退廃5

【捨て置かれたアイデンティティ】

「じゃあ、始めるか。」
織田は三橋家の執事、隆也に声をかけた。
隆也は「お願いします!」と答えて、身構える。
まるで体育会系の学生のような反応だ。
そういえばこの男も野球部出身なのだった。
そう思い至った織田は、口元にかすかな笑みを浮かべた。

織田裕行は廉や叶、畠のように、生まれながらにして裏の世界にいる者ではない。
ごく普通の家庭に生まれ育ち、本来なら裏の世界と関わることなどなかった。
そういう意味ではいきなり廉の執事になった隆也と同じだ。

小さな頃から運動神経もよくて、身体を動かすことが大好きだった。
小学校からリトルリーグで野球をしており、中学でも野球部。
将来の夢はプロ野球選手だと思っていた。

そんなときに、テレビで放送していた格闘技に興味を持った。
1対1で闘い、相手を倒すのがいい。
だから野球部の練習の合間に、ボクシングジムにも通った。
元世界チャンピオンが所属するジムで、会長やトレーナーに素質があると言われた。
スパーリングで高校生をKOしたこともあった。
高校に進学したら野球か、ボクシングかと迷い始めていた。

転機は中学の卒業間近。
父親が多額の借金を抱えていたことを知った。
どうやらたちの悪いところからも借りてしまったようで、連日脅迫のような取立てが来た。
夜逃げか、一家心中か。
そんなところまで追い詰められた織田家に手を差し伸べた者がいた。
当時三橋家の当主であった廉の祖父だ。


廉の祖父は、織田の将来を買いたいと言った。
廉の代の誰かが当主となったときに、側近になって欲しいと。
多分その時には、織田も廉たちも40代になっているだろう。
それまでは三橋家に身を置いて、然るべき訓練を受ける。
それ以外は普通に生活していて構わない。
プロ野球選手でも、格闘家でもなってよい。
そうすれば織田の家の借金を、すべて肩代わりすると。

織田は三橋家の提案を受け入れて、高校から三星学園に入学した。
表向きは野球部からのスカウト入学。
三星はそこそこ野球も強かったし、楽しい高校生活だった。
だから急に廉が当主になり、ボディガードを命じられても迷いはなかった。
高校1年のとき、あの三星と西浦の練習試合。
あのときの廉を織田はよく憶えている。
マウンドに立った廉の、あの澄んだ目には惹かれていた。

廉に仕え始めた当初、廉からは冷たさしか感じなかった。
幼さが残る可愛らしい顔立ちで、非情な命令を下す廉。
そんなアンバランスさには背筋が寒くなるような怖さがあった。
だが隆也が来てから変わった気がする。
口調や表情が柔らかくなったし、たまに口元に浮かべる笑みに温かさを感じた。

「よし、今日はここまでだ。」
織田は隆也に声をかけた。
こうやって仕事の合間をぬって、織田は隆也に格闘術の手ほどきをしている。
廉の指示だった。
三橋家の執事として、何かあったときには身を守れる強さを身につけさせるようにと。

「ありがとうございました。」
隆也は礼儀正しく頭を下げた。
普段は対等ないわゆるタメ口で会話をするが、稽古のとき隆也は敬語を使う。
そういうけじめのつけ方も、廉を守るという気合いがこもった稽古振りも気に入っている。
きっと隆也なら、つらい運命を背負ってしまった廉を支えていけるだろう。


「よし、今日はここまでだ。」
「ありがとうございました。」
庭で稽古をする織田と隆也の声が聞こえる。
それを聞きながら口元に笑みを浮かべる廉を見て、叶修悟もまた微笑んでいた。

叶家は、もう代々ずっと三橋家に仕えている家だ。
織田や隆也と違い、叶は生まれたその瞬間からこの将来が決まっていた。
廉たちの中の誰かが当主になったとき、その秘書となる。
三橋家の当主の右腕となり、支えていくという未来。
自分で何も選べない未来を呪って過した時期もある。
どうしてこんな家に生まれてきてしまったのだろうかと。

実は亡き廉の従姉妹の瑠里と結婚して、当主を継ぐという話もあった。
だがそうならなかったことに、実は秘かにホッとしている。
瑠里には友情以外のものを感じなかったからだ。
多分瑠里もそうだったと思う。
叶も瑠里も恋愛の対象としてみていたのは、廉だった。

