狂った世界
【見えない瞳】
「どうして!」
阿部は思わず声を荒げて、目の前の少年を凝視する。
だが彼-三橋は困ったように俯いてはいるものの、その表情は揺るがない。
そのことを見て取った阿部は、自分の夢が破れたことを知った。
三橋が学校に戻ってから、1年と半年が過ぎた。
阿部は大学の2年生、三橋は高校3年。
三橋は高校球児としての最後の夏を終えたばかりだ。
野球部に在籍するものの、三橋は公式戦には出られない。
だから打撃投手や、守備練習のランナー役などをすることも多かった。
つまり部員でありながら、選手半分、雑用半分だ。
三橋のあの完璧なコントロールも戻り、球威も事故前の状態に戻った。
誰もがそんな三橋をみて「もったいない」と思った。
百枝や他の部員たちは、三橋を記録員としてベンチに入れたいと考えた。
野球部のために健気に頑張り、尽くす三橋への感謝をこめてだ。
だが三橋はその申し出をことわった。
貴重なベンチ入り枠だから、マネージャーにあげてほしいと。
そして試合の時には、スタンドに立った。
かつて浜田が着用していた学生服を着て、応援団に加わったのだ。
そんな三橋の存在が、次第に校外でも知られるようになった。
事故、2年かけての高校への復帰、そして野球部での役割。
そのどれもが劇的なものだ。
美談として人々の口に上り、やがては週刊誌やテレビなどの取材まで来た。
そしてそれが三橋の運命を変えることになる。
「阿部君、ごめんなさい。」
阿部の大学の構内のカフェテラス。
阿部は話があると言って訪ねてきた三橋と向かい合っていた。
事故の後、三橋の方から阿部に連絡を取ってきたのは初めてのことだ。
それまではまるでストーカーのように、阿部が三橋を追い掛け回していた。
「どういうこと?」
会って第一声の謝罪に、阿部の声も尖る。
嫌な予感しかしないのだ。
三橋の球を捕りたい、三橋をエースにしたい。
あの事故の後、ずっと思い描いていたその夢を叩き潰されるような予感だ。
「オレ、この大学には。入らない。」
果たして予感は的中した。
ずっと自分の大学に来て、野球部に入れと三橋を口説き続けた阿部だった。
三橋はその度に考えさせてほしいと答え、明言を避けてきた。
だが今、三橋ははっきりと阿部の申し出をことわったのだ。
「どうして!」
阿部は思わず声を荒げて、三橋を凝視する。
あの事故の後、三橋は容姿はほとんど変わらない。
まだ少年のままの姿だと阿部は思う。
身長もさほど伸びず、筋肉もつきにくい、小さな身体。
表情も16歳のままのかわいらしい童顔で、フワフワした髪も色白の肌もどこか頼りない。
阿部の身体は着実に、縦にも横にも大きくなっている。
顔もどこか父親に近づき、確実に青年へと変貌したというのに。
こんなことでさえ、阿部にとっては切実な危機感をおぼえた。
どんどん三橋との距離が開いてしまう気がして、三橋の姿を見るたびに焦ってしまう。
「社会人野球のチームが、誘ってくれてて」
三橋はそう言って、とある企業の名前をあげた。
誰もが知っている有名な企業。
だが野球部はさほど実績を上げていなかったように思う。
「オレのテレビ。見たんだって。」
三橋は寂しそうに俯いた。
阿部にもそれだけ聞かされれば、三橋を誘った企業の思惑は見えた。
つい2週間ほど前、テレビのドキュメンタリー番組が放送された。
事故の後、2年遅れで高校に戻った後の三橋の物語だ。
三橋は公式戦にも出られないのに、献身的に野球部に尽くした。
そして試合の時には声を枯らして、応援した。
感動の美談だと、反響も大きかったと聞く。
だが裏を返せば、三橋には野球選手としての実績はほとんどないということだ。
その三橋を迎えるということは、投手力の補強が目的ではありえない。
三橋を誘ったチームは、注目度や宣伝効果を重視しているのだろう。
つまり三橋を戦力としては見ていないのだ。
「お前、そのチームに行くのか?」
阿部の言葉に、三橋は黙って頷いた。
