アイシ×おお振り×セカコイ【お題:裏切り10題】
【終わりと始まり】
「廉、愛してる。」
阿部はそう言いながら、廉を抱きしめて、くちづける。
そしてその首筋に歯を立てて、その血を吸い上げた。
これが「伴侶」というものなのか。
阿部はひたすら廉に酔っていた。
キスをして、身体を重ねて、そしてその血を味わう。
そうやってもう何日も、阿部と廉はベットの上で過ごしていた。
2人とも何も纏わぬ姿で、阿部は廉を求め続ける。
廉の味は格別だった。
瀬那の血だって、今までに飲んだ誰の血よりも美味いと思っていたのに。
だが廉の唇も肌も血も蕩けるような美味なのだ。
これが愛して求め続けた「伴侶」の味。
阿部は狂ったように、廉にのめりこんでいった。
廉は廉で、阿部から与えられる快楽に翻弄されていた。
身も心も全て捧げて、奪われて、歯を立てられて、血を啜られる。
そうして与えられたのは、今までに感じたこともないような快感だった。
廉はただただひたすら、その心地よさに溺れていた。
人間としての人生の終わりと「伴侶」としての生の始まり。
その不安をまぎらし、縋りつくように。
こうして吸血鬼とその「伴侶」たちは、社会から取り残されていく。
彼らにとって、無限ともいえる時間。
人間との繋がりを絶って、生きていく支えはお互いへの愛情と快楽だけだ。
阿部はもう拷問のように長い時間の中を生きる術を心得ている。
だが「伴侶」になって間もない廉は、わからない。
いきなり親族とも友人とも縁が切れてしまったし、仕事もなくなった。
何をしていいかわからず、時間を持て余す廉を慰めるために。
阿部は日に何度も廉を抱き、その血を啜った。
*****
「僕が『伴侶』になったばかりの時も、蛭魔さんは毎日抱いてくれましたね。」
「そうだったか?」
「忘れたんですか?酷いです。」
「『伴侶』が出来て、浮かれて血を飲みまくってただけだ。」
「憶えてるんじゃないですか。」
「抱いてイった後の方が、血は美味いんだよ。」
「やっぱり酷いです。」
豪華なソファに並んで座りながら、瀬那は蛭魔に身体を預けていた。
ここはいわゆるリビングで4人の共有スペースだ。
蛭魔と瀬那は阿部と廉の居室のドアを見ながら、他愛無い雑談を楽しんでいた。
蛭魔も阿部も決まった住居を持たない。
吸血鬼が同じ場所に定住すると、どうしても噂になってしまうからだ。
ずっと歳を取らない彼らは、いったい何者なのだと。
ここ1年ほど蛭魔はセナと共に家を、阿部は賃貸マンションを借りていた。
だが廉が阿部の「伴侶」になったことを期に、4人は一緒に住み始めた。
場所は一流ホテルのスィートルームだ。
名の通った一流ホテルは随所に防犯カメラもあるし、さりげなく不審者もチェックされる。
ホテル滞在は金はかかるが、安全性は高いのだ。
廉を襲撃した犯人がわかるまで、蛭魔たちはここに滞在するつもりだった。
念願かなって廉を手に入れた阿部は、ずっと廉と部屋にこもっている。
その気持ちは蛭魔にもよくわかる。
瀬那を伴侶にしたばかりの蛭魔は、やはり同じように何日も瀬那を抱き続けたからだ。
抱いて血を飲んで、疲れて眠る瀬那を愛でる。
そして瀬那が起きればまた抱いて、血を啜るのだ。
そんな怠惰な日々が、今までの蛭魔の長い生の中で一番鮮烈な記憶だった。
*****
「政宗が、会社を辞めるそうだ。」
「え、そうなんですか?」
