狂った世界
【依存存在】
「なぁ三橋、もう1年になるんだな。」
阿部隆也は、三橋に話しかける。
だが目の前の人物が答えることはなかった。
三橋廉はベットの上で、眠っている。
もう1年も前から眠ったまま、目を開けることはなかった。
それは彼らが2年生になったばかりの春だった。
もうすぐ新学期、新しい1年生たちが入学する。
きっと野球部に入ってくれる者もいるだろう。
後輩ができて部員が増えるのが待ち遠しい反面、どこか寂しくもある。
1年生ばかり10人の小さな部は、よくも悪くも仲良しだ。
10人だけで行動する機会は多分減るだろう。
部員が全員集合するときには、もうこの10名だけではない。
また少人数に分かれて行動するときでも、学年ごとに集まる機会は少なくなると思う。
部員たちは誰も言葉に出さなかったが、名残惜しいような気持ちがあった。
不幸な事故が起きたのは、そんな時だった。
部員たちは相変わらず、春休みでも学校に来ていた。
もちろん甲子園優勝という目標に向かって、練習のためだ。
その日も練習を終えた彼らは自転車でコンビニに向かっていた。
そこへ脇見運転の乗用車が突っ込んできたのだ。
そして最後部を走っていた自転車-三橋を跳ね飛ばした。
道路に叩きつけられた三橋は、意識不明になった。
頭を強く打った上に、出血も多かったのだ。
一時は命も危険な状態だった。
三橋は何日も生死の境を彷徨った。
部員たちはその間、落ち着かない日々を過ごした。
部活の練習など手につかない。
病院に大勢で押しかけては混乱するからと、見舞いなども禁止された。
だから三橋が一命を取り留めたと聞いたときには、本当に喜んだ。
だが次に聞かされた話は、一気に奈落の底に突き落とされるようなものだった。
三橋の意識が戻らない。
この先いつ目を覚ますかわからないし、ずっと目覚めない可能性も高い。
部員たちは三橋が入院している病院へ何度も足を運んだ。
全員でゾロゾロと押しかけても迷惑になるから、部員たちは交代で見舞った。
そしてベットの横で、いろいろと話しかける。
部活であったこと、クラスであったこと、それ以外にも思いつくことを何でも喋った。
だが三橋はまったく目を覚ます気配はなかった。
阿部だけは毎日、三橋の病室へ来た。
それは阿部のたっての頼みによるものだった。
一日も早く三橋の球を受けたい。三橋とまた話したい。
バッテリーの相方である阿部のこの願いは、三橋の両親にも了承された。
だから阿部はほぼ毎日、休むことなく見舞いに来た。
唯一来なかったのは、合宿や遠征など泊まりがけで遠方に出たときだけだ。
そして季節は巡り、夏、秋、冬、そしてまた春。
実に1年もの間、三橋は眠ったままだった。
「阿部君、いつもありがとうね。」
ベットの横のパイプ椅子に座り、三橋の右手を握っている阿部。
その阿部に声をかけたのは、三橋の母の尚江だった。
この1年で、尚江も随分変わった。
おっとりとしていつもニコニコと優しい表情をしていたのに。
すっかりやつれて、一気に老け込んでしまったように見える。
それでも阿部たちがこうして見舞うときには、必ず礼を言ってくれる。
「いえ、オレが勝手に来ているだけですから」
阿部もまたいつもと同じ答えを返していた。
本当にその通りだからだ。
三橋がいない、三橋の球を受けられない、悲しい現実。
それを未だに受け入れられない。
だからこうして毎日、三橋の顔を見に来るのだ。
「後輩たちが、お前の投球を見たがってるんだぞ。」
阿部はそう言って、三橋を握る手に力を込めた。
だが三橋の腕はダラリと力が抜けた状態のままだ。
三橋はすっかり筋肉が落ちてしまって、腕も細い。
それに元々白かった肌はさらに青白く、まるで陶器のようだ。
「それにもうすぐまた新しい1年生が来んだぞ。お前いっぺんに2学年も顔を覚えられるのか?」
呼びかける阿部の声が、涙を含んで上ずった。
それを聞いた尚江もハンカチで目元を押さえている。
「あのね、阿部君。もうここへは来ないで。」
「え?」
「阿部君の気持ちはすごく嬉しい。でももう廉の事は忘れた方がいい。」
「それは、どういう。。。」
阿部はすぐには、尚江の言葉の意味がわからなかった。
ここに来ないで?忘れた方がいい?
