退廃5

【だってゴミだから】

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
隆也は仕事用の笑顔で来客を迎え入れた。
来客は隆也もよく知っている2人の男女だ。
2人とも隆也を見て、懐かしさに顔を綻ばせる。
だがすぐに硬い表情を崩さない隆也を見て、困惑していた。

今日は久しぶりに廉は自宅にいた。
というより今日の来客のために、そうしたのだろう。
廉の仕事場は主に3つ。
この群馬の三星学園の理事長室、そして東京都内に事務所という名目でマンションを借りている。
そして埼玉の自宅-高校時代から住んでいるこの家だ。

秘書の叶とボディガードの織田は、いつも廉に同行している。
群馬か東京へ行く場合、廉は織田の運転する車で移動する。
だけど隆也の仕事の名目は、埼玉の家の管理。
廉と同行することは許されていない。

だから執事として廉に仕えているのに、隆也は廉の仕事の内容をほとんど知らない。
廉に聞いても「隆也は知らなくていいよ」と言われてしまう。
秘書の叶とボディガードの織田に聞いても「廉様に口止めされている」と答える。

隆也が廉に仕えることになったとき、廉は「裏の仕事」だと言った。
それはどうやら日本の政治や経済に関わるようなことらしい。
隆也にもそれくらいのことはわかった。
たまにこの家には、隆也も顔を知っている政治家や大企業の取締役などが来るからだ。
その場合も廉は常に上座に位置し、相手の話を聞いていた。
廉は政財界の間に大きな人脈を持っているということだ。
だが決して表に出ることなく、暗躍している。
莫大な資産があるのも、どうやらそういうことなのだろう。


「お客様がお見えになりました。」
隆也は廉の仕事部屋-廉の両親の寝室だった部屋のドアをノックしながら、声をかけた。
ドアの向こうから「どうぞ」と声がする。
隆也は「失礼します」と言いながらドアを開け、2人の客を招き入れた。

「お久しぶりです。志賀先生。百枝監督。」
廉は立ち上がり、挨拶の言葉を口にした後、かすかに微笑した。
珍しいことだ、と隆也は思う。
大企業の会長や現役の閣僚が来たときですら、廉は座ったままだった。
表情を決して崩さず、相手が挨拶してくるまで決して口を開かなかったのに。

「本当に久しぶりだね。」
来客の1人-志賀が慌てたようにそう言った。
普段の廉を見慣れている者なら、随分気を許した反応だと思う。
だが志賀と百枝は、戸惑っているようだ。
隆也といい、廉といい、高校時代とは雰囲気が全然違うように見えるのだろう。

「三橋君も阿部君も、すっかり貫禄がついたね。」
気を取り直した百枝が、明るい声で言った。
その声を聞いて、隆也も少しだけ明るい気分になる。
百枝は何も変わっていない。
明るくて前向きで元気いっぱいの女性監督だ。
百枝を見ていると、あの頃の懐かしい日々を思い出す。

隆也はそんな思いを断ち切るように、黙って頭を下げると部屋を出た。
かつての教師も監督も関係ない。
廉の客人をもてなすために、茶の支度をしなければならない。


「お前たちは下がっていいよ。」
廉は自分の背後にひかえる叶と織田に声をかけた。
織田が一瞬考える表情になったが、すぐに「いいえ」と首を振った。
ボディガードである織田は、廉を守るのが仕事。
客人と廉だけを部屋に残すことなどできない。

「あら、あなた方は三星の?」
百枝が叶と織田を見て、驚きの声を上げた。
かつて西浦高校と三星学園は試合をしたことがある。
廉や隆也かもちろん、叶と織田もその試合に出場しているのだ。

「投手の叶君、と4番の織田君、よね。立派になったね。」
そう言って笑う百枝に、叶と織田は顔を見合わせる。
だが表情を変えないまま、百枝と志賀に頭を下げた。
彼らも廉や隆也と同様、運命を変えられた者たちだ。

あの火事の前、三橋家はまだ廉の祖父が当主だった。
だがいずれは廉の叔父がその後を継ぐはずだった。
廉の父親はかつて駆け落ちという形で、当主争いから降りた。

そしてその次は廉か従兄弟の瑠里か琉だ。
だが廉の可能性はほぼないと誰もが思っていた。
廉の父親が脱落しているし、廉本人が気弱な演技をし続け、高校入学の時に三星から逃げたからだ。
叶は廉たちの代の誰かが三橋家の当主になったとき、側近になる者と幼少の頃から決められていた。
そして高校のとき、同じく側近になる者として呼ばれたのが織田だ。
叶も織田も自分が仕えるのは瑠璃か琉だし、ずっと先のことだと思っていたはずだ。

「お茶をお持ちしました。」
「隆也がいるから大丈夫。2人とも下がって。」
隆也が紅茶のポットと茶菓子を載せたワゴンを押しながら戻ってきた。
それを見た廉がきっぱりとした口調で、叶と織田に命令を下す。
その瞬間、志賀と百枝の顔が緊張したのを、隆也は見逃さなかった。
ここにいる三橋廉は、高校時代の彼とは別人なのだとはっきりと感じさせる声だった。


「今年の野球部はどうですか?」
廉はよどみない声でそう聞いた。
その口調もまた百枝と志賀を困惑させているようだ。
だが廉はそんなことなど気付かない素振りで、隆也の淹れた紅茶を口に運ぶ。
隆也もまた感情をまったく表に出すこともなく、壁際に立ってひかえている。

「そうね。今年もいい選手がたくさん入部してくれたわ。」
「面白い投手が入部したんだ。2人にも見てもらえないかと思って。」
百枝と志賀が明るい表情で、そう答える。
残念ながら、廉と隆也が野球部とかかわることはもうない。
廉はもう政財界の裏に暗躍する闇の社会の人間で、隆也はその執事なのだから。
明るい表の世界に出て行くことは出来ないのだ。

