狂った時間

【10年】

このまま人間に戻れず、猫として生きていくなら。
自分にはあとどのくらい時間が残されているんだろう。
相変わらず猫のまま、阿部の部屋にいる三橋は最近そんなことを考える。

昔、まだギシギシ荘に住んでいた頃、こっそり猫を飼っていた家があった。
確か三毛猫で、かなり大きな猫だった気がする。
まだ小さな子供だった三橋には、猛獣に見えた。
飼い主は「もう10歳のおばあちゃん猫だよ」と言っていた気がする。
その時はぼんやりと「猫は10歳でもうおばあちゃんなのか」と思った。

三橋が猫になったばかりのときは身体が小さくて、いわゆる赤ちゃんの状態だったと思う。
その後少しずつ身体が成長している気がする。
だとしたら、あと10年したら「おじいちゃん猫」になっているのだろうか。

もしかしたら、そもそも猫だったのかもしれない。
自分は「三橋廉」という人間ではなく、最初から猫の「ミー」だった。
人間だったことも、野球部の投手だったことも、夢だったのかもしれない。
一日中猫として過ごしていると、そんな気さえしてくる。

だが確かなこともある。
阿部は「三橋廉」を想い続けているらしいということ。
そして「三橋廉」がいない寂しさを、猫の「ミー」でまぎらわしていることだ。
そんな阿部がどんどん周囲から孤立していることも、何となくわかる。

不思議なことに、三橋は今のこの状況に不満がなかった。
もう投げられないかもしれない。
残された寿命は10年くらいしかないのかもしれない。
それでも今の阿部とのこの距離感は、とても居心地がいい。

誰よりも阿部に近いところにいるのが嬉しい。
しかも阿部はたまに2人きりになると、猫を三橋に見立てて「三橋、好きだ」なんて言ったりする。
猫の「ミー」こそ「三橋」だなんて、思ってもいないからできることだ。
こうして周りから孤立しても三橋を想い続ける阿部を見るのが、楽しくてたまらないのだ。

だが三橋自身はどうしてこんな状態が楽しいのか、よくわからない。
それが「恋」という言葉1つで簡単に説明がつくなんて、思いも寄らなかった。
いくら考えてもわからないのでもうどうでもよくなり、猫の「ミー」として阿部を見つめている。


「ごめんね」
篠岡は俯きながら、小さくあやまった。
水谷はそんな篠岡を見ながら「あやまんなくていいよ」と答えた。
最初からわかっていたことで、驚きよりもやっぱりという気持ちの方が強かった。

三橋が失踪し、阿部が野球部から去ってから1年が過ぎた。
野球部は新しい学年を迎え入れて、もう試合ができるほど人数は増えている。
だが三橋や阿部を超えるバッテリーは育っていない。
水谷たちの学年は未だに違和感を拭えないままに、野球を続けていた。

篠岡は阿部にずっと片想いをしていた。
それを水谷が知ったのは、阿部が野球部を去った後だ。
他の部員たちが「やっぱり篠岡、阿部がいなくなったら、元気ないな」と噂しているのを聞いた。
どうやら篠岡の気持ちに気がついていた部員は多かったようだ。
だとすれば水谷の篠岡への気持ちに気がついている部員だっているかもしれない。

そして今日、水谷は篠岡に「好きだ」と告白した。
部活が始まる前、たまたま教室で2人きりになった偶然のタイミング。
告白というよりは、気持ちがこぼれてしまったという感じだ。
だが篠岡は「ごめんね」と、申し訳なさそうに俯いてしまった。

「阿部のこと、まだ好きなの?」
水谷は思わず口走ってしまい、しまったと思う。
いくら何でも無神経すぎる。
篠岡はそんな水谷の表情を読んで「気にしなくていいよ」と微笑した。

