「おお振り」×「◆A」10年後
【それぞれの事情】
「悪いな。」
沢村は車の助手席に身を鎮めると、運転席に声をかける。
運転する阿部は軽い口調で「気にするな」と言ってくれた。
沢村は完全に調子を崩していた。
些細な負傷の後、上手く波に乗れずにいた。
どうしても思う通りに球に体重が乗らない。
何とかしなければと焦った時に、御幸のアメリカ行きを知ったのだ。
しかも本人からではなく、テレビ放送で聞くという最悪の形で。
その後、御幸本人から詳細を聞いた。
正式に決まってから、伝えようと思っていたのだと。
つまりまだ確定はしていない。
だがいくつかのメジャー球団が手を上げ、交渉している最中だそうだ。
おそらくそのどこかに決まり、御幸は近々渡米する。
「待っててくれとは言えない。他に好きな相手ができたらそっちに行け。」
御幸はそう言った。
沢村は「ずるい!」と叫んだが、御幸の答えは変わらなかった。
御幸は自分から別れるとは言わない。
だけど沢村が別れたいなら、応じると言うのだ。
わかっている。それが御幸なりの誠意なのだ。
沢村の幸せを願うからこそ、答えを託した。
もちろん沢村にだって、別れるなんて選択肢はない。
だとすれば結論は遠距離恋愛しかない。
そんなことを考えているせいなのか。
沢村の投球は一向に調子が上がらない。
そしてさらに2つ、黒星がついたところで最悪の事態。
球団から二軍行きを命じられたのだ。
もちろんここで全てが終わったわけではない。
これは降格というより、調整して来いという意味なのだ。
二軍で調子が戻ったと判断されれば、すぐに戻れる。
沢村は二軍にいる間は、球団の寮に入ることにした。
基本は入団3年以内の若い選手が入るものだが、無理を言ったのだ。
幸い今は空室があるので、かまわないと。
もちろん来シーズン、新人が入るまでには開けるという条件だ。
「荷物あるだろ。車で送る。」
沢村に声をかけてくれたのは、阿部だった。
もちろんマンションはこのまま解約などしない。
最低限の荷物しか持ち出さないが、それでもそれなりに多かった。
だから阿部の申し出はとてもありがたいのだが。
「いいのか?お前は三橋のトレーナーなのに」
「問題ない。三橋の了解は取った。」
「でもライバルチームの関係者だし」
「友人として送るだけだ。それに何の問題が?」
そこまで言ってくれているなら。
沢村は阿部の厚意を受けることにした。
そして今、沢村は阿部の車で球団寮に向かっている。
車内には小さく音楽が流れていた。
聞き覚えはあるけど、名前は知らないクラシック。
二軍行きの前に会話が弾むわけもない。
だから阿部が気を利かせて、沈黙にならないようにしているのだろう。
「カッコ悪いよな。オレ」
無言のまま半分くらい来たところで、沢村は弱音を吐いた。
この大事な時期に二軍だなんてという思いからだ。
だが阿部は「全然。カッコ悪くなんかない」と答えた。
いつになく強い口調に、沢村は驚いて阿部の横顔を見る。
阿部は真っ直ぐ前を見ながら、さらに続けた。
「二軍落ちなんて、三橋は何回もやってるぞ。」
「そうだったな。でも三橋は今や守護神。オレより上だ。」
「今の時点ではな。先のことなんてわからんだろ。」
「そうか?」
「そうだよ。最後に笑えりゃそれで全部チャラだろ?」
阿部は前を見たまま、ニヤリと笑った。
タレ目のくせに目つきが悪いと称される、少々黒目の笑顔。
だけど今は妙に嬉しい。
沢村はまだ終わりじゃない。
阿部はサラリと当たり前のようにそう言ってくれているのだ。
「じゃあな。早めに戻れよ。」
独身寮の前で車を降りると、阿部は運転席から沢村を見上げてそう言った。
沢村は「ありがとな!」と笑う。
最初から最後まで阿部はさり気なく、それがありがたかった。
そして沢村は遠ざかっていく阿部の車を軽く手を振って見送った。