思いもよらない早い時点で、廉が当主になり、叶が秘書になった。
予定ではもっと遅かったはずで、いろいろやりたいこともあった。
でもずっと廉の隣に寄り添えるこの場所は、悪くない。
日本を、そして時として世界に影響力を持つ三橋家の当主、廉。
その横で廉を支えて生きていくことに魅力を感じた。
時に誰にも見せられない弱い部分を、自分の前でだけ見せてくれたら。
それだけで密かに抱いていた恋心も報われると思った。


そこへ現れたのが隆也だった。
廉は隆也を執事として傍に置き、心の支えにした。
それでいて三橋の家のことは何も話さず、いつでも逃がせるようにしていた。
それが叶には気に入らなかった。
何も知らないくせに、中途半端な立ち位置で廉の傍にいるなど許せないと思った。
今ならその感情の正体がわかる。
叶は隆也に嫉妬していたのだ。

すべてが変わったのは、あの畠の家の火事だ。
裏の世界を牛耳る者は、力を示さなければならない。
家族を殺されたのなら、それ相応の報復をしなければならない。
それでなければ、周りからなめられてしまうのだ。
そして廉は迷うことなく畠家への報復をやってのけた。

畠邸の火事のとき、何も知らせなかったのにあの場所に現れた隆也。
廉が遠ざけようとしても、隆也は廉から離れなかった。
そしてついに廉は、隆也をずっと手元に置くことを決断した。
運命に翻弄されながらも惹かれあう2人に、叶が割り込める余地はないと思い知った。
ならば叶がすることはただ1つ。
隆也を鍛えて、廉の執事にふさわしい人間にすることだ。

「廉様、後は書類を見ていただくだけですので、後は」
「わかった。頼む。」
叶は廉にことわりを入れると、聞き終わる前に廉は頷いた。
織田とのトレーニングの後、隆也の相手をするのは叶だ。
廉の抱えている仕事の内容を、隆也にも把握してもらう。
そうすればよりいっそう廉の世話も行き届くだろう。

叶は書類に目を落とす廉の横顔を見た。
少年のようにあどけない顔も、もう叶には手が届かない。
でも影ながら廉を支えて生きていければ、それでいい。


織田の稽古の後は、叶の授業。
正直言って、隆也は頭も身体もいっぱいいっぱいだ。
それでも何も知らされず、何をしていいかわからなかった頃に比べれば全然マシだ。
畠が三橋家に乗り込んできたあの後、廉は隆也に三橋家の話をしてくれた。
それから隆也の生活は、一気に変わった。

三橋家の祖先は、そもそも金貸し業を営む家だったらしい。
らしいというのは、はっきりとした記録などが一切ないからだ。
政治や経済の裏の世界にいるから、あえて残さないようにしたのだろう。
三橋家の歴史は、口伝えによって語られているのだと言う。

細々と金貸し業を営んでいくうちに、三橋家は少しずつ裕福になっていた。
金貸しなどと言うと暴利を貪る悪徳業者を連想するが、三橋家は違った。
本当に困っている人には低金利で金を貸したり、返済を延ばしたり、良心的だったらしい。
そうやって社会的な信用を得ていったのだろう。
そしてある程度蓄えが出来ると、その金を世の中の役に立てたいと思うようになった。
それが江戸時代くらいの始めくらいの話だという。
その頃はまだ裏ではなく、健全な表の世界の住人だった。

三橋家の歴代の当主たちは、その時代時代の人物や組織に出資した。
いわゆる後援者とか、タニマチという立場だ。
領主や商人など、世の中の役に立ちそうな者たちには惜しみなく金を注いだ。
今で言う政治献金とか企業献金とか、そんなものだろう。
そうして政治や経済と密接につながりながら、大きな存在に成長したのだ。
表向きはあくまでも金貸しをしながら、その実態は隠されていた。

幕末から明治、大正、昭和、そして戦争。
金の還流の源になる三橋家は、激動の時代にも生き抜いた。
そして戦後の復興の中で、さらに巨大な成長を遂げたのだ。
廉は「まるで化け物みたいにね」と吐き捨てるようにそう表現した。


現在の三橋家の当主、廉の仕事をわかりやすく言うなら、投資家だろうか。
いくつもの企業を株主という形で支援し、その配当は社会に還元される。
有望な企業の支援や、政治家への活動資金へと回されるのだ。

