アイシ×おお振り×セカコイ【お題:毒花(草)で10題】
【ベラドンナ】
「綺麗だな」
蛭魔妖一は爪に描かれている最中の図柄を見ながら、呟いた。
細かい作業に集中していたセナは顔を上げて「ええ。ステキでしょう?」と笑う。
だが蛭魔が思わず声を上げてしまったのは、爪に上に咲いた花のことではない。
作業に集中する真剣なセナの表情を見て、そう言ったのだった。
「今回はベラドンナですよ。」
作業にかかる前、セナは自分で下書きした絵を見せてくれる。
そしてこれでいいかと確認してから、絵を入れるのだ。
蛭魔としては、もう任せているのだから勝手にやってくれてかまわないと思う。
セナのことは信頼しているし、その方が出来上がったときの楽しみが大きい。
だがセナは絶対に事前にイメージを先に見せて、了解しないと描かない。
セナのネイルアーティストとしてのこだわりのようだ。
今回はベースがシルバーで、その上に青い花が咲き乱れている。
セナは1つの爪に必ずいくつもの花を書く。
蛭魔が「大変だろう?」と聞くと、セナは「この方が華やかですから」と事も無げに答えた。
ここにもセナのこだわりが生きている。
決して手を抜くことがないセナの職業意識も、好ましいものだった。
本当はこの瞬間のセナを抱きしめたいと思う。
だがまだ爪が乾く前にそんなことをすれば、せっかくのセナの作業が台無しになる。
それに何よりここは2人きりではない。
蛭魔の背後には、爪と同時進行で髪を切っている阿部がいるのだ。
「失礼します。」
ノックと共に個室の扉が開き、ネイルサロンのスタッフである姉崎まもりが客を伴って入ってきた。
最近通うようになったタレントの小日向杏だ。
まもりに誘導されながら空いたスペースへ入ろうとした杏は、蛭魔を見つけて顔を輝かせた。
「マジシャンの蛭魔妖一さん、ですよね!あ、これが新しいネイルですかぁ?」
杏は無邪気な様子で、蛭魔の個室に入ってこようとする。
蛭魔の髪を切っていた阿部がハサミを置き、すかさず仕切られたスペースの入口に立った。
杏の侵入を阻止するためだ。
「申し訳ございません。個室内では他のお客様に話しかけるのはご遠慮ください。」
阿部が頭を下げると、杏は「え~?」と不満そうな声を上げた。
だがここは譲れない。
個室スペースは他の客と接したくないという客のための場所なのだ。
また蛭魔や杏のような有名人を混乱から守るための場所でもある。
友達同士などで来る客や、他の客やスタッフとの交流を求める客はオープンスペースを好む。
「小日向様、こちらでお願いします。」
まもりが、蛭魔から一番遠いスペースに杏を案内していく。
阿部が再びハサミを取って、蛭魔の髪を切り始めた。
「次回からは彼女とかち合わないよう時間にしましょうか?」
セナは蛭魔にだけ聞こえるように、そう言った。
蛭魔は無言で頷くと、また緻密な作業を始めたセナの横顔をジッと見ていた。
*****
「う、お!」
三橋は驚いて声を上げる。
だが待ち伏せていた女性たちの「きゃああ!」と黄色い声で、かき消されてしまった。
ネイルサロンに足を踏み入れたあの日から、三橋の周辺は大きく変わった。
三橋本人は何かが変わった自覚はないのに。
とにかく毎日戸惑うばかりだった。
本業である野球の調子はすこぶるいい。
ボールはいつも以上にしっくりと手に馴染み、思ったところに寸分の狂いなく投げられる。
これはひとえにセナによる爪の調整によるものだ。
セナが爪の形をいじったのは、おそらく1ミリの未満の細かい作業だ。
だがそれだけでボールへ力をかけるのが、嘘のようにスムーズになった。
しかも爪はしっかりと補強されているから、酷使しても全然傷まない。
三橋はいい調子で勝ち星を増やしていた。
だが周囲が着目したのは、三橋の外見の変化だった。
三橋が髪型を変えたことで、大きくイメージが変わったようだ。
あの日、爪の施術と一緒に髪のカットも頼んだ。
担当になった美容師の阿部には、最初は伸びた分だけ切ってほしいと頼んだだけだった。
「もったいないですね。綺麗な色の髪だし、形を変えればもっといい感じになりますよ。」
「でも、俺、ひどい、クセっ毛、で」
「クセを生かした髪型にすればいいんです。そうすれば手間もかかりません。」
阿部の言葉に、三橋は思わず「ホント、ですか?」と身を乗り出していた。
手間もかからない。
それは三橋にとって、何とも魅力的な言葉だった。
毎朝このクセの強い髪のせいで、三橋は時間を取られていたのだ。
学生のころは寝グセで飛び跳ねている頭でも、平気だった。
だがプロになってからは球団に「身だしなみもちゃんとしろ」と言われている。
三橋は毎朝、暴れる髪を押さえるのが悩みの種だったのだ。
「少し短めにしましょう。あえてちょっとバラバラにします。跳ねてもそれが味になるように。」
「お、お願い、します!」
そうして出来上がった髪型は、三橋の男振りを上げた。