いったいどういうことなのか。
「他のみんなは、花井君とか田島君ももう受け入れてる。廉がいない野球部を。」
「三橋がいない野球部?」
「そうよ。もう廉は目覚めないかもしれない。目が覚めたとしても、野球はできないわ。」
「そんな。。。」
阿部が何度も大きく首を振った。
わかっていて、でも見ないようにしていた現実を突きつけられた。
どうしても受け入れたくない、つらい現実を。
「私たちはもちろん廉の事をあきらめないわ。家族だから。でもあなたは」
「オレもそうです。」
「あなたはダメよ。未来があるんだもの。廉に依存する存在になっちゃダメ。」
「依存、存在。。。」
阿部は呆然としながら、眠る三橋へと視線を落とした。
依存存在という尚江の指摘は正しい。
阿部だって心の中ではわかっていることだった。
事故の前までは、三橋が阿部に依存しているものだと誰もが思っていた。
阿部がいないといい投手にはなれないと言い切り、リードには絶対に首を振らなかった時期もある。
だが三橋は阿部がいなくなったとしても、きっと投げ続けていただろう。
阿部がいなくなったらすごく悲しむし、いっぱい泣くし、立ち直るのに時間はかかると思う。
だがきっと阿部の分まで頑張ろうと、さらに練習に励んだことだろう。
今の阿部のように、目を覚まさない相手に依存はしない。
どんな投手の球も三橋と比較し、三橋以外の投手を否定したり。
挙句に他の部員たちと衝突を繰り返し、ついには正捕手を外されたり。
もし三橋なら、そんな無様なことには絶対になっていないはずだ。
「え?」
阿部は自分の手に圧力を感じて、声を上げた。
今まではいくら握っても、握り返されることなどなかった三橋の手。
それが阿部の手の中で動いたような気がした。
そんなはずはないと思いながら、三橋に視線を移した阿部は言葉を失った。
ずっと眠っていた三橋は目を開けており、不思議そうな顔で阿部を見上げていたからだ。
呆然とする阿部とは対照的に、尚江が「廉!」と大きな声で叫んだ。
そして三橋のベットに駆け寄り、ナースコールのボタンを押す。
阿部はそっと三橋の手を離し、尚江に場所を譲った。
「阿部君、阿部君、廉が!」
尚江の上ずった声を聞いても、バタバタと駆け込んでくる看護師を見ても。
阿部はどこか呆然としていた。
ずっと待っていた三橋が目を覚ましたというのに。
もう喜びも悲しみも麻痺してしまっているのだろうか?
