょっとしたら目を出してくれた方がよかったのかもしれない。
セナはこのとき彼女のしつこさにウンザリしており、きっとそれが目に現れていたと思う。
「まぁすぐにみんな忘れるよ」
榛名はセナを励ますように、そう言ってくれた。
セナの性格を知る知り合いは、みなだいたいこんな反応だ。
ネイルアーティストなんて派手な肩書きがあっても、セナ本人はどちらかといえば真っ当で控え目な人間だ。
それを知っているから、この件は不運なアクシデントに巻き込まれたと思うのだ。
セナが一番不安だったのは、蛭魔に無用の誤解をされるかもしれないということだった。
だが蛭魔はまったく気にする様子もなかった。
淡々とした様子で「こういう商売も大変だな」と苦笑していた。
理解してもらっているのは嬉しかったし、信頼されているんだと胸が熱くなったのだ。
「俺さ、多分、来年はメジャーなんだ。セナくんに爪の管理を頼めないのが不安なんだよな。」
不意に榛名が話題を変えた。
セナは「え?」と小さく驚いたが、すぐに微妙な表情になった。
そんなニュース報道はセナも見ており、嬉しいような寂しいような複雑な気分なのだ。
「メジャーリーガーの榛名さんは見たいですが、サロンに来ていただけないのは残念ですね。」
セナはていねいに榛名の爪を磨きながら、そう答えた。
*****
どうしてこういうことになっているんだろう。
律は勧められるままに酒をあおりながら、ぼんやりとそう思った。
律が勤める芸能プロダクションに、写真週刊誌から小日向杏の写真を掲載するという連絡があった。
社長室に呼ばれた律は、社長にこっぴどく怒鳴られることになった。
マネージャーとして管理がなってないと言われても、辞めてしまえと罵られても、返す言葉がない。
律はひたすら「すみません」と謝り続けるしかなかった。
でもどうしたらよかったというのだろう?
あの日、杏を家まで送り届けて、明日は早いのだからよく休むようにと言った。
その後勝手に外出して、写真に撮られてしまったのだ。
まさか24時間、張り込まなくてはいけないのだろうか?
やっぱり自分は、こういう仕事は向いていないのだろう。
律は深々と、もう何度目になるのかわからないため息をついた。
結局写真が掲載された週刊誌が出てしまったし、周囲の風当たりも強い。
事務所の冷淡さの理由はわかっている。
律にマネージャーではなく別の仕事をさせたいという意図があるのだ。
あのネイルサロンのビルの1階のカフェの男に会ったのは、そんなときだった。
杏はしばらくは頭を冷やすために仕事を休ませている。
律は杏が出演する番組の関係者やCMスポンサーらの対応に追われた。
そして夕方、会社からの帰り道で駅に向かう途中、律の横に赤いスポーツカーが止まった。
顔を出したのは、あのカフェで出会ったイケメン店員だった。
「よぉ、元気ねーな。」
男は律の様子を見てそう言った。
こんな気分の時には嫌なヤツに会ったと、最初は確かにそう思ったのだ。
だけど「飲みに行かねーか?」と誘われた時には、素直に頷いていた。
やはり気が滅入っており、ウサ晴らしをしたいというのが本音だった。
「すごく、美味しいですね。」
連れて来られたのは、やはりあのカフェ「エメラルド」だった。
すでにバー営業に切り替わっている。
そして最初に食べたあのチキンプレートが嘘のように、出される料理は全て美味い。
それにバーテンダーが目の前で作ってくれるカクテルも、口当たりが爽やかだった。
「お前ってルックスいいじゃん。マネージャーよりタレントがいいんじゃねーの?」
高野と名乗ったその男はさり気ない口調でそう言った。
だが律は思わず「アンタまでそんなこと言うんですか!?」と食ってかかった。
その勢いに思わず高野も、他の店のスタッフも一瞬黙り込んだ。
元々律を歩いていたところをスカウトされて、今の事務所に入ったのだ。
タレント以外の仕事ならしたいと言った律に、スカウト担当は相当驚いたようだ。
結局マネージャーとして採用されたが、事務所はタレントに転向させる気満々のようだ。
だから今回のようなことがあると、容赦なく怒られる。
そしてマネージャーではなくタレントの方がいいと仄めかすのだ。
