狂った時間
【過去現在未来】
阿部君って、意外と寂しがりなのかな。
飼い猫として阿部家で暮らすことになった三橋は、ふとそう思った。
三橋が阿部の家に引き取られてから、すでに1ヶ月経った。
身体が元にもどる気配はまったくない。
早く投げたいという気持ちは、焦りから諦めに変わりつつあった。
こんなに長期間投げなかったことはない。
元に戻っても、もう以前のように投げることなどできない気がする。
投げられない代わりに、猫でいることに慣れてきた。
箸を使わずに皿から直に食事をしたり、水を飲むことも抵抗がなくなった。
阿部がなでてくれると、自然に喉がゴロゴロと鳴る。
4本足で走るのも、高いところにひょいと飛び上がるのも思いのままにできる。
猫ってこういう生き物だったんだと三橋はあらためて感心した。
阿部が家にいるときには、いつも阿部と一緒にいた。
三橋が阿部に擦り寄っているわけではない。
阿部がいつも三橋をそばに置きたがるのだ。
勉強している時には膝の上に乗せるし、寝るときには同じベットで寝たがる。
食事の時にも膝に乗せたままで、母親に「行儀が悪い」と怒られていた。
とにかく家にいる間は、いつも三橋を目の届く場所に置きたがった。
阿部君は野球をやりたくないのかな。
三橋は阿部に甘やかされながら、いつも不思議に思う。
野球部にいたときとは違い、阿部は毎日ギリギリの時間に家を出て、授業が終わるや否や帰る。
まるで猫のために回っているようなこの日常で、阿部は楽しいのだろうか。
「なぁ、戻ってきてくれよ。」
休み時間の教室で、花井がまた声をかけてくる。
毎日繰り返されるやり取りに、阿部はもううんざりしていた。
学校での阿部は、1人でいることが多くなった。
それまでの教室での阿部は、やはり同じ部の花井や水谷と一緒に行動することが多かった。
必然的に阿部は野球部から離れると同時に、花井たちとも距離を取っていた。
だが花井は毎日のように、阿部の席まで来ては「説得」を続けた。
人と関わるどころか、ほとんど自分の席からも動かない阿部の前に立って、何度も繰り返す。
内容は「野球部に戻れ」の一言に尽きる。
変化球を使い分けることなどしない花井は、とにかく直球で「野球部に戻れ」と言い続けた。
「オレがいなくても、別に大丈夫だろう?」
阿部もまた毎回同じ答えを返していた。
秋の大会はもう敗退が決まっているし、もうすぐ高校野球は対外試合禁止期間になる。
つまり試合ができない状態が長く続き、その後にはすぐ新しい1年生が入ってくるのだ。
阿部と三橋がいないところで、さほど困るとは思えない。
「野球部のためだけじゃねーよ!お前のためだって!」
「オレのため?」
「三橋はもう。。。帰ってこない。その可能性も考えるべきだろう?」
「黙れ!」
阿部は思わず立ち上がると、花井に向かって握った拳を振り上げた。
花井が思わずよろめき、水谷が駆け寄ってきて2人の間に割って入った。
クラス中がシンと静まり返り、全員が阿部たちの方を見ている。
だが阿部は怒りを静めることができず、ただ花井を睨みつけていた。
三橋はもう帰ってこない。
花井のその言葉に、一気に頭に血が上ったのだ。
三橋は何かの犯罪に巻き込まれて、生きていないのではないだろうか。
確かにそんな噂が流れていることは知っている。
だが三橋に近い存在である野球部員が「帰ってこない」などと口にするのは許せなかった。
「もう2度とオレにその話をするな。なんて言われても変わらない!」
阿部は花井にそう言い放つと、席に座った。
花井も怒りに顔を紅潮させながら、自分の席に戻る。
そのまま2人の間にできた溝は埋まることもなく、会話どころか挨拶をすることもなくなった。
「花井君だって三橋君のこと心配してるんだよ。」
花井が阿部に近寄らなくなった後、阿部に話しかけるようになったのはマネージャーの篠岡だ。
さすがの阿部も篠岡には強い口調で文句を言うことはできなかった。
「でも同じくらい阿部君のことも心配してるんだと思うよ。」
篠岡は何とか阿部と花井の仲を取り成そうとしているようだ。
