狂った時間
【壊れた砂時計】
あの日以来、時々心に浮かぶイメージは砂時計だ。
砂時計の砂がサラサラと上の皿から下の皿へと落ちていく。
早く帰らなければ。
この砂が落ちきってしまう前に。
気ばかり焦るが、何も出来ない。
いっそ砂が全部落ちきってしまえば、諦めがつくのかもしれない。
だがイメージの中の砂時計は壊れているらしい。
砂は、サラサラと終わることなく落ち続ける。
いつまで経っても上の皿の砂は減らず、下の皿の砂は増えない。
みんなが心配している。
家族、野球部のみんな、先生も監督も学校の友だちも。
帰りたいのに。
早くしないとみんなに忘れられてしまう。
大事な自分の居場所がなくなってしまう。
いつ終わるかもわからないこの狂った時間。
いったいどうしたら抜け出せるのだろう。
答えが出ないまま、この時間の中でじっと待っているしかできないでいた。
その日三橋廉は、普段と変わらない1日を過ごした。
学校へ行き、授業を受けて、部活をする。
授業が途中でわからなくなり、眠気をこらえるのに必死だったことも。
部活の合間に食べるおにぎりが美味しかったことも。
終わった後にコンビニでアイスを食べたことも。
本当に変わらない1日だった。
唯一違ったのは、その日両親共に急に仕事が立て込んでしまったことだ。
特に母は早く帰るつもりだったので、夕飯の支度がされていなかった。
だがこれも共働きの三橋家にとっては、たまにあることだった。
こういう時のために、三橋家のタンスの引き出しには封筒にいくらかの金を入れて置いてある。
三橋は帰宅して自転車を降りたところで、両親の帰りが遅いというメールを受信した。
だが特に慌てることない。
鍵を使って玄関を開け、鞄を玄関に置く。
そして家に入ってタンスの引き出しを開けると、封筒から千円札を一枚抜いた。
三橋には1人で外食をするような度胸はない。
田島辺りに連絡をすれば「うちで一緒に食べよう」と言ってくれそうだが、それもやめた。
向かうのはコンビニ。
期間限定のスタミナ弁当が安くて美味いのだと、昼休みに浜田が言っていた。
想像するだけで、口の中に涎が溜まってくる。
三橋は家を出ると、もう1度鍵をかけ直した。
もうスタミナ弁当を食べることも、家に帰ることさえできなくなる。
そんなことなど思いも寄らない三橋は、特に深く考えることもない。
楽しげに「ムッフフ~ン」と鼻歌を口ずさみながら、自転車を漕ぎ出した。
三橋が帰って来ない。
阿部隆也がそれを知ったのは、その日の深夜のことだ。
三橋の父親からの電話で「そちらに廉は行っていませんか?」と聞かれたのだ。
阿部が聞かされた詳細はこうだ。
三橋は夕飯を食べるか買うかするために、夜になって外出したと思われる。
三橋の母親は「ゴメンね。遅くなるから何か買って食べて」というメールを送った。
すると三橋から「わかった。仕事がんばって」と返信があったという。
通学鞄が家の玄関に置いてあったことから、1度は帰宅したことがわかる。
何かあったら使うようにと用意された金から千円札も1枚が減っているという。
だがそこから三橋がどうなったのかがまったくわからない。
三橋廉は、忽然とその姿を消してしまったのだ。
すぐに三橋を捜しに出ようとした阿部は、父親に止められた。
もしも物騒な輩が徘徊していて三橋を連れ去ったとしたなら、阿部だって危ないからだ。
それに両親も、おそらく三橋はコンビニに向かったであろうと考えている。
家や学校の近くのコンビニやそこまでの道筋は特に重点的にチェックしているらしい。
今さら行ったところで、何もできるはずがない。
だが阿部には1つだけ心当たりがあった。
それは今日の投球練習の合間のことだ。
三橋は、浜田が期間限定のスタミナ弁当を美味いと褒めていたと言った。
そして「オレも食べたい」と目をウルウルさせていたのだ。
そのコンビニのチェーン店は学校の近くにも、三橋の家の近くにもない。
三橋の家から見れば、学校とは逆の方角で少々離れた場所にある。
その店と周辺だけ確認したい。
阿部が頑強に言い張ると、ついに父親が折れた。
父の車で三橋邸からそのコンビニのチェーン店まで走ることになった。