*****
「ヒャハ!ご苦労だな。」
部屋に入って来た阿部に、労いの声がかかる。
御幸は家主のように振る舞う男に「オレの部屋なんだけど」と文句を言った。
この日は珍しくこのフロアの住人が全員集まるはずだった。
彼らはホームこそ同じ関東だが、所属する球団は3つに分かれている。
だから意外と全員が揃う日がないのだ。
そしてようやく揃うかと思われたこの日、沢村はここを出て球団の寮に向かった。
二軍行きを言い渡され、沢村がそれを選んだのだ。
「無事、送り届けました。」
阿部は御幸に部屋を訪れ、開口一番そう言った。
寮に向かう沢村を車で送ってくれたのだ。
御幸も一応運転免許は持っているが、移動は阿部の車に便乗することが多い。
ここは安全第一、一番運転に慣れている阿部が手を上げてくれたのだ。
「落ち込んでたか?」
「いえ。心配したほどでは。まぁ明るくはなかったですけどね。」
「だろ?御幸、過保護なんだよ!」
御幸の部屋にいるのは、家主の御幸と倉持、三橋、そして阿部。
無駄に元気よく、テンションが高いのはもちろん倉持だ。
御幸は「お前が言うな」と苦笑する。
倉持は高校時代、沢村と寮で同室だった。
何だかんだで沢村を弟分として可愛がっている。
だからこそ今だって心配して、御幸の部屋に来ているのだ。
「だからさっさと沢村に言っとけばよかったんだよ!」
「もう何度も聞いたよ。」
倉持が吠え、御幸は憮然とする。
もう聞き飽きた。
沢村にさっさとメジャー行きを伝えろと、もう何度も言われた。
その筆頭は倉持。
だが阿部にも何度かそれを匂わされた。
また滅多に投球以外で自己主張しない三橋にさえ、言われたのだ。
「で、結局、沢村のチョイスは遠恋か。」
「だそうだ。無理はさせたくないんだがな。」
「何をカッコつけてんだよ。」
「別につけてねーし!」
倉持と御幸の掛け合いを、三橋はニコニコと見ていた。
阿部も慣れた様子で聞き流している。
口調こそ少々荒いが、ケンカではなくじゃれ合い。
三橋も阿部もそのことを熟知している。
「なぁ、お前は沢村に選ばせるって言ってたけど」
「ああ」
「お前自身が心変わりする可能性はないのかよ?」
「ハァァ!?」
「アメリカなら、金髪のおねーちゃんとか」
「あるか!」
倉持は質問の形を取っているが、これは一種の脅迫だ。
沢村を捨てて、金髪美女に心変わりしたらタダじゃおかねぇ。
倉持は暗にそう言いたいのだ。
もちろん御幸も三橋も阿部も、その意図は理解しているが。
「それにしてもそっちのチームは痛いだろ。御幸がいなくなるなんて。」
倉持が不意に真面目な顔になって、話題を変えた。
三橋がコクコクと頷き、阿部も「でしょうね」と頷く。
正捕手で4番、事実上のチームリーダー。
その御幸の穴を埋めるのはかなり大変だ。それに。
「多分守護神も去りますよ。」
阿部がチラリと三橋を見ながら、そう言った。
三橋は一瞬「うぉ!」と驚くが、すぐにまたコクコクと頷く。
すると御幸と倉持の「「ハァァ~!?」」と叫ぶ声が重なった。
「お前、やめるの!?」
「聞いてねーぞ!?」
詰め寄る倉持と御幸の剣幕に、三橋は完全に引いている。
それでも何とか「か、家庭の、事情!」と答えた。
三橋も阿部もそれぞれの実家から「そろそろ戻れ」と言われている。
そこで「守護神」と呼ばれた今年を最後にしようかと相談していたところだった。
「お前たち、それで」
それでいいのかと言いかけた御幸は、言葉を切った。
2人で悩んで決めたことなら、御幸がどうこう言える問題ではないのだ。
「なぁ、1杯だけ酒飲まねぇ?」
重くなった空気を破るように、倉持が声を上げた。
御幸が黙って立ち上がり、人数分の缶ビールを持ってくる。
好きだけでは一緒にいられない、大人の恋愛。
その苦さを免じて、少しだけ酒を飲んだってバチは当たらないだろう。
