アイシ×おお振り【お題:敵同士10題】

【一時の平穏】

「That's right. Thank you.」
通話を終えた蛭魔が、携帯電話を畳んでポケットに押し込んだ。
セナはぼんやりとその様子を見ていた。

阿部に会いに行ってから、2日が経過した。
セナは未だに蛭魔の事務所兼住居に留まっている。
最後に阿部とレンの再会を見届けたら、出て行くつもりだった。

蛭魔はというと、阿部を迎え入れる準備に追われていた。
大きな問題は2つある。
1つは阿部の弟、シュンの身体のこと、もう1つはレンを追跡する三橋家のことだ。

シュンは脊髄を損傷しており、首から下を自力ではまったく動かせない状態だった。
普通に療養していても回復する見込みはない。
身体の機能を戻すためには手術しかないのだが、非常に難しい箇所なのだ。
もう1つの問題、三橋家のことも難しい問題だった。
三橋家が仕える財閥系の名家は、権力も財力もある。
そして三橋家の予知能力は、その家のトップシークレットなのだ。
あらゆる手を尽くして、レンを抹殺しようとするだろう。
阿部がこちら側に寝返ったことを知れば、どんな手を使うかわからない。

だが蛭魔は情報網を駆使して、シュンとほぼ同じ脊髄損傷の手術を成功させた医師を見つけた。
その医師は現在、アメリカの病院にいる。
それならばいっそ阿部とレンもシュンと一緒に渡米させてしまうのがよい。
だから蛭魔は現在、その準備に追われていた。

*****

「蛭魔さんもアメリカに行くんですよね。」
セナは電話を終えて、今度はパソコンに向かって何か作業を始めた蛭魔に言った。
蛭魔は顔を上げることもなく、キーを打ちながら「ああ」と答える。

あと少しだ、とセナはぼんやりとそう思う。
いつの間にか、蛭魔に惹かれていた。
本来ならセナにとっては、敵ともいえる人物なのに。
レンと阿部兄弟を引き受けると言ってのける強さ。そしてそのために心をくだく優しさ。
レンと間違われて襲われたセナのことだって助けてくれた。
阿部とレンが再会するのを見届けるまでここにいたいというセナの希望も、あっさりと承知してくれた。
だがこの一時の平穏ももうすぐ終わり。お別れだ。

「レンのパスポートを取るのが厄介なんだ。あいつは身分を証明する物を何も持ってねぇし。」
そう言いながら、蛭魔はなおもパソコンの画面を睨みながらキーを叩く。
顔を顰めた蛭魔の顔が、まるで悪戯を企む子供のように見えた。
セナには蛭魔の仕事のことはよくわからないが、裏サイドの危険な仕事だと推察できる。
蛭魔はそんな仕事を、楽しみながらこなす男なのだ。

「いっそ偽造モノを用意するか?追っ手を振り切るにはそれもありだけど、日本のヤツは高いしなぁ。。。」
蛭魔はブツブツとしゃべりながら、なおもパソコンを操作している。
なにやら物騒なことを言っているが、多分ひとり言だ。
セナに向けて話しているのではないだろう。
セナはパソコンの上を目まぐるしい速さで動く蛭魔の長い指先を見ながら、微笑した。

*****

「テメーも来るか?」
不意に蛭魔が手が止めて、ポツリと問いかけた。
驚いたセナが「え?」と小さく声を上げて、蛭魔を見た。

蛭魔もまたセナに惹かれていた。
真っ直ぐでひたむきなセナが、蛭魔には眩しい。
だが蛭魔は、自分がどこか世間一般の人間とは違う翳があることを自覚している。

蛭魔は出生から裏サイドの人間だった。
彼の父親は日本では存在しないとされているスパイや謀略などの行為を生業としていたからだ。
そのせいで蛭魔自身は常に危険と隣り合わせに生きていた。
父親の仕事のとばっちりもあるし、そんな出自だからどこか人と違う雰囲気を纏っているせいもあるだろう。
蛭魔は、幼少のうちから父親に銃やら格闘術やら情報収集やら、裏サイドで生きる術を叩き込まれた。
だからいつしか危険をスリルとして、楽しみながら生きていた。
そして当然の帰着点として、蛭魔は父親と同じ仕事をするようになっていた。

おそらくレンも蛭魔の側だと思う。
蛭魔とはタイプが違うが、レンもまた生まれたその瞬間に普通からはみ出してしまった人間だ。
だがセナは違う。
会社が乗っ取られても、間違いで命を狙われても、暗い部分などまったくない。
仲間たちの真ん中で太陽のように明るく輝くのが相応しい。
こんなことがなければ、蛭魔のような人間と人生が交わることなどありえなかったはずだ。