だが阿部は今の篠岡の言葉を疑っている。
花井は所詮野球部のことを考えているだけで、阿部の心配などしていないと思う。
それにそもそも心配される必要などない。
阿部はただ三橋を待っているだけなのだから。
「阿部君、野球をしながら三橋君を待てば?」
「つまり野球部に戻れってこと?」
「うん。その方が三橋君が戻ってきてもフォローできるじゃない。」
「そうかな」
「うん。阿部君は過去ばかり見てないで、未来を見た方がいいと思う。」
篠岡は花井と違って、優しい言葉で阿部を誘う。
だが阿部にはどうしても譲れないことがある。
「オレは過去も未来も見てない。現在を見てるんだ。」
「現在?」
「オレの野球の中心は三橋なんだ。三橋の球を受けたい。だけど三橋はいない。」
「そんな。。。」
「だから現在のオレには、野球部にいる理由がないんだ。」
三橋がいなければ楽しくないし、やりがいもない。
そんな気持ちで、野球部の過酷な練習を続けるのはただの拷問だ。
阿部としてはごく単純にそう思っているだけなのだ。
だからほっといてほしいだけなのに、どうして部員たちには通じないのだろう。
「とにかく三橋が戻らないなら、オレも戻るつもりはないから。」
「阿部君。。。」
阿部はそのまま席を立って、教室を出て行った。
すがるように見つめる篠岡の視線には、耐えられそうにないからだ。
「まぁどっちの気持ちもわからないではないよな。」
それが事の顛末を聞いた他の部員たちの感想だった。
阿部と花井の口論と、その後の篠岡のフォローの失敗はすぐに部員たちの知るところとなった。
当事者たちがそれを報告したのではない。
すべてを見ていた水谷が、それを言い回ったのだ。
水谷としては、決して悪意ではない。
7組の野球部員たちの間に漂う暗く重い雰囲気がどうにも鬱陶しいのだ。
あれから花井や篠岡だけではなく、クラス全員が阿部に近寄りがたくなっている。
今日の水谷はそんな話を9組で訴えていた。
「お前さ、毎日毎日、何なわけ?」
泉はウンザリした口調でそう言った。
水谷にとっては意外なリアクションだった。
三橋の失踪と阿部の行動は野球部の最大の関心事だと思っていたのに。
水谷は助けを求めるように、田島を見た。
だが田島も不機嫌そうな表情を隠そうとしない。
かろうじて浜田が「まぁまぁ2人とも」と泉と田島を宥めた。
「だって阿部のこと、気にならないの?」
「阿部は阿部のやり方で、三橋を想ってるってことだろ。」
今度は田島がそう答えた。
あの猫が三橋なのだと唯一見抜いた田島は、阿部のことも見抜いていた。
阿部にとって、三橋の存在は大きすぎるのだ。
三橋がいない野球部にいられないと思う阿部の気持ちはよくわかる。
「っていうかさ、水谷的には嬉しいんだろ?阿部がいなくなった方が。」
「どういう意味だよ?泉!」
「大好きな大好きな篠岡と阿部が少しでも離れれば。。。」
「泉、やめろ!」
今度は泉が水谷を攻撃し始めたが、浜田がそれを止めた。
泉だって普段は、意味もなくこんなに喧嘩腰な物言いはしない。
泉も田島も三橋がいないことが悲しくて、つらいのだ。
イライラが募っているところに、毎日7組のゴタゴタを喋るにくる水谷が鬱陶しくてたまらない。
「とりあえず落ち着こうよ、ね?」
浜田が気遣ってくれたが、水谷はそれに感謝する余裕もなかった。
阿部と篠岡との間に距離ができることを、心のどこかで嬉しいと思っていた。
バレていないと思っていたその気持ちを泉に看破され、浜田や田島も驚いた様子を見せない。
そのことに呆然とショックを受けていた。
過去は人間、現在は猫。
では未来はどうなるのだろう。
三橋は阿部のいない阿部の部屋で、ぼんやりとそんなことを考えた。
三橋は阿部の部屋の勉強机の上で丸くなっていた。
ここは最近、三橋のお気に入りの場所だった。
日当たりが良くて、ポカポカと暖かい。
それに家の門が見下ろせるから、阿部が帰ってくるのがわかるのだ。
阿部の両親も弟も最初は猫を飼うことに嫌な顔をしていたが、今は優しく三橋をかわいがってくれる。
