アイシ×おお振り×セカコイ【お題:裏切り10題】
【鬼ごっこの果てに】
「は、あぅ!」
瀬那は首筋に食い込む牙の痛みに身を捩った。
だがすぐに痛みは快感に変わる。
快感を感じてしまうのは、いわば生理現象だ。
吸血鬼の唾液には、そういう成分が含まれているのだから。
だが快感を感じることは、蛭魔を裏切っているということ。
どうしてもそんな気がしてならない。
「く、うう!」
ガッチリとした体躯の男が椅子に座り、膝の上に瀬那を軽々と抱え上げていた。
そしてゴクゴクと喉を鳴らしながら、瀬那の血を奪い取っていく。
恐ろしく健啖で、無遠慮な食欲だ。
蛭魔や阿部や高野は、空腹でもこんな飲み方はしなかった。
瀬那の身体を労わるように、ゆっくりと少しずつ血を啜った。
だが男は貪るように瀬那の血を飲んでいる。
そして腹が満たされると、瀬那の身体を無造作に床に放り投げた。
瀬那を買い取ったのは、双生児の吸血鬼だった。
彼らは「伴侶」を持っておらず、常に腹を減らしているらしい。
瀬那に限らず「伴侶」は1回血を吸われると、数時間は眠らないと体力が戻らない。
ところがこの双生児は、瀬那の回復などお構いなしに交代で「食事」をするのだ。
血を吸われて眠り、血を吸うために起こされて、また血を吸われて眠る。
もう瀬那には、指1本動かす力すら残っていない。
自分が拉致されてからどのくらいの日数が経つのか、今は昼なのか夜なのか。
よくわからないままに、瀬那は常に朦朧とした状態で過ごしていた。
*****
「っつ!」
蛭魔は右手で額を押さえながら、眉根を寄せた。
そしてガクンとその場に倒れこんでしまいそうになる。
高野が慌てて駆け寄り、蛭魔を支えた。
そしてゆっくりとリビングのソファに座らせると、蛭魔が「悪い」と小さくあやまった。
廉を救出した後、蛭魔たちはホテルのスィートルームに戻っていた。
そして瀬那と律の救出のために、また策をめぐらせている。
「また感じたのか?瀬那の気配」
「ああ。今もだ。移動してる」
蛭魔はソファに身を沈めて目を閉じると、じっと神経を集中させた。
だがすぐに肩を落として、首を振る。
「だめだ。また消えた。」
「焦るなよ、蛭魔。」
高野が蛭魔の横に座り、慰めるように肩を叩いた。
蛭魔はかすかに口角を上げて、無理矢理笑顔を作った。
瀬那の気配を感じ取れるだけ、蛭魔の方がまだマシなのだ。
吸血鬼の「伴侶」ではない律に関しては、まったく情報がない。
利用価値がないからと、殺されてしまっている可能性だって低くはないのだから。
高野の心労に比べればまだマシだと、蛭魔は自分の気を引き締めた。
*****
誘拐された2人の「伴侶」瀬那と廉には、明らかな違いがあった。
廉は救出されるまで、まったく気配を感じることが出来なかった。
だが依然として行方がわからない瀬那は、時折その気配を感じることがあるのだ。
その違いの理由は簡単だ。
廉は建物の地下深くに監禁されていたから。
瀬那もおそらくそうなのだが、何度も場所を移動していると思われる。
だから移動している最中だけ、その気配を感じ取れるのだ。
最初は瀬那の気配を感じるたびに、それを追ってみたりもした。
だが追いつけないうちに、いつも消えてしまう。
まるで透明人間と鬼ごっこをしているようなものだ。
闇雲に追いかけてもダメなのだと、蛭魔は追跡を諦めた。
廉のように男娼として売られたのなら、こんなに頻繁に移動する必要はない。
そしてそれ以上に気になるのは、瀬那の気配が弱くなっていることだ。
病気にもならず、少々の怪我ならすぐに治ってしまう「伴侶」が弱る理由は1つしかない。
瀬那を連れ歩いている者は、おそらく人間ではない。
魔の力を持つ者が、瀬那を弱らせているのだと考えられる。