とにかくじっとしていられない。三橋を捜しに行きたい。
三橋は阿部にとって大事なエースであり、秘かに恋する相手でもあるのだから。
阿部は逸る気持ちをおさえながら、父の運転する車の助手席に乗り込んだ。
刻々と砂時計が壊れる時間が近づいている。
だが三橋はそんなことなど思いもよらずに、ペダルを漕いでいた。
三橋はいつもは行かない遠くのコンビニへと、自転車を走らせていた。
雑木林の横やら、畑の真ん中やら、人通りの少ない道が続く。
本当にのどかな田舎の風景だ。
場所によってはビルや住宅が建ち並び、東京とさほど変わらない風景だってあるのに。
埼玉って不思議なところだな、などと暢気なことを思った。
その瞬間、雑木林の中から何か白い物体が目の前に飛んで来た。
それが猫だとわかった瞬間、三橋は思い切りブレーキを握り、足を地面につく。
だが間に合わない。
人通りのほとんどない道でかなりスピードを上げていたし、猫も本当に唐突に飛び出してきたからだ。
咄嗟に避けようとハンドルを切った三橋は、自転車から投げ出されて地面に落ちた。
痛いと思ったが、どこが痛いかさえわからないまま意識を失った。
そして気がついたとき、三橋は道の真ん中で寝ていた。
先程転倒したのと同じ場所、雑木林の横だ。
まずは怪我をしていないか心配だったが、痛みを感じる箇所はない。
ホッとして起き上がったところで、ふと気付いた。
自分の目線の位置が異様に低い。
まるで地面に這い蹲っているような低さだ。
何しろ倒れた自転車が見下ろすのではなく、真正面に見えるのだ。
まさか実は怪我をしていて、立ったつもりが立ててないのだろうか。
冗談じゃない。
大会もあるし、怪我などしている場合ではない。
三橋は懸命に深呼吸をし、何とか心を落ち着かせながら今の状況を見た。
そして自分が四つんばいになっていることと、自分の身体がありえない変化をしていることに気付いた。
まさか、そんな馬鹿なことが。
三橋は諦めて目を閉じた。
こんなのは夢に決まっている。
ならばとっとと寝てしまって、自分のベットで目を覚ますのが得策だ。
阿部を乗せた車が、急停車した。
前方に異変を感じた父親が、ブレーキを踏んだのだ。
阿部にももちろん、その異常さがすぐにわかった。
車が止まるや否やシートベルトを外し、急いで車を降りて駆け寄った。
雑木林の横で道路を塞いでいたのは、三橋の自転車だった。
そしてその周辺に散らばるのは、衣類だ。
シャツに7分丈のパンツ、靴下とスニーカー、そして下着。
下着はともかくとして、その他のものにはすべて見覚えがある
確かにどれも三橋が今日、身に着けていたものだ。
とっさにレイプという言葉が頭に浮かぶ。
だが阿部は頭を振って、それを打ち消した。
いくら童顔でも、三橋は男なのだ。
毎日それなりに身体も鍛えている。
本気で抵抗されたら、普通の男が三橋を組み敷くなどできないだろう。
それに服の散らばり方も異常だった。
シャツの裾とパンツのウエストはくっついているし、下着はパンツの内側にある。
靴下は左右共に、スニーカーの中だ。
まるで着ていた形そのままで、中にいる人間だけがすっぽりと抜け出たようだ。
阿部に続いて車から降りてきた父親も、この異常さに気付いたようだ。
すぐに携帯電話を取り出して、ボタンを押し始める。
阿部は父の「もしもし、警察ですか?」という声に混じって、甲高い音を聞いた。
慌てて辺りを見回した時、三橋のシャツの間から白いものがモゾモゾと動いた。
驚いてシャツを凝視する阿部の前に顔を出したのは、猫だった。
おそらく1歳にも満たない、生まれたばかりだろう。
白い身体に所々に薄い茶の模様が入った小さな猫だ。
こちらを見上げてミィミィと泣く猫に、阿部は手を伸ばした。
阿部は動物がさほど好きではないのに、すんなりと猫を抱き上げた自分を不思議に思う。
だがまさか三橋が猫に姿を変えたとは、夢にも思わなかった。
この状況に混乱し、懸命に阿部に助けを求めていたのだが、それを理解することはできなかった。
壊れた砂時計が、狂った時間を刻み始める。
だが三橋も阿部もまだ状況を把握することさえできないでいた。
【続く】
あの日以来、時々心に浮かぶイメージは砂時計だ。
