狂った時間

【わたしはどこ】

「わたしはどこ?あなたの中にはいないでしょう?」
女は涙を流しながら訴えているのに、阿部も三橋も冷めていた。
2人の物語の中では、この女はどうでもいい存在だからだ。

三橋が猫になってしまってから、実に数年の時が流れた。
最近少し毛艶が悪くなり、動きが遅くなってきたような気がする。
多分猫としては、もう寿命の半分くらい過ぎてしまったのだろう。
ここまであっという間だったし、これから先も多分あっという間なのだと思う。

数奇な運命を辿ってしまった三橋と相反するように、阿部は平凡に生きている。
両親と散々もめた挙句、結局地元の大学に進み、卒業後には家の仕事を手伝い始めた。
三橋が失踪した-正確に言うと猫になったばかりのころの投げやりな雰囲気はもうない。
恋愛についても、三橋に操を立てるなんて発想はないようだ。
今も阿部の部屋で、阿部と恋人が別れ話をしているが、もう何人目の彼女なのか三橋は覚えていない。

阿部はよく彼女を部屋に連れてくる。
2人の会話から、他の場所でデートすることなどほとんどないことがわかる。
ひょっとしたら三橋に見せたいんじゃないかと思うくらいだ。
猫に見られながらのセックスは燃えるとか、そういう悪趣味な性癖かと勘ぐったりもした。
そして今は、もう何度目かわからない別れ話の真っ最中だ。

今回の彼女も、今までの彼女も、別れ際に告げる内容はほぼ同じだ。
彼女の方から告白して、付き合って。
でも阿部は自分を好きになってくれないからと言って別れる。
確かに三橋も、本気で誰かに恋をしている阿部は見たことがない気がする。

今回の彼女は猫嫌いだそうで、三橋をいつも嫌そうに見ていた。
そんな風に扱われれば、当然三橋も彼女を好きにならない。
でも今彼女が言った「わたしはどこ」というフレーズは悪くない。
それは三橋がいつも思っていたことだからだ。

阿部君、オレは本当はどこにいるんだろう。
三橋は彼女に賛同するように、小さく「ミャー」と鳴いた。


「阿部、何か落ち着いたなぁ」
「そうか?」
栄口がしみじみとした口調で話しかけてきたが、阿部は素っ気なく応じた。

三橋が失踪してから、7年の歳月が流れた。
三橋の両親は家庭裁判所に失踪宣告の申し立てをし、それが認められた。
つまりこれで三橋は法律的に死んだことになる。

この間に三橋家ではある変化があった。
夫婦の間に新しい命、つまり三橋の弟になる子供が誕生したのだ。
三橋の失踪宣告をしたのは、1つのけじめなのだろう。
いなくなった子供のことは忘れて、新しく授かった子供のために頑張るということだ。

そして葬儀が行われることになった。
三橋の家からさほど遠くない葬儀場に、久しぶりに西浦高校野球部のメンバーが顔を揃えた。
黒いスーツに身を包んだ旧友を見ると、あの頃から随分時間が経ったのだと痛感する。
当時の心を閉ざしたような阿部を覚えている部員たちは、最初は警戒していた。
だが阿部が普通に「久しぶり」と挨拶をしたことから、次々とみんなが話しかけてきた。

「阿部、写真のことを覚えてるか?」
栄口は恐る恐るという感じで、そう聞いてきた。
阿部に野球をやる気になって欲しくて贈った写真が捨てられた上に、手元に戻ってきた。
それは栄口にとっても痛い過去だ。
だが今にして思えば、自分の気持ちを押し付けていた気もする。
だから阿部に写真のことを詫びるつもりで声をかけたのだ。

「何だっけ?覚えてねーな。」
阿部は素っ気なくそう答えた。
栄口は「そうか」と短く答えながら、ため息をつくしかない。
高校時代から頭も良かった阿部が、覚えていないはずはない。
それはきっと話したくないと言うことなのだろう。

「篠岡が来年、結婚するんだって。聞いた?」
重苦しくなるのが嫌で、栄口は話題を変えた。
阿部も写真のことはもう言わず「へぇ。相手誰?」と聞いてくる。
栄口は阿部が退部した後に入部した後輩の名前を告げた。

「次にみんなが揃うのは、結婚式だね。」
栄口は微笑しながら、そう言った。
だがなぜか阿部は来ないだろうという気がしてならなかった。


「よぉ!阿部。悪いな」
「っていうか、お前、実家にいたのかよ。」
得意先の1つである田島の家に出向いた阿部は、驚いた。
出迎えてくれたのは、かつてのチームメイトである田島本人だったからだ。

父親の給排水設備会社を手伝っている阿部は、会社のワゴン車で移動する。
阿部がハンドルを握り、助手席にはいつも猫のミーこと三橋が丸くなっていた。
こうして仕事の外回りは、猫と一緒にするのが阿部の日課になっている。
今ではすっかり得意先に覚えられていて、猫に会うのを楽しみしている客もいた。

今日はかつてのチームメイトである田島の実家を訪れた。
農業を営む田島家の畑の給排水設備の調子が悪いのだと言う。
仕事で訪問するときはいつも田島の祖父が出てくるが、今日は田島がいた。
田島はプロ野球の道に進んでいた。
一応関東に本拠地を置くチームであるが、遠征やら何やらでなかなか家に帰れない。
そんな田島の出迎えだったので、阿部は驚いたのだ。

「ミーも元気か?」
田島はワゴン車の助手席からひょいと飛び降りた猫を抱き上げて、そう言った。
猫は元気だと答える代わりに、ゴロゴロと喉を鳴らす。
他の客だとあまり身体を触らせたがらない猫は、田島にはよく懐いていた。

「こいつはやっぱり三橋じゃねーな。」
田島はひとしきり猫を撫で回した後、地面にそっと下ろしてそう言った。
阿部は意外そうな声で「そう思うか?」と聞き返した。

「うん。何か最初の印象と違うんだよな。何考えてるかわかんない感じで。」
「猫の考えていることなんて、わからないだろ?」
「そうでもないぜ。うちにいる猫はみんなわかりやすいもん。三橋もそうだったし。でも」
田島は一瞬言葉を切った。
うまい表現が見つからず、言葉を選んでいるようだ。

「何かこの猫は本音が見えねーっていうか、悪いことを企んでるっていうか。。。」
「すげぇな、田島。「企む」なんて言葉、言えるようになったのか。」
「そこかよ!」
阿部が茶々を入れる形で、会話は終わった。
田島はじっと探るような目で、畑の中を歩いている猫を見ている。
阿部は「じゃあ仕事すっか」と宣言すると、何事もなかったように歩き出した。


「なぁ、お前、やっぱり、三橋だろ。。。」
阿部は荒い呼吸をしながら、そう言った。
猫は耳をビクリと動かしたが、その後はまるで阿部の次の言葉を待つようにじっとしていた。

阿部は自分の部屋のベットに座っていた。
下半身だけ全部脱ぎ捨てて、足を開き、自身を右手に握る。
いわゆる自慰行為をしていた。
猫は阿部の真正面にちょこんと座り、阿部をジッと見ていた。

「昔、田島が、そう、言ったときは、まさか、って、思った。」
「三橋は、どこかにいて、いつか、帰ってくるって。」
「だけど、今は、そうじゃない、って、思ってる。」
「お前、やっぱり、三橋だろ」

阿部が呼吸混じりの掠れた声と共に、右手を動かし続ける。
その視線は猫から離さない。
猫もまたジッと阿部を見たままだ。

「篠岡の手紙と、栄口の写真。隠したの、お前、だよな?」
「田島は、もう、お前がわかんない、みたいだけど。」
「本音が、見えなくても、悪いこと、企んでも、三橋は、三橋だ。」

阿部は身体をビクビクと震わせながら達した。
猫はガサゴソと後始末をする阿部に背を向けると、丸くなって目を閉じた。
ハァハァと荒い呼吸だけが、部屋に響いた。

「三橋に戻っても、この部屋で飼っていいか?」
阿部は猫の頭をそっとなでながら、そう言った。
猫は眠っているのか、ピクリとも動かなかった。


「なぁ、お前、やっぱり、三橋だろ。。。」
阿部にそう言われたとき、三橋はギクリとした。
だがその後はジッと阿部を凝視したまま、動かすにいた。

猫のミーが三橋であることは、最初の頃田島が口にしたきりだ。
しかもつい先日、その田島も「やっぱり三橋じゃない」と言ったのだ。
まさか今になって、阿部が言い出すとは思わなかった。
しかも篠岡の手紙や、栄口の写真を隠したこともバレているとは。
三橋は驚き、ちょっと阿部のことを見直していた。
もしできるなら、ニヤリと笑いたいところだ。

猫になったことで、三橋は三橋自身を失った。
もう投げられないし、学校へも行けない。
手紙や写真を隠したり、人間の頃だったら絶対にやらないことを平気でやるようになった。
田島でさえわからなかった今の三橋を見て、三橋だとわかるのは阿部だけだ。

阿部の自慰行為を見るのは、初めてではない。
最初こそ驚いたが、今ではもうすっかり慣れてしまった。
だが今日のはいつもと違った。
阿部は三橋を真っ直ぐに見て、三橋に話しかけながらしている。
これはもう自慰ではない。
阿部は三橋とセックスをしているつもりなのだ。
もしかして今まで女性を部屋に連れ込んで抱いたのも、そういうことなのだろうか?

「三橋に戻っても、この部屋で飼っていいか?」
阿部に頭をなでられた三橋は、ウトウトとまどろみながらその言葉を聞いていた。
猫になったなんていうのは全部夢で、目が覚めたら自分の部屋に戻っているような気もする。
だがこのまま猫として、阿部に飼われるのも悪くないと思う。

わたしはどこ、という阿部の元カノの言葉をふと思い出した。
どこだってかまわない。
阿部と一緒なら、どこにいてもきっと幸せなのだろう。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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