だがそこから先の手がかりはまったくなかった。
「廉が何か覚えているといいが。。。」
高野はそう言いながら、阿部と廉の寝室のドアを見た。
廉はずっと部屋にこもってふさぎこんでおり、阿部が傍に付き添っている。
男娼として複数の客の相手をさせられた廉のダメージは大きい。
身体はすぐに回復したが、心はそうはいかない。
そんな廉に話を聞くことはためらわれた。
廉の傷を、さらに抉ることになるからだ。
*****
「いやぁぁ!」
「廉、大丈夫だ。落ち着け。」
眠っていた廉が、悲鳴を上げながら目を覚ました。
大きな瞳は涙で潤み、頬も涙で濡れている。
身体は冷たい汗をかき、小刻みに震えていた。
廉の隣に横になってずっと見守っていた阿部が、廉の身体をそっと抱きしめる。
廉は「隆也、さん」と声を上げると、その胸に顔を埋めてすすり泣いた。
「廉、大丈夫だ。もう大丈夫だから。」
阿部はそう言いながら、指で廉の涙を拭いた。
本当はすぐにでも廉の忌まわしい記憶を消してやりたい。
だがそれは出来なかった。
何とか平静を取り戻してもらって、思い出してもらわなくてはならない。
瀬那と律がどこにいるのか、その手がかりになるようなことを覚えていないか。
それを話してもらうまでは、記憶を消すわけにはいかない。
「ごめん、なさい。俺、は。」
「廉は何も悪くない。何があっても俺はお前を手放さないから。」
「隆也、さん」
廉は阿部に縋りつくように身を摺り寄せる。
だがすぐに身体を離すと、両手で涙を拭った。
「わかって、ます。俺が、しなくちゃ、いけない、こと。だから」
廉はベットから身体を起こそうとしたが、阿部はもう一度廉を抱きしめた。
傷ついているのに、懸命に立ち上がろうとする廉が愛おしかった。
*****
「初めまして、だよなぁ?」
「そうだな。噂はよく聞くが、なかなか会う機会がなかった。」
同じ顔なのに、雰囲気が全然違う2人の男が交互にそう言った。
1人はドレッドヘアに、ジャラジャラとたくさんのアクセサリーをつけた男。
もう1人は坊主頭に空手の稽古のような胴衣をまとった男。
金剛阿含、金剛雲水。
並んで座るこの2人は強い魔力を持つことから有名な双生児の吸血鬼だった。
坊主頭の地味な男が兄の雲水、ドレットヘアの派手な男が弟の阿含だ。
彼らも蛭魔たちと同じ理由で、1つのところに定住しない。
だがそれにしても短い期間に、移動を繰り返していた。
それは彼らの「食料」の確保の方法のせいだ。
伴侶を持たない彼らはいわゆる「ナンパ」という手段を取っていた。
阿含が言葉巧みに女性を誘いこみ、魔力で眠らせてしまう。
そして兄弟でその血を飲み、阿含はさらに身体も頂いてしまうのだ。
その方法は、人間と吸血鬼の間で取り決められた規則には大きく違反する。
血を摂取する場合は、必ず相手の人間の合意を得ることとあるのだ。
だが金剛兄弟は、相手の記憶を消すだけでなく、偽の記憶を植えつけることもできる。
血を吸われた女性は、一夜限りの恋愛をしただけだと思うだけなのだ。
それでも同じ場所で何度もそれをすれば、いつか知れ渡ってしまう恐れもある。
ちなみに瀬那を手に入れてからも移動を繰り返したのは、単純に阿含の性格のせいだ。
元々飽きっぽい上に、1つの場所に長くいない生活を繰り返していたから。
1つの場所にじっとしているということが、長くできないのだ。
*****
「それにしても、よくここがわかったな。」
雲水が呆れたように言う。
「バレたくねーなら、弟のその派手な格好を何とかすることだ。」
向かいに座る男-蛭魔がそう答える。
阿含が「ケッ」と不機嫌に喉を鳴らした。
蛭魔は高野と阿部を伴って、双生児の隠れ家を訪れていた。
最初は阿部は残って、廉の傍にいるつもりだった。
