狂った時間

【逆行する懐中時計】

主を失い、通話機能さえなくなった携帯電話。
もう時計としてくらいしか役に立たない。
だが阿部はどうしてもと頼んでそれを貰い受けた。

三橋廉が姿を消してから、1週間経った。
自転車や服が異常な状況で散乱していたことから、家出などは考えにくい。
何しろ服のポケットには、携帯電話と財布も入っていたのだ。
事件に巻き込まれた可能性が高いと、警察が本格的に捜査に乗り出している。
もう三橋の両親にも、野球部員たちにも、阿部にも、できることはなにもなかった。

三橋の両親は、短い期間にひどくやつれて老け込んでしまった。
エースを失った野球部も、みな心配している。
だがいつ三橋が戻ってもいいように、練習だけはしっかりやろうと誓いを立てた。
そしてつらい気持ちを振り切るように、練習に励んでいる。

阿部は三橋の携帯電話を、肌身離さず持ち歩いていた。
三橋の携帯電話は壊れてしまい、使い物にならなくなっていたのだ。
おそらく転倒した衝撃のせいだろう。
かろうじて電源は何とか入るし、登録された電話帳やメールなどは生きている。
だが液晶画面も割れてしまっていたし、そもそも通話やメールの送受信もできなくなっていた。

三橋の両親は、同じ型の電話を買って機種変更をした。
そして電話帳もメールも、データは新しい電話に移した。
息子がいつ戻っても、困らないように。
それに息子の携帯電話に何か消息に関わる重大な連絡がないとも限らないから。
阿部は壊れた元の携帯電話を、三橋の両親に頼んで貰い受けた。
後々になって阿部は、混乱して悲観する三橋の両親に随分無神経な依頼をしたと申し訳なく思った。

結局、阿部の手元にあるのは、ただの残骸に過ぎない。
しかも毎日持ち歩くようになってわかったことだが、唯一残っている時計機能さえ時々狂う。
どうやら原因は電話機が歪んで、電池パックがピッタリとはまらなくなっていたせいだ。
正しい時間すら表示できず、何度時間を合わせてもすぐに遅れてしまう。

まるで逆行する懐中時計だ。
それでも阿部はいつもそれをポケットに入れて、いつも持ち歩いた。
こうして持っているだけで、三橋が近くにいるような気がするからだ。
三橋が戻ってくるまで、持っていようと決めている。
早く三橋が戻ってくるようにという祈りを込めて。


猫がもし自分よりも大きいサイズだったら。
そんなこと、今まで想像したこともなかった。
だが現実に体験してみれば、それがいかに恐ろしいことかわかる。
トラとかライオンなど、猛獣と対峙しているのと同じだ。

三橋は相変わらず猫のままだった。
しかも体型的には、生まれたばかりの小さな子猫だ。
人間でいたときにも、野球選手としては小さな体格を気にしていたのに。
なんで猫になってまで、こうなっているんだろう?

そんなことを思うのは、今三橋が置かれている状況による。
あの日、阿部は姿を変えてしまった三橋を見ても、三橋だとはわからなかった。
いくら声を張り上げてみても、それは「ミィミィ」とか細い声にしかならない。
当然といえば、当然のことだ。
それでも阿部は三橋を抱き上げると、そのまま家へと連れ帰ってくれた。

だがその後すぐに、三橋は田島の家へと引き取られた。
阿部の家は猫を飼ったことがないし、母親も猫を飼うことには難色を示した。
その点田島の家はすでに猫がおり、猫の飼い方も熟知している。
田島家の家族たちは、快く子猫に姿を変えた三橋を受け入れた。

だが三橋は自分より身体の大きな先住猫に怯えることになった。
他には犬やハムスターもいて、それも今の三橋からすれば異様なデカさだ。
田島家の動物たちは、人間も動物も多いこの家での過ごし方を心得ている。
だから決して三橋を無駄に攻撃したりなどしない。
それでもそもそもこの異常事態で冷静さを失っている三橋にはわからない。
いつも部屋の隅で丸くなって、震えながら過ごしている。

玄関のドアが開き「ただいま」と田島の声が響くと、三橋は玄関に走った。
とりあえず今頼りになるのは、気心が知れた田島だけだからだ。
田島が家にいる時間だけは、その横でかろうじて落ち着くことができた。


花井は「何で連れて来るんだよ」と呆れた。
百枝も渋い顔をしたが、彼女も時々愛犬を連れてくるから表立って文句は言わない。
他の部員たちはみな「かわいい」と言って、頭をなでたりしている。
阿部だけは何も言わずに、じっと猫を見ていた。

どうもこの猫は田島家の他の動物たちと、馴染めない。
いつも怯えているようだし、食事にも口をつけない。
このままでは弱ってしまうと思った田島は、なんと猫を連れて登校しはじめたのだった。

これは猫にとっても、部員たちにとっても、結果的にいいことだった。
三橋の行方がわからず、不安な気持ちのまま練習を続ける部員たちにとっては、ひとときの和み。
田島家の家族やペットたちの前では緊張し続けた猫は、ここではすっかりくつろいでいた。
それに田島家で与えるキャットフードには口もつけないのに、部員たちが与えるものは食べた。

猫は部員たちが授業を受けている間は、ずっと部室にいる。
ずっと日向ぼっこをしながら、昼寝をして過ごしていた。
田島は昼休みになると、部室で弁当を食べるようになった。
猫にも弁当を分け与えて、仲良く昼休みを過ごしている。
そのうちに他の部員たちも、昼休みは弁当を持って部室に集まるようになった。