だがやっぱり阿部と一緒にいるのが、一番落ち着く。
そろそろ阿部が帰る時間だ。
じっと窓から門を見下ろしていた三橋は、顔見知りの人物がそこにいるのを見つけた。
門の前に立っていたのは、野球部のマネージャーである篠岡千代だ。
何をしているのだろう、と三橋はジッと篠岡を見下ろした。
これも猫になって便利になったことの1つだ。
人のことをじっと見ていても気付かれにくいし、仮に気付かれていたところで何も思われない。
篠岡はしばらく迷うような素振りを見せていたが、やがてなにか紙片のようなものを取り出した。
そして辺りをキョロキョロと見回すと、それを阿部家のポストに入れた。
周りを確認したのは、人に見られたくなかったのだろうか。
篠岡はそのまま逃げるように走り去ってしまった。
三橋は机からヒラリと飛び降りた。
部屋のドアは三橋が出入りしやすいように、開けられている。
三橋は部屋を出て、階段を伝って1階に降りる。
そしてこれも三橋が出入りしやすいように細く開けられていた勝手口のドアから外へ出た。
猫って本当に便利だな。
三橋はそんなことを思いながら門の前まで来ると、ひょいと郵便受の上の狭い空間に飛び乗った。
前足で器用に郵便受を開けて、郵便物の一番上にあったピンク色の封筒を叩き落とす。
そしてまたヒラリと飛び降りると、地面に落ちた封筒を見た。
封筒の表書きには住所などはなく、女の子らしい字でただ「阿部隆也様」と書かれている。
前足の爪を引っかけて裏返すと、案の定「篠岡千代」と書かれていた。
なぜ毎日学校で会っているのに、手紙なんか出すんだろう。
最近学校にも行かず、野球部の練習にも参加していない三橋にはわからない。
だが何だかすごく嫌な気分になった。
篠岡のことは全然嫌いじゃないのに、どうしてもこの手紙が阿部に渡るのは嫌なのだ。
三橋はピンク色の手紙を口にくわえると、歩き出した。
手紙に歯型がつき、差出人の名前が書かれたインクが滲んだが、関係ない。
この手紙はもう誰にも読まれることがないのだから。
【続く】
阿部君って、意外と寂しがりなのかな。
飼い猫として阿部家で暮らすことになった三橋は、ふとそう思った。
三橋が阿部の家に引き取られてから、すでに1ヶ月経った。
身体が元にもどる気配はまったくない。
早く投げたいという気持ちは、焦りから諦めに変わりつつあった。
こんなに長期間投げなかったことはない。
元に戻っても、もう以前のように投げることなどできない気がする。
投げられない代わりに、猫でいることに慣れてきた。
箸を使わずに皿から直に食事をしたり、水を飲むことも抵抗がなくなった。
阿部がなでてくれると、自然に喉がゴロゴロと鳴る。
4本足で走るのも、高いところにひょいと飛び上がるのも思いのままにできる。
猫ってこういう生き物だったんだと三橋はあらためて感心した。
阿部が家にいるときには、いつも阿部と一緒にいた。
三橋が阿部に擦り寄っているわけではない。
阿部がいつも三橋をそばに置きたがるのだ。
勉強している時には膝の上に乗せるし、寝るときには同じベットで寝たがる。
食事の時にも膝に乗せたままで、母親に「行儀が悪い」と怒られていた。
とにかく家にいる間は、いつも三橋を目の届く場所に置きたがった。
阿部君は野球をやりたくないのかな。
三橋は阿部に甘やかされながら、いつも不思議に思う。
野球部にいたときとは違い、阿部は毎日ギリギリの時間に家を出て、授業が終わるや否や帰る。
まるで猫のために回っているようなこの日常で、阿部は楽しいのだろうか。
「なぁ、戻ってきてくれよ。」
休み時間の教室で、花井がまた声をかけてくる。
毎日繰り返されるやり取りに、阿部はもううんざりしていた。
学校での阿部は、1人でいることが多くなった。
それまでの教室での阿部は、やはり同じ部の花井や水谷と一緒に行動することが多かった。
必然的に阿部は野球部から離れると同時に、花井たちとも距離を取っていた。
だが花井は毎日のように、阿部の席まで来ては「説得」を続けた。