だが廉はそれをことわり、1人で待つと言い張った。
そして必ず瀬那を取り戻して欲しいと頼んだのだ。
瀬那の買い手がこの双生児の吸血鬼だとわかったのは、その廉の記憶だった。
買い手がついて、最初に監禁された場所から同時に連れ出された瀬那と廉。
その時に廉は見たのだ。
瀬那を抱えて出て行く男のドレッドヘア、そして蛇が巻きつくようなデザインの指輪。
それだけの情報で、蛭魔たちには充分だった。
まったく同じ特徴を持つ吸血鬼の存在を知っていたからだ。
「『伴侶』を取られた間抜けな吸血鬼の噂は聞いてたけど。テメーがそうか。」
阿含が攻撃的な口調で、蛭魔たちを挑発する。
蛭魔も、両側を陣取る阿部と高野も表情を動かすことはなかった。
だが彼らの静かな怒りは、隠しようがない。
その場の空気が、一気にピリピリと緊張をはらんだものに変わっていく。
*****
「俺の『伴侶』を返してもらいたい。」
緊張を破ったのは、蛭魔だった。
そしてじっと雲水の目を見据えたまま、目をそらさない。
交渉するなら、破天荒な弟より冷静な兄とする方が得策だと思ったからだ。
「断るといったら?」
雲水が真っ直ぐに蛭魔の目を見返した。
その目には蛭魔同様、何の感情も浮かんでいない。
蛭魔たち3人の意図を読み取ろうとしているのだろう。
「『伴侶』を持たない俺たちには、貴重な食料だ。」
「アイツの血、そこらの女より、甘くて美味いし~」
雲水の真面目な言葉に、阿含が茶々を入れる。
蛭魔の目が、かすかに不機嫌そうにひそめられた。
「俺たちは商品を買っただけだ。過失は大事な『伴侶』を奪われたそちらに。。。」
「だからこうして取引に来た。それだけだ。」
雲水の言葉を遮って、蛭魔が切り出す。
そして視線をゆっくりと阿含に移した。
「お前、ナンパした女をラブホに連れ込んでヤった後、血を吸ったりしてるだろ?」
蛭魔はそう言い放つと、1枚のディスクを取り出して、テーブルに置いた。
透明なプラスチックケースに入っているだけで、ラベルもついていない。
「ラブホって時々隠し撮りされてるんだよな。知ってたか?」
蛭魔はさらにそう付け加えて、また雲水に視線を戻した。
雲水が「中を確認しても?」と蛭魔に聞く。
だがその前に、蛭魔が右手でディスクに触れる。
魔力を込めた手で触れられたディスクは、白い煙と化して消えた。
蛭魔は「どうせコピーだからな」と不敵に笑う。
*****
「2日前の渋谷のラブホ。身に覚えがあるだろ?」
蛭魔がさらにとどめとばかりにつきつける。
雲水も阿含も押し黙って、考えていた。
蛭魔たちは金剛兄弟と取引するために、周到に準備したのだ。
弱みを捜そうと、阿含の後を尾行したまでは本当だとわかる。
だが隠し撮り映像が本当にあるのかどうかは、図りかねていた。
「瀬那を買ったことで食料はあるだろ?何で女をナンパするんだ?」
阿部がもっともな疑問を口にする。
「まったくだ。お前はどうして女漁りをやめられないんだ?」
意外にもその問いに同意したのは雲水だった。
心底呆れたという様子で、大きくため息をつく。
今まで金剛兄弟、主に阿含の悪行がバレていないのは、相手の記憶に残らないからだ。
だが隠し撮りの映像があれば誤魔化しようもない。
人間と吸血鬼との取り決めを破ったことが明るみに出れば、抹殺されるのだ。
吸血鬼は血さえ飲んでいれば死なない。
それは裏を返せば血を飲まなければ、死んでしまうということだ。
取り決めを破った吸血鬼は、魔力で封印された牢獄に閉じ込められ、死ぬまで放置される。
何十年、何百年もかけて飢え死にさせられるのが掟だった。
「ただとは言わない。テメーらが払った金額は払う。それで買い戻させてもらいたい。」
蛭魔の最後通牒に、雲水が「倍だ」と唸った。