「そんな話はやめて、もっと飲みましょう!」
律は重くなってしまった雰囲気を壊すように、律は明るく声を上げた。
どうしていきなり高野と酒を飲んでいるんだろうなどと、ふと今さらなことを思う。
だが酔いが回った頭でいろいろ考えるのは面倒だ。
律は一気にグラスの酒を飲み干すと「もう1杯下さい」とバーテンダーに頼んだ。
*****
顔に似合わず、酒グセが悪い。
高野はかわいらしい青年の寝顔を見ながら、ため息をついた。
律の会社の近くで、高野が律に声をかけたのは偶然ではない。
名前も知らないその男は、小日向杏の関係者らしいというところまでわかっている。
だからずっと杏が所属する芸能プロダクションの前で、待ち伏せをしていたのだ。
ちょうど写真週刊誌の件で、律が落ち込んでいたのも幸いした。
高野は言葉巧みに律を車に乗せ、まんまと自分のテリトリーに連れ込んだのだった。
「小野寺と申します。」
店に着くなり、青年は慣れた動作で名刺を差し出した。
丸川プロダクション、小野寺律。
高野は初対面の相手には名刺を出す律の礼儀正しさに感謝した。
名刺には会社の電話番号だけでなく、律の携帯電話の番号も印字されていたからだ。
心の中で「ケー番、ゲット!」とガッツポーズをしたが、あくまで表面上は冷静だ。
「お前ってルックスいいじゃん。マネージャーよりタレントがいいんじゃねーの?」
「アンタまでそんなこと言うんですか!?」
高野の何気ない言葉に、律はあまりにも過敏に反応した。
勢いよく『アンタまで』という言葉が返ってきたのは、今まで何度も言われてきたのだろう。
律はその後もカクテルを飲み続けた。
あまりの勢いに心配したバーテンダーの羽鳥が、途中からはアルコール抜きのジュースを出したほどだ。
だが律はきっとそれすら気がついていないようだった。
「高野さん、お持ち帰り~~!?」
閉店後、酔いつぶれて眠ってしまった律を抱え上げた律を見て、ウェイターの千秋が冷やかした。
だが高野はまったく動じることなく「もちろん美味しくいただくさ」とニンマリと笑う。
あまりにもあっけらかんとした高野の様子に、千秋は逆に驚き、黙り込んでしまった。
そして今、律は高野の部屋のベットで眠っている。
ぐったりと力が抜けた身体から服を脱がすのは大変だった。
邪な願望よりもむしろ律が寝苦しいだろうと思ったからだ。
千秋には「美味しくいただく」などと言ってみたものの、その気はなかった。
律に対して欲情する部分は大いにあるが、いくら何でも早すぎる。
それに酔って意識がない人間を抱くのは、高野の流儀に反するものだ。
「かわいい顔して、ワケありってか」
高野は眠っている律の髪をサラリとなでながら、ポツリと呟いた。
服を脱がせてみてわかったのは、律の身体には目立つ傷痕がいくつもあることだ。
特に大きいのは右わき腹の切り傷で、古い傷なのにしっかりと痕を残している。
手術痕とかではなく、意図的に傷つけられたものにしか見えない。
最初は単なる興味だったが、今はもう本気だ。
この綺麗な青年を、自分のものにしたい。
っていうか、いつか本当に抱いてやる。
高野は律の寝顔を見ながら、不穏な決意を固めたのだった。
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メジャーかぁ。
三橋はコーヒーのカップをソーサーに戻すと、ため息をついた。
メジャーへの挑戦は三橋にとっても夢であり、いつかはたどり着きたい場所だ。
だがそれが現実味を帯びてくると、急に怖気づいてしまう。
三橋はカフェ「エメラルド」でコーヒーを飲んでいた。
早く来過ぎてしまったので、ネイルサロンの予約時間までここで待つつもりだった。
小腹が空いてサンドウイッチを食べたのだが、あまり美味くなかった。
ただコーヒーがすごく美味なのが、ありがたかった。
これなら今後も時間つぶしに使えそうだ。
最近の三橋の興味は、もっぱらメジャーリーグのことだった。
もうすぐ同じ球団の先輩投手、榛名の移籍が報道されるだろう。
もちろんそれは喜ばしいことだが、同時に危機感もある。
現在、球団で一番年俸が高い投手は榛名、その次が三橋だ。