砂時計の砂がサラサラと上の皿から下の皿へと落ちていく。
早く帰らなければ。
この砂が落ちきってしまう前に。
気ばかり焦るが、何も出来ない。
いっそ砂が全部落ちきってしまえば、諦めがつくのかもしれない。
だがイメージの中の砂時計は壊れているらしい。
砂は、サラサラと終わることなく落ち続ける。
いつまで経っても上の皿の砂は減らず、下の皿の砂は増えない。
みんなが心配している。
家族、野球部のみんな、先生も監督も学校の友だちも。
帰りたいのに。
早くしないとみんなに忘れられてしまう。
大事な自分の居場所がなくなってしまう。
いつ終わるかもわからないこの狂った時間。
いったいどうしたら抜け出せるのだろう。
答えが出ないまま、この時間の中でじっと待っているしかできないでいた。
その日三橋廉は、普段と変わらない1日を過ごした。
学校へ行き、授業を受けて、部活をする。
授業が途中でわからなくなり、眠気をこらえるのに必死だったことも。
部活の合間に食べるおにぎりが美味しかったことも。
終わった後にコンビニでアイスを食べたことも。
本当に変わらない1日だった。
唯一違ったのは、その日両親共に急に仕事が立て込んでしまったことだ。
特に母は早く帰るつもりだったので、夕飯の支度がされていなかった。
だがこれも共働きの三橋家にとっては、たまにあることだった。
こういう時のために、三橋家のタンスの引き出しには封筒にいくらかの金を入れて置いてある。
三橋は帰宅して自転車を降りたところで、両親の帰りが遅いというメールを受信した。
だが特に慌てることない。
鍵を使って玄関を開け、鞄を玄関に置く。
そして家に入ってタンスの引き出しを開けると、封筒から千円札を一枚抜いた。
三橋には1人で外食をするような度胸はない。
田島辺りに連絡をすれば「うちで一緒に食べよう」と言ってくれそうだが、それもやめた。
向かうのはコンビニ。
期間限定のスタミナ弁当が安くて美味いのだと、昼休みに浜田が言っていた。
想像するだけで、口の中に涎が溜まってくる。
三橋は家を出ると、もう1度鍵をかけ直した。
もうスタミナ弁当を食べることも、家に帰ることさえできなくなる。
そんなことなど思いも寄らない三橋は、特に深く考えることもない。
楽しげに「ムッフフ~ン」と鼻歌を口ずさみながら、自転車を漕ぎ出した。
三橋が帰って来ない。
阿部隆也がそれを知ったのは、その日の深夜のことだ。
三橋の父親からの電話で「そちらに廉は行っていませんか?」と聞かれたのだ。
阿部が聞かされた詳細はこうだ。
三橋は夕飯を食べるか買うかするために、夜になって外出したと思われる。
三橋の母親は「ゴメンね。遅くなるから何か買って食べて」というメールを送った。
すると三橋から「わかった。仕事がんばって」と返信があったという。
通学鞄が家の玄関に置いてあったことから、1度は帰宅したことがわかる。
何かあったら使うようにと用意された金から千円札も1枚が減っているという。
だがそこから三橋がどうなったのかがまったくわからない。
三橋廉は、忽然とその姿を消してしまったのだ。
すぐに三橋を捜しに出ようとした阿部は、父親に止められた。
もしも物騒な輩が徘徊していて三橋を連れ去ったとしたなら、阿部だって危ないからだ。
それに両親も、おそらく三橋はコンビニに向かったであろうと考えている。
家や学校の近くのコンビニやそこまでの道筋は特に重点的にチェックしているらしい。
今さら行ったところで、何もできるはずがない。
だが阿部には1つだけ心当たりがあった。
それは今日の投球練習の合間のことだ。
三橋は、浜田が期間限定のスタミナ弁当を美味いと褒めていたと言った。
そして「オレも食べたい」と目をウルウルさせていたのだ。
そのコンビニのチェーン店は学校の近くにも、三橋の家の近くにもない。
三橋の家から見れば、学校とは逆の方角で少々離れた場所にある。
その店と周辺だけ確認したい。
阿部が頑強に言い張ると、ついに父親が折れた。
父の車で三橋邸からそのコンビニのチェーン店まで走ることになった。
とにかくじっとしていられない。三橋を捜しに行きたい。