【続く】
「悪いな。」
沢村は車の助手席に身を鎮めると、運転席に声をかける。
運転する阿部は軽い口調で「気にするな」と言ってくれた。
沢村は完全に調子を崩していた。
些細な負傷の後、上手く波に乗れずにいた。
どうしても思う通りに球に体重が乗らない。
何とかしなければと焦った時に、御幸のアメリカ行きを知ったのだ。
しかも本人からではなく、テレビ放送で聞くという最悪の形で。
その後、御幸本人から詳細を聞いた。
正式に決まってから、伝えようと思っていたのだと。
つまりまだ確定はしていない。
だがいくつかのメジャー球団が手を上げ、交渉している最中だそうだ。
おそらくそのどこかに決まり、御幸は近々渡米する。
「待っててくれとは言えない。他に好きな相手ができたらそっちに行け。」
御幸はそう言った。
沢村は「ずるい!」と叫んだが、御幸の答えは変わらなかった。
御幸は自分から別れるとは言わない。
だけど沢村が別れたいなら、応じると言うのだ。
わかっている。それが御幸なりの誠意なのだ。
沢村の幸せを願うからこそ、答えを託した。
もちろん沢村にだって、別れるなんて選択肢はない。
だとすれば結論は遠距離恋愛しかない。
そんなことを考えているせいなのか。
沢村の投球は一向に調子が上がらない。
そしてさらに2つ、黒星がついたところで最悪の事態。
球団から二軍行きを命じられたのだ。
もちろんここで全てが終わったわけではない。
これは降格というより、調整して来いという意味なのだ。
二軍で調子が戻ったと判断されれば、すぐに戻れる。
沢村は二軍にいる間は、球団の寮に入ることにした。
基本は入団3年以内の若い選手が入るものだが、無理を言ったのだ。
幸い今は空室があるので、かまわないと。
もちろん来シーズン、新人が入るまでには開けるという条件だ。
「荷物あるだろ。車で送る。」
沢村に声をかけてくれたのは、阿部だった。
もちろんマンションはこのまま解約などしない。
最低限の荷物しか持ち出さないが、それでもそれなりに多かった。
だから阿部の申し出はとてもありがたいのだが。
「いいのか?お前は三橋のトレーナーなのに」
「問題ない。三橋の了解は取った。」
「でもライバルチームの関係者だし」
「友人として送るだけだ。それに何の問題が?」
そこまで言ってくれているなら。
沢村は阿部の厚意を受けることにした。
そして今、沢村は阿部の車で球団寮に向かっている。
車内には小さく音楽が流れていた。
聞き覚えはあるけど、名前は知らないクラシック。
二軍行きの前に会話が弾むわけもない。
だから阿部が気を利かせて、沈黙にならないようにしているのだろう。
「カッコ悪いよな。オレ」
無言のまま半分くらい来たところで、沢村は弱音を吐いた。
この大事な時期に二軍だなんてという思いからだ。
だが阿部は「全然。カッコ悪くなんかない」と答えた。
いつになく強い口調に、沢村は驚いて阿部の横顔を見る。
阿部は真っ直ぐ前を見ながら、さらに続けた。
「二軍落ちなんて、三橋は何回もやってるぞ。」
「そうだったな。でも三橋は今や守護神。オレより上だ。」
「今の時点ではな。先のことなんてわからんだろ。」
「そうか?」
「そうだよ。最後に笑えりゃそれで全部チャラだろ?」
阿部は前を見たまま、ニヤリと笑った。
タレ目のくせに目つきが悪いと称される、少々黒目の笑顔。
だけど今は妙に嬉しい。
沢村はまだ終わりじゃない。
阿部はサラリと当たり前のようにそう言ってくれているのだ。
「じゃあな。早めに戻れよ。」
独身寮の前で車を降りると、阿部は運転席から沢村を見上げてそう言った。
沢村は「ありがとな!」と笑う。
最初から最後まで阿部はさり気なく、それがありがたかった。
そして沢村は遠ざかっていく阿部の車を軽く手を振って見送った。