短くした分シャープな輪郭が目立つし、元々のクセを生かした髪は三橋にしかできない魅力になった。
爪のおかげで成績も上がったから、インタビューの機会も増える。
口下手な三橋のタドタドしい喋りは、大人っぽくなった外見とのミスマッチで「かわいい」と評判だ。
とにかく三橋の人気は急上昇し、最近では球場や練習場で出待ちするファンまで現れた。
球団職員が出待ちするファンを押さえている。
三橋は彼らに「すみません」と声をかけながら、移動用のバスに乗り込んだ。
一軍選手の中には球場には自家用車で来る者も多いが、三橋は球団のバスを使っている。
家も球団の寮だし、私生活は地味なのだ。
投球がよくなったのはセナのおかげであり、次の施術の時には礼を言いたい。
だがそれ以上に、三橋は阿部に会いたいと思っている。
そしてその理由がわからずに、少しだけ困惑していた。
*****
「この人、阿部君のお客様よね?」
阿部に声をかけたのは、ヘアサロン「らーぜ」のスタッフ、篠岡千代だ。
だがテレビの画面に集中していた阿部は気付かない。
そのままテレビ画面を凝視しながら、篠岡には見向きもしなかった。
ヘアサロン「らーぜ」は夜も遅くまで営業している。
平日の会社帰りの客にも対応するためだ。
夕方、次の指名客が来るまでと休憩室に入った阿部は、備え付けのテレビを見ていた。
ちょうどCS局で放送されているプロ野球の試合。
今日は三橋廉が先発出場している。
最近三橋は成績がよくなり、しかも人気が上がっているらしい。
こうやってテレビの画面越しに見る三橋は、別人のようだ。
髪を切っていたときの三橋は、少年のようだった。
口下手で照れ屋で、ちょっとした会話でも一生懸命という感じだった。
セナにも阿部にも礼儀正しく、少しも驕ったところはない。
だがこうしてマウンドに立つ姿は勇ましく、表情も凛としている。
このギャップが人気なのだというのも頷ける。
「阿部。また三橋ちゃん見てるの~?」
ちょうど休憩室に入ってきたスタッフの水谷文貴が、声を上げた。
阿部は顔をしかめると「三橋ちゃんとか言うな」と文句を言った。
いかに休憩室とはいえ店内で、客の名前をちゃんづけで呼ぶなど不謹慎だ。
そもそも水谷ごときに、親しげに呼ばせたくない。
「阿部はすっかり三橋投手に恋しちゃったみたいだね。」
水谷は阿部の不機嫌に動じることなく、おどけたように茶化した。
恋という言葉に、たまたまその場にいた篠岡も思わずピクリと反応する。
水谷がこうして時々阿部にからむのは、この篠岡のためだ。
篠岡が阿部に好意を持っていることに気付いている人間は多いだろう。
当の阿部はそれには気付いていないが、水谷が篠岡を好きなことには気付いている。
「馬鹿なことを言うな。相手はお客様で、しかも俺なんか手が届く人じゃない。」
阿部は素っ気なくそう言った。
それは阿部があの日以来、こうしてテレビ越しで三橋を見ながらいつも思っていることだった。
三橋は阿部と対等に付き合える人間ではないのだと。
「男同士だからとは言わないんだ。」
水谷はため息をつきながら、俯いた篠岡の横顔を見た。
篠岡は何か言いたそうに阿部を見ていたが、口を開くことはなかった。
だが阿部はそんな水谷の言外の意味などわからなかった。
テレビの画面の中で投球のモーションに入った三橋をジッと見ていた。
*****
「コーヒー下さい。」
律はきっぱりとそう言った。
ウェイターの青年が「え?」と思わず聞き返してくる。
律はもう1回、きっぱりと「コーヒーです。早くしてください」ときつい口調で繰り返した。
律はまたネイルサロンに杏を送って来ていた。
本当にこの時間は中途半端で困る。
よく収録するスタジオからも所属するプロダクションからも遠いのだ。
だから必然的にどこかで杏を待ちながら、パソコンなどで書類仕事をすることが多くなる。
だがこの辺は、仕事をしながら時間を潰すには相応しくない土地柄だ。
物価が高く、喫茶店などに入ってもコーヒー1杯がメチャメチャに高い。
それにオシャレな店が多いこの界隈は、いつもお喋りを楽しむ女性客で溢れている。
とにかく落ち着いて長い時間にいられる店がなかった。
律は意を決して、カフェ「エメラルド」に入った。
ここはテーブルが広いのでパソコンも広げやすいし、値段も高いせいで歳が若くて騒ぐような客はいない。
何と言ってもネイルサロンと同じビルに入っているので、杏を迎えに行くのも楽だ。
杏を待つ間、ここが一番都合がいいのは間違いない。
だがこの店は何しろ第一印象が悪かった。
やたらに高くて、そのわりには美味しくない食事が出された。
そしてその後、やたら高飛車な従業員が伝票を破り捨てたのだ。
そのときには訳がわからなかったが、時間が経つにつれて、怒りがこみ上げた。
味覚を試されたのか、単に悪戯がしたかったのか。
とにかく馬鹿にされたのだという気しかしない。
律はカフェに入ると、コーヒーだけ注文した。
