狂った世界
【存在意義の消滅】
阿部はもう何度も母校へ通っていた。
高校を卒業して3ヶ月、今は大学の1年生だ。
だがとにかく阿部は頻繁に母校に顔を出した。
ちゃんと大学に通っているのかと問いたくなるほどだ。
同じ学年の部員たちも、何回かは顔を出している。
後輩たちと話をし、時間があれば練習の手伝いなどもした。
だが阿部は他の部員たちには、ほとんど目もくれない。
その目的はたった1人の部員だけだった。
三橋ストーカー。
それが部員たちが阿部につけたあだ名だった。
阿部はとにかく三橋が見える場所に陣取り、見ていた。
そして時々メモを取ったりなどもしている。
三橋本人も最初のうちは、不思議そうな表情で阿部を見ていた。
だが次第に気にする素振りもなくなった。
今日も阿部は勝手知ったる母校の敷地に現れた。
そして練習着姿の後輩を捕まえて、三橋の所在を聞く。
後輩は少しウンザリ気味の表情で「ブルペンです」と答えた。
阿部は礼も言わずに、ブルペンに向かう。
阿部の先輩としての存在意義はすでに消滅している。
三橋だけを見つけ続ける阿部は、部員にとっては迷惑でしかない。
だが阿部にとってはどうでもいいことだった。
三橋以外の人間にどう思われても関係ない。
事故の後、ずっと眠っていた三橋がようやく意識を取り戻したのは1年後。
だがそれで終わったわけではない。
むしろ新たな苦難の始まりだった。
1年も動かさないでいた身体は、野球はおろか基本的な運動機能すら失っていた。
歩くことはおろか、身体を起こすこともままならない。
喉が渇いても、水のペットボトルすら持ち上げることができなかった。
阿部たちが最後の夏の大会に向けて、練習に励むのと同じ頃。
三橋はリハビリの日々だった。
事故以来、学校はずっと休学扱いになっている。
しばらくは入院したまま、退院したら自宅で、三橋は黙々とリハビリの日々を送っていた。
「阿部君は、オレの分まで頑張って、甲子園に行って。」
意識を取り戻してからも頻繁に見舞う阿部に、三橋はそう言った。
それは三橋から突きつけられた事実上の別れだった。
最後の夏にはもう間に合わない。
もう2人で甲子園に行く夢は、かなわないのだから。
阿部は短く「わかった」とだけ答えた。
そして阿部は、甲子園より先の未来に夢を描くようになった。
後に三橋への異常な執着に変わる、暗い妄想だった。
「よぉ!阿部!久しぶりだな!」
背後から聞こえる聞き慣れた大声に、阿部は顔をしかめた。
振り返ると案の定、そこにいたのは予想通りの人物。
3年間4番バッターに君臨した男、田島だった。
「今日は花井と栄口と一緒に来たんだけど、オレは練習に口出せないからさ~」
田島は不満そうに口を尖らせながら、そう言った。
花井も栄口も大学に入って、野球を続けている。
だが田島はプロ野球に進んだのだ。
プロ野球選手である田島は、後輩たちにアドバイスをすることはできない。
それが高校野球連盟の規定だからだ。
だからこうして阿部同様、外から遠巻きに見ているのだった。
「仕方ないだろ。決まりなんだから。」
阿部はそう言いながら、また三橋に視線を戻す。
三橋はチラリとこちらを見て、田島を見つけるとニコリと笑った。
だがまたすぐに投球練習を開始した。
阿部を見つけたときの反応と、今の田島への反応。
三橋の態度はまったく変わらないように見える。
控えめに笑いかけ、だが過剰に声を上げるようなことはない。
すぐに練習へと意識を戻すのだ。
だが阿部には、微妙に違って見える。
田島に向けるのは昔と変わらない笑顔。
だが自分に向ける笑顔は、どこか困ったように見えるのだ。
「ほんとにもったいないよな。公式戦に出られないなんてさ。」
田島は三橋の投球を見ながら、阿部にそう言った。
三橋の投げた球は寸分の狂いもなく、後輩捕手のミットに納まった。
阿部はため息と共に「そうだな」と答えた。
三橋は2年留年して、西浦高校に戻った。
事故の後、初めて学校に来たのは阿部たちの卒業式の日だった。
来ると聞かされていなかった部員たちは大喜びで三橋を迎えた。
3年間で身長も伸び、筋肉も体重もそれなりに増えた3年生部員。
だが三橋だけは身長も体重も事故前とほとんど変わっていなかった。
顔立ちだって相変わらず、かわいらしい童顔だ。
身体が一番成長する時期を眠って過ごした三橋は、成長を止めてしまったようだった。
ようやく10名揃った初代部員たちは、記念写真を撮った。
そして再会を誓いながら、別れたのだ。
残った三橋は2年生として、学校に戻った。
野球部に籍はあり練習に参加はしているが、三橋は他の投手とは別メニューだった。