つまり次にメジャー移籍の話が来るとしたら、三橋の可能性が高いのだ。
ある選手の年俸が高くなりすぎると、どうしても球団の経営を圧迫する。
特に三橋が所属する球団は、あまり資金が潤沢ではないのだ。
おそらくそう遠からず、メジャー行きを促されるだろう。
その移籍金で球団は多少なりとも潤うことになる。
三橋本人は金には無頓着で、高い年俸にはあまり興味がない。
だがだからと言って、高い給料はいらないというわけにもいかない。
成績に見合った給料をもらわないと、他の選手にも影響する。
三橋よりも勝ち星や防御率が低い選手はいつまでも給料が上がらないことになってしまう。
「あれ?三橋さん」
不意に声をかけられて、三橋はそちらを見た。
立っていたのは、三橋の髪を切ってくれた美容師の阿部だった。
三橋は「こ、こんにち、は」とたどたどしく挨拶を返した。
「もしかして予約までの時間つぶしですか?」
「は、はい。阿部、さん、は」
「俺は休憩時間なんでコーヒーを飲みに来たんです。ご一緒してもいいですか?」
阿部の申し出に、三橋はコクコクと首を縦に振った。
1人でいてもついついネガティブなことを考えてしまう。
阿部と一緒に楽しく過ごせるならば、嬉しい。
そこまで考えてから、三橋は「あれ?」と思った。
基本的に人見知りで、話すことが苦手な自分なのに。
どうして阿部と一緒だと嬉しいなどと思うのだろう。
「ここで何か食いました?」
「サンド、ウィッチ。でもコーヒー、ほど、美味、しく、なかった。」
「・・・三橋さんもここの会員資格がありますね」
バー「エメラルド」の会員制の話を知らない三橋は、何のことかわからず首を傾げた。
だが阿部の笑顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
三橋は阿部と共につかの間のコーヒータイムを楽しんだ。
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「今回のヤツは一段と手が込んでるな。」
蛭魔は一心不乱に爪に色を重ねるセナに感嘆しながら、そう言った。
セナは「ええ、まぁ」と答えながら、顔を上げることはなかった。
今回セナが選んだ花は曼珠沙華だった。
別名「彼岸花」などとも呼ばれ、不吉な花と嫌う者も少なくない。
だがセナはこの花が好きだと言う。
放射状に開いた花の鮮やかな美しさがいいらしい。
ベースの色は曼珠沙華の茎と葉をイメージしたつややかな深緑にした。
その上に深紅の細い花弁を、丹念に書き込んでいく。
そもそもこの「毒花」シリーズは手間がかかるのだが、今回はさらに大変だった。
花弁が細かいので、極細の筆で幾重にも重ねないと花が咲かない。
個室内はエアコンで、適度な温度と湿度が保たれている。
だが緻密な作業を長時間続けるセナの額からは、汗が滴り落ちていた。
「綺麗だな」
「そうでしょう?今回は特に自信作です。」
蛭魔は真剣なセナの表情のことを言ったのだが、セナは爪の上の曼珠沙華のことだと思ったようだ。
その間違いを訂正しようと思ったが、今はやめておくことにした。
セナは今細かい作業に没頭している。
甘いセリフは爪が仕上がってからでいいし、何より今は同時作業で髪を切っている阿部もいる。
「そう言えば三橋廉、バー『エメラルド』の会員になったらしいぜ。」
「そうなんですか。じゃあいつか一緒にお食事とかできるかもしれませんね!」
「嬉しいのか?」
「そりゃあもう。現役のプロ野球選手と食事した、なんて自慢できるじゃないですか~!」
セナは嬉しそうだが、蛭魔は少々気に入らなかった。
蛭魔だってテレビに出る有名人なのだから、三橋との食事をそんなに喜ぶ必要などないではないか。
だが嫉妬めいたことを口に出すのも、妙に気恥ずかしい。
蛭魔は表面上は素知らぬ顔で「そんなもんか?」と聞き返した。
三橋がバー「エメラルド」の会員になった経緯をよく知る阿部は、素知らぬ顔でハサミを動かしている。
阿部の操るハサミの音と、セナの軽やかな笑いが個室の中で静かに響いていた。
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「コンテスト、出たいんスけど」