「ああ、辞表を出したって。だが引継ぎなんかがあるから実際は2ヶ月先だとさ。」
「やっぱりあの律くんって子のため、ですよね?」
「だろうな。廉がこういうことになったのを見て、決心したらしい。」
「そうですか。」
蛭魔が瀬那の肩を抱き寄せた手で、瀬那の髪を指にからめた。
癖が強い瀬那の黒髪は、見た目よりやわらかい。
指にからめたり、手で梳いたり、なでたり、かき回したり。
蛭魔はこうして瀬那の髪を触るのが好きで、暇さえあれば手遊びをする。
瀬那も蛭魔の長い指が髪をなでるのが好きだから、蛭魔の好きにさせている。
「あの子はきっと高野さんが好きです。」
最愛の主に身体を預けているのに、瀬那の表情は冴えない。
その理由は1つだ。
瀬那には高野も律も相手のことが好きなのが、痛いほどわかる。
あの日高野のマンションに行き、たまたま律と顔を合わせて、わかったのだ。
高野は律のことが好きで、必死に律を巻き込まないようにしていた。
律は高野のことが好きで、瀬那が何者なのかを気にしていた。
あんなに好き合っている2人が、このまま別れてしまうなんて。
「政宗が決めたことだ。俺たちはそれを見守るしかない。」
「でも律くんは安全なんですか?」
「政宗は大丈夫だと言っていた。」
「廉くんを襲った犯人、まだわからないのに」
「そもそも政宗が律を好きだっていうことは、本人たちしか知らないとさ。」
瀬那はため息を1つつくと、そのまま押し黙った。
蛭魔がまるで子供をあやすように、瀬那の肩をポンポンと叩く。
仕方がない、高野が決めることなのだから。
そう言い聞かせるように。
*****
「疲れた。。。」
深夜に帰宅した律は、すぐさまソファにどっかりと腰を下ろした。
着替えることすら億劫なのだ。
本当はベットに飛び込みたいところだが、すぐに眠ってしまうだろう。
明日も仕事なのだし、それはまずい。
夕食を食べていないが、もう食事も面倒だ。
とにかくシャワーだけ浴びて、さっさと寝てしまおう。
そう思いながら、律は身体を起こすことができずにいた。
律がここまで疲れているのには理由がある。
上司である高野が会社を辞めることになった。
そしてその後任に選ばれたのが、律だったのだ。
通常の業務のほかに、引継ぎの作業もある。
だからとにかく毎日忙しかった。
律は蛭魔や瀬那、阿部と廉の記憶を消されていた。
あのリムジンに遭遇したことも、雷雨の夜の廉の事件も憶えていない。
そのせいで、律の脳裏にはどうにも拭えない違和感があった。
例えば会社帰りに蛭魔たちのリムジンと遭遇したあの日。
会社を出たことまでは憶えているが、家に帰るまでの記憶がない。
ちょうどあの日から、高野は自分と距離を置くようになった気がするのだが。
また廉の事件があったあの日は。
マンションに帰り着いたことまでは憶えているが、気付いたら朝だ。
あの日は空腹で、一度帰宅した後コンビニに行こうと思っていた。
でも実際にコンビニに行ったのがどうか、いくら考えてもわからない。
その翌日に高野は辞表を出しており、何かあったのではないかと思うのに。
自分の記憶がところどころ抜け落ちている。
気がついてしまえば不安になり、それは次第に恐怖に変わっていった。
もしかして自分は何か脳とか記憶に関する病気なのではないだろうか?
だとしたら、高野の後任として仕事がこなせるのだろうか?