高校野球連盟の規定には、年齢制限もある。
いくら練習しても、公式戦に出ることはできないのだ。
それはエースとしての存在意義の消滅だった。
だが三橋はまったくそれを気にする素振りを見せなかった。
野球が好きだから、野球部にいる。
あくまで参加させてもらっているのだという態度だ。
一緒にストレッチなどの基礎練習やキャッチボールをさせてもらう。
そのお礼として、打撃投手など練習の手伝いをしている。
基本スタンスはそんな感じで、先輩風を吹かせるでもない。
最初は戸惑っていた部員たちも、今では謙虚な三橋に好意的だ。
三橋は高校2年生として、ごく自然に溶け込んでいた。
「なぁ、阿部はどうしたいんだ?」
三橋の投球練習を見ていた田島が阿部に向き直った。
笑顔が消えて、真顔になっている。
「三橋はもう立ち直って頑張ってるんだ。お前ももう。。。」
「花井あたりに言われたのか?」
阿部は田島の言葉を遮って、そう聞いた。
花井や栄口を始め、他の元部員たちや百枝や志賀も、阿部に声をかけてきた。
こうして三橋を見つめ続ける阿部を心配してるのだろう。
「三橋をオレの大学に来させる。野球部に入れてまた組むんだ。」
阿部はついに自分の本音を告白した。
プロ野球入りして、すごく忙しいはずの田島がわざわざ来たのは予想外だった。
だから他の者たちには言わなかった阿部の今の夢を口にしたのだ。
田島は驚いた顔で阿部を見ている。
他の部員たちには言わなかったことを、あっさり白状したことに驚いたのだろう。
「もしかして文系の大学に進んだのは、そのため?」
「そうだ。最悪一般入試でもまぁ入れるし。」
理数系が得意で成績もいい阿部は、自分の学力よりレベルの低い大学の経済学部に進んだ。
誰もが不思議に思い、不躾に聞く者もいたが、阿部は何も答えなかったのだ。
「それで今から投球練習を見て、三橋の様子をチェックしてる。」
「阿部、お前」
「今度こそオレのエースにするんだ。オレのものだ。」
「それ、異常だぞ」
田島はまるで幽霊でも見るような目で、阿部を見た。
異常なのはどっちなのだろう?
ここまで三橋に執着する阿部か。
ここまで阿部を虜にしてしまった三橋か。
田島はもう何を言っていいかわからなかった。
三橋の投球に見入る阿部の横顔を、無言でジッと見つめていた。
【続く】
阿部はもう何度も母校へ通っていた。
高校を卒業して3ヶ月、今は大学の1年生だ。
だがとにかく阿部は頻繁に母校に顔を出した。
ちゃんと大学に通っているのかと問いたくなるほどだ。
同じ学年の部員たちも、何回かは顔を出している。
後輩たちと話をし、時間があれば練習の手伝いなどもした。
だが阿部は他の部員たちには、ほとんど目もくれない。
その目的はたった1人の部員だけだった。
三橋ストーカー。
それが部員たちが阿部につけたあだ名だった。
阿部はとにかく三橋が見える場所に陣取り、見ていた。
そして時々メモを取ったりなどもしている。
三橋本人も最初のうちは、不思議そうな表情で阿部を見ていた。
だが次第に気にする素振りもなくなった。
今日も阿部は勝手知ったる母校の敷地に現れた。
そして練習着姿の後輩を捕まえて、三橋の所在を聞く。
後輩は少しウンザリ気味の表情で「ブルペンです」と答えた。
阿部は礼も言わずに、ブルペンに向かう。
阿部の先輩としての存在意義はすでに消滅している。
三橋だけを見つけ続ける阿部は、部員にとっては迷惑でしかない。
だが阿部にとってはどうでもいいことだった。
三橋以外の人間にどう思われても関係ない。
事故の後、ずっと眠っていた三橋がようやく意識を取り戻したのは1年後。
だがそれで終わったわけではない。
むしろ新たな苦難の始まりだった。
1年も動かさないでいた身体は、野球はおろか基本的な運動機能すら失っていた。
歩くことはおろか、身体を起こすこともままならない。
喉が渇いても、水のペットボトルすら持ち上げることができなかった。
阿部たちが最後の夏の大会に向けて、練習に励むのと同じ頃。
三橋はリハビリの日々だった。
事故以来、学校はずっと休学扱いになっている。
しばらくは入院したまま、退院したら自宅で、三橋は黙々とリハビリの日々を送っていた。
「阿部君は、オレの分まで頑張って、甲子園に行って。」
意識を取り戻してからも頻繁に見舞う阿部に、三橋はそう言った。
それは三橋から突きつけられた事実上の別れだった。
最後の夏にはもう間に合わない。
もう2人で甲子園に行く夢は、かなわないのだから。
阿部は短く「わかった」とだけ答えた。
そして阿部は、甲子園より先の未来に夢を描くようになった。