「2倍払え。それで手を打つ。それから隠し撮りの映像は消去しろ。」
雲水がついに決断したのだ。
蛭魔の作戦はまんまと図に当たった。
交渉が決裂した場合は、戦いになる。
蛭魔、阿部、高野の3人と金剛兄弟の魔力は、多分互角くらいだ。
争えば、泥沼の消耗戦になることは目に見えている。
それ以前に隠し撮りの映像が本物で、掟を司る長たちに渡れば阿含は終わりだ。
そんなわずらわしいことになるよりは、瀬那を手放し、金を手にした方がいい。
雲水がそう判断する方に、賭けたのだ。
*****
「ここだ。多分眠っているだろう。」
雲水が鍵を開け、扉を開く。
蛭魔は雲水を押しのけるようにして、部屋の中に飛び込んだ。
雲水に案内された場所は、やはり地下室だった。
階段を降りたその下には、大きな南京錠がかけられた扉があったのだ。
蛭魔が中に入っても、阿部と高野は部屋の入口で待った。
3人が入ったところで鍵を閉められてしまう恐れもあるからだ。
雲水はそんな2人を見ながら「ここまで来て姑息な真似はしない」と苦笑した。
「瀬那」
蛭魔は床に倒れている瀬那に近づき、抱き起こした。
だが瀬那は何の反応もしない。
苦しそうに眉を寄せた表情で、目は閉じられたままだ。
そして首筋に大きな傷-噛まれた後を見つけて、顔を顰めた。
「伴侶」は少々の傷ならすぐに治ってしまう。
それでもこれほどの傷が残っているということは、かなり手荒くされたのだろう。
「瀬那、もう大丈夫だ。帰ろう。」
蛭魔は目を覚まさない瀬那の耳元に、そう囁いた。
そしてそっと瀬那を抱き上げると、ゆっくりと歩き出す。
鬼ごっこの果てにやっと見つけた大事な「伴侶」を、優しく守るように。
「後は律だけだな。」
蛭魔に続いて歩きながら、阿部が高野に声をかける。
高野は「ああ」と答えながら、また考えていた。
律を取り返した後、もう一度その記憶を消して、手を離してやることができるだろうか?
【続く】
「は、あぅ!」
瀬那は首筋に食い込む牙の痛みに身を捩った。
だがすぐに痛みは快感に変わる。
快感を感じてしまうのは、いわば生理現象だ。
吸血鬼の唾液には、そういう成分が含まれているのだから。
だが快感を感じることは、蛭魔を裏切っているということ。
どうしてもそんな気がしてならない。
「く、うう!」
ガッチリとした体躯の男が椅子に座り、膝の上に瀬那を軽々と抱え上げていた。
そしてゴクゴクと喉を鳴らしながら、瀬那の血を奪い取っていく。
恐ろしく健啖で、無遠慮な食欲だ。
蛭魔や阿部や高野は、空腹でもこんな飲み方はしなかった。
瀬那の身体を労わるように、ゆっくりと少しずつ血を啜った。
だが男は貪るように瀬那の血を飲んでいる。
そして腹が満たされると、瀬那の身体を無造作に床に放り投げた。
瀬那を買い取ったのは、双生児の吸血鬼だった。
彼らは「伴侶」を持っておらず、常に腹を減らしているらしい。
瀬那に限らず「伴侶」は1回血を吸われると、数時間は眠らないと体力が戻らない。
ところがこの双生児は、瀬那の回復などお構いなしに交代で「食事」をするのだ。
血を吸われて眠り、血を吸うために起こされて、また血を吸われて眠る。
もう瀬那には、指1本動かす力すら残っていない。
自分が拉致されてからどのくらいの日数が経つのか、今は昼なのか夜なのか。
よくわからないままに、瀬那は常に朦朧とした状態で過ごしていた。
*****
「っつ!」
蛭魔は右手で額を押さえながら、眉根を寄せた。
そしてガクンとその場に倒れこんでしまいそうになる。
高野が慌てて駆け寄り、蛭魔を支えた。
そしてゆっくりとリビングのソファに座らせると、蛭魔が「悪い」と小さくあやまった。
廉を救出した後、蛭魔たちはホテルのスィートルームに戻っていた。
そして瀬那と律の救出のために、また策をめぐらせている。
