退廃5

【知らなくていい】

「廉様、お目覚めのお時間でございます。」
隆也は部屋のドアをノックをした後、返事を待たずに部屋のドアを開けた。
カーテンを開けて、寝起きの悪い廉に「廉様」と声をかける。
廉はその瞬間が好きだった。
隆也の顔がかつて廉の世話を焼いていた「阿部君」の顔に見えるからだ。

廉は隆也に「今月いっぱいで辞めてかまわない」と告げ、月が変わった。
だが相変わらず隆也は執事として、三橋邸に留まっている。
隆也は廉に考えさせてほしいと言った。
そもそも廉の執事として、最低10年は勤めるという条件だったのだ。
いきなり今月いっぱいだと言われても、どうしていいかわからない。
だから考えがまとまるまでは、今まで通りにさせてほしいと。
廉は隆也のその言葉を受け入れ、そのまま執事として置いている。
あの火事の日のことは、結局何も話していない。

廉にはよくわかっている。
いつまでもこんな中途半端な状態ではいけないことなど。
隆也を巻き込みたくないのなら、無理矢理にでも離してしまえばいい。
そばに置いておきたいなら、三橋家の事情を話して然るべき仕事をさせるべきだ。
だが未だに決心がつかないでいた。

辞めさせて普通の生活に戻してやることが、隆也のためだとわかっている。
それなのに執事として隆也を廉だけのものにしていることに、暗い悦びを感じている。
毎朝隆也に「廉様」と優しい声で起こされる日々が手放せないのだ。


「おはようございます、廉様」
朝食と身支度を終えた廉が屋敷内の執務室に入ると、叶と織田が待っている。
隆也が3人に朝のコーヒーを淹れて部屋を退出すれば、いつもと同じ朝だ。
だが今日は違った。
朝の8時きっかり、ちょうど仕事を始めようとしたその時。
三橋邸のドアホンが鳴った。

「先に応対してよろしいでしょうか?」
ちょうどコーヒーを給仕しようとしていた隆也が、廉にことわりを入れる。
だが廉は「いや、いい」と首を振った。
その反応に隆也が訝し気な表情になる。
今回の来客は、事前に約束のない人物だ。
そういう場合にはいつも隆也が応対し、追い返すのが常だった。
三橋家の当主はいきなり来訪して面会できるほど軽々しくあってはならない。

「叶と織田で出て。チェックは厳重に。」
「かしこまりました。」
廉の命令に、叶と織田が部屋を出て行く。

「隆也。来客は3人だ。コーヒーを用意して。」
廉は残された隆也にそう言いつけると、そのまま来客用のソファに腰を下ろした。
隆也は怪訝な表情のまま「はい」と答えた。
来客を確認していないのに、人数を言い当てた廉が不思議なのだろう。
だが廉にはこの来客の正体がわかっていた。
あの火事から約半月、そろそろ来る頃だと思っていた。


客を迎えるための上質なソファ。
いつもの上座に廉は座っている。
その後ろに影のように叶と織田が立っていた。
廉の真正面には、隆也も知っているふてぶてしい面構えの男が座る。
彼の後ろにもまた影のように2人の男が立っていた。

「お前は、西浦の」
廉の正面に座る男が隆也の顔を見て、そう言った。
背後の2人も、かすかに驚いた様子が見えた。
隆也は短く「お久しぶりです」と答えながら、来客の前にカップを置いた。

来客の名は畠篤史。
中学時代には廉と、高校では叶とバッテリーを組んでいた男だった。
後ろに控える柊と吉も同じ三星学園の元野球部、かつての廉のチームメイト。
隆也も含めれば、全員が高校1年のあの試合に出場したメンバーだ。
何とも皮肉なことだと、廉は思う。
あのときユニフォーム姿だった高校生が、今は全員スーツ姿。
そしてこれからあまり愉快でない話をしなければならない。

「隆也」
全員にコーヒーを配り終えた隆也に、廉は声をかけた。
隆也は廉に向き直り「はい」と答える。
だがほんの一瞬、廉は何かを言おうとしたものの、躊躇った。
はやく部屋を出ろと言われるだろうと思っていた隆也は、怪訝に思った。


「もしこのまま執事を続けるつもりならここにいろ。辞めたいなら出て行け。」
廉はついにそう言った。
隆也は驚いて、廉の顔を見た。
いつも廉の命令にはすぐに返事をする隆也にしては珍しいことだ。
叶と織田も驚いたようだ。
いつもの無表情に微かな驚きの色が浮かんでいる。

「私はここにいます。」
「これから起こることを見て聞いてしまったら普通の生活には戻れない。それでも?」
「それでも、です。私は廉様の執事です。」
「わかった」
廉が視線を隆也から、畠に向けた。
叶と織田が一瞬だけ、顔を見合わせて頷きあう。
三橋家における隆也の立ち位置が変わった。
そのことを確認したのだ。

「改めまして畠君。久しぶりだ。」
「この間の放火は、お前の仕業だな。」
畠は単刀直入に切り出した。
だが廉は顔色1つ変えず、隆也の淹れたコーヒーを口に運ぶ。

「隆也のコーヒーは美味しいよ。毒なんか入ってないから飲めば?」
「どうして火をつけたんだ!俺の家族はあの火事でみんな死んだんだ!」
「それは仕方ないでしょう?俺は三橋家がされたことを、そのまま返しただけだよ。」
その言葉に畠は驚いた様子だった。
畠の後ろに立つ柊と吉も衝撃を受けているように見える。