「人間と同じものをやるのは身体に悪いんじゃないか?」
恒例となった部室でのランチタイム、真面目にそう提言したのは花井だ。
だが「他のモン、食わねーんだもん」と田島は涼しい顔で聞き流す。
そして猫の頭をなでながら「なー?三橋!」と声をかける。

他の部員たちは、思わず「え!?」と箸を止めた。
そしてガツガツと箸を進める田島と、横でハグハグと卵焼きを頬張る猫を見る。
確かに白地に所々茶がかかった、どこかオドオドした猫は三橋に似ていないことはない。

「お前、そんな名前つけるなよ!」
常識人の花井が、思わず叫んだ。
いくらなんでも行方がわからない三橋の名をつけるのは、不謹慎すぎる。

「名前をつけたんじゃねーよ。コイツは三橋なの!」
田島がそう断言すると、猫はヒョイと田島の膝の上に飛び乗った。
そしてジッと花井の目を見る。
まるで正しいのは田島の方だと主張しているようだ。

だが残念ながら、誰も信じなかった。
三橋が猫に姿を変えているなんて、突飛過ぎる。
いくら勘が鋭い田島の言い分であっても、そんな馬鹿なことはありえない。
単に弟分を心配する田島の妄想なのだと、誰もがそう思った。


猫の毎日って意外に楽しいのかもしれない。
三橋はそう思いながら、日々を過ごしていた。

朝は田島と一緒に登校する。
ベンチに座って、みんなの朝練を見る。
昼休みには、みんながわいわい喋りながら弁当を食べる輪の中にいる。
そして放課後の練習をのんびりと見る。
夜は田島と一緒に風呂に入って、一緒の布団で寝る。

何よりいいのは、お昼にみんなのお弁当を分けてもらえることだった。
正直言って、田島の家で出されるキャットフードはどうしても抵抗があったのだ。
でも空腹はつのるばかりで、いつかは食べなくてはいけないのかと悩んでいた。
ようやく馴染みのある食べ物を与えられて、ホッとしていた。

田島は元々お兄ちゃん的な存在だったが、まったく印象は変わらない。
猫になった三橋を気遣い、いつも楽しい気分にさせてくれる。
しかも驚いたことに田島だけは、三橋が猫になったことを理解している。
三橋はのんびりと穏やかな時間を過ごしていた。

「はやく三橋に戻れるといいな。投げたいだろ。」
田島は2人になると、そう言って三橋の喉をなでてくれる。
三橋はゴロゴロと喉を鳴らして、同意を示した。
みんなの練習を見ているのは楽しいが、やはり早く元に戻って投げたい。

それに田島の家にこもっていたときにはあまり考えなかったが、みんな三橋を心配している。
田島以外の部員たちは、いつも「三橋、帰ってこないかな」と言っている。
両親とは顔を合わせていないが、心労で随分やつれてしまっているらしい。
早く元に戻って、安心させてあげたいと思う。

だがそうすれば戻れるのだろう。
もしかしたら一生このままなのだろうか?
不安に思いながら、三橋はどうすることもできないでいた。


「オレが引き取るわ」
阿部はそう言って、その猫を抱き上げた。

田島が猫を連れて通学をするようになって、1ヶ月が経った。
相変わらず三橋の行方はわからない。
最近ではヒソヒソと三橋はもうこの世にいないのではないかと噂する者もいる。
野球部もすっかり三橋のいない練習に慣れてしまった。

そんな折に問題が起きた。
野球部が部室で猫を飼っていると、他の部からクレームが上がったのだ。
学校側から聞き取り調査がなされ、校則違反や衛生面の問題を指摘された。
そしてもう猫を部室に入れてはいけないと厳重に言い渡されてしまった。

「仕方ないな。どっか捜すか。しばらくはまたオレんちだな、ミー」
ミーティングの場で、学校からの決定を伝えられた田島は猫の頭をなでた。
ちなみに猫は最近「ミー」とか「ミーちゃん」と呼ばれている。
さすがの田島もこの猫を「三橋」と呼び続けるのはまずいと悟った結果だ。
由来は単純に三橋の「み」だが、うまく猫にありがちな呼び名になった。

「その猫、オレが引き取るわ」
不意に阿部はそう言うと、田島の傍らの猫を抱き上げた。
意外な行動に部員一同が驚き、阿部を見た。

「で、三橋が戻るまで部活休んで、コイツの世話に専念するから。」
阿部は事も無げにそう言い切った。
今度は先程の非ではない。
部員たちが驚いて「え~?」「うそ!」と声を上げる。

「そんな。阿部まで抜けたら、野球部はどうなるんだよ!」
「どの道三橋がいなければ、試合に出られない。それまでオレもいなくてもいいだろ?」
栄口が悲鳴のように叫んだが、阿部の表情は揺るがなかった。

阿部はもうただ待つことに限界を感じていた。
もう三橋がいない野球部で練習を続けるのは、耐えられない。
絶対に三橋は帰ってくるという最初の思いが揺らぎつつあった。

逆行する懐中時計だけでは、この喪失感は埋められない。
だから田島が三橋だと主張するこの猫と待つことにする。
阿部は右手に猫を抱き、左手に壊れた携帯電話を握り締めながら、部室を後にした。

【続く】
2/5ページ