狂った世界

【守られる意味】

目的地まで全速力で走ってきた阿部は、ハァハァと息を切らしていた。
前かがみになって、両膝に手をつきながら、呼吸を整える。
そしてインターフォンを押そうと手を伸ばした瞬間。
背後から手首を掴まれて、阻まれてしまった。

大学4年生になって、阿部は就職を決めた。
そこは三橋が所属する社会人野球チームの親会社だった。
大卒もなかなか就職できない昨今、現役で第一志望の会社に就職できたのは阿部の努力の賜物だ。
ひたすら勉強に励み、優秀な成績を収めた。
また野球部でも黙々と野球に打ち込み、正捕手となった。
とにかく卒業後を見据えて、阿部は頑張ったのだ。

だが卒業を間近にひかえた冬の日、その事件は起きた。
運命は最後まで、阿部の味方をしなかったのだ。
その会社の業績の悪化に伴い、野球部を休部扱いにすることが決まったのだった。
休部などという穏やかな言葉を使っているが、実質は廃部だ。
そのニュースの直後、三橋から阿部にメールが届いた。

野球部がなくなったので、会社から解雇通知を受けた。
それが三橋からのメールの内容だった。
阿部が内定を決めたことは、三橋にも知らせていたからだろう。
その上で「一緒にできなくなってごめんなさい」と締めくくられている。

三橋のせいではないのだから、詫びる必要はない。
阿部がそんな主旨のメールを返信した。
だがメールは送信エラーとなってしまった。
着信を拒否されているのか、メールアドレスを変えたのか。
何度メールを送っても、直接電話をかけてみても、結果は同じだった。


「なぁ、三橋はどこに行ったんだよ!」
阿部は目の前の人物に掴みかかる勢いで詰め寄った。
だが相手はじっと阿部を見据えたまま、動かない。

メールが繋がらなかったので、阿部は三橋のアパートを訪ねた。
だがもう三橋は、引っ越してしまった後だった。
元々は野球部の寮として、会社で借り上げているアパートだ。
会社を去るなら出なければならないのは当たり前だった。

業を煮やした阿部は、三橋の実家へと駆けつけた。
高校の頃からすっかりお馴染みの、この大きな邸宅だ。
そしてドアチャイムを鳴らそうとした瞬間、いきなり腕を掴まれたのだ。
どうやら阿部が来ることを事前に予想していて、待ち伏せしていたようだ。
ならばこの男は、三橋の現在の居場所を知っているのだろう。

「なぁ、教えてくれよ!」
「アメリカに向かった。今頃は空の上だ。」
「アメリカ?」
「マイナーリーグで、入団テストを受けさせてくれるチームがあるんだとさ。」
「それで、アメリカ。。。」

阿部は言葉を失い、呆然とその場に立ち尽くした。
アメリカのマイナーリーグ。
またしても三橋が遠くなってしまう。
追わなければ、捕まえなければ。
今度こそ三橋は、手の届かない場所に消えてしまう。


「教えてくれ。三橋がテスト受けるチームってどこなんだ?」
「聞いてどうする?」
阿部の内心の葛藤に気付いているのか、いないのか。
三橋邸の前で阿部を待ち伏せしていた男-泉は、阿部の問いに質問で答えた。
阿部同様、大学生になった泉も身長が伸び、身体も大きくなった。
だが意志の強い目の光は、高校時代のままだ。

「決まってるだろ?追いかける!」
「それってもうほとんど恋だな。」
「恋?馬鹿なこと言うな。オレもアイツも男だぞ。」
「でもお前のやってることって、片思いの相手の付きまとうストーカーだぞ。」
泉はズバリと切り込んできた。
辛辣な口調だが、決して茶化してはいない。
阿部の本心を確認するように、まっすぐに阿部を見ながら言葉を続ける。

阿部は泉から投げかけられた「恋」という言葉に困惑していた。
そしてこの期に及んで、根本的なことを今まで考えたことがなかったことに気付く。
なぜ自分が三橋を追っているのか、その理由だ。

