「おお振り」×「◆A」10年後

【梅酒とアイリッシュウィスキー】

「梅酒、飲む?」
三橋はいつも通り、この年頃の男とは思えない無邪気さで笑う。
そして「は?」と首を傾げる沢村を、御幸は静かに見守っていた。

ケガから復帰したものの、沢村は不調だった。
いやただの不調ではない、絶不調だ。
復帰戦、そして次の試合と先発した2試合を落とした。
そして今夜も打ち込まれてしまい、途中降板だ。
味方の打線が大量得点してくれたので、試合は勝った。
黒星こそつかないが、気持ちの上では敗北だろう。

元気が出ないのは、仕方ないけど。
最近笑顔が消えた沢村を、御幸は心配していた。
沢村はいつもより表情が硬く、元気もない。
おそらくリズムが狂ってしまったのだ。
離脱の原因であるケガは完全に治っているのに。
だがなぜか球が走らず、上手くいかない。
理由がわからないから、抜け出すきっかけも掴めないのだろう。

投手の調子の波は、本当にむずかしい。
一方、最近絶好調の三橋は今夜初めて勝ち点がついた。
守護神と呼ばれる三橋は、セーブポイントはそれなりについていた。
だけど今日は早い回からのロングリリーフで、勝利投手となったのだ。

そして夜、沢村と御幸、三橋と阿部は、三橋の部屋に集まっていた。
明日は試合がないので、少しのんびりできる。
阿部が用意した軽食をツマミに、軽く飲むことになった。

三橋がいてくれて、助かったよな。
御幸は秘かにそう思っていた。
三橋だって、理由もわからず調子が上がらないという経験はある。
だからこそ敢えて何も言わず、普段通りに沢村に接してくれている。
心配しているのだろうが、そんな素振りも見せない。
今も「梅酒、飲む?」などと、実に軽いノリで勧めている。

「は?」
「バァちゃん、の、手作り。おいしーよ!」
「それ、すごく甘いぞ。」

首を傾げる沢村に、三橋はさらに勧めてくる。
そこへ阿部が説明よろしく口を挟んだ。
三橋の群馬の祖母は、毎年手作りの梅酒を送ってくれる。
当然阿部も相伴に預かったことはあったのだ。

「むぅ。甘くて、おいしいの!」
「わかった、わかった。沢村、とりあえず味見してみろよ。」
「阿部、君、と、御幸、先輩は、ジィちゃんのウィスキー、あげるから」
「お。いいのか!?御幸先輩、ラッキーっすよ。」
「そうなの?」
「はい。三橋のジィちゃん、レアもののアイリッシュウィスキーを送って来たんです。」
「へぇ。そりゃ楽しみだな。」

ポンポンと会話が弾む三橋と阿部に、御幸も加わる。
そして三橋がいそいそとグラスや氷の準備を始めた。
さらに阿部が簡単な手料理のツマミをテーブルに並べていく。
三橋曰く、高校の頃の阿部は料理など何もできなかったらしい。
だが今の阿部は実に手際よく、美味い料理を出してくれる。

「それじゃ。カン、パイ!」
三橋の音頭でささやかな飲み会が始まった。
沢村と三橋は梅酒、御幸と阿部はウィスキー、どちらもオンザロックで。
そして4人は静かにグラスを傾けた。

「甘いけど、美味いな!」
すぐに声を上げたのは、沢村だった。
三橋は「そう、でしょ!」と嬉しそうだ。
御幸が沢村に「一口、味見」と催促し、2人はグラスを交換した。
沢村がウィスキー、御幸は梅酒を味わう。
御幸の頭に「間接キス」という言葉が浮かんだが、柄でもないことは言わないでおく。

「うわ。確かにすごく甘い!」
「オレ、これ無理!強いし、クセあるし。」
「何言ってんだ。それがいいんじゃん!」
「こっちのセリフっすよ。この甘さが美味いんです!」

沢村と軽口を叩き合いながら、御幸は内心ホッとしていた。
久しぶりに心から笑っている沢村を見たような気がする。
これも三橋のおかげ、いや正確には梅酒を作ったバァちゃんか。
とにかく今は三橋一族に感謝して、美味い酒を楽しもう。

