甘やか5

【ねぇ…】

「お前、どういうことだよ!」
元チームメイトが阿部の胸倉を掴んで、ねじ上げる。
慌ててかつての主将が2人の間に割って入った。
だが阿部は目の前に繰り広げられる騒動を、どこか他人事のように見ていた。

今日は「同期会」と称して、飲み会が開催されていた。
西浦高校野球部の初代メンバー、つまり阿部たちの学年が集まっている。
場所は埼玉の某所の居酒屋の畳敷きの個室だ。

出席率は異様に高かった。
来ていないのはエースだった三橋廉と、マネージャーの篠岡千代だけだ。
その他の元部員9名は全員集まっている。
特筆するべきは田島だ。
現在プロ野球選手として活躍する彼までもが、駆け付けてきたのだ。

この飲み会は実はかなり前から予定されていたものだ。
だが元々は阿部と篠岡の婚約祝いのためだった。
このときまでに結婚の時期を決めて、発表するつもりでいた。

だが直前になって、ガラリと事情が変わった。
阿部と篠岡は婚約を破棄したこと。
そしてずっと行方がわからなかった三橋と偶然の再会を果たしたこと。
阿部がかつてのチームメイトたちにそれを伝える会になった。


「お前、どういうことだよ!」
元チームメイトが阿部の胸倉を掴んで、ねじ上げる。
阿部と篠岡が付き合い始めたと知った時、誰よりも喜んでくれた水谷だ。

慌ててかつての主将、花井が2人の間に割って入った。
他の部員たちは困惑しているようだが、場の空気は阿部を責めるような雰囲気だ。
だが阿部は目の前に繰り広げられる騒動を、どこか他人事のように見ていた。

水谷たちが納得できない気持ちはよくわかる。
何しろ三橋のことも、篠岡のことも、細かいことを何も話していない。