悪徳政治家や企業などには、制裁を加えることもある。
手段は主に情報操作や裏工作だが、時には手荒な直接行動をとることもある。
法にふれる行動も、三橋家ならば仕方がないと許されている。
今まで三橋家が還流させた金は、それだけの力を持っていた。
そうやって政財界を仕切ることで、この世の中を回している。
決して表に出ることはなく、あくまで裏で。

「明日の廉様の予定は東京だ。与党の幹事長と会う。多分次期首相の話だろう。」
「はい。」
「廉様が了承すれば、財界にも働きかけることになるだろう。」
「わかりました。」
廉の秘書の叶は、毎日隆也のために時間を割いてくれている。
多岐にわたる廉の仕事を少しずつ説明し、明日の予定を確認する。
これも廉の指示だった。

「何か笑うよな。高校1年のあの試合のときは、お前とこんな話をするなんて思わなかった。」
叶はそう言って笑うと、隆也も「ほんとにな」と言って笑う。
隆也には叶も自分同様、廉に恋心を抱いているように見える。
だがすべてを飲み込んで、廉のために尽くしているのだろう。
それにどうやら隆也を認めてくれているようだ。
こうやってほんの一言二言だが、親しい友人のような会話をしてくれる。

「じゃあ今日はここまでだ。廉様を頼む。」
「わかりました。」
友人としての会話は終わり、また主を挟んで秘書と執事の会話に戻る。
隆也はこうして廉の側近たちにも溶け込みつつあった。


「阿部、君」
食事も入浴も終えて、すっかり寝支度を整えた廉がおずおずと呼んだ。
そして右手を差し出すと、隆也が左手を合わせてくれる。
高校時代からの2人の習慣だ。

執事である隆也の仕事は廉が就寝する準備を整えるまでで終わる。
その後のほんのわずかな時間だけ、廉は「阿部君」と呼ぶようになった。
隆也も笑って答えてくれる。
それが廉が「三橋家当主」からただの「三橋廉」に戻る時間だった。

もう引き返せない。
廉は今さらながらにそのことを思い知らされている。
織田、叶、そして隆也。
みな自分から望んだわけではないのに、三橋家という檻に閉じ込められている。
廉がそれを望んだからだ。

畠の一族によって、三橋家が廉を残して全員殺害された後。
廉は三橋家をなくしてしまうことも出来たのだ。
なにしろその昔、廉は裏社会に君臨する三橋の家が嫌いで、西浦へと逃げたのだから。
今度は三橋家から逃げ、廉も織田も叶も自由になれるチャンスだった。

それでもやはり自分の身内を皆殺してしまった畠家を許すことは出来なかった。
三橋家がなくなったら、間違いなく畠家がとってかわったことだろう。
それだけはどうしても嫌だったのだ。
だから三橋家を継ぎ、畠家を滅ぼした。
そして一番大事にしていた存在、隆也まで巻き込んだのだ。


捨て置かれたアイデンティティ。
彼らはもう織田裕行、叶修悟、阿部隆也ではない。
三橋家当主廉のボディーガード、秘書、執事だ。
この先彼らはほとんど名前で呼ばれることはないだろう。
廉自身が憎まれることは全然構わないが、彼らを縛ったことがつらかった。

だがその後の展開は、廉の予想を裏切った。
織田も叶も隆也も、畠の一件以来、実に楽しそうに生き生きしていたのだ。
彼らも彼らなりに吹っ切れた。そんな風に見える。
中でも一番元気なのは隆也で、やりがいを見つけて毎日充実しているようだ。
織田も叶もそんな隆也に触発されたように、明るい表情で仕事をこなしている。

「何を考えている?」
「え?えーと。最近、織田君も、修ちゃんも、阿部君も、元気だなって。」
不思議なもので、ただの「三橋廉」に戻った途端、廉の口調は変わる。
いつもの当主の冷たい命令口調ではない。
高校の頃のような、ちょっと吃音気味で舌足らずな言葉。
隆也と共にベットに入ったときにだけ、廉はこんな甘い声で話す。

「ベットの中では隆也って呼べよ。廉。」
隆也はそう言って、廉のやわらかい髪をなでた。
だが廉は顔を赤くして「恥ずかしいよ」と照れる。
仕事中は散々「隆也」と呼んでいるのに、おかしな話だと隆也は笑う。

「ずっと廉の傍にいる。」
隆也はそう言って、廉の唇にキスを落とした。
廉は隆也の背中に手を回して、鍛えて逞しくなった胸に身体を預ける。
主と執事から恋人同士に戻った2人の、熱い夜の始まりだ。

【終】お付き合いいただき、ありがとうございました。
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