狂った世界
「ただいま」
三橋はポツリとそう呟くが、もちろん答えは返ってこない。
1人暮らしを始めてから、独り言が増えたと思う。
「鍵は、よし。」
1人暮らしのマンションに戻った三橋は、何度も施錠を確認した。
アメリカは日本より治安が悪いから、とにかく気をつけること。
渡米の時に、両親から何度も言われたことだ。
施錠の確認は、もうすっかりルーティンワークになっている。
そして今もまた独り言が出てしまったことに、苦笑してしまう。
寂しい?
自分で自分にそう問いかけてみる。
答えはイエスだ。
誰も知り合いのいない異国に来ているのだから。
それでも三橋はここにいるし、帰るつもりもなかった。
ここの方が、日本にいるよりも暮らしやすいからだ。
何しろ高校生の頃の生死を彷徨うほどの事故とその後の生活。
テレビなどで取り上げられてから、三橋はすっかり有名人になってしまった。
どこにいても人の視線を感じるし、露骨に声をかけてくる者も少なくない。
芸能人でもないのに握手やサインを求められることもあり、そのたびに困惑してしまう。
人の目を気にせずに生きるためには、日本を出るしかなかった。
ポケットから携帯電話を取り出した三橋は、目を瞠った。
渡米直後に買い換えたばかりの新しい携帯電話が点滅している。
着信が1件、メールが1件。
まずは着信の方を確認する。
相手はマイナーリーグの2Aに位置する野球チームの事務所の番号。
前日に三橋が入団テストを受けたチームからだ。
留守番電話にメッセージが入っているようなので、再生してみる。
「Congratulations....」
英語のメッセージに耳を傾ける。
事故前の三橋なら、到底聞き取れなかった英語のメッセージ。
だが三橋は事故の後から、ずっと英語を勉強していた。
おかげで日常会話程度なら不自由はない。
当時は自分でも不思議だった。
なぜ特に考えることもなく、英語を勉強しようと思ったのだろうと。
だが今ならわかる。
あの事故で、三橋の世界は狂ってしまった。
今まで当たり前だったごく平凡な暮らしは、もう戻ってこない。
いつか日本にいられなくなることが、心のどこかでわかっていたのだ。
「やった!」
メッセージを聞き終えた三橋は、小さく呟いた。
チームは、三橋と契約するという内容だった。
しかも来シーズンを待たずに、今シーズン途中から契約してくれるという。
早い球に慣れているアメリカの選手たちには、球速は遅いがコントロールがいい三橋は打ちにくい。
昨日のテストの感触も悪くなかったし、合格できる可能性は高いと思っていた。
だがまさかシーズンの半ばから投げられるとは思わなかった。
「メールは。。。」
三橋は今度はメールを開いた。
送信者「泉孝介」の表示に、思わず身構える。
泉には渡米直前に、面倒なことを頼んでしまった。
きっとそのことについてのメールだろう。
『阿部に手紙を渡した。』
泉からのメールはその一文だけだった。
三橋も『ありがとう』と短い言葉を打ち込んで、すぐに返信した。
「阿部君は、どの手紙を見たのかな。」
三橋は思わずひとりぼっちの部屋で、誰にともなく問いかけてしまう。
三橋が用意した2つの手紙。
それに手紙を頼んだ時、泉は納得がいかない表情をしていた。
三橋は何となく、泉は何か細工をする気かもしれないと思った。
手紙を渡さないか、すり替えるか、偽の手紙を用意するか。
とにかくメールには手紙を渡したとある。
阿部はどんな手紙を読んだのだろう?
阿部にとって三橋は単なる投手なのか?それ以上の存在なのか?
三橋は事故の後からずっと考えていた。
ずっと三橋を追いかけ、ストーカーのように付きまとう阿部。
彼はいったい何のために、三橋を見つめ続けているのだろう?
三橋は最初、執拗に追ってくる阿部が怖かった。
阿部の三橋への執着は尋常ではなかったからだ。
チームメイトとかバッテリーの相方のそれとは、どこか違う気がした。
だが同時に嬉しくもあった。
身体の機能を失い、懸命にリハビリをして這い上がろうと足掻く三橋をいつも見ている。
それが励みになったのだ。
阿部の目があったから、ここまで頑張れたと言っても過言ではないだろう。
そして三橋も戸惑ってしまうのだ。
怖いけど嬉しいこの気持ちは、いったい何なのだろう?