人と関わるどころか、ほとんど自分の席からも動かない阿部の前に立って、何度も繰り返す。
内容は「野球部に戻れ」の一言に尽きる。
変化球を使い分けることなどしない花井は、とにかく直球で「野球部に戻れ」と言い続けた。
「オレがいなくても、別に大丈夫だろう?」
阿部もまた毎回同じ答えを返していた。
秋の大会はもう敗退が決まっているし、もうすぐ高校野球は対外試合禁止期間になる。
つまり試合ができない状態が長く続き、その後にはすぐ新しい1年生が入ってくるのだ。
阿部と三橋がいないところで、さほど困るとは思えない。
「野球部のためだけじゃねーよ!お前のためだって!」
「オレのため?」
「三橋はもう。。。帰ってこない。その可能性も考えるべきだろう?」
「黙れ!」
阿部は思わず立ち上がると、花井に向かって握った拳を振り上げた。
花井が思わずよろめき、水谷が駆け寄ってきて2人の間に割って入った。
クラス中がシンと静まり返り、全員が阿部たちの方を見ている。
だが阿部は怒りを静めることができず、ただ花井を睨みつけていた。
三橋はもう帰ってこない。
花井のその言葉に、一気に頭に血が上ったのだ。
三橋は何かの犯罪に巻き込まれて、生きていないのではないだろうか。
確かにそんな噂が流れていることは知っている。
だが三橋に近い存在である野球部員が「帰ってこない」などと口にするのは許せなかった。
「もう2度とオレにその話をするな。なんて言われても変わらない!」
阿部は花井にそう言い放つと、席に座った。
花井も怒りに顔を紅潮させながら、自分の席に戻る。
そのまま2人の間にできた溝は埋まることもなく、会話どころか挨拶をすることもなくなった。
「花井君だって三橋君のこと心配してるんだよ。」
花井が阿部に近寄らなくなった後、阿部に話しかけるようになったのはマネージャーの篠岡だ。
さすがの阿部も篠岡には強い口調で文句を言うことはできなかった。
「でも同じくらい阿部君のことも心配してるんだと思うよ。」
篠岡は何とか阿部と花井の仲を取り成そうとしているようだ。
だが阿部は今の篠岡の言葉を疑っている。
花井は所詮野球部のことを考えているだけで、阿部の心配などしていないと思う。
それにそもそも心配される必要などない。
阿部はただ三橋を待っているだけなのだから。
「阿部君、野球をしながら三橋君を待てば?」
「つまり野球部に戻れってこと?」
「うん。その方が三橋君が戻ってきてもフォローできるじゃない。」
「そうかな」
「うん。阿部君は過去ばかり見てないで、未来を見た方がいいと思う。」
篠岡は花井と違って、優しい言葉で阿部を誘う。
だが阿部にはどうしても譲れないことがある。
「オレは過去も未来も見てない。現在を見てるんだ。」
「現在?」
「オレの野球の中心は三橋なんだ。三橋の球を受けたい。だけど三橋はいない。」
「そんな。。。」
「だから現在のオレには、野球部にいる理由がないんだ。」
三橋がいなければ楽しくないし、やりがいもない。
そんな気持ちで、野球部の過酷な練習を続けるのはただの拷問だ。
阿部としてはごく単純にそう思っているだけなのだ。
だからほっといてほしいだけなのに、どうして部員たちには通じないのだろう。
「とにかく三橋が戻らないなら、オレも戻るつもりはないから。」
「阿部君。。。」
阿部はそのまま席を立って、教室を出て行った。
すがるように見つめる篠岡の視線には、耐えられそうにないからだ。
「まぁどっちの気持ちもわからないではないよな。」
それが事の顛末を聞いた他の部員たちの感想だった。
阿部と花井の口論と、その後の篠岡のフォローの失敗はすぐに部員たちの知るところとなった。
当事者たちがそれを報告したのではない。
すべてを見ていた水谷が、それを言い回ったのだ。
水谷としては、決して悪意ではない。
7組の野球部員たちの間に漂う暗く重い雰囲気がどうにも鬱陶しいのだ。
あれから花井や篠岡だけではなく、クラス全員が阿部に近寄りがたくなっている。
今日の水谷はそんな話を9組で訴えていた。
「お前さ、毎日毎日、何なわけ?」
泉はウンザリした口調でそう言った。