食事はさほど美味くなかったが、コーヒーだけは美味かったのだ。
今回注文を取りにきたウェイターは、伝票を破いたあの男ではなかった。
だが前回も確か店にいたような気がする。
小柄でかわいらしい感じのウェイターは、コーヒーだけという律の注文に変な顔をしている。
どうやら彼も、今カウンターの中にいるあの無礼な男も、律のことを覚えているようだ。
コーヒーが運ばれてくると、律は鞄の中からビニールの袋を取り出した。
中にはコンビニで買い求めたサンドウィッチが入っている。
律はパッケージを開けると、サンドウィッチを食べ始めた。
他の客が呆然と律を見ているが、知ったことではない。
ノートパソコンを開いて、電源ボタンを押した。
飲食店で自分で持ち込んだ食べ物を食べる。
それがどれほど失礼なことか律にだってよくわかっている。
だがかまわないと思った。
前回は無礼なことをされていると思うし、こんな店の料理をありがたがっている客に何を思われてもいい。
それにこういうことをしたらあの男がどう出るか、逆に試してやりたくなったのだ
「ごちそうさま。美味しかったです。」
帰り際、レジで律は皮肉たっぷりにそう言ってやった。
レジに立ったのは、前回のあのモデルのように綺麗で無礼な男だ。
「金はいらない。」
男は口元に笑みを浮かべながら、そう言った。
だが律は「いえ、結構です」と言って、レジに代金を置くと店を出て行った。
この男がこんなに愉快な表情をすることはめったにない。
だが律はそんなことは知らず、余裕たっぷりな男の態度が気に入らなかった。
*****
「そりゃまた、愉快な話だな」
「でしょ?でしょ?」
カウンター席では常連客の蛭魔が、ウェイターの吉野千秋と話し込んでいる。
店内には他に客はおらず、オーナーの高野が蛭魔の隣に座っていた。
カウンターの中ではバーテンダーの羽鳥芳雪が、シェイカーを振っていた。
カフェ「エメラルド」は夜の8時に営業が終わる。
そして8時以降は会員制のバー「エメラルド」に変わるのだ。
通りすがり、いわゆる一元の客は絶対に入店できない。
それに会員と一緒とか紹介というのも認めていない。
バー「エメラルド」に入れる客は、オーナーである高野が認めた者だけだ。
ちなみにマジシャンの蛭魔妖一が会員になったきっかけは、やはりカフェで食事をしたときのことだ。
出された料理を1口食べた蛭魔は、すぐさま席を立った。
そして応対する高野に「こんなものに金は払わない」と言い切った。
それが高野の気に入られたのだ。
昼のカフェでも夜のバーでも、会員にはきちんと代金に見合ったものを出す。
それ以来、蛭魔は「エメラルド」の常連だった。
「高野さん、あのお客さんをすごく気に入ったみたいです。」
吉野は、カフェでもバーでもウェイターをしている。
そこで蛭魔にカフェの面白い客の話をした。
コーヒーだけ頼んで、コンビニのサンドウィッチを食べながら、パソコンを叩いていた客の話だ。
周囲の視線などおかまいなしの涼しい顔で、高野には最後まで挑発的だった。
「吉野。他のお客様の話をあまり喋るな。」
羽鳥が出来上がったカクテルを蛭魔の前に置くと、吉野をたしなめた。
バータイムだけ働いている寡黙な羽鳥は、腕のいいバーテンダーだ。
「ネイルサロンのお客さんを待ってたみたいだった。あと携帯かけてたけど、芸能関係の人みたい。」
吉野は羽鳥の言葉も聞かずに、ペラペラと話し続けた。
蛭魔は「ああ、なるほど」と呟くと、カクテルを口に運んだ。
甘いものが嫌いな蛭魔は、普段はカクテルのような酒は好まない。
だが羽鳥はそんな蛭魔の好みは熟知していて、さっぱりとしたオリジナルカクテルを作ってくれるのだ。
「え、蛭魔さん、御存知なんですか?」
「ああ。多分、小日向杏の関係者だ。ネイルサロンに来ていた。」
「え~?蛭魔さん、小日向杏を見たんですか?」
「ああ。見た。ワガママで空気を読まない感じだった。」
吉野と蛭魔の会話を聞きながら、高野もまた黙って羽鳥が作った酒を飲んでいた。
バータイムになった店は一切羽鳥に任せている。
だから余程のことがない限りは口を出さない。
気を許した会員たちと酒を飲み、喋り、楽しい時間を過ごす。
それが高野のスタイルだった。
「あ、蛭魔さん。それ新しいネイルですよね。今回もステキですよ。」
「それはセナが来てから、言ってやってくれ。」
蛭魔はそう言って、またグラスの中身を一気に飲み干した。
セナもまた高野の目にかなった会員であり、蛭魔とここで待ち合わせをしている。
店が終わってセナが来るまでには、まだ少々時間があるだろう。
蛭魔は「同じものを頼む」とグラスを吉野の方へ押しやった。
その爪の上には、美しいベラドンナの花が咲き誇っている。
*****
「どうしても私のネイル、やってもらえないですか?」
閉店後、店が入っているビルを出たセナは、そこに立っていた人物に声をかけられた。
彼女は最近来た客で、小日向杏だ。