三橋は阿部にとって大事なエースであり、秘かに恋する相手でもあるのだから。
阿部は逸る気持ちをおさえながら、父の運転する車の助手席に乗り込んだ。
刻々と砂時計が壊れる時間が近づいている。
だが三橋はそんなことなど思いもよらずに、ペダルを漕いでいた。
三橋はいつもは行かない遠くのコンビニへと、自転車を走らせていた。
雑木林の横やら、畑の真ん中やら、人通りの少ない道が続く。
本当にのどかな田舎の風景だ。
場所によってはビルや住宅が建ち並び、東京とさほど変わらない風景だってあるのに。
埼玉って不思議なところだな、などと暢気なことを思った。
その瞬間、雑木林の中から何か白い物体が目の前に飛んで来た。
それが猫だとわかった瞬間、三橋は思い切りブレーキを握り、足を地面につく。
だが間に合わない。
人通りのほとんどない道でかなりスピードを上げていたし、猫も本当に唐突に飛び出してきたからだ。
咄嗟に避けようとハンドルを切った三橋は、自転車から投げ出されて地面に落ちた。
痛いと思ったが、どこが痛いかさえわからないまま意識を失った。
そして気がついたとき、三橋は道の真ん中で寝ていた。
先程転倒したのと同じ場所、雑木林の横だ。
まずは怪我をしていないか心配だったが、痛みを感じる箇所はない。
ホッとして起き上がったところで、ふと気付いた。
自分の目線の位置が異様に低い。
まるで地面に這い蹲っているような低さだ。
何しろ倒れた自転車が見下ろすのではなく、真正面に見えるのだ。
まさか実は怪我をしていて、立ったつもりが立ててないのだろうか。
冗談じゃない。
大会もあるし、怪我などしている場合ではない。
三橋は懸命に深呼吸をし、何とか心を落ち着かせながら今の状況を見た。
そして自分が四つんばいになっていることと、自分の身体がありえない変化をしていることに気付いた。
まさか、そんな馬鹿なことが。
三橋は諦めて目を閉じた。
こんなのは夢に決まっている。
ならばとっとと寝てしまって、自分のベットで目を覚ますのが得策だ。
阿部を乗せた車が、急停車した。
前方に異変を感じた父親が、ブレーキを踏んだのだ。
阿部にももちろん、その異常さがすぐにわかった。
車が止まるや否やシートベルトを外し、急いで車を降りて駆け寄った。
雑木林の横で道路を塞いでいたのは、三橋の自転車だった。
そしてその周辺に散らばるのは、衣類だ。
シャツに7分丈のパンツ、靴下とスニーカー、そして下着。
下着はともかくとして、その他のものにはすべて見覚えがある
確かにどれも三橋が今日、身に着けていたものだ。
とっさにレイプという言葉が頭に浮かぶ。
だが阿部は頭を振って、それを打ち消した。
いくら童顔でも、三橋は男なのだ。
毎日それなりに身体も鍛えている。
本気で抵抗されたら、普通の男が三橋を組み敷くなどできないだろう。
それに服の散らばり方も異常だった。
シャツの裾とパンツのウエストはくっついているし、下着はパンツの内側にある。
靴下は左右共に、スニーカーの中だ。
まるで着ていた形そのままで、中にいる人間だけがすっぽりと抜け出たようだ。
阿部に続いて車から降りてきた父親も、この異常さに気付いたようだ。
すぐに携帯電話を取り出して、ボタンを押し始める。
阿部は父の「もしもし、警察ですか?」という声に混じって、甲高い音を聞いた。
慌てて辺りを見回した時、三橋のシャツの間から白いものがモゾモゾと動いた。
驚いてシャツを凝視する阿部の前に顔を出したのは、猫だった。
おそらく1歳にも満たない、生まれたばかりだろう。
白い身体に所々に薄い茶の模様が入った小さな猫だ。
こちらを見上げてミィミィと泣く猫に、阿部は手を伸ばした。
阿部は動物がさほど好きではないのに、すんなりと猫を抱き上げた自分を不思議に思う。
だがまさか三橋が猫に姿を変えたとは、夢にも思わなかった。
この状況に混乱し、懸命に阿部に助けを求めていたのだが、それを理解することはできなかった。
壊れた砂時計が、狂った時間を刻み始める。
だが三橋も阿部もまだ状況を把握することさえできないでいた。
【続く】
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