「また感じたのか?瀬那の気配」
「ああ。今もだ。移動してる」
蛭魔はソファに身を沈めて目を閉じると、じっと神経を集中させた。
だがすぐに肩を落として、首を振る。
「だめだ。また消えた。」
「焦るなよ、蛭魔。」
高野が蛭魔の横に座り、慰めるように肩を叩いた。
蛭魔はかすかに口角を上げて、無理矢理笑顔を作った。
瀬那の気配を感じ取れるだけ、蛭魔の方がまだマシなのだ。
吸血鬼の「伴侶」ではない律に関しては、まったく情報がない。
利用価値がないからと、殺されてしまっている可能性だって低くはないのだから。
高野の心労に比べればまだマシだと、蛭魔は自分の気を引き締めた。
*****
誘拐された2人の「伴侶」瀬那と廉には、明らかな違いがあった。
廉は救出されるまで、まったく気配を感じることが出来なかった。
だが依然として行方がわからない瀬那は、時折その気配を感じることがあるのだ。
その違いの理由は簡単だ。
廉は建物の地下深くに監禁されていたから。
瀬那もおそらくそうなのだが、何度も場所を移動していると思われる。
だから移動している最中だけ、その気配を感じ取れるのだ。
最初は瀬那の気配を感じるたびに、それを追ってみたりもした。
だが追いつけないうちに、いつも消えてしまう。
まるで透明人間と鬼ごっこをしているようなものだ。
闇雲に追いかけてもダメなのだと、蛭魔は追跡を諦めた。
廉のように男娼として売られたのなら、こんなに頻繁に移動する必要はない。
そしてそれ以上に気になるのは、瀬那の気配が弱くなっていることだ。
病気にもならず、少々の怪我ならすぐに治ってしまう「伴侶」が弱る理由は1つしかない。
瀬那を連れ歩いている者は、おそらく人間ではない。
魔の力を持つ者が、瀬那を弱らせているのだと考えられる。
だがそこから先の手がかりはまったくなかった。
「廉が何か覚えているといいが。。。」
高野はそう言いながら、阿部と廉の寝室のドアを見た。
廉はずっと部屋にこもってふさぎこんでおり、阿部が傍に付き添っている。
男娼として複数の客の相手をさせられた廉のダメージは大きい。
身体はすぐに回復したが、心はそうはいかない。
そんな廉に話を聞くことはためらわれた。
廉の傷を、さらに抉ることになるからだ。
*****
「いやぁぁ!」
「廉、大丈夫だ。落ち着け。」
眠っていた廉が、悲鳴を上げながら目を覚ました。
大きな瞳は涙で潤み、頬も涙で濡れている。
身体は冷たい汗をかき、小刻みに震えていた。
廉の隣に横になってずっと見守っていた阿部が、廉の身体をそっと抱きしめる。
廉は「隆也、さん」と声を上げると、その胸に顔を埋めてすすり泣いた。
「廉、大丈夫だ。もう大丈夫だから。」
阿部はそう言いながら、指で廉の涙を拭いた。
本当はすぐにでも廉の忌まわしい記憶を消してやりたい。
だがそれは出来なかった。
何とか平静を取り戻してもらって、思い出してもらわなくてはならない。
瀬那と律がどこにいるのか、その手がかりになるようなことを覚えていないか。
それを話してもらうまでは、記憶を消すわけにはいかない。
「ごめん、なさい。俺、は。」
「廉は何も悪くない。何があっても俺はお前を手放さないから。」
「隆也、さん」
廉は阿部に縋りつくように身を摺り寄せる。
だがすぐに身体を離すと、両手で涙を拭った。
「わかって、ます。俺が、しなくちゃ、いけない、こと。だから」
廉はベットから身体を起こそうとしたが、阿部はもう一度廉を抱きしめた。
傷ついているのに、懸命に立ち上がろうとする廉が愛おしかった。
*****
「初めまして、だよなぁ?」
「そうだな。噂はよく聞くが、なかなか会う機会がなかった。」
同じ顔なのに、雰囲気が全然違う2人の男が交互にそう言った。