後に三橋への異常な執着に変わる、暗い妄想だった。
「よぉ!阿部!久しぶりだな!」
背後から聞こえる聞き慣れた大声に、阿部は顔をしかめた。
振り返ると案の定、そこにいたのは予想通りの人物。
3年間4番バッターに君臨した男、田島だった。
「今日は花井と栄口と一緒に来たんだけど、オレは練習に口出せないからさ~」
田島は不満そうに口を尖らせながら、そう言った。
花井も栄口も大学に入って、野球を続けている。
だが田島はプロ野球に進んだのだ。
プロ野球選手である田島は、後輩たちにアドバイスをすることはできない。
それが高校野球連盟の規定だからだ。
だからこうして阿部同様、外から遠巻きに見ているのだった。
「仕方ないだろ。決まりなんだから。」
阿部はそう言いながら、また三橋に視線を戻す。
三橋はチラリとこちらを見て、田島を見つけるとニコリと笑った。
だがまたすぐに投球練習を開始した。
阿部を見つけたときの反応と、今の田島への反応。
三橋の態度はまったく変わらないように見える。
控えめに笑いかけ、だが過剰に声を上げるようなことはない。
すぐに練習へと意識を戻すのだ。
だが阿部には、微妙に違って見える。
田島に向けるのは昔と変わらない笑顔。
だが自分に向ける笑顔は、どこか困ったように見えるのだ。
「ほんとにもったいないよな。公式戦に出られないなんてさ。」
田島は三橋の投球を見ながら、阿部にそう言った。
三橋の投げた球は寸分の狂いもなく、後輩捕手のミットに納まった。
阿部はため息と共に「そうだな」と答えた。
三橋は2年留年して、西浦高校に戻った。
事故の後、初めて学校に来たのは阿部たちの卒業式の日だった。
来ると聞かされていなかった部員たちは大喜びで三橋を迎えた。
3年間で身長も伸び、筋肉も体重もそれなりに増えた3年生部員。
だが三橋だけは身長も体重も事故前とほとんど変わっていなかった。
顔立ちだって相変わらず、かわいらしい童顔だ。
身体が一番成長する時期を眠って過ごした三橋は、成長を止めてしまったようだった。
ようやく10名揃った初代部員たちは、記念写真を撮った。
そして再会を誓いながら、別れたのだ。
残った三橋は2年生として、学校に戻った。
野球部に籍はあり練習に参加はしているが、三橋は他の投手とは別メニューだった。
高校野球連盟の規定には、年齢制限もある。
いくら練習しても、公式戦に出ることはできないのだ。
それはエースとしての存在意義の消滅だった。
だが三橋はまったくそれを気にする素振りを見せなかった。
野球が好きだから、野球部にいる。
あくまで参加させてもらっているのだという態度だ。
一緒にストレッチなどの基礎練習やキャッチボールをさせてもらう。
そのお礼として、打撃投手など練習の手伝いをしている。
基本スタンスはそんな感じで、先輩風を吹かせるでもない。
最初は戸惑っていた部員たちも、今では謙虚な三橋に好意的だ。
三橋は高校2年生として、ごく自然に溶け込んでいた。
「なぁ、阿部はどうしたいんだ?」
三橋の投球練習を見ていた田島が阿部に向き直った。
笑顔が消えて、真顔になっている。
「三橋はもう立ち直って頑張ってるんだ。お前ももう。。。」
「花井あたりに言われたのか?」
阿部は田島の言葉を遮って、そう聞いた。
花井や栄口を始め、他の元部員たちや百枝や志賀も、阿部に声をかけてきた。
こうして三橋を見つめ続ける阿部を心配してるのだろう。
「三橋をオレの大学に来させる。野球部に入れてまた組むんだ。」
阿部はついに自分の本音を告白した。
プロ野球入りして、すごく忙しいはずの田島がわざわざ来たのは予想外だった。
だから他の者たちには言わなかった阿部の今の夢を口にしたのだ。
田島は驚いた顔で阿部を見ている。
他の部員たちには言わなかったことを、あっさり白状したことに驚いたのだろう。
「もしかして文系の大学に進んだのは、そのため?」
「そうだ。最悪一般入試でもまぁ入れるし。」
理数系が得意で成績もいい阿部は、自分の学力よりレベルの低い大学の経済学部に進んだ。
誰もが不思議に思い、不躾に聞く者もいたが、阿部は何も答えなかったのだ。
「それで今から投球練習を見て、三橋の様子をチェックしてる。」
「阿部、お前」
「今度こそオレのエースにするんだ。オレのものだ。」
「それ、異常だぞ」
田島はまるで幽霊でも見るような目で、阿部を見た。
異常なのはどっちなのだろう?
ここまで三橋に執着する阿部か。
ここまで阿部を虜にしてしまった三橋か。
田島はもう何を言っていいかわからなかった。
三橋の投球に見入る阿部の横顔を、無言でジッと見つめていた。
【続く】