宣伝に利用されるのがわかっているのに。
ある意味見世物にされるようなものなのに。
そんなに寂しそうな顔をして、それでもそのチームに行くというのか。
「それでいいのかよ!?」
阿部が強い口調で、三橋に詰め寄る。
阿部の勢いに押されたのか、俯いてしまった三橋からはその表情が見えない。
前髪に隠れて見えない瞳がどんな色を浮かべているのか。
だが阿部には、それを確かめる余裕はなかった。
とにかく三橋を説得しなければいけないという思いだけで、いっぱいいっぱいだ。
「オレ、もう、親に迷惑かけたくないんだ。」
「どういう意味?」
「オレの事故、すごく、お金かかったんだ。」
三橋の言葉に、阿部は思い出した。
三橋の意識がまだ戻らなかった頃に、聞いた話だ。
あの事故で加害者となった乗用車の運転手は、死亡してしまった。
しかもまだ若いその男は、満足に保険にも入っていなかった。
三橋の長い入院にかかる莫大な費用は、三橋の両親が負担するしかなかったのだ。
群馬の三橋本家にまで援助を頼んだという噂も聞いたような気がする。
「大学に行けば、また親に、お金の負担させちゃう。」
「それは。。。」
「もう、迷惑、かけたくない。はやく働かなくちゃ。」
「三橋」
「オレ、そんなに頭よくないし、大学なんか行かなくていいんだ。」
下を向いたままボソボソと話す三橋を、阿部はなす術もなく見ていた。
単に三橋の気持ちの問題であるなら、いくらでも説得するつもりでいた。
だが家の事情などの話になってしまえば、阿部には反論できない。
治療費の話にいたっては、阿部にできることは何1つなかった。
それに三橋はもう決めてしまったのだ。
喋り方はぎこちないくせに、不思議なほど吃音もないのがその証拠だ。
もう阿部が何を言っても、心は変わらないのだろう。
阿部はまたしても自分の夢が破れたことを知った。
同じ大学で三橋の球を捕って、三橋をエースにする。
あの日からずっと描いている切ない夢が、今消されたのだ。
他ならぬ三橋の手によって。
「阿部君。本当にありがとう。ごめんなさい。」
三橋はそう言い残すと、席を立った。
そして黙って頭を下げると、そのまま足早にカフェを出て行く。
残されたのは、阿部とまったく口をつけていないコーヒーだけだった。
阿部はただ呆然と、三橋の後ろ姿を見送っていた。
どうしてこんなにもすれ違うのだろう?
まるで何か見えない力によって、引き離されているようだ。
ただ三橋ともう一度バッテリーが組みたい。
ただそれだけの願いが、どうして届かないのだろう。
「いや、待てよ。。。」
阿部はふと考える。
三橋が社会人野球のチームに進むというなら、追いかければいい。
それにもし三橋がこの大学に入学したとしても、一緒にできるのは2年ぽっちだ。
それならば最初から卒業後を見据えた方がいいに決まっている。
もし神様というやつがいるのなら、これはそういう暗示なのかもしれない。
そうして阿部は、三橋が誘われた会社に入ることを決意したのだった。
もしかつての野球部の仲間が、今の阿部の表情を見たら。
きっとその思いつめた様子に愕然としただろう。
単に年齢を重ねて、顔立ちが変わっただけではない。
性格が悪いと言われながらも、ひたむきに野球に取り組んだ高校時代のあの瞳は見えない。
常軌を逸して、何かに憑かれたようなその目に言葉を失ったに違いない。
また阿部が、三橋の見えない瞳を覗き込んでいたら。
話は違う方向に進んでいたかもしれない。
三橋は事故以来、ずっと自分を追いかけて見つめ続ける阿部には感謝している。
だが同じくらい感じているのは、強い恐怖だ。
阿部の尋常ではない執着に対して、一番困惑していたのは当の三橋だったのだ。
もしそれを阿部が感じ取れたなら、きっと話は変わっていただろう。
だが今の阿部は、そんなことを知る由もない。
新たな夢に向かって不穏な笑みを浮かべる。
三橋が残した冷めたコーヒーのカップを手に取り、口に運んだ。