「もしかして聞いてなかった?畠君の親御さんは君は知らなくていいって思ってたのかな?」
「俺の親が、お前の家族を?」
「正確には君のお祖父様とお父様だよ。三橋家に取って代わるために、ね。」
「そんなことは信じない!」
「信じないのは、別に勝手だけど。」
廉はそう言いながら、空になったカップを掲げる。
隆也はすぐにポットを取りあげると、廉のカップにコーヒーを注いだ。

「でもあの火事が俺の仕業だってわかったんだろ?」
「なら本当は知ってたんじゃない?」
「君の一族が俺の家族を殺して、火をつけたことを。」
「君はいつだって知らない振りして、正義感ぶってたよね。」
「中学時代もそうだった。俺を目の敵にして、いじめ倒して。」
「本当は俺が三橋家の落ちこぼれだって知ってたからだろ?」
「いじめてウサ晴らししてたんだろ?」
「残念ながら君が何をしても俺は平気だよ。昔も今も。」
廉の言葉は止まらない。
静かにゆっくりとした口調だったが、確実に畠の心に突き刺さっていた。

「警察に行く。今お前が言ったことを話す。」
畠はしぼり出すように呟いた。
だが優雅に小首を傾げると、クスっと声を立てて笑った。

「警察は動かないよ。俺の家族が殺されたときと同じにね。」
「そんなことが。。。」
「いい加減に認めたら?俺たちはそういう法治国家の枠の外で生きてるんだ。」
廉は静かにカップをソーサーに戻した。
畠が膝の上で握り締めた拳が、ブルブルと震えている。


「このまま君が、いや畠家が三橋家の配下に戻るなら、俺は許すよ?」
「何を言って。。。」
「だから君だけを生き残るようにしたんだ。俺と同じようにね。」
「お前!」
廉の挑発するような言葉に、畠が立ち上がった。

それを合図に、後ろにひかえていた柊と吉が足元から何かを取り出した。
2人は靴の中に、武器として小型の刃物を隠していたのだ。
それを手に取るとソファを乗り越え、廉に向かって飛びかかってきた。
すかさず叶と織田もソファを飛び越え、廉をかばう。
叶が柊と、織田が吉と、格闘になった。

隆也は畠を見た。
2組の格闘など目に入らぬ様子で、畠は廉を睨みつけている。
そして柊たちと同じように、自分の靴の中から刃物を取り出した。
叶も織田も、畠を取り押さえる余裕はない。
これはまずい---!
隆也はとっさにコーヒーのポットを、畠に向かって投げつけた。

「熱っ!」
ポットは畠の右肩に命中し、中に残ったコーヒーがかかった。
怯んだその隙に廉が駆け寄り、畠の腕を取って、投げ飛ばした。
畠が腰を落とした廉の背中の上でぐるりと1回転する。
そしてドタッと大きな音と共に、畠の身体が床に落ちた。
廉は敏捷な動きで畠をうつ伏せにすると、その背中に体重を乗せながら、腕をねじり上げた。
その時には叶も織田も相手をすでにねじ伏せていた。
あまりにも鮮やかなその手際を、隆也はただ呆然と見守っていた。


「申し訳ありません。床を汚してしまいました。」
隆也はそう言って、廉に深々と頭を下げた。
先程隆也が投げつけたポットからこぼれたコーヒーがカーペットにしみを作っていた。

取り押さえられた畠、柊、吉の3人は、もういない。
叶と織田に後ろ手に拘束された上、叶が電話で呼んだ見知らぬ数人の男に連行された。
廉いわく「始末をつけてくれる」らしい。
おそらくもう畠たちと生きて会うことはないのだろう。

「隆也のおかげで助かった。」
「嘘でしょう。俺が何もしなくても取り押さえられましたよね。」
廉の言葉は、隆也には皮肉にしか聞こえなかった。
とっさに廉を守ろうとポットを投げつけたが、その後の廉の手並みは見事だった。
おそらくポットがなくても、畠にやられることはなかっただろう。

「申し訳ありません。一応身体検査をして金属探知機を使ったのですが。」
「ああ、さっきのナイフ。セラミックとかかな?」
心の底から悪いと思っている表情であやまったのは、織田だった。
おっとりと答える廉には、まったく気にしている様子もない。
「みんないい運動になったでしょ。次から気をつければいいよ。」
廉がそう言うと、叶と織田が顔を見合わせてホッとした表情になる。
そして2人は廉に退出の指示をされ、部屋を出て行った。

「今まで隆也は知らなくていいと思ってたけど。ちゃんと話すよ。」
隆也と廉、2人だけになった執務室。
廉は再びソファに座ると、隆也にも座るようにと手で正面のソファを示して促した。
隆也は先程まで畠が座っていた場所-廉の正面に座る。
そういえば執事になってから、廉と正面から向かい合うのは初めてだ。
隆也はそんなことを考えながら、廉へと身を乗り出した。

【続く】
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