*****
本当は高野に相談したかった。
不安を全部ぶちまけて、彼の腕に抱きしめられたいと思う。
だがそれはできないことだともわかっている。
しつこく律に言い寄り、セクハラまがいの行為を仕掛けていた高野はもういない。
彼は今、律と距離を取ろうとしている。
もう律と恋愛しようなどという気がないのは、明らかだった。
「今になって好きだなんて、遅いよな。」
律はポツリと漏らした独り言が、深夜の静寂に消えていく。
言い寄られていたときには、高野の想いを拒絶していたのに。
今さら好きだと気付くとはどうかしていると思う。
律はソファに座ったまま、テレビのリモコンを手に取った。
別に見たいテレビ番組があるわけでない。
静寂が嫌だっただけだ。
ちょうど放送していたのは、本日最後のニュース番組。
そのスポーツコーナーだ。
『・・・年前まで三星大学野球部で活躍した投手・・・』
『・・・事故で、死亡が確認されました・・・』
『・・・神宮のエースと呼ばれ、活躍し、人気のある選手で・・・』
聞くとはなしに聞こえてくるのは、訃報のようだ。
どうやら大学野球で人気があった選手が、若くして急逝したらしい。
こんなニュースなら、まだ静かな方がいい。
もう一度テレビを消そうとリモコンを手にとった律は、画面を見て「あ」と声を上げた。
ユニフォーム姿で画面に映し出された彼。
フワフワとした茶色の髪と、同じ色の大きな目、細身で小柄な身体。
彼が若くしてこの世を去った人気の選手らしい。
「この人、知ってる。。。会ったことある。。。」
どこで見た?どこで会った?
律は画面を凝視しながら、懸命に考える。
テレビで見たのだろうか?彼は有名人のようだし。
いやありえない。だって律は野球にはほとんど興味がないのだから。
いくら人気選手でも、顔を見て声を上げるほど印象に残ることなどないと思う。
やはり絶対にこの三橋廉という青年に、どこかで直接会っている。
それなのに、どうしても思い出せない。
またしても立ちふさがる記憶の壁。
それになんだかものすごく嫌な胸騒ぎがする。
平穏な時間が終わり、別の何か不吉なことが始まろうとしているような予感だ。
律はリモコンを握り締めたまま、テレビの中の廉を見つめていた。
*****
「本当に大丈夫?廉くん」
瀬那は向かいに座る廉に声をかけた。
廉は瀬那の顔を見ながら、しっかりと頷く。
だがその身体は小刻みに震えていた。
瀬那はどうにも判断しかねて、廉の主である阿部の顔を見る。
阿部はしっかりと廉の肩を抱きしめながら、瀬那に頷いた。
4人はまたリムジンの後部座席に揺られていた。
目的は高野政宗の「食事」のためだ。
今までそれは瀬那の役目であった。
だが今回は廉と瀬那の2人で行くことになった。
最初瀬那はいつも通り、自分が1人で行くと言った。
「伴侶」になったばかりの廉は、まだ気持ちの整理もついていない。
でも廉は自分も行くと言い張った。
「何か、したい、です。このまま、すること、ないのは、つらい。」
悲壮な表情でそう言ったものの、怖いのだろう。
瀬那にはその気持ちがよくわかる。
阿部のことも高野のことも好きではあるが、それとこれとは違う。
主以外の者から血を吸われることは、どうしても苦痛なものなのだ。
やがてリムジンは高野のマンションの前に着いた。
ゆっくりと停車して、扉が静かに開いた。
廉は「行って来ます」と明るい声で、阿部に笑顔を向ける。
だがその身体は強張っており、緊張していることがわかった。
「じゃあ行こう。もしつらかったら遠慮なく言ってね。」
「ありがとう。瀬那、さん。」
瀬那が声をかけると、廉が立ち上がった。