【続く】
「どうして!」
阿部は思わず声を荒げて、目の前の少年を凝視する。
だが彼-三橋は困ったように俯いてはいるものの、その表情は揺るがない。
そのことを見て取った阿部は、自分の夢が破れたことを知った。
三橋が学校に戻ってから、1年と半年が過ぎた。
阿部は大学の2年生、三橋は高校3年。
三橋は高校球児としての最後の夏を終えたばかりだ。
野球部に在籍するものの、三橋は公式戦には出られない。
だから打撃投手や、守備練習のランナー役などをすることも多かった。
つまり部員でありながら、選手半分、雑用半分だ。
三橋のあの完璧なコントロールも戻り、球威も事故前の状態に戻った。
誰もがそんな三橋をみて「もったいない」と思った。
百枝や他の部員たちは、三橋を記録員としてベンチに入れたいと考えた。
野球部のために健気に頑張り、尽くす三橋への感謝をこめてだ。
だが三橋はその申し出をことわった。
貴重なベンチ入り枠だから、マネージャーにあげてほしいと。
そして試合の時には、スタンドに立った。
かつて浜田が着用していた学生服を着て、応援団に加わったのだ。
そんな三橋の存在が、次第に校外でも知られるようになった。
事故、2年かけての高校への復帰、そして野球部での役割。
そのどれもが劇的なものだ。
美談として人々の口に上り、やがては週刊誌やテレビなどの取材まで来た。
そしてそれが三橋の運命を変えることになる。
「阿部君、ごめんなさい。」
阿部の大学の構内のカフェテラス。
阿部は話があると言って訪ねてきた三橋と向かい合っていた。
事故の後、三橋の方から阿部に連絡を取ってきたのは初めてのことだ。
それまではまるでストーカーのように、阿部が三橋を追い掛け回していた。
「どういうこと?」
会って第一声の謝罪に、阿部の声も尖る。
嫌な予感しかしないのだ。
三橋の球を捕りたい、三橋をエースにしたい。
あの事故の後、ずっと思い描いていたその夢を叩き潰されるような予感だ。
「オレ、この大学には。入らない。」
果たして予感は的中した。
ずっと自分の大学に来て、野球部に入れと三橋を口説き続けた阿部だった。
三橋はその度に考えさせてほしいと答え、明言を避けてきた。
だが今、三橋ははっきりと阿部の申し出をことわったのだ。
「どうして!」
阿部は思わず声を荒げて、三橋を凝視する。
あの事故の後、三橋は容姿はほとんど変わらない。
まだ少年のままの姿だと阿部は思う。
身長もさほど伸びず、筋肉もつきにくい、小さな身体。
表情も16歳のままのかわいらしい童顔で、フワフワした髪も色白の肌もどこか頼りない。
阿部の身体は着実に、縦にも横にも大きくなっている。
顔もどこか父親に近づき、確実に青年へと変貌したというのに。
こんなことでさえ、阿部にとっては切実な危機感をおぼえた。
どんどん三橋との距離が開いてしまう気がして、三橋の姿を見るたびに焦ってしまう。
「社会人野球のチームが、誘ってくれてて」
三橋はそう言って、とある企業の名前をあげた。
誰もが知っている有名な企業。
だが野球部はさほど実績を上げていなかったように思う。
「オレのテレビ。見たんだって。」
三橋は寂しそうに俯いた。
阿部にもそれだけ聞かされれば、三橋を誘った企業の思惑は見えた。
つい2週間ほど前、テレビのドキュメンタリー番組が放送された。
事故の後、2年遅れで高校に戻った後の三橋の物語だ。
三橋は公式戦にも出られないのに、献身的に野球部に尽くした。
そして試合の時には声を枯らして、応援した。
感動の美談だと、反響も大きかったと聞く。
だが裏を返せば、三橋には野球選手としての実績はほとんどないということだ。
その三橋を迎えるということは、投手力の補強が目的ではありえない。
三橋を誘ったチームは、注目度や宣伝効果を重視しているのだろう。
つまり三橋を戦力としては見ていないのだ。
「お前、そのチームに行くのか?」
阿部の言葉に、三橋は黙って頷いた。