「廉。心配したのよ。」
尚江が涙をこぼしながら、眠っている三橋に抱きついた。
三橋は相変わらずよくわからないという表情だ。
事故にあって1年も眠っていたのだと聞いても、その表情は変わらなかった。
ずっと後になって、阿部はこう考えるようになった。
あのときの阿部には、何となくわかっていたのだ。
三橋は確かに目を覚ましたが、1年の時間は長すぎた。
もう何もなかったことにはならない。
高校球児の限られた時間はもう過ぎてしまったのだ。
その間に離れてしまった距離は戻らない。
そしてきっと三橋にも、それがわかっていたに違いない。
やがて現れた医師が興奮気味に「検査をしなくては」と叫んでいる。
看護師たちも「三橋君、よかったね」と涙ぐんでいた。
三橋とゆっくり話すことは出来そうにない。
阿部は尚江に黙って頭を下げると、病室を出た。
【続く】
「なぁ三橋、もう1年になるんだな。」
阿部隆也は、三橋に話しかける。
だが目の前の人物が答えることはなかった。
三橋廉はベットの上で、眠っている。
もう1年も前から眠ったまま、目を開けることはなかった。
それは彼らが2年生になったばかりの春だった。
もうすぐ新学期、新しい1年生たちが入学する。
きっと野球部に入ってくれる者もいるだろう。
後輩ができて部員が増えるのが待ち遠しい反面、どこか寂しくもある。
1年生ばかり10人の小さな部は、よくも悪くも仲良しだ。
10人だけで行動する機会は多分減るだろう。
部員が全員集合するときには、もうこの10名だけではない。
また少人数に分かれて行動するときでも、学年ごとに集まる機会は少なくなると思う。
部員たちは誰も言葉に出さなかったが、名残惜しいような気持ちがあった。
不幸な事故が起きたのは、そんな時だった。
部員たちは相変わらず、春休みでも学校に来ていた。
もちろん甲子園優勝という目標に向かって、練習のためだ。
その日も練習を終えた彼らは自転車でコンビニに向かっていた。
そこへ脇見運転の乗用車が突っ込んできたのだ。
そして最後部を走っていた自転車-三橋を跳ね飛ばした。
道路に叩きつけられた三橋は、意識不明になった。
頭を強く打った上に、出血も多かったのだ。
一時は命も危険な状態だった。
三橋は何日も生死の境を彷徨った。
部員たちはその間、落ち着かない日々を過ごした。
部活の練習など手につかない。
病院に大勢で押しかけては混乱するからと、見舞いなども禁止された。
だから三橋が一命を取り留めたと聞いたときには、本当に喜んだ。
だが次に聞かされた話は、一気に奈落の底に突き落とされるようなものだった。
三橋の意識が戻らない。
この先いつ目を覚ますかわからないし、ずっと目覚めない可能性も高い。
部員たちは三橋が入院している病院へ何度も足を運んだ。
全員でゾロゾロと押しかけても迷惑になるから、部員たちは交代で見舞った。
そしてベットの横で、いろいろと話しかける。
部活であったこと、クラスであったこと、それ以外にも思いつくことを何でも喋った。
だが三橋はまったく目を覚ます気配はなかった。
阿部だけは毎日、三橋の病室へ来た。
それは阿部のたっての頼みによるものだった。
一日も早く三橋の球を受けたい。三橋とまた話したい。
バッテリーの相方である阿部のこの願いは、三橋の両親にも了承された。
だから阿部はほぼ毎日、休むことなく見舞いに来た。
唯一来なかったのは、合宿や遠征など泊まりがけで遠方に出たときだけだ。
そして季節は巡り、夏、秋、冬、そしてまた春。
実に1年もの間、三橋は眠ったままだった。
「阿部君、いつもありがとうね。」
ベットの横のパイプ椅子に座り、三橋の右手を握っている阿部。
その阿部に声をかけたのは、三橋の母の尚江だった。
この1年で、尚江も随分変わった。
おっとりとしていつもニコニコと優しい表情をしていたのに。
すっかりやつれて、一気に老け込んでしまったように見える。
それでも阿部たちがこうして見舞うときには、必ず礼を言ってくれる。
「いえ、オレが勝手に来ているだけですから」
阿部もまたいつもと同じ答えを返していた。
本当にその通りだからだ。
三橋がいない、三橋の球を受けられない、悲しい現実。
それを未だに受け入れられない。
だからこうして毎日、三橋の顔を見に来るのだ。
「後輩たちが、お前の投球を見たがってるんだぞ。」
阿部はそう言って、三橋を握る手に力を込めた。
だが三橋の腕はダラリと力が抜けた状態のままだ。
三橋はすっかり筋肉が落ちてしまって、腕も細い。
それに元々白かった肌はさらに青白く、まるで陶器のようだ。
「それにもうすぐまた新しい1年生が来んだぞ。お前いっぺんに2学年も顔を覚えられるのか?」
呼びかける阿部の声が、涙を含んで上ずった。
それを聞いた尚江もハンカチで目元を押さえている。
「あのね、阿部君。もうここへは来ないで。」
「え?」
「阿部君の気持ちはすごく嬉しい。でももう廉の事は忘れた方がいい。」
「それは、どういう。。。」
阿部はすぐには、尚江の言葉の意味がわからなかった。
ここに来ないで?忘れた方がいい?