「お前にとって、三橋って何なの?」
「何って。。。それは。。。」
「男だろうと何だろうと、好きなら好きでいいんじゃねーの?」
「オレが、三橋に?」

そんなはずはないと思う。
泉は何てとんでもないことをいうのだとも思う。
同じ男に、しかも投手に恋をしているなど。
だが完全に否定できない事に、阿部はまた戸惑う。


「三橋はオレのエースなんだ。捕手のオレが守ってやらなきゃダメなんだ!」
「三橋にとっては、守られる意味なんてないと思うけど。」
「どういう意味だ?」
「三橋が欲しいのは、守ってくれる捕手じゃないってこと。」

守られる意味なんてない。
泉の発言は、阿部にとって何とも腹立たしいものだった。
アメリカだのマイナーリーグなどと、阿部の知らないことを知っている。
三橋の心を理解しているのだという態度の上、阿部の本心まで見透かしているような態度だ。
だが今、阿部の欲しい情報は、この泉が持っている。
何と言っていいかわからず、阿部は下を向いてしまった。

「三橋から手紙、預かってるんだ。」
「え?」
唐突な話題の変化に、阿部は顔を上げた。
おそらく今日初めて、そして何年かぶりかに泉と目を合わせる。
驚いたことに、泉は真剣な口調とは対照的な表情をしていた。
困ったような、途方にくれたような、そんな表情だ。

「正直言ってオレは反対なんだよな。三橋にとってもお前にとってもいいことだとは思えないし。」
泉はため息混じりにそう言うと、顔をプイと横に背けてしまった。
阿部が余程驚いた顔をしていたからだろう。
そして小さく「何でオレなんだよ、この役」と文句を言う。

「なぁその手紙、くれよ。」
「渡す条件があるんだ。」
その言葉に、阿部は思わず身を乗り出した。


「お前にとって三橋は惚れた相手か?それとも単なる投手か?」
「それと何の関係がある?」
「その答えを聞いてから、手紙を渡すように言われている。」
またその話題に戻ってしまった。
阿部はまたしても戸惑い、黙ってしまう。

自分にとって、三橋はいったい何なのか?
投手なのは間違いない。
でも恋の相手として、好きなんだろうか?
「そうだ」と答えることには、大いに抵抗がある。
だが「違う」とも言い切れないような気がする。
それにしても答えを聞いてから手紙を渡すことに、何の意味があるのだろうと思う。

泉は黙って、迷う阿部の様子を見ていた。
実は泉が着ているブルゾンの左右のポケットには、それぞれ三橋からの手紙が入っている。
阿部が三橋が単なる投手だといったら右のポケット、好きだといったら左のポケットの手紙を渡す。
三橋は2種類の手紙を、泉に託していったのだ。
もちろん泉はその中身を知らないが、何となくその内容は予想できるような気がした。

だが泉としても迷っている。
この2人の追いかけっこのような関係は、どう考えても健全ではない。
だから阿部の答えには関係なく別れの手紙-泉が別れだと思っている方の手紙を渡してやろうかとも思う。
そもそも泉が勝手に思っているだけで、三橋の手紙の内容は全然違うものなのかもしれないが。

それとは別に、泉はジーパンの尻ポケットに白紙の手紙を用意していた。
もしこれを三橋からのものだと思って開いたら、阿部は間違いなく拒絶の意味だと思うだろう。
だが思った以上に、阿部は弱っているように見える。
今の阿部に、別れもしくは拒絶の手紙を渡したらどうなってしまうのだろう?

阿部は手紙がいくつもあることを知らず、答えを探して迷っている。
そして泉はどの手紙を渡すことが正解か、考えあぐねている。

「今決められないなら、決まったらメールくれ。」
踵を返した泉に、阿部が「待ってくれ!」と声を上げた。
そして阿部は答えを告げ、泉は手紙を差し出した。

【続く】
4/5ページ