水谷にとっては意外なリアクションだった。
三橋の失踪と阿部の行動は野球部の最大の関心事だと思っていたのに。
水谷は助けを求めるように、田島を見た。
だが田島も不機嫌そうな表情を隠そうとしない。
かろうじて浜田が「まぁまぁ2人とも」と泉と田島を宥めた。
「だって阿部のこと、気にならないの?」
「阿部は阿部のやり方で、三橋を想ってるってことだろ。」
今度は田島がそう答えた。
あの猫が三橋なのだと唯一見抜いた田島は、阿部のことも見抜いていた。
阿部にとって、三橋の存在は大きすぎるのだ。
三橋がいない野球部にいられないと思う阿部の気持ちはよくわかる。
「っていうかさ、水谷的には嬉しいんだろ?阿部がいなくなった方が。」
「どういう意味だよ?泉!」
「大好きな大好きな篠岡と阿部が少しでも離れれば。。。」
「泉、やめろ!」
今度は泉が水谷を攻撃し始めたが、浜田がそれを止めた。
泉だって普段は、意味もなくこんなに喧嘩腰な物言いはしない。
泉も田島も三橋がいないことが悲しくて、つらいのだ。
イライラが募っているところに、毎日7組のゴタゴタを喋るにくる水谷が鬱陶しくてたまらない。
「とりあえず落ち着こうよ、ね?」
浜田が気遣ってくれたが、水谷はそれに感謝する余裕もなかった。
阿部と篠岡との間に距離ができることを、心のどこかで嬉しいと思っていた。
バレていないと思っていたその気持ちを泉に看破され、浜田や田島も驚いた様子を見せない。
そのことに呆然とショックを受けていた。
過去は人間、現在は猫。
では未来はどうなるのだろう。
三橋は阿部のいない阿部の部屋で、ぼんやりとそんなことを考えた。
三橋は阿部の部屋の勉強机の上で丸くなっていた。
ここは最近、三橋のお気に入りの場所だった。
日当たりが良くて、ポカポカと暖かい。
それに家の門が見下ろせるから、阿部が帰ってくるのがわかるのだ。
阿部の両親も弟も最初は猫を飼うことに嫌な顔をしていたが、今は優しく三橋をかわいがってくれる。
だがやっぱり阿部と一緒にいるのが、一番落ち着く。
そろそろ阿部が帰る時間だ。
じっと窓から門を見下ろしていた三橋は、顔見知りの人物がそこにいるのを見つけた。
門の前に立っていたのは、野球部のマネージャーである篠岡千代だ。
何をしているのだろう、と三橋はジッと篠岡を見下ろした。
これも猫になって便利になったことの1つだ。
人のことをじっと見ていても気付かれにくいし、仮に気付かれていたところで何も思われない。
篠岡はしばらく迷うような素振りを見せていたが、やがてなにか紙片のようなものを取り出した。
そして辺りをキョロキョロと見回すと、それを阿部家のポストに入れた。
周りを確認したのは、人に見られたくなかったのだろうか。
篠岡はそのまま逃げるように走り去ってしまった。
三橋は机からヒラリと飛び降りた。
部屋のドアは三橋が出入りしやすいように、開けられている。
三橋は部屋を出て、階段を伝って1階に降りる。
そしてこれも三橋が出入りしやすいように細く開けられていた勝手口のドアから外へ出た。
猫って本当に便利だな。
三橋はそんなことを思いながら門の前まで来ると、ひょいと郵便受の上の狭い空間に飛び乗った。
前足で器用に郵便受を開けて、郵便物の一番上にあったピンク色の封筒を叩き落とす。
そしてまたヒラリと飛び降りると、地面に落ちた封筒を見た。
封筒の表書きには住所などはなく、女の子らしい字でただ「阿部隆也様」と書かれている。
前足の爪を引っかけて裏返すと、案の定「篠岡千代」と書かれていた。
なぜ毎日学校で会っているのに、手紙なんか出すんだろう。
最近学校にも行かず、野球部の練習にも参加していない三橋にはわからない。
だが何だかすごく嫌な気分になった。
篠岡のことは全然嫌いじゃないのに、どうしてもこの手紙が阿部に渡るのは嫌なのだ。
三橋はピンク色の手紙を口にくわえると、歩き出した。
手紙に歯型がつき、差出人の名前が書かれたインクが滲んだが、関係ない。
この手紙はもう誰にも読まれることがないのだから。
【続く】