どうやら閉店後にセナが店を出てくるのを待っていたらしい。
「こんな遅くに1人なの?」
セナは驚き、携帯電話で時間を確認した。
ネイルサロン「デビルバッツ」もヘアサロン「らーぜ」も閉店は午後10時だ。
その後今日あったことを報告するミーティングをする。
報告内容は主にトラブルで、それをスタッフ全員に周知させるのだ。
片付けてからミーティングをして店を出ると、どうしても11時近くなる。
そんな深夜に芸能人でもある若い女性が1人で出歩くのは、好ましくないだろう。
ちなみにセナは今日のミーティングで、杏が蛭魔に話しかけたことを言った。
杏の予約はなるべく他の客とかち合わせない方がいいと進言したのだ。
「ごめんなさい。本当に今のお客様だけで手一杯ですので。」
「え~?1人くらいダメ?」
「すみません。他にもお待ちいただいているお客様がいらっしゃるので。」
「芸能人なんだから、そこは特別にしてもらえないの?」
「本当に申し訳ありません。」
セナは内心辟易しながら、表情だけは笑顔を保って、頭を下げた。
正直言って、杏1人をセナの客に入れることはさほどむずかしい話ではない。
セナを待っている客がいるのも間違いないが、順位など客にはわからないのだから。
だがセナには「芸能人なんだから特別に」という発想はなかった。
セナは杏の手元に目を落とした。
女の子のこういう手が、セナは好きではなかった。
おそらく家事などは一切したことがないのだろう。
かわいいだけで何もしてない手。
セナが好きなのは、働く手だ。
例えば様々なマジックを演じる蛭魔の手。
力強い投球で相手打者をどんどん打ち取る三橋や榛名の手。
「もし私のネイルをやってくれたら、私。。。」
杏はセナの腕に自分の腕をからめてきた。
セナは思わずその手を払いのけると、杏はあからさまにムッとした表情になった。
まさか自分相手にこういう色仕掛けがくるなんて、セナは夢にも思わなかった。
「本当にごめんなさい。」
セナはもう1度頭を下げると、ビルの1階にあるバーに駆け込んだ。
今日はここで蛭魔と待ち合わせをしている。
ここのバーは完全会員制だから、店内までは追って来られないはずだ。
*****
「俺の専属になる気はないか?」
蛭魔は真っ直ぐにセナの瞳を見ながら、そう言った。
セナはキョトンとしながら「それってどういう意味ですか?」と聞き返す。
蛭魔は澄ました顔で「プロポーズ」と言ってのけた。
蛭魔はようやく店に現れた待ち人セナと共に、カウンターからテーブル席に移動していた。
向かい合わせに座りながら、2人で羽鳥のカクテルを楽しんでいる。
2人の関係は、実に微妙な状態だった。
お互いに恋心を抱いており、しかも相手もそれを知っている。
だがそれをはっきりとそれを口に出したことはなかった。
言うなれば「友達以上、恋人未満」という状態だったのだ。
「俺の恋人兼専属ネイルアーティストになって、世界を回る時には一緒について来て欲しい。」
「蛭魔さん」
「好きだから、いつも一緒にいたい。」
セナは蛭魔の告白に、頬を染めた。
「エメラルド」で一緒に食事をしたり、酒を飲んだりすることはよくあった。
だがまさかこんな風に告白されるなど、予想もしていなかった。
「僕も蛭魔さんが好きですよ。でも専属って。。。」
「まぁいきなり専属っていうのは、さすがに気が早いか。お前も仕事もあるしな。」
「ええ、まぁ」
答えてしまってから、セナは「あれ?」と思う。
いきなり「専属ネイルアーティスト」などと言われて、焦った。
蛭魔の専属となるなら、仕事を辞め、今まで贔屓にしてくれていた客を捨てなければならないからだ。
そこに動揺してしまって「恋人」の方はなし崩しに了承させられた形だ。
恋人になるのは、もう蛭魔の中では既定事実なのか。
それとも蛭魔の策略なのか。
「蛭魔さんはこれからも海外で仕事をするつもりなんですか?」
「っていうか日本の仕事は少しずつ減らしていくつもりだ。いずれは海外だけで勝負する。」
「じゃあ住まいも海外に引越しですか。。。」
「だから今は恋人だけでいい。何年か後に本格的に日本を出る時にまた聞く。」
蛭魔の描く未来図を聞かされたセナは複雑な気分だった。
何だかひどくあっけなく恋人になってしまった気がする。
それはもちろん嬉しいのだが、何年か先には大きな決断が待っているということだ。
セナも全てを捨てて日本を離れるか、蛭魔と別れて日本で生きるか。
蛭魔という恋人と一緒に得た難問は、これからセナを悩ませるだろう。
「とりあえず英語の勉強、しておこうかな。」
セナは苦笑しながら、そう言った。
とにかく好きなのだから、今は一緒にいるために努力しよう。
写真週刊誌にセナの写真が掲載されるのは、それから10日後のことだ。
先程の小日向杏とセナが腕をからませていた場面を撮られたのだ。
だがセナは今は知る由もなく、蛭魔の長い指に咲くベラドンナの花を見つめていた。
【続く】
「綺麗だな」