いったいどういうことなのか。
「他のみんなは、花井君とか田島君ももう受け入れてる。廉がいない野球部を。」
「三橋がいない野球部?」
「そうよ。もう廉は目覚めないかもしれない。目が覚めたとしても、野球はできないわ。」
「そんな。。。」
阿部が何度も大きく首を振った。
わかっていて、でも見ないようにしていた現実を突きつけられた。
どうしても受け入れたくない、つらい現実を。
「私たちはもちろん廉の事をあきらめないわ。家族だから。でもあなたは」
「オレもそうです。」
「あなたはダメよ。未来があるんだもの。廉に依存する存在になっちゃダメ。」
「依存、存在。。。」
阿部は呆然としながら、眠る三橋へと視線を落とした。
依存存在という尚江の指摘は正しい。
阿部だって心の中ではわかっていることだった。
事故の前までは、三橋が阿部に依存しているものだと誰もが思っていた。
阿部がいないといい投手にはなれないと言い切り、リードには絶対に首を振らなかった時期もある。
だが三橋は阿部がいなくなったとしても、きっと投げ続けていただろう。
阿部がいなくなったらすごく悲しむし、いっぱい泣くし、立ち直るのに時間はかかると思う。
だがきっと阿部の分まで頑張ろうと、さらに練習に励んだことだろう。
今の阿部のように、目を覚まさない相手に依存はしない。
どんな投手の球も三橋と比較し、三橋以外の投手を否定したり。
挙句に他の部員たちと衝突を繰り返し、ついには正捕手を外されたり。
もし三橋なら、そんな無様なことには絶対になっていないはずだ。
「え?」
阿部は自分の手に圧力を感じて、声を上げた。
今まではいくら握っても、握り返されることなどなかった三橋の手。
それが阿部の手の中で動いたような気がした。
そんなはずはないと思いながら、三橋に視線を移した阿部は言葉を失った。
ずっと眠っていた三橋は目を開けており、不思議そうな顔で阿部を見上げていたからだ。
呆然とする阿部とは対照的に、尚江が「廉!」と大きな声で叫んだ。
そして三橋のベットに駆け寄り、ナースコールのボタンを押す。
阿部はそっと三橋の手を離し、尚江に場所を譲った。
「阿部君、阿部君、廉が!」
尚江の上ずった声を聞いても、バタバタと駆け込んでくる看護師を見ても。
阿部はどこか呆然としていた。
ずっと待っていた三橋が目を覚ましたというのに。
もう喜びも悲しみも麻痺してしまっているのだろうか?
「廉。心配したのよ。」
尚江が涙をこぼしながら、眠っている三橋に抱きついた。
三橋は相変わらずよくわからないという表情だ。
事故にあって1年も眠っていたのだと聞いても、その表情は変わらなかった。
ずっと後になって、阿部はこう考えるようになった。
あのときの阿部には、何となくわかっていたのだ。
三橋は確かに目を覚ましたが、1年の時間は長すぎた。
もう何もなかったことにはならない。
高校球児の限られた時間はもう過ぎてしまったのだ。
その間に離れてしまった距離は戻らない。
そしてきっと三橋にも、それがわかっていたに違いない。
やがて現れた医師が興奮気味に「検査をしなくては」と叫んでいる。
看護師たちも「三橋君、よかったね」と涙ぐんでいた。
三橋とゆっくり話すことは出来そうにない。
阿部は尚江に黙って頭を下げると、病室を出た。
【続く】
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