1人はドレッドヘアに、ジャラジャラとたくさんのアクセサリーをつけた男。
もう1人は坊主頭に空手の稽古のような胴衣をまとった男。
金剛阿含、金剛雲水。
並んで座るこの2人は強い魔力を持つことから有名な双生児の吸血鬼だった。
坊主頭の地味な男が兄の雲水、ドレットヘアの派手な男が弟の阿含だ。
彼らも蛭魔たちと同じ理由で、1つのところに定住しない。
だがそれにしても短い期間に、移動を繰り返していた。
それは彼らの「食料」の確保の方法のせいだ。
伴侶を持たない彼らはいわゆる「ナンパ」という手段を取っていた。
阿含が言葉巧みに女性を誘いこみ、魔力で眠らせてしまう。
そして兄弟でその血を飲み、阿含はさらに身体も頂いてしまうのだ。
その方法は、人間と吸血鬼の間で取り決められた規則には大きく違反する。
血を摂取する場合は、必ず相手の人間の合意を得ることとあるのだ。
だが金剛兄弟は、相手の記憶を消すだけでなく、偽の記憶を植えつけることもできる。
血を吸われた女性は、一夜限りの恋愛をしただけだと思うだけなのだ。
それでも同じ場所で何度もそれをすれば、いつか知れ渡ってしまう恐れもある。
ちなみに瀬那を手に入れてからも移動を繰り返したのは、単純に阿含の性格のせいだ。
元々飽きっぽい上に、1つの場所に長くいない生活を繰り返していたから。
1つの場所にじっとしているということが、長くできないのだ。
*****
「それにしても、よくここがわかったな。」
雲水が呆れたように言う。
「バレたくねーなら、弟のその派手な格好を何とかすることだ。」
向かいに座る男-蛭魔がそう答える。
阿含が「ケッ」と不機嫌に喉を鳴らした。
蛭魔は高野と阿部を伴って、双生児の隠れ家を訪れていた。
最初は阿部は残って、廉の傍にいるつもりだった。
だが廉はそれをことわり、1人で待つと言い張った。
そして必ず瀬那を取り戻して欲しいと頼んだのだ。
瀬那の買い手がこの双生児の吸血鬼だとわかったのは、その廉の記憶だった。
買い手がついて、最初に監禁された場所から同時に連れ出された瀬那と廉。
その時に廉は見たのだ。
瀬那を抱えて出て行く男のドレッドヘア、そして蛇が巻きつくようなデザインの指輪。
それだけの情報で、蛭魔たちには充分だった。
まったく同じ特徴を持つ吸血鬼の存在を知っていたからだ。
「『伴侶』を取られた間抜けな吸血鬼の噂は聞いてたけど。テメーがそうか。」
阿含が攻撃的な口調で、蛭魔たちを挑発する。
蛭魔も、両側を陣取る阿部と高野も表情を動かすことはなかった。
だが彼らの静かな怒りは、隠しようがない。
その場の空気が、一気にピリピリと緊張をはらんだものに変わっていく。
*****
「俺の『伴侶』を返してもらいたい。」
緊張を破ったのは、蛭魔だった。
そしてじっと雲水の目を見据えたまま、目をそらさない。
交渉するなら、破天荒な弟より冷静な兄とする方が得策だと思ったからだ。
「断るといったら?」
雲水が真っ直ぐに蛭魔の目を見返した。
その目には蛭魔同様、何の感情も浮かんでいない。
蛭魔たち3人の意図を読み取ろうとしているのだろう。
「『伴侶』を持たない俺たちには、貴重な食料だ。」
「アイツの血、そこらの女より、甘くて美味いし~」
雲水の真面目な言葉に、阿含が茶々を入れる。
蛭魔の目が、かすかに不機嫌そうにひそめられた。
「俺たちは商品を買っただけだ。過失は大事な『伴侶』を奪われたそちらに。。。」
「だからこうして取引に来た。それだけだ。」
雲水の言葉を遮って、蛭魔が切り出す。
そして視線をゆっくりと阿含に移した。
「お前、ナンパした女をラブホに連れ込んでヤった後、血を吸ったりしてるだろ?」
蛭魔はそう言い放つと、1枚のディスクを取り出して、テーブルに置いた。