蛭魔妖一は爪に描かれている最中の図柄を見ながら、呟いた。
細かい作業に集中していたセナは顔を上げて「ええ。ステキでしょう?」と笑う。
だが蛭魔が思わず声を上げてしまったのは、爪に上に咲いた花のことではない。
作業に集中する真剣なセナの表情を見て、そう言ったのだった。
「今回はベラドンナですよ。」
作業にかかる前、セナは自分で下書きした絵を見せてくれる。
そしてこれでいいかと確認してから、絵を入れるのだ。
蛭魔としては、もう任せているのだから勝手にやってくれてかまわないと思う。
セナのことは信頼しているし、その方が出来上がったときの楽しみが大きい。
だがセナは絶対に事前にイメージを先に見せて、了解しないと描かない。
セナのネイルアーティストとしてのこだわりのようだ。
今回はベースがシルバーで、その上に青い花が咲き乱れている。
セナは1つの爪に必ずいくつもの花を書く。
蛭魔が「大変だろう?」と聞くと、セナは「この方が華やかですから」と事も無げに答えた。
ここにもセナのこだわりが生きている。
決して手を抜くことがないセナの職業意識も、好ましいものだった。
本当はこの瞬間のセナを抱きしめたいと思う。
だがまだ爪が乾く前にそんなことをすれば、せっかくのセナの作業が台無しになる。
それに何よりここは2人きりではない。
蛭魔の背後には、爪と同時進行で髪を切っている阿部がいるのだ。
「失礼します。」
ノックと共に個室の扉が開き、ネイルサロンのスタッフである姉崎まもりが客を伴って入ってきた。
最近通うようになったタレントの小日向杏だ。
まもりに誘導されながら空いたスペースへ入ろうとした杏は、蛭魔を見つけて顔を輝かせた。
「マジシャンの蛭魔妖一さん、ですよね!あ、これが新しいネイルですかぁ?」
杏は無邪気な様子で、蛭魔の個室に入ってこようとする。
蛭魔の髪を切っていた阿部がハサミを置き、すかさず仕切られたスペースの入口に立った。
杏の侵入を阻止するためだ。
「申し訳ございません。個室内では他のお客様に話しかけるのはご遠慮ください。」
阿部が頭を下げると、杏は「え~?」と不満そうな声を上げた。
だがここは譲れない。
個室スペースは他の客と接したくないという客のための場所なのだ。
また蛭魔や杏のような有名人を混乱から守るための場所でもある。
友達同士などで来る客や、他の客やスタッフとの交流を求める客はオープンスペースを好む。
「小日向様、こちらでお願いします。」
まもりが、蛭魔から一番遠いスペースに杏を案内していく。
阿部が再びハサミを取って、蛭魔の髪を切り始めた。
「次回からは彼女とかち合わないよう時間にしましょうか?」
セナは蛭魔にだけ聞こえるように、そう言った。
蛭魔は無言で頷くと、また緻密な作業を始めたセナの横顔をジッと見ていた。
*****
「う、お!」
三橋は驚いて声を上げる。
だが待ち伏せていた女性たちの「きゃああ!」と黄色い声で、かき消されてしまった。
ネイルサロンに足を踏み入れたあの日から、三橋の周辺は大きく変わった。
三橋本人は何かが変わった自覚はないのに。
とにかく毎日戸惑うばかりだった。
本業である野球の調子はすこぶるいい。
ボールはいつも以上にしっくりと手に馴染み、思ったところに寸分の狂いなく投げられる。
これはひとえにセナによる爪の調整によるものだ。
セナが爪の形をいじったのは、おそらく1ミリの未満の細かい作業だ。
だがそれだけでボールへ力をかけるのが、嘘のようにスムーズになった。
しかも爪はしっかりと補強されているから、酷使しても全然傷まない。
三橋はいい調子で勝ち星を増やしていた。
だが周囲が着目したのは、三橋の外見の変化だった。
三橋が髪型を変えたことで、大きくイメージが変わったようだ。
あの日、爪の施術と一緒に髪のカットも頼んだ。
担当になった美容師の阿部には、最初は伸びた分だけ切ってほしいと頼んだだけだった。
「もったいないですね。綺麗な色の髪だし、形を変えればもっといい感じになりますよ。」
「でも、俺、ひどい、クセっ毛、で」
「クセを生かした髪型にすればいいんです。そうすれば手間もかかりません。」
阿部の言葉に、三橋は思わず「ホント、ですか?」と身を乗り出していた。
手間もかからない。
それは三橋にとって、何とも魅力的な言葉だった。
毎朝このクセの強い髪のせいで、三橋は時間を取られていたのだ。
学生のころは寝グセで飛び跳ねている頭でも、平気だった。
だがプロになってからは球団に「身だしなみもちゃんとしろ」と言われている。
三橋は毎朝、暴れる髪を押さえるのが悩みの種だったのだ。
「少し短めにしましょう。あえてちょっとバラバラにします。跳ねてもそれが味になるように。」
「お、お願い、します!」
そうして出来上がった髪型は、三橋の男振りを上げた。
短くした分シャープな輪郭が目立つし、元々のクセを生かした髪は三橋にしかできない魅力になった。