阿部はボソリと手を上げた。
ヘアサロン「らーぜ」の面々は、皆一様に驚き「え~?」と叫んでいた。
それはスタッフ全員が顔を揃えたミーティングの場でのことだ。
店長の百枝が「コンテスト出場希望でまだエントリーしてない人、いる?」と声をかけた。
コンテストとは年に一度開催される美容師の全国大会だ。
毎年全国から約1万人の美容師が参加し、頂点を競う。
ヘアサロン「らーぜ」からも、毎年何名かの美容師が参加している。
だが阿部は今までそういうものには一切出たことがなく、むしろ避けていた。
はっきり言ってコンテストに勝つためのヘアスタイルは、あくまでもコンテスト用だと思っている。
その証拠に過去のコンテストの受賞作を見ると、街をそのまま歩けるような髪型は1つもない。
実際に客に合わせて、その顔や表情を引き立たせるのが美容師のそもそもの仕事。
コンテストなど邪道、単なるショーに過ぎないというのが阿部の持論だった。
だが今回は出てみたいと思った。
それは先日、カフェ「エメラルド」で三橋と話をしたせいだ。
三橋の口から聞かされたいつかはメジャーに行くという話は衝撃だった。
世界の最高峰を見つめるあの瞳に、強烈に惹かれた。
手が届かないと思っていたが、やはりもっと三橋に近づきたい。
少しでもつりあう人間になるために、と思ったときに思いついたのがコンテストだった。
今の自分の力がどの程度なのか、見極めたくなったのだ。
「なぁ阿部。お前がコンテストに出るなんて、どういう風の吹き回しだよ。」
ミーティングの後、阿部に声をかけてきたのは、同僚の泉だ。
だが全員が興味津々の様子で、2人の会話に聞き耳を立てていた。
「ある人と対等の関係になりたくて。自分の力を試したくなったんだ。」
阿部は端的にそう答えた。
これには他の美容師たちも俄然色めき立ち「誰?」「恋人?」などと質問攻めになる。
だが阿部はそれ以上は何も語らなかった。
阿部はこのとき気がつかなかった。
篠岡が切ない目で阿部を見ていたことも、その篠岡を水谷が微妙な表情で見ていたことも。
ただ三橋の真っ直ぐな瞳を思い出して、胸を高鳴らせていた。
*****
「そんな、どうして!」
セナはテレビの画面を見ながら、思わず声を荒げていた。
予約と予約の合間の空き時間。
セナはネイルサロンの休憩スペースで、テレビを見ていた。
ちょうど午後のワイドショーのような番組だった。
芸能ニュースとして、先日写真週刊誌に撮られた小日向杏の記者会見をやっている。
ぼんやりとテレビを見ていたセナは、思わず座っていた椅子から身を乗り出していた。
『あの写真の方は、カレシですか?』
『違いますぅ。通っているネイルサロンの方でーす。』
テレビの中では記者からの質問に、杏が答えている。
それにしても「ますぅ」とか「でーす」とか間延びした語尾上げ言葉が癇に障った。
『では杏さんの担当のネールアーティストの方なんですか?』
『はい、そうでーす。』
杏の言葉に思わず叫びだしそうになったセナは、拳を口に当てて堪えた。
セナは杏の担当ではなく、ほとんど話をしたことさえないのに。
だが次の瞬間、杏が両手の甲をかざすようにしてこちらに向けたときには、セナは「え?」と声を上げた。
杏の爪には、セナが蛭魔に施したのとよく似た花が描かれていたからだ。
茎と葉の深緑の上に咲く深紅の花、曼珠沙華だ。
『彼は蛭魔妖一さんも担当してて、同じ絵を描いてもらっちゃいました~!』
取り囲んでいる記者の間から「ほ~」とため息が漏れる。
次の瞬間、杏の指先にカメラのフラッシュが光った。
「そんな、どうして!」
セナはテレビの画面を見ながら、思わず声を荒げていた。
あの「毒花」シリーズはセナが蛭魔のためだけにデザインし、蛭魔のためだけに描いてきたものだ。
こんなところで無断で使われるなど、我慢できない。
しかも手元がアップになると、絵柄が雑なことが目立った。
セナはこんなに雑な仕事はしない。
いろいろな意味で汚されたような気分だった。
好きだった曼珠沙華が、こんなにも忌々しく見えるなんて。
セナは怒りのあまり、爪の先が白くなるほどきつく手を握り締めていた。
【続く】