セカセカと先にリムジンを降りていくのは、落ち着かないからだろう。
瀬那はゆっくりと立ち上がると、その後に続く。
「瀬那、頼むな」
阿部がその背中に声をかけた。
瀬那は阿部に「はい」と答えて、リムジンを降りた。
そして廉と並んで歩きながら、マンションのエントランスへと入って行く。
阿部と蛭魔はその後ろ姿を見送っていた。
*****
高野さん、たまには一緒に帰ってもいいのに。
その日も夜遅くに帰宅した律は、そんなことを思いながらマンションに戻った。
郵便受けに入っているのは、ダイレクトメールだけ。
それらを乱暴にカバンに突っ込むと、エレベーターのボタンを押す。
すると開いた扉の中には、2人の人物が乗っていた。
「うわっ!って!すみません。」
思わず声を上げてしまった律は、慌てて頭を下げる。
こんな深夜に、今までこのエントランスで住民と鉢合わせしたことはない。
すっかり油断していたために、人影に驚いてしまったのだ。
中の2人も、すごく驚いたようだった。
黒い髪と茶髪の2人の小柄なかわいらしい青年だ。
マジマジと律の顔を見る2人は、降りる様子がない。
どうやら律は、扉が閉まりかけたところでボタンを押してしまったのだろう。
「俺が開けちゃったんですね。重ね重ね、すみませんっ!」
「どうぞ、乗ってください。」
2人のうちの1人、黒い髪の青年が言った。
律は「ホントにごめんなさい」と恐縮しながら、エレベーターに乗り込んだ。
何か申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、彼らの顔が見られない。
律は2人の視線を避けるように、自分の部屋がある12階のボタンを押そうとして驚く。
すでに12階のボタンが押されていたからだ。
同じ階の住民かと思い、2人の顔を見た律は驚き「え?」と声を上げた。
茶髪の青年は先日ニュースで見たあの事故死した青年に似ている。
そしてこの黒髪の青年も、見覚えがある。
「あの、どこかで」
律がお会いしていませんか?と続けようとする前に、エレベーターが止まった。
まだ2階、彼らの目的の階よりも遥か下だ。
そして扉の向こうに現れたのは、数人の男だった。
全員が黒っぽい服装で、一見して怪しい。
1人がエレベーターの扉を押さえて、残りの男たちがエレベーターに乗り込んでくる。
「おい、2人じゃないのか?3人いるぞ!」
そんな声が聞こえるが、何を言っているのかよくわからない。
黒髪の青年と茶髪の青年が、羽交い絞めにされて、口元に布を押し当てられている。
誘拐?何だこれ?
混乱する律の口元にもやはり布が押し付けられ、律はそのまま意識を失った。
終わりと始まりは、唐突にやって来た。
3人の吸血鬼たちは、大事な存在に訪れた危機をまだ知らない。
【続く】
「廉、愛してる。」
阿部はそう言いながら、廉を抱きしめて、くちづける。
そしてその首筋に歯を立てて、その血を吸い上げた。
これが「伴侶」というものなのか。
阿部はひたすら廉に酔っていた。
キスをして、身体を重ねて、そしてその血を味わう。
そうやってもう何日も、阿部と廉はベットの上で過ごしていた。
2人とも何も纏わぬ姿で、阿部は廉を求め続ける。
廉の味は格別だった。
瀬那の血だって、今までに飲んだ誰の血よりも美味いと思っていたのに。
だが廉の唇も肌も血も蕩けるような美味なのだ。
これが愛して求め続けた「伴侶」の味。
阿部は狂ったように、廉にのめりこんでいった。
廉は廉で、阿部から与えられる快楽に翻弄されていた。
身も心も全て捧げて、奪われて、歯を立てられて、血を啜られる。
そうして与えられたのは、今までに感じたこともないような快感だった。