爪のおかげで成績も上がったから、インタビューの機会も増える。
口下手な三橋のタドタドしい喋りは、大人っぽくなった外見とのミスマッチで「かわいい」と評判だ。
とにかく三橋の人気は急上昇し、最近では球場や練習場で出待ちするファンまで現れた。
球団職員が出待ちするファンを押さえている。
三橋は彼らに「すみません」と声をかけながら、移動用のバスに乗り込んだ。
一軍選手の中には球場には自家用車で来る者も多いが、三橋は球団のバスを使っている。
家も球団の寮だし、私生活は地味なのだ。
投球がよくなったのはセナのおかげであり、次の施術の時には礼を言いたい。
だがそれ以上に、三橋は阿部に会いたいと思っている。
そしてその理由がわからずに、少しだけ困惑していた。
*****
「この人、阿部君のお客様よね?」
阿部に声をかけたのは、ヘアサロン「らーぜ」のスタッフ、篠岡千代だ。
だがテレビの画面に集中していた阿部は気付かない。
そのままテレビ画面を凝視しながら、篠岡には見向きもしなかった。
ヘアサロン「らーぜ」は夜も遅くまで営業している。
平日の会社帰りの客にも対応するためだ。
夕方、次の指名客が来るまでと休憩室に入った阿部は、備え付けのテレビを見ていた。
ちょうどCS局で放送されているプロ野球の試合。
今日は三橋廉が先発出場している。
最近三橋は成績がよくなり、しかも人気が上がっているらしい。
こうやってテレビの画面越しに見る三橋は、別人のようだ。
髪を切っていたときの三橋は、少年のようだった。
口下手で照れ屋で、ちょっとした会話でも一生懸命という感じだった。
セナにも阿部にも礼儀正しく、少しも驕ったところはない。
だがこうしてマウンドに立つ姿は勇ましく、表情も凛としている。
このギャップが人気なのだというのも頷ける。
「阿部。また三橋ちゃん見てるの~?」
ちょうど休憩室に入ってきたスタッフの水谷文貴が、声を上げた。
阿部は顔をしかめると「三橋ちゃんとか言うな」と文句を言った。
いかに休憩室とはいえ店内で、客の名前をちゃんづけで呼ぶなど不謹慎だ。
そもそも水谷ごときに、親しげに呼ばせたくない。
「阿部はすっかり三橋投手に恋しちゃったみたいだね。」
水谷は阿部の不機嫌に動じることなく、おどけたように茶化した。
恋という言葉に、たまたまその場にいた篠岡も思わずピクリと反応する。
水谷がこうして時々阿部にからむのは、この篠岡のためだ。
篠岡が阿部に好意を持っていることに気付いている人間は多いだろう。
当の阿部はそれには気付いていないが、水谷が篠岡を好きなことには気付いている。
「馬鹿なことを言うな。相手はお客様で、しかも俺なんか手が届く人じゃない。」
阿部は素っ気なくそう言った。
それは阿部があの日以来、こうしてテレビ越しで三橋を見ながらいつも思っていることだった。
三橋は阿部と対等に付き合える人間ではないのだと。
「男同士だからとは言わないんだ。」
水谷はため息をつきながら、俯いた篠岡の横顔を見た。
篠岡は何か言いたそうに阿部を見ていたが、口を開くことはなかった。
だが阿部はそんな水谷の言外の意味などわからなかった。
テレビの画面の中で投球のモーションに入った三橋をジッと見ていた。
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「コーヒー下さい。」
律はきっぱりとそう言った。
ウェイターの青年が「え?」と思わず聞き返してくる。
律はもう1回、きっぱりと「コーヒーです。早くしてください」ときつい口調で繰り返した。
律はまたネイルサロンに杏を送って来ていた。
本当にこの時間は中途半端で困る。
よく収録するスタジオからも所属するプロダクションからも遠いのだ。
だから必然的にどこかで杏を待ちながら、パソコンなどで書類仕事をすることが多くなる。
だがこの辺は、仕事をしながら時間を潰すには相応しくない土地柄だ。
物価が高く、喫茶店などに入ってもコーヒー1杯がメチャメチャに高い。
それにオシャレな店が多いこの界隈は、いつもお喋りを楽しむ女性客で溢れている。
とにかく落ち着いて長い時間にいられる店がなかった。
律は意を決して、カフェ「エメラルド」に入った。
ここはテーブルが広いのでパソコンも広げやすいし、値段も高いせいで歳が若くて騒ぐような客はいない。
何と言ってもネイルサロンと同じビルに入っているので、杏を迎えに行くのも楽だ。
杏を待つ間、ここが一番都合がいいのは間違いない。
だがこの店は何しろ第一印象が悪かった。
やたらに高くて、そのわりには美味しくない食事が出された。
そしてその後、やたら高飛車な従業員が伝票を破り捨てたのだ。
そのときには訳がわからなかったが、時間が経つにつれて、怒りがこみ上げた。
味覚を試されたのか、単に悪戯がしたかったのか。
とにかく馬鹿にされたのだという気しかしない。
律はカフェに入ると、コーヒーだけ注文した。