透明なプラスチックケースに入っているだけで、ラベルもついていない。
「ラブホって時々隠し撮りされてるんだよな。知ってたか?」
蛭魔はさらにそう付け加えて、また雲水に視線を戻した。
雲水が「中を確認しても?」と蛭魔に聞く。
だがその前に、蛭魔が右手でディスクに触れる。
魔力を込めた手で触れられたディスクは、白い煙と化して消えた。
蛭魔は「どうせコピーだからな」と不敵に笑う。
*****
「2日前の渋谷のラブホ。身に覚えがあるだろ?」
蛭魔がさらにとどめとばかりにつきつける。
雲水も阿含も押し黙って、考えていた。
蛭魔たちは金剛兄弟と取引するために、周到に準備したのだ。
弱みを捜そうと、阿含の後を尾行したまでは本当だとわかる。
だが隠し撮り映像が本当にあるのかどうかは、図りかねていた。
「瀬那を買ったことで食料はあるだろ?何で女をナンパするんだ?」
阿部がもっともな疑問を口にする。
「まったくだ。お前はどうして女漁りをやめられないんだ?」
意外にもその問いに同意したのは雲水だった。
心底呆れたという様子で、大きくため息をつく。
今まで金剛兄弟、主に阿含の悪行がバレていないのは、相手の記憶に残らないからだ。
だが隠し撮りの映像があれば誤魔化しようもない。
人間と吸血鬼との取り決めを破ったことが明るみに出れば、抹殺されるのだ。
吸血鬼は血さえ飲んでいれば死なない。
それは裏を返せば血を飲まなければ、死んでしまうということだ。
取り決めを破った吸血鬼は、魔力で封印された牢獄に閉じ込められ、死ぬまで放置される。
何十年、何百年もかけて飢え死にさせられるのが掟だった。
「ただとは言わない。テメーらが払った金額は払う。それで買い戻させてもらいたい。」
蛭魔の最後通牒に、雲水が「倍だ」と唸った。
「2倍払え。それで手を打つ。それから隠し撮りの映像は消去しろ。」
雲水がついに決断したのだ。
蛭魔の作戦はまんまと図に当たった。
交渉が決裂した場合は、戦いになる。
蛭魔、阿部、高野の3人と金剛兄弟の魔力は、多分互角くらいだ。
争えば、泥沼の消耗戦になることは目に見えている。
それ以前に隠し撮りの映像が本物で、掟を司る長たちに渡れば阿含は終わりだ。
そんなわずらわしいことになるよりは、瀬那を手放し、金を手にした方がいい。
雲水がそう判断する方に、賭けたのだ。
*****
「ここだ。多分眠っているだろう。」
雲水が鍵を開け、扉を開く。
蛭魔は雲水を押しのけるようにして、部屋の中に飛び込んだ。
雲水に案内された場所は、やはり地下室だった。
階段を降りたその下には、大きな南京錠がかけられた扉があったのだ。
蛭魔が中に入っても、阿部と高野は部屋の入口で待った。
3人が入ったところで鍵を閉められてしまう恐れもあるからだ。
雲水はそんな2人を見ながら「ここまで来て姑息な真似はしない」と苦笑した。
「瀬那」
蛭魔は床に倒れている瀬那に近づき、抱き起こした。
だが瀬那は何の反応もしない。
苦しそうに眉を寄せた表情で、目は閉じられたままだ。
そして首筋に大きな傷-噛まれた後を見つけて、顔を顰めた。
「伴侶」は少々の傷ならすぐに治ってしまう。
それでもこれほどの傷が残っているということは、かなり手荒くされたのだろう。
「瀬那、もう大丈夫だ。帰ろう。」
蛭魔は目を覚まさない瀬那の耳元に、そう囁いた。
そしてそっと瀬那を抱き上げると、ゆっくりと歩き出す。
鬼ごっこの果てにやっと見つけた大事な「伴侶」を、優しく守るように。
「後は律だけだな。」
蛭魔に続いて歩きながら、阿部が高野に声をかける。
高野は「ああ」と答えながら、また考えていた。
律を取り返した後、もう一度その記憶を消して、手を離してやることができるだろうか?
【続く】