廉はただただひたすら、その心地よさに溺れていた。
人間としての人生の終わりと「伴侶」としての生の始まり。
その不安をまぎらし、縋りつくように。
こうして吸血鬼とその「伴侶」たちは、社会から取り残されていく。
彼らにとって、無限ともいえる時間。
人間との繋がりを絶って、生きていく支えはお互いへの愛情と快楽だけだ。
阿部はもう拷問のように長い時間の中を生きる術を心得ている。
だが「伴侶」になって間もない廉は、わからない。
いきなり親族とも友人とも縁が切れてしまったし、仕事もなくなった。
何をしていいかわからず、時間を持て余す廉を慰めるために。
阿部は日に何度も廉を抱き、その血を啜った。
*****
「僕が『伴侶』になったばかりの時も、蛭魔さんは毎日抱いてくれましたね。」
「そうだったか?」
「忘れたんですか?酷いです。」
「『伴侶』が出来て、浮かれて血を飲みまくってただけだ。」
「憶えてるんじゃないですか。」
「抱いてイった後の方が、血は美味いんだよ。」
「やっぱり酷いです。」
豪華なソファに並んで座りながら、瀬那は蛭魔に身体を預けていた。
ここはいわゆるリビングで4人の共有スペースだ。
蛭魔と瀬那は阿部と廉の居室のドアを見ながら、他愛無い雑談を楽しんでいた。
蛭魔も阿部も決まった住居を持たない。
吸血鬼が同じ場所に定住すると、どうしても噂になってしまうからだ。
ずっと歳を取らない彼らは、いったい何者なのだと。
ここ1年ほど蛭魔はセナと共に家を、阿部は賃貸マンションを借りていた。
だが廉が阿部の「伴侶」になったことを期に、4人は一緒に住み始めた。
場所は一流ホテルのスィートルームだ。
名の通った一流ホテルは随所に防犯カメラもあるし、さりげなく不審者もチェックされる。
ホテル滞在は金はかかるが、安全性は高いのだ。
廉を襲撃した犯人がわかるまで、蛭魔たちはここに滞在するつもりだった。
念願かなって廉を手に入れた阿部は、ずっと廉と部屋にこもっている。
その気持ちは蛭魔にもよくわかる。
瀬那を伴侶にしたばかりの蛭魔は、やはり同じように何日も瀬那を抱き続けたからだ。
抱いて血を飲んで、疲れて眠る瀬那を愛でる。
そして瀬那が起きればまた抱いて、血を啜るのだ。
そんな怠惰な日々が、今までの蛭魔の長い生の中で一番鮮烈な記憶だった。
*****
「政宗が、会社を辞めるそうだ。」
「え、そうなんですか?」
「ああ、辞表を出したって。だが引継ぎなんかがあるから実際は2ヶ月先だとさ。」
「やっぱりあの律くんって子のため、ですよね?」
「だろうな。廉がこういうことになったのを見て、決心したらしい。」
「そうですか。」
蛭魔が瀬那の肩を抱き寄せた手で、瀬那の髪を指にからめた。
癖が強い瀬那の黒髪は、見た目よりやわらかい。
指にからめたり、手で梳いたり、なでたり、かき回したり。
蛭魔はこうして瀬那の髪を触るのが好きで、暇さえあれば手遊びをする。
瀬那も蛭魔の長い指が髪をなでるのが好きだから、蛭魔の好きにさせている。
「あの子はきっと高野さんが好きです。」
最愛の主に身体を預けているのに、瀬那の表情は冴えない。
その理由は1つだ。
瀬那には高野も律も相手のことが好きなのが、痛いほどわかる。
あの日高野のマンションに行き、たまたま律と顔を合わせて、わかったのだ。
高野は律のことが好きで、必死に律を巻き込まないようにしていた。
律は高野のことが好きで、瀬那が何者なのかを気にしていた。
あんなに好き合っている2人が、このまま別れてしまうなんて。
「政宗が決めたことだ。俺たちはそれを見守るしかない。」
「でも律くんは安全なんですか?」
「政宗は大丈夫だと言っていた。」