宣伝に利用されるのがわかっているのに。
ある意味見世物にされるようなものなのに。
そんなに寂しそうな顔をして、それでもそのチームに行くというのか。
「それでいいのかよ!?」
阿部が強い口調で、三橋に詰め寄る。
阿部の勢いに押されたのか、俯いてしまった三橋からはその表情が見えない。
前髪に隠れて見えない瞳がどんな色を浮かべているのか。
だが阿部には、それを確かめる余裕はなかった。
とにかく三橋を説得しなければいけないという思いだけで、いっぱいいっぱいだ。
「オレ、もう、親に迷惑かけたくないんだ。」
「どういう意味?」
「オレの事故、すごく、お金かかったんだ。」
三橋の言葉に、阿部は思い出した。
三橋の意識がまだ戻らなかった頃に、聞いた話だ。
あの事故で加害者となった乗用車の運転手は、死亡してしまった。
しかもまだ若いその男は、満足に保険にも入っていなかった。
三橋の長い入院にかかる莫大な費用は、三橋の両親が負担するしかなかったのだ。
群馬の三橋本家にまで援助を頼んだという噂も聞いたような気がする。
「大学に行けば、また親に、お金の負担させちゃう。」
「それは。。。」
「もう、迷惑、かけたくない。はやく働かなくちゃ。」
「三橋」
「オレ、そんなに頭よくないし、大学なんか行かなくていいんだ。」
下を向いたままボソボソと話す三橋を、阿部はなす術もなく見ていた。
単に三橋の気持ちの問題であるなら、いくらでも説得するつもりでいた。
だが家の事情などの話になってしまえば、阿部には反論できない。
治療費の話にいたっては、阿部にできることは何1つなかった。
それに三橋はもう決めてしまったのだ。
喋り方はぎこちないくせに、不思議なほど吃音もないのがその証拠だ。
もう阿部が何を言っても、心は変わらないのだろう。
阿部はまたしても自分の夢が破れたことを知った。
同じ大学で三橋の球を捕って、三橋をエースにする。
あの日からずっと描いている切ない夢が、今消されたのだ。
他ならぬ三橋の手によって。
「阿部君。本当にありがとう。ごめんなさい。」
三橋はそう言い残すと、席を立った。
そして黙って頭を下げると、そのまま足早にカフェを出て行く。
残されたのは、阿部とまったく口をつけていないコーヒーだけだった。
阿部はただ呆然と、三橋の後ろ姿を見送っていた。
どうしてこんなにもすれ違うのだろう?
まるで何か見えない力によって、引き離されているようだ。
ただ三橋ともう一度バッテリーが組みたい。
ただそれだけの願いが、どうして届かないのだろう。
「いや、待てよ。。。」
阿部はふと考える。
三橋が社会人野球のチームに進むというなら、追いかければいい。
それにもし三橋がこの大学に入学したとしても、一緒にできるのは2年ぽっちだ。
それならば最初から卒業後を見据えた方がいいに決まっている。
もし神様というやつがいるのなら、これはそういう暗示なのかもしれない。
そうして阿部は、三橋が誘われた会社に入ることを決意したのだった。
もしかつての野球部の仲間が、今の阿部の表情を見たら。
きっとその思いつめた様子に愕然としただろう。
単に年齢を重ねて、顔立ちが変わっただけではない。
性格が悪いと言われながらも、ひたむきに野球に取り組んだ高校時代のあの瞳は見えない。
常軌を逸して、何かに憑かれたようなその目に言葉を失ったに違いない。
また阿部が、三橋の見えない瞳を覗き込んでいたら。
話は違う方向に進んでいたかもしれない。
三橋は事故以来、ずっと自分を追いかけて見つめ続ける阿部には感謝している。
だが同じくらい感じているのは、強い恐怖だ。
阿部の尋常ではない執着に対して、一番困惑していたのは当の三橋だったのだ。
もしそれを阿部が感じ取れたなら、きっと話は変わっていただろう。
だが今の阿部は、そんなことを知る由もない。
新たな夢に向かって不穏な笑みを浮かべる。
三橋が残した冷めたコーヒーのカップを手に取り、口に運んだ。
【続く】