沢村と再びグラスを交換し、御幸はレアもののウィスキーを楽しんだ。
ようやく中盤に差し掛かるシーズン。
少しだけハメを外しても、きっとバチは当たらない。

*****

「オレも飲みたかったな。アイリッシュウィスキー!」
倉持が盛大に文句を言う。
沢村は苦笑しながら「三橋に言っときます」と答えた。

沢村の調子は少しずつ戻りつつあった。
あの梅酒とウィスキーの夜の後、沢村は2試合に登板した。
1試合は先発、だがその日は投手戦で沢村は6回2失点で負け投手となった。
次は中継ぎ、試合は勝ったが短いイニングだったので、勝ち点はつかなかった。
相変わらず数字に残るような成績はない。
それでも少しずつ調子は上がってきていると思う。
球のキレも良くなっているし、感覚としては悪くない。

早く次の登板の機会が欲しい。
沢村は切にそう願っていた。
先発ローテーションから外されてしまったので、まだ予定はない。
だが沢村は「焦るな」と自分に言い聞かせていた。
そのモチベーションとなっているのが、三橋が振る舞ってくれたあの梅酒だ。

バァちゃんの手作りだというその酒はとにかく甘かった。
阿部曰く、おそらく三橋の好みに寄せて甘くしているのだろうとのこと。
だがどこかホッとする味だった。
あれから運気が変わったような気がするのだ。
三橋の心遣いが、あの強烈な甘さと共に心に沁みたせいだ。

そんなある日の夜、沢村は倉持の部屋にいた。
今夜は御幸と三橋たちは遠征で、帰って来ない。
これまではこんなときには1人寂しく過ごしていた。
だけど今は気を許せる頼もしい先輩がいる。

料理をしない2人は、コンビニで食料を買い出していた。
そしてまるで学生のように、わいわいと楽しく食べる。
ちなみに倉持は盗塁王のタイトル争い中。
昨年はあと1歩のところで届かなかったので、今年こそはと燃えている。

「お前も調子、戻ってきたっぽいな。」
倉持はバクバクと豪快に食べながら、そう言った。
沢村は「きったね。メシ粒飛んでますよ」と文句を言う。
だが内心は、気にしてくれていたことが嬉しかった。

「三橋のおかげで、だいぶ良くなってます。」
「は?三橋?」
「っていうか、三橋のバァちゃんのおかげかも。」

沢村は倉持に先日のプチ部屋飲みの話をした。
あれからストンと気分が落ち着いて、調子が上がって来たのだ。
だが倉持は「オレも飲みたかったな。アイリッシュウィスキー!」と盛大に文句を言う。
御幸が気に入ったらしいウィスキーが気になるらしい。

「三橋に言っときます」
沢村は苦笑しながら、そう答えた。
高級品らしいし、三橋も特別なときしか開けないようだ。
だけど三橋はケチではない。
頼めばさほど頓着せずに、振る舞ってくれると思う。

「守護神三橋が9回を無失点に抑え、逃げ切りました!」
つけっぱなしになっていたテレビはニュース番組を放送していた。
スポーツコーナーで御幸や三橋たちが勝ったことを報じている。
倉持が「絶好調だな」とやや悔し気に呻く。
沢村も「ですね」と頷いた。
先輩でも友人でも敵チーム、倒さなければならないのだ。

「御幸のバッティングも冴えてましたね。」
「そうですね。来年からメジャー移籍が確実と言われていますが。」
「日本で見られなくなるのは残念です。」
「はい。でもアメリカでも頑張ってほしいですね。」

テレビの中でアナウンサーと野球解説者が喋っている。
だがそれを聞いた沢村は「え」と声を上げ、その手から箸が落ちた。
御幸が来年からメジャー移籍?
そんなの何も聞いていない。

「御幸のヤツ、まだお前に話してなかったのかよ。」
ショックを受けた沢村を見て、倉持が苦々し気に吐き捨てた。
ということは倉持も知っていたのだ。
おそらく三橋や阿部も。

「そうすか。そういうことっすか。」
沢村は涙ぐみそうになり、慌てて目に力を入れて堪えた。
泣いている場合じゃない。
そもそも何で涙が出てくるのか、意味がわからない。

「沢村。オレの秘蔵の焼酎、飲むか?」
倉持はニヤリと笑いながら、そう言ってくれた。
そして「ちょっとだけだからな」と念を押す。
沢村は「いただきます!」と即答した。
またしても酒の力を借りるのは、やや気が引ける。
だけど今は切実に飲みたい気分だったのだ。

【続く】
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