「廉くんを襲った犯人、まだわからないのに」
「そもそも政宗が律を好きだっていうことは、本人たちしか知らないとさ。」
瀬那はため息を1つつくと、そのまま押し黙った。
蛭魔がまるで子供をあやすように、瀬那の肩をポンポンと叩く。
仕方がない、高野が決めることなのだから。
そう言い聞かせるように。
*****
「疲れた。。。」
深夜に帰宅した律は、すぐさまソファにどっかりと腰を下ろした。
着替えることすら億劫なのだ。
本当はベットに飛び込みたいところだが、すぐに眠ってしまうだろう。
明日も仕事なのだし、それはまずい。
夕食を食べていないが、もう食事も面倒だ。
とにかくシャワーだけ浴びて、さっさと寝てしまおう。
そう思いながら、律は身体を起こすことができずにいた。
律がここまで疲れているのには理由がある。
上司である高野が会社を辞めることになった。
そしてその後任に選ばれたのが、律だったのだ。
通常の業務のほかに、引継ぎの作業もある。
だからとにかく毎日忙しかった。
律は蛭魔や瀬那、阿部と廉の記憶を消されていた。
あのリムジンに遭遇したことも、雷雨の夜の廉の事件も憶えていない。
そのせいで、律の脳裏にはどうにも拭えない違和感があった。
例えば会社帰りに蛭魔たちのリムジンと遭遇したあの日。
会社を出たことまでは憶えているが、家に帰るまでの記憶がない。
ちょうどあの日から、高野は自分と距離を置くようになった気がするのだが。
また廉の事件があったあの日は。
マンションに帰り着いたことまでは憶えているが、気付いたら朝だ。
あの日は空腹で、一度帰宅した後コンビニに行こうと思っていた。
でも実際にコンビニに行ったのがどうか、いくら考えてもわからない。
その翌日に高野は辞表を出しており、何かあったのではないかと思うのに。
自分の記憶がところどころ抜け落ちている。
気がついてしまえば不安になり、それは次第に恐怖に変わっていった。
もしかして自分は何か脳とか記憶に関する病気なのではないだろうか?
だとしたら、高野の後任として仕事がこなせるのだろうか?
*****
本当は高野に相談したかった。
不安を全部ぶちまけて、彼の腕に抱きしめられたいと思う。
だがそれはできないことだともわかっている。
しつこく律に言い寄り、セクハラまがいの行為を仕掛けていた高野はもういない。
彼は今、律と距離を取ろうとしている。
もう律と恋愛しようなどという気がないのは、明らかだった。
「今になって好きだなんて、遅いよな。」
律はポツリと漏らした独り言が、深夜の静寂に消えていく。
言い寄られていたときには、高野の想いを拒絶していたのに。
今さら好きだと気付くとはどうかしていると思う。
律はソファに座ったまま、テレビのリモコンを手に取った。
別に見たいテレビ番組があるわけでない。
静寂が嫌だっただけだ。
ちょうど放送していたのは、本日最後のニュース番組。
そのスポーツコーナーだ。
『・・・年前まで三星大学野球部で活躍した投手・・・』
『・・・事故で、死亡が確認されました・・・』
『・・・神宮のエースと呼ばれ、活躍し、人気のある選手で・・・』
聞くとはなしに聞こえてくるのは、訃報のようだ。
どうやら大学野球で人気があった選手が、若くして急逝したらしい。
こんなニュースなら、まだ静かな方がいい。
もう一度テレビを消そうとリモコンを手にとった律は、画面を見て「あ」と声を上げた。
ユニフォーム姿で画面に映し出された彼。
フワフワとした茶色の髪と、同じ色の大きな目、細身で小柄な身体。
彼が若くしてこの世を去った人気の選手らしい。
「この人、知ってる。。。会ったことある。。。」
どこで見た?どこで会った?