食事はさほど美味くなかったが、コーヒーだけは美味かったのだ。
今回注文を取りにきたウェイターは、伝票を破いたあの男ではなかった。
だが前回も確か店にいたような気がする。
小柄でかわいらしい感じのウェイターは、コーヒーだけという律の注文に変な顔をしている。
どうやら彼も、今カウンターの中にいるあの無礼な男も、律のことを覚えているようだ。
コーヒーが運ばれてくると、律は鞄の中からビニールの袋を取り出した。
中にはコンビニで買い求めたサンドウィッチが入っている。
律はパッケージを開けると、サンドウィッチを食べ始めた。
他の客が呆然と律を見ているが、知ったことではない。
ノートパソコンを開いて、電源ボタンを押した。
飲食店で自分で持ち込んだ食べ物を食べる。
それがどれほど失礼なことか律にだってよくわかっている。
だがかまわないと思った。
前回は無礼なことをされていると思うし、こんな店の料理をありがたがっている客に何を思われてもいい。
それにこういうことをしたらあの男がどう出るか、逆に試してやりたくなったのだ
「ごちそうさま。美味しかったです。」
帰り際、レジで律は皮肉たっぷりにそう言ってやった。
レジに立ったのは、前回のあのモデルのように綺麗で無礼な男だ。
「金はいらない。」
男は口元に笑みを浮かべながら、そう言った。
だが律は「いえ、結構です」と言って、レジに代金を置くと店を出て行った。
この男がこんなに愉快な表情をすることはめったにない。
だが律はそんなことは知らず、余裕たっぷりな男の態度が気に入らなかった。
*****
「そりゃまた、愉快な話だな」
「でしょ?でしょ?」
カウンター席では常連客の蛭魔が、ウェイターの吉野千秋と話し込んでいる。
店内には他に客はおらず、オーナーの高野が蛭魔の隣に座っていた。
カウンターの中ではバーテンダーの羽鳥芳雪が、シェイカーを振っていた。
カフェ「エメラルド」は夜の8時に営業が終わる。
そして8時以降は会員制のバー「エメラルド」に変わるのだ。
通りすがり、いわゆる一元の客は絶対に入店できない。
それに会員と一緒とか紹介というのも認めていない。
バー「エメラルド」に入れる客は、オーナーである高野が認めた者だけだ。
ちなみにマジシャンの蛭魔妖一が会員になったきっかけは、やはりカフェで食事をしたときのことだ。
出された料理を1口食べた蛭魔は、すぐさま席を立った。
そして応対する高野に「こんなものに金は払わない」と言い切った。
それが高野の気に入られたのだ。
昼のカフェでも夜のバーでも、会員にはきちんと代金に見合ったものを出す。
それ以来、蛭魔は「エメラルド」の常連だった。
「高野さん、あのお客さんをすごく気に入ったみたいです。」
吉野は、カフェでもバーでもウェイターをしている。
そこで蛭魔にカフェの面白い客の話をした。
コーヒーだけ頼んで、コンビニのサンドウィッチを食べながら、パソコンを叩いていた客の話だ。
周囲の視線などおかまいなしの涼しい顔で、高野には最後まで挑発的だった。
「吉野。他のお客様の話をあまり喋るな。」
羽鳥が出来上がったカクテルを蛭魔の前に置くと、吉野をたしなめた。
バータイムだけ働いている寡黙な羽鳥は、腕のいいバーテンダーだ。
「ネイルサロンのお客さんを待ってたみたいだった。あと携帯かけてたけど、芸能関係の人みたい。」
吉野は羽鳥の言葉も聞かずに、ペラペラと話し続けた。
蛭魔は「ああ、なるほど」と呟くと、カクテルを口に運んだ。
甘いものが嫌いな蛭魔は、普段はカクテルのような酒は好まない。
だが羽鳥はそんな蛭魔の好みは熟知していて、さっぱりとしたオリジナルカクテルを作ってくれるのだ。
「え、蛭魔さん、御存知なんですか?」
「ああ。多分、小日向杏の関係者だ。ネイルサロンに来ていた。」
「え~?蛭魔さん、小日向杏を見たんですか?」
「ああ。見た。ワガママで空気を読まない感じだった。」
吉野と蛭魔の会話を聞きながら、高野もまた黙って羽鳥が作った酒を飲んでいた。
バータイムになった店は一切羽鳥に任せている。
だから余程のことがない限りは口を出さない。
気を許した会員たちと酒を飲み、喋り、楽しい時間を過ごす。
それが高野のスタイルだった。
「あ、蛭魔さん。それ新しいネイルですよね。今回もステキですよ。」
「それはセナが来てから、言ってやってくれ。」
蛭魔はそう言って、またグラスの中身を一気に飲み干した。
セナもまた高野の目にかなった会員であり、蛭魔とここで待ち合わせをしている。
店が終わってセナが来るまでには、まだ少々時間があるだろう。
蛭魔は「同じものを頼む」とグラスを吉野の方へ押しやった。
その爪の上には、美しいベラドンナの花が咲き誇っている。
*****
「どうしても私のネイル、やってもらえないですか?」
閉店後、店が入っているビルを出たセナは、そこに立っていた人物に声をかけられた。
彼女は最近来た客で、小日向杏だ。