三橋は渡米にあたり、2つの手紙を用意した。
今までずっと見ていてくれたことに感謝する手紙と、別れの手紙だ。
泉はきっとそんな手紙の内容まで予想していただろう。
阿部が三橋が好きだと言ったら感謝の手紙、単なる投手だと言ったら別れの手紙を渡す。
三橋がそれを頼んだと思っているに違いない。
半分は当たっているが、半分はハズレだ。
三橋は2つの手紙を折り畳んで封筒に入れる時、どっちがどっちかわからないようにシャッフルした。
つまり阿部の答えに関係なく、どっちの手紙が渡るのかは三橋自身もわからないのだ。
さらに泉が手紙をすり替えているかもしれないことや、偽手紙を用意している可能性もある。
阿部がどの手紙を取ったか、そしてそれを読んでどうするのか。
三橋には見当もつかなかった。
よく言えば運を天に任せたとも言えるが、悪く言えば逃げたとも言える。
自分で判断することをせず、阿部と向き合うこともせず、ただただ偶然に委ねた。
だが自分の気持ちを決めかねている三橋は、それでいいと思っていた。
運命としてなら受け入れられる。
あの大事故や一気に変わってしまった自分の境遇を、いつもそう思って耐えた。
だから今回もそうするだけだ。
三橋と阿部が結ばれる運命なのだとしたら、三橋や阿部が何をしようと関係ないだろう。
三橋の世界はもう狂っているのだから、流されて生きていくことに何の不都合もない。
捜して、でも見つけないで。
三橋はそう思いながら、阿部からずっと逃げている。
そしてやっぱり阿部に未練がある自分に気付き、自嘲気味に笑う。
三橋の両親やかつての西浦のメンバーの何人かは、ここの住所を知っている。
三橋の新しい携帯番号やメールアドレスも知っている。
口止めもしていないし、そもそも入団テストに合格したのだ。
三橋の名も登録選手として名簿に載るから、そこから追跡することだってできる。
こうやって三橋は阿部から逃げながら、いつも手がかりを残しているのだ。
「入団できたこと、知らせなきゃ」
三橋はふと我に返ると、携帯電話を手に取った。
あまり長文は得意ではないが、そうも言っていられない。
心配しながらも送り出してくれた両親や、応援してくれた友人たちに感謝を伝えなくては。
メール作成画面を開いた三橋は、考え込んだ。
すると室内にチャイムが鳴り響いた。
来客を告げるドアフォンだ。
誰だろう?と三橋は小首を傾げる。
引っ越したばかりでまだ近隣に知り合いもいないというのに。
怪訝な思いでモニターを覗いた三橋は、来客の顔を見て驚いた。
もしかしたら来るかもしれないとは思っていたが、まさかこんなに早いとは。
「今、開けるよ」
三橋はモニターの向こうの相手に、ドアフォンでそう呼びかけた。
怖いけど嬉しい追いかけっこは、まだ終わらないようだ。
【終】お付き合いいただきありがとうございました。
三橋はポツリとそう呟くが、もちろん答えは返ってこない。
1人暮らしを始めてから、独り言が増えたと思う。
「鍵は、よし。」
1人暮らしのマンションに戻った三橋は、何度も施錠を確認した。
アメリカは日本より治安が悪いから、とにかく気をつけること。
渡米の時に、両親から何度も言われたことだ。
施錠の確認は、もうすっかりルーティンワークになっている。
そして今もまた独り言が出てしまったことに、苦笑してしまう。
寂しい?
自分で自分にそう問いかけてみる。
答えはイエスだ。
誰も知り合いのいない異国に来ているのだから。
それでも三橋はここにいるし、帰るつもりもなかった。
ここの方が、日本にいるよりも暮らしやすいからだ。
何しろ高校生の頃の生死を彷徨うほどの事故とその後の生活。
テレビなどで取り上げられてから、三橋はすっかり有名人になってしまった。
どこにいても人の視線を感じるし、露骨に声をかけてくる者も少なくない。
芸能人でもないのに握手やサインを求められることもあり、そのたびに困惑してしまう。
人の目を気にせずに生きるためには、日本を出るしかなかった。
ポケットから携帯電話を取り出した三橋は、目を瞠った。
渡米直後に買い換えたばかりの新しい携帯電話が点滅している。
着信が1件、メールが1件。
まずは着信の方を確認する。
相手はマイナーリーグの2Aに位置する野球チームの事務所の番号。
前日に三橋が入団テストを受けたチームからだ。
留守番電話にメッセージが入っているようなので、再生してみる。
「Congratulations....」
英語のメッセージに耳を傾ける。
事故前の三橋なら、到底聞き取れなかった英語のメッセージ。
だが三橋は事故の後から、ずっと英語を勉強していた。
おかげで日常会話程度なら不自由はない。
当時は自分でも不思議だった。
なぜ特に考えることもなく、英語を勉強しようと思ったのだろうと。
だが今ならわかる。
あの事故で、三橋の世界は狂ってしまった。
今まで当たり前だったごく平凡な暮らしは、もう戻ってこない。
いつか日本にいられなくなることが、心のどこかでわかっていたのだ。
「やった!」
メッセージを聞き終えた三橋は、小さく呟いた。
チームは、三橋と契約するという内容だった。
しかも来シーズンを待たずに、今シーズン途中から契約してくれるという。
早い球に慣れているアメリカの選手たちには、球速は遅いがコントロールがいい三橋は打ちにくい。
昨日のテストの感触も悪くなかったし、合格できる可能性は高いと思っていた。
だがまさかシーズンの半ばから投げられるとは思わなかった。
「メールは。。。」
三橋は今度はメールを開いた。
送信者「泉孝介」の表示に、思わず身構える。
泉には渡米直前に、面倒なことを頼んでしまった。
きっとそのことについてのメールだろう。
『阿部に手紙を渡した。』
泉からのメールはその一文だけだった。
三橋も『ありがとう』と短い言葉を打ち込んで、すぐに返信した。
「阿部君は、どの手紙を見たのかな。」
三橋は思わずひとりぼっちの部屋で、誰にともなく問いかけてしまう。
三橋が用意した2つの手紙。
それに手紙を頼んだ時、泉は納得がいかない表情をしていた。
三橋は何となく、泉は何か細工をする気かもしれないと思った。
手紙を渡さないか、すり替えるか、偽の手紙を用意するか。
とにかくメールには手紙を渡したとある。
阿部はどんな手紙を読んだのだろう?