律は画面を凝視しながら、懸命に考える。
テレビで見たのだろうか?彼は有名人のようだし。
いやありえない。だって律は野球にはほとんど興味がないのだから。
いくら人気選手でも、顔を見て声を上げるほど印象に残ることなどないと思う。
やはり絶対にこの三橋廉という青年に、どこかで直接会っている。
それなのに、どうしても思い出せない。
またしても立ちふさがる記憶の壁。
それになんだかものすごく嫌な胸騒ぎがする。
平穏な時間が終わり、別の何か不吉なことが始まろうとしているような予感だ。
律はリモコンを握り締めたまま、テレビの中の廉を見つめていた。
*****
「本当に大丈夫?廉くん」
瀬那は向かいに座る廉に声をかけた。
廉は瀬那の顔を見ながら、しっかりと頷く。
だがその身体は小刻みに震えていた。
瀬那はどうにも判断しかねて、廉の主である阿部の顔を見る。
阿部はしっかりと廉の肩を抱きしめながら、瀬那に頷いた。
4人はまたリムジンの後部座席に揺られていた。
目的は高野政宗の「食事」のためだ。
今までそれは瀬那の役目であった。
だが今回は廉と瀬那の2人で行くことになった。
最初瀬那はいつも通り、自分が1人で行くと言った。
「伴侶」になったばかりの廉は、まだ気持ちの整理もついていない。
でも廉は自分も行くと言い張った。
「何か、したい、です。このまま、すること、ないのは、つらい。」
悲壮な表情でそう言ったものの、怖いのだろう。
瀬那にはその気持ちがよくわかる。
阿部のことも高野のことも好きではあるが、それとこれとは違う。
主以外の者から血を吸われることは、どうしても苦痛なものなのだ。
やがてリムジンは高野のマンションの前に着いた。
ゆっくりと停車して、扉が静かに開いた。
廉は「行って来ます」と明るい声で、阿部に笑顔を向ける。
だがその身体は強張っており、緊張していることがわかった。
「じゃあ行こう。もしつらかったら遠慮なく言ってね。」
「ありがとう。瀬那、さん。」
瀬那が声をかけると、廉が立ち上がった。
セカセカと先にリムジンを降りていくのは、落ち着かないからだろう。
瀬那はゆっくりと立ち上がると、その後に続く。
「瀬那、頼むな」
阿部がその背中に声をかけた。
瀬那は阿部に「はい」と答えて、リムジンを降りた。
そして廉と並んで歩きながら、マンションのエントランスへと入って行く。
阿部と蛭魔はその後ろ姿を見送っていた。
*****
高野さん、たまには一緒に帰ってもいいのに。
その日も夜遅くに帰宅した律は、そんなことを思いながらマンションに戻った。
郵便受けに入っているのは、ダイレクトメールだけ。
それらを乱暴にカバンに突っ込むと、エレベーターのボタンを押す。
すると開いた扉の中には、2人の人物が乗っていた。
「うわっ!って!すみません。」
思わず声を上げてしまった律は、慌てて頭を下げる。
こんな深夜に、今までこのエントランスで住民と鉢合わせしたことはない。
すっかり油断していたために、人影に驚いてしまったのだ。
中の2人も、すごく驚いたようだった。
黒い髪と茶髪の2人の小柄なかわいらしい青年だ。
マジマジと律の顔を見る2人は、降りる様子がない。
どうやら律は、扉が閉まりかけたところでボタンを押してしまったのだろう。
「俺が開けちゃったんですね。重ね重ね、すみませんっ!」
「どうぞ、乗ってください。」
2人のうちの1人、黒い髪の青年が言った。
律は「ホントにごめんなさい」と恐縮しながら、エレベーターに乗り込んだ。
何か申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、彼らの顔が見られない。
律は2人の視線を避けるように、自分の部屋がある12階のボタンを押そうとして驚く。
すでに12階のボタンが押されていたからだ。
同じ階の住民かと思い、2人の顔を見た律は驚き「え?」と声を上げた。
茶髪の青年は先日ニュースで見たあの事故死した青年に似ている。
そしてこの黒髪の青年も、見覚えがある。
「あの、どこかで」
律がお会いしていませんか?と続けようとする前に、エレベーターが止まった。
まだ2階、彼らの目的の階よりも遥か下だ。
そして扉の向こうに現れたのは、数人の男だった。
全員が黒っぽい服装で、一見して怪しい。
1人がエレベーターの扉を押さえて、残りの男たちがエレベーターに乗り込んでくる。
「おい、2人じゃないのか?3人いるぞ!」
そんな声が聞こえるが、何を言っているのかよくわからない。
黒髪の青年と茶髪の青年が、羽交い絞めにされて、口元に布を押し当てられている。
誘拐?何だこれ?
混乱する律の口元にもやはり布が押し付けられ、律はそのまま意識を失った。
終わりと始まりは、唐突にやって来た。
3人の吸血鬼たちは、大事な存在に訪れた危機をまだ知らない。
【続く】