セナが好きだと思ってしまった蛭魔の心は、揺れていた。
離れたくない。一緒にいたい。
だが一緒に連れて行くのは、危険を伴うことだ。

「何でもねぇ。ちょっとレンの様子を見てくる。」
蛭魔は素っ気なくそう言うと、パソコンを閉じて立ち上がった。
そしてセナをその場に残して、部屋を出た。

*****

「蛭魔、さん。だいじょ、ぶ、ですか?」
ノックもせずに部屋に入ってきた蛭魔を見て、レンがそう聞いてきた。
思わず蛭魔は苦笑する。
このところ予知が続いたせいで体調を崩したレンは、ほとんどベットの上で過している。
真っ青な顔色のレンに「大丈夫か」と問われると、ひどく居心地が悪い。
それほど思いつめた表情をしていたのだろう。
蛭魔はさりげない口調で「俺は平気だ」と言いながら、レンのベットの横の椅子を引き寄せて座った。

「阿部、くん。まだ、来ないん、ですね。」
レンは浮かない表情でそう言った。
「そうだな。身辺整理をしているんだろうから、今すぐってわけにはいかねぇんだろう。」
蛭魔はレンを安心させるように、そう答えた。

レンは時間が経過することを気にしている。
レンの実家である三橋家には、予知能力を持った者が何人もいる。
レンほどの力を持った者はいないらしいから、レンよりも早く予知するものはいない。
だが時間が経過すれば、いずれ阿部がこちら側についたことも読まれてしまうだろう。
だから早く阿部とシュンの身柄を保護して欲しい。
レンはジリジリしながら、阿部が来るのを待っているのだ。

「それでも今のところ、悪い予知はないんだろう?」
蛭魔はレンをなぐさめるようにそう言った。
レンは小さく「はい」と答えて、目を閉じた。
阿部がここへ現れるか、それとも阿部になにか不測の事態が降りかかって新たな予知が見えるか。
レンはそのときを待つしかないのだった。

*****

「何もなければいい。ゆっくり休んどけ。」
蛭魔はそう言うと、立ち上がった。
阿部が来れば、レンにも一時の平穏が訪れるだろう。
だがその後は、つらいことが待っている。
いくら殺されようとしたとはいえ、三橋家はレンの生まれ育った場所。
レンはその三橋家と決着をつけなくてはならない。

「蛭、魔、さん。」
レンは部屋を出ようとする蛭魔の背中に声をかけた。
蛭魔が立ち止まって、振り返らずに「何だ?」と応じる。
「セナ、くんを。大事に。してください、ね。」
レンの言葉に、蛭魔は一瞬、言葉を失った。
だがすぐに振り返って、いつもの不敵な表情で笑った。

「阿部が来たら、セナは帰るそうだ。」
レンには蛭魔もセナもその話をしていない。
だがレンは驚く素振りも見せずに、微笑した。
「もし、ここで、別れても。蛭魔さん、と、セナくんは、また。会います。」
蛭魔は驚いたように瞠目した。

「それは、テメーの予知か?」
「予知、じゃ、ありません。俺の、願い、です。」
レンはそれだけ言うと、また目を閉じてしまった。
蛭魔はしばらくもの問いた気にレンの顔を見ていたが、やがて寝息が聞こえてきた。
レンは眠ってしまったようだ。

*****

蛭魔とセナの未来。
寄り添っているのか、それとも2度と会わない他人に戻るのか。
レンには見えているのかもしれない。
だがそれをレンが言わないのは、2人で決めなければいけないことだと思っているからだ。

蛭魔がレンだけでなく阿部も助けようと思ったのは、レンの能力だけが欲しかっただけではない。
セナとは違う意味でレンが可愛いし、助けてやりたいという気持ちはあるが、それだけでもない。
蛭魔を突き動かしているのは、三橋家への憎悪に近い嫌悪だった。
何よりも蛭魔を怒らせたのは、レンと間違えてセナを襲ったこと。
そして結果的にセナを巻き込んだことだ。

だがいくら考えても、やはりセナを連れては行けないと思う。
セナは蛭魔やレンとは違う。
今ならまだ普通の人生に戻れる。
蛭魔たちと行動を共にしたら、社会の外側で生きることになってしまうかもしれない。
だからここで別れるしかない。
蛭魔は懸命に自分にそう言い聞かせながら、今度こそ部屋を出た。

一時の平穏。揺れる心。
4人の運命の大きな分岐点は、すぐそこまで来ていた。

【続く】
5/10ページ