阿部にとって三橋は単なる投手なのか?それ以上の存在なのか?
三橋は事故の後からずっと考えていた。
ずっと三橋を追いかけ、ストーカーのように付きまとう阿部。
彼はいったい何のために、三橋を見つめ続けているのだろう?
三橋は最初、執拗に追ってくる阿部が怖かった。
阿部の三橋への執着は尋常ではなかったからだ。
チームメイトとかバッテリーの相方のそれとは、どこか違う気がした。
だが同時に嬉しくもあった。
身体の機能を失い、懸命にリハビリをして這い上がろうと足掻く三橋をいつも見ている。
それが励みになったのだ。
阿部の目があったから、ここまで頑張れたと言っても過言ではないだろう。
そして三橋も戸惑ってしまうのだ。
怖いけど嬉しいこの気持ちは、いったい何なのだろう?
三橋は渡米にあたり、2つの手紙を用意した。
今までずっと見ていてくれたことに感謝する手紙と、別れの手紙だ。
泉はきっとそんな手紙の内容まで予想していただろう。
阿部が三橋が好きだと言ったら感謝の手紙、単なる投手だと言ったら別れの手紙を渡す。
三橋がそれを頼んだと思っているに違いない。
半分は当たっているが、半分はハズレだ。
三橋は2つの手紙を折り畳んで封筒に入れる時、どっちがどっちかわからないようにシャッフルした。
つまり阿部の答えに関係なく、どっちの手紙が渡るのかは三橋自身もわからないのだ。
さらに泉が手紙をすり替えているかもしれないことや、偽手紙を用意している可能性もある。
阿部がどの手紙を取ったか、そしてそれを読んでどうするのか。
三橋には見当もつかなかった。
よく言えば運を天に任せたとも言えるが、悪く言えば逃げたとも言える。
自分で判断することをせず、阿部と向き合うこともせず、ただただ偶然に委ねた。
だが自分の気持ちを決めかねている三橋は、それでいいと思っていた。
運命としてなら受け入れられる。
あの大事故や一気に変わってしまった自分の境遇を、いつもそう思って耐えた。
だから今回もそうするだけだ。
三橋と阿部が結ばれる運命なのだとしたら、三橋や阿部が何をしようと関係ないだろう。
三橋の世界はもう狂っているのだから、流されて生きていくことに何の不都合もない。
捜して、でも見つけないで。
三橋はそう思いながら、阿部からずっと逃げている。
そしてやっぱり阿部に未練がある自分に気付き、自嘲気味に笑う。
三橋の両親やかつての西浦のメンバーの何人かは、ここの住所を知っている。
三橋の新しい携帯番号やメールアドレスも知っている。
口止めもしていないし、そもそも入団テストに合格したのだ。
三橋の名も登録選手として名簿に載るから、そこから追跡することだってできる。
こうやって三橋は阿部から逃げながら、いつも手がかりを残しているのだ。
「入団できたこと、知らせなきゃ」
三橋はふと我に返ると、携帯電話を手に取った。
あまり長文は得意ではないが、そうも言っていられない。
心配しながらも送り出してくれた両親や、応援してくれた友人たちに感謝を伝えなくては。
メール作成画面を開いた三橋は、考え込んだ。
すると室内にチャイムが鳴り響いた。
来客を告げるドアフォンだ。
誰だろう?と三橋は小首を傾げる。
引っ越したばかりでまだ近隣に知り合いもいないというのに。
怪訝な思いでモニターを覗いた三橋は、来客の顔を見て驚いた。
もしかしたら来るかもしれないとは思っていたが、まさかこんなに早いとは。
「今、開けるよ」
三橋はモニターの向こうの相手に、ドアフォンでそう呼びかけた。
怖いけど嬉しい追いかけっこは、まだ終わらないようだ。
【終】お付き合いいただきありがとうございました。
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