ここでそれを言っても仕方がない。
廉は曖昧に「そうですね。時間ができればいつか」と答えた。
だが百枝と志賀には、廉も隆也も野球部に出向く意思がないことがわかっただろう。
4人の間に微妙な沈黙が落ちる。

「阿部も座ったら?いろいろと思い出話もしたいし。」
「申し訳ありません。当家の使用人は主のお客様の前には座りません。」
重くなった雰囲気を取り払うように、志賀が口を挟んだ。
だが廉がバッサリと切り捨てるような口調で、言い放った。
その場の空気がますます重苦しいものに変わってしまった。

「実はお願いがあって来たの。」
百枝が沈黙を破るように、切り出した。
来たか。隆也はその言葉にがっかりする。
ただ単にいい投手が入ったから見に来て欲しい。
そんな話だけだったら、どんなによかったのか。
多分廉もそう思っているはずだ。
どうかこの先を言ってくれるなと。


「実は。。。野球部に寄付をお願いできないかと思って。」
ついに百枝が来訪の本当の目的を言った。
隆也は内心のため息を隠して、冷静な執事の表情のままだ。
だが廉の表情ははっきりと変化した。
拭き取ったように微笑が消えて、冷たい表情に。

「部員も増えて私のバイト代だけではもう苦しくて。」
「みんなにいい環境で、野球をさせたいんだ。」
百枝と志賀が、まるで何かに言い訳するように言い募った。
あまりにも急激に変化した廉の表情に動揺したのだろう。
無理もないことだと、隆也は思う。
何せこう見えても廉は、裏世界に君臨する実力者なのだ。
その片鱗を漂わされたら、普通の人間は絶対に怖気づく。

廉は不意に立ち上がると、無言のまま室内にある仕事用のデスクに歩いていく。
そして引き出しを開けて、中から細長いノートのようなものを取り出した。
立っている隆也にはそれが何だかわかった。小切手帳だ。
廉はポケットからペンを出すと、サラサラと小切手帳に金額とサインを書き入れる。
小切手を1枚切って、小切手帳とペンをしまって、また椅子に戻る動作はよどみない。
一同はただ黙って、廉の挙動を見ていた。

「これを」
廉は志賀と百枝に、金額とサインを入れたばかりの小切手をかざして見せた。
壁際に立っている隆也には、その金額は見えない。
だが志賀と百枝の表情から、かなりの金額が書き込まれているのだということがわかる。

廉はそれを手の中でクシャリと握りつぶすと、足元に落とした。
百枝は驚いて息を呑み、志賀が「何をするんだ!」と咎めるように声を荒げた。


「だってゴミだから」
廉はポツリとそう言って笑う。
その笑顔は、百枝も志賀も隆也さえも思わず寒気を感じるほどの冷たさだ。

「オレにとってはゴミ。いらない金です。必要なら拾ってください。」
廉は挑むようにそう言った。
隆也にはその気持ちがよくわかった。
廉の中では野球部はまだ自分が綺麗だった頃の大事な思い出だった。
だが百枝と志賀に金の話をされた瞬間、変わってしまったのだ。
野球部に、廉が動かす闇の社会の金がからむ。
それは廉と隆也にとって、大事なものが壊れた瞬間だった。

百枝が四つんばいに這いずって、廉の足元の小切手を拾った。
そして廉を睨みつけると「ありがとう」と皮肉っぽい口調で告げた。
さすがに頭にきたのだろう。
百枝と志賀は単に廉が莫大な財産を引き継いだことしか知らない。
寄付の依頼が廉と隆也にどれほどの慟哭を与えたかなど知る由もなかった。
だから金によって廉は変わってしまったのだと思った。
かつての恩師に小切手を拾わせるなんていう無礼を働くほどに。

「税務監査が入らないように手配しておきます。」
廉は冷ややかに言った。
税務署が興味を持ってしまうほど、高額なのだろう。

「足りないようでしたら、今後は秘書の叶に連絡してください。」
「いえ、充分いただきました。もうお願いに来ることはありません。」
答える百枝の口調も冷ややかだった。
結局百枝と志賀は、隆也の淹れた茶に口をつけることもなく帰っていった。


「隆也の帰る場所も壊しちゃったね。」
百枝と志賀が去った部屋で、廉がポツリと呟いた。
隆也が執事になってから初めて聞く廉の弱音だった。

「私のことは気にする必要はありません。」
「オレはことわるべきだったかな。」
「それはそれで気まずくなったと思いますが。」
隆也は冷静にそう答えた。

元々帰る場所などありはしない。
10年という期限付きの執事だが、その任期が終わったとしても。
もう隆也は元には戻れないだろう。
自分の両親やかつての恩師が廉の持つ金に媚びへつらう姿は、絶対に忘れられない。
隆也の世界は、廉を中心にして醜い欲で歪んでしまった。

「野球部は最後の拠り所だったんだ。オレの金で汚れて欲しくなかった。」
「廉様」
「おかげでもう失うものがなくなった。決心がついたよ。」
廉はそう言って、笑った。
先程百枝たちに見せた笑顔の比ではない。
もっと凄絶で、見る者の心を芯から凍らせるような冷たい笑み。

「オレは当主としてしなければいけないことがあるんだ。それをする。」
「何ですか?」
「隆也は知らなくていい。叶と織田を呼んで。」
廉はそう言い放つと、仕事用のデスクに座って書類に目を落とす。
隆也は壁のインターフォンで叶と織田に声をかけると、廉の仕事部屋を出た。
廉が知らなくていいというなら、聞かない。
隆也はただ廉の傍で、見守っていればいいのだから。

【続く】
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