*****
「ヒャハ!ご苦労だな。」
部屋に入って来た阿部に、労いの声がかかる。
御幸は家主のように振る舞う男に「オレの部屋なんだけど」と文句を言った。
この日は珍しくこのフロアの住人が全員集まるはずだった。
彼らはホームこそ同じ関東だが、所属する球団は3つに分かれている。
だから意外と全員が揃う日がないのだ。
そしてようやく揃うかと思われたこの日、沢村はここを出て球団の寮に向かった。
二軍行きを言い渡され、沢村がそれを選んだのだ。
「無事、送り届けました。」
阿部は御幸に部屋を訪れ、開口一番そう言った。
寮に向かう沢村を車で送ってくれたのだ。
御幸も一応運転免許は持っているが、移動は阿部の車に便乗することが多い。
ここは安全第一、一番運転に慣れている阿部が手を上げてくれたのだ。
「落ち込んでたか?」
「いえ。心配したほどでは。まぁ明るくはなかったですけどね。」
「だろ?御幸、過保護なんだよ!」
御幸の部屋にいるのは、家主の御幸と倉持、三橋、そして阿部。
無駄に元気よく、テンションが高いのはもちろん倉持だ。
御幸は「お前が言うな」と苦笑する。
倉持は高校時代、沢村と寮で同室だった。
何だかんだで沢村を弟分として可愛がっている。
だからこそ今だって心配して、御幸の部屋に来ているのだ。
「だからさっさと沢村に言っとけばよかったんだよ!」
「もう何度も聞いたよ。」
倉持が吠え、御幸は憮然とする。
もう聞き飽きた。
沢村にさっさとメジャー行きを伝えろと、もう何度も言われた。
その筆頭は倉持。
だが阿部にも何度かそれを匂わされた。
また滅多に投球以外で自己主張しない三橋にさえ、言われたのだ。
「で、結局、沢村のチョイスは遠恋か。」
「だそうだ。無理はさせたくないんだがな。」
「何をカッコつけてんだよ。」
「別につけてねーし!」
倉持と御幸の掛け合いを、三橋はニコニコと見ていた。
阿部も慣れた様子で聞き流している。
口調こそ少々荒いが、ケンカではなくじゃれ合い。
三橋も阿部もそのことを熟知している。
「なぁ、お前は沢村に選ばせるって言ってたけど」
「ああ」
「お前自身が心変わりする可能性はないのかよ?」
「ハァァ!?」
「アメリカなら、金髪のおねーちゃんとか」
「あるか!」
倉持は質問の形を取っているが、これは一種の脅迫だ。
沢村を捨てて、金髪美女に心変わりしたらタダじゃおかねぇ。
倉持は暗にそう言いたいのだ。
もちろん御幸も三橋も阿部も、その意図は理解しているが。
「それにしてもそっちのチームは痛いだろ。御幸がいなくなるなんて。」
倉持が不意に真面目な顔になって、話題を変えた。
三橋がコクコクと頷き、阿部も「でしょうね」と頷く。
正捕手で4番、事実上のチームリーダー。
その御幸の穴を埋めるのはかなり大変だ。それに。
「多分守護神も去りますよ。」
阿部がチラリと三橋を見ながら、そう言った。
三橋は一瞬「うぉ!」と驚くが、すぐにまたコクコクと頷く。
すると御幸と倉持の「「ハァァ~!?」」と叫ぶ声が重なった。
「お前、やめるの!?」
「聞いてねーぞ!?」
詰め寄る倉持と御幸の剣幕に、三橋は完全に引いている。
それでも何とか「か、家庭の、事情!」と答えた。
三橋も阿部もそれぞれの実家から「そろそろ戻れ」と言われている。
そこで「守護神」と呼ばれた今年を最後にしようかと相談していたところだった。
「お前たち、それで」
それでいいのかと言いかけた御幸は、言葉を切った。
2人で悩んで決めたことなら、御幸がどうこう言える問題ではないのだ。
「なぁ、1杯だけ酒飲まねぇ?」
重くなった空気を破るように、倉持が声を上げた。
御幸が黙って立ち上がり、人数分の缶ビールを持ってくる。
好きだけでは一緒にいられない、大人の恋愛。
その苦さを免じて、少しだけ酒を飲んだってバチは当たらないだろう。
【続く】