どうやら閉店後にセナが店を出てくるのを待っていたらしい。
「こんな遅くに1人なの?」
セナは驚き、携帯電話で時間を確認した。
ネイルサロン「デビルバッツ」もヘアサロン「らーぜ」も閉店は午後10時だ。
その後今日あったことを報告するミーティングをする。
報告内容は主にトラブルで、それをスタッフ全員に周知させるのだ。
片付けてからミーティングをして店を出ると、どうしても11時近くなる。
そんな深夜に芸能人でもある若い女性が1人で出歩くのは、好ましくないだろう。
ちなみにセナは今日のミーティングで、杏が蛭魔に話しかけたことを言った。
杏の予約はなるべく他の客とかち合わせない方がいいと進言したのだ。
「ごめんなさい。本当に今のお客様だけで手一杯ですので。」
「え~?1人くらいダメ?」
「すみません。他にもお待ちいただいているお客様がいらっしゃるので。」
「芸能人なんだから、そこは特別にしてもらえないの?」
「本当に申し訳ありません。」
セナは内心辟易しながら、表情だけは笑顔を保って、頭を下げた。
正直言って、杏1人をセナの客に入れることはさほどむずかしい話ではない。
セナを待っている客がいるのも間違いないが、順位など客にはわからないのだから。
だがセナには「芸能人なんだから特別に」という発想はなかった。
セナは杏の手元に目を落とした。
女の子のこういう手が、セナは好きではなかった。
おそらく家事などは一切したことがないのだろう。
かわいいだけで何もしてない手。
セナが好きなのは、働く手だ。
例えば様々なマジックを演じる蛭魔の手。
力強い投球で相手打者をどんどん打ち取る三橋や榛名の手。
「もし私のネイルをやってくれたら、私。。。」
杏はセナの腕に自分の腕をからめてきた。
セナは思わずその手を払いのけると、杏はあからさまにムッとした表情になった。
まさか自分相手にこういう色仕掛けがくるなんて、セナは夢にも思わなかった。
「本当にごめんなさい。」
セナはもう1度頭を下げると、ビルの1階にあるバーに駆け込んだ。
今日はここで蛭魔と待ち合わせをしている。
ここのバーは完全会員制だから、店内までは追って来られないはずだ。
*****
「俺の専属になる気はないか?」
蛭魔は真っ直ぐにセナの瞳を見ながら、そう言った。
セナはキョトンとしながら「それってどういう意味ですか?」と聞き返す。
蛭魔は澄ました顔で「プロポーズ」と言ってのけた。
蛭魔はようやく店に現れた待ち人セナと共に、カウンターからテーブル席に移動していた。
向かい合わせに座りながら、2人で羽鳥のカクテルを楽しんでいる。
2人の関係は、実に微妙な状態だった。
お互いに恋心を抱いており、しかも相手もそれを知っている。
だがそれをはっきりとそれを口に出したことはなかった。
言うなれば「友達以上、恋人未満」という状態だったのだ。
「俺の恋人兼専属ネイルアーティストになって、世界を回る時には一緒について来て欲しい。」
「蛭魔さん」
「好きだから、いつも一緒にいたい。」
セナは蛭魔の告白に、頬を染めた。
「エメラルド」で一緒に食事をしたり、酒を飲んだりすることはよくあった。
だがまさかこんな風に告白されるなど、予想もしていなかった。
「僕も蛭魔さんが好きですよ。でも専属って。。。」
「まぁいきなり専属っていうのは、さすがに気が早いか。お前も仕事もあるしな。」
「ええ、まぁ」
答えてしまってから、セナは「あれ?」と思う。
いきなり「専属ネイルアーティスト」などと言われて、焦った。
蛭魔の専属となるなら、仕事を辞め、今まで贔屓にしてくれていた客を捨てなければならないからだ。
そこに動揺してしまって「恋人」の方はなし崩しに了承させられた形だ。
恋人になるのは、もう蛭魔の中では既定事実なのか。
それとも蛭魔の策略なのか。
「蛭魔さんはこれからも海外で仕事をするつもりなんですか?」
「っていうか日本の仕事は少しずつ減らしていくつもりだ。いずれは海外だけで勝負する。」
「じゃあ住まいも海外に引越しですか。。。」
「だから今は恋人だけでいい。何年か後に本格的に日本を出る時にまた聞く。」
蛭魔の描く未来図を聞かされたセナは複雑な気分だった。
何だかひどくあっけなく恋人になってしまった気がする。
それはもちろん嬉しいのだが、何年か先には大きな決断が待っているということだ。
セナも全てを捨てて日本を離れるか、蛭魔と別れて日本で生きるか。
蛭魔という恋人と一緒に得た難問は、これからセナを悩ませるだろう。
「とりあえず英語の勉強、しておこうかな。」
セナは苦笑しながら、そう言った。
とにかく好きなのだから、今は一緒にいるために努力しよう。
写真週刊誌にセナの写真が掲載されるのは、それから10日後のことだ。
先程の小日向杏とセナが腕をからませていた場面を撮られたのだ。
だがセナは今は知る由もなく、蛭魔の長い指に咲くベラドンナの花を見つめていた。
【続く】