「私ね、三橋君がいなくなった直後に阿部君に告白したの。」
「え?阿部に好きって言ったの?」
「手紙を書いたの。でも返事ももらえなかった。」
「それって!ひどくない?」
「いいの。三橋君がいなければ阿部君は私を見てくれるかもってずるいことを思っていたから」
「篠岡。。。」
「見抜かれてたのかもね。」

篠岡は結局水谷の質問には答えなかった。
だがまだ阿部のことを好きなのだということは、痛いほどに伝わってくる。
こうして水谷の恋は終わりを告げたのだった。


「行きたくもないのに行ったって金の無駄だろう?」
「そういうことじゃない!」
家に帰るなり聞こえてきた父親の怒鳴り声に、シュンは思わず顔をしかめた。

居間で父親と兄がまた言い争いをしている。
兄は高校1年の時に野球をやめてしまったが、そのときも父と兄は今までにないほど酷い喧嘩をした。
父は野球を続けろと言い、兄は絶対にしないと言う。
元々父と兄はよく口喧嘩をしたが、どちらかと言えばからかう父とムキになる兄という感じだった。
だがそのとき父は本気で怒っていたし、兄はそんな父にも折れることはなかった。
父の怒りに燃える目より、氷のように冷たく見えた兄の方が怖かった。

それ以来父と兄の間には決定的に溝ができたように見える。
ほとんど口を聞かなくなったし、たまに話すと喧嘩ばかりだ。
最初は諌めようとしていた母親も、今ではもう諦めている。
家の中はいつもギスギスしていて、もう帰宅するのが苦痛ですらある。

「シュンちゃん、おかえり。ごはんはお部屋に持って行くね。」
母親が帰宅したシュンの耳元でそっとそう言った。
声の大きな2人が言い争いをしているから、少しでも静かな2階の自分の部屋で食事をする。
それもここ最近の習慣だ。
シュンは母親に「ありがと」と短く笑顔で答えた。
せめて自分くらいは笑っていないと、母親がかわいそうだ。

「また進路の話なの?」
「そうよ。タカったら大学はいかないっていうの。家の仕事を手伝うって。」
母親がため息をつく。
両親の希望は兄が大学に進み、できればまた野球をすること。
だが兄は大学にも野球にもまったく興味を示さず、家業を手伝いたいのだという。

「兄ちゃん、特にしたいこともないなら大学に行けばいいのに。」
シュンもため息をつきながら、そう言った。
今でさえ鬱陶しいのに、この上ずっと家にいられたらますます家が居心地が悪い場所になる。

「あら、それ。何?」
母親がシュンが手に持っている小さな封筒に目を止めて、そう言った。
これは兄への預かりものだ。
家の門前で、顔見知りの兄の高校の野球部員に会った。
以前の合宿の写真で渡してないものがあったから届けに来たと言う。
直接兄と会おうかどうしようかと迷っているらしかったので「渡しましょうか?」と聞いた。
その人はどこかホッとした様子で「お願い」と封筒を差し出した。

「兄ちゃんの学校の野球の人、ええと、栄口さん?から預かった。」
「そう」
母親は兄のものだと言ったら、急に関心をなくしたようだ。
誰よりも長い時間、家にいる母親は最近すっかりやつれている。
もう兄の話題さえ億劫なのかもしれない。

「じゃあ悪いけど、ごはんよろしく。」
シュンは母親にそう声をかけると、2階の自分の部屋へと上がった。


「これで兄ちゃんが、また野球をやる気になるといいけど。」
シュンが阿部の机の上に封筒を置くと、そう呟いた。
ベットの上で丸くなっていた三橋の耳がピクピクと揺れた。

三橋は阿部の部屋でウトウトとまどろみながら、阿部が戻ってくるのを待っていた。
先程から父親と阿部が言い争っている声が微かに聞こえている。
ここ最近、阿部は進路問題で両親と意見が合わないらしい。

「なぁミー。高校卒業したら家業を手伝うから、お前と一緒に外回りしような。」
阿部は最近よくそう言って、三橋の頭をなでてくれる。
三橋はその日を楽しみにしていた。
阿部の父親の会社は車での外回りが多い。
阿部が運転する車に揺られて一緒に過ごすのは、きっと気持ちがいいだろう。

「ごめんね、ミーちゃん。入るよ。」
不意に部屋のドアが開き、阿部の弟のシュンが部屋に入ってきた。
三橋はこの家では阿部の次にシュンが好きだ。
シュンは三橋を弟分と見なしたらしく、阿部がいないときにはよく話しかけてくれる。
三橋としては兄ができたような気もちで、嬉しかった。

「これで兄ちゃんが、また野球をやる気になるといいけど。」
シュンが阿部の机の上に封筒を置くと、そう呟いた。
ベットの上で丸くなっていた三橋の耳がピクピクと揺れた。
阿部がまた野球をやるとは、どういうことか。

「栄口さんが持ってきてくれたんだ。昔の野球部の写真だって。」
シュンは三橋の横に腰を下ろすと、三橋の頭をなでながら教えてくれた。
まるで三橋の心を読んだかのような言葉に「すごい」と思う。
田島といいシュンといい、上に兄弟がいると洞察力が鋭くなるのだろうか。
三橋はゴロゴロと喉を鳴らして、シュンにスリスリと身体を寄せた。

「じゃあまたね。ミーちゃん!」
シュンはすぐに部屋を出て行った。
三橋は机の上にひょいと飛び乗ると、問題の封筒を見る。

阿部がまた野球をする気になるかもしれない写真。
中身は別にどうでもいいが、今の阿部との快適な生活を壊されるのは嫌だ。
できればあと10年、このままでいたい。
ならばすることは1つしかないだろう。


「ごめんなさいね。」
自分よりもかなり年上の、しかも友人の母親が丁寧に頭を下げる。
栄口勇人は渡された封筒を、呆然とした表情で受け取った。

先日部活が休みの日、栄口は阿部の家を訪ねた。
携帯電話に保存した画像がいっぱいになってしまって整理した時に、偶然古い画像を見つけたからだ。
それは1年の時の夏の合宿での阿部と三橋だった。
朝食の準備をする2人、ロードワークから戻った2人、そしてブルペンで何やら話しこむ2人。
夏の大会で敗退して、甲子園優勝を目標に掲げた直後。
人生で一番真剣に野球に打ち込んでいた頃の阿部と三橋だ。
栄口はそれをプリントアウトして、阿部に届けた。
もう1度阿部に野球をしてほしいという一途な気持ちからだ。

だがそれは残酷な形で裏切られた。
翌日の部活が始まる直前、野球部を訪ねてきたのは阿部の母親だ。
阿部は栄口のところにやってくると、見覚えのある封筒を差し出す。
それは阿部の弟に託したあの封筒だった。

「どういうことですか?」
栄口は怪訝な表情で封筒を見ながら、そう聞いた。
封も開けられておらず、阿部も他の誰も中を見ていないようだ。

「ごめんなさいね。これ、隆也の部屋のゴミ箱に捨てられていたの。」
「え?ゴミ?」
「シュンに聞いたら、中身は写真だって言うし。そのまま捨てるのはあんまりだと思って。」
自分よりもかなり年上の、しかも友人の母親が丁寧に頭を下げる。
栄口勇人は渡された封筒を、呆然とした表情で受け取った。

それが阿部の答えか。
栄口はこの瞬間、阿部はもう友人でもないのだと思い知った。
中身も見ないで、ゴミ箱に捨てる。
そんな冷たいことができるほど、もう心は離れてしまっている。

「隆也の分まで、頑張ってね。」
阿部の母親は何度も栄口にあやまってから、帰っていった。
栄口はやりきれない気持ちで、阿部の母親を見送った。

栄口は返された封筒に、傷がついているのを見つけた。
封筒の真ん中に3本、まるで猫が爪で引っかいたような傷だ。
だが栄口はそれ以上深く考えず、封筒を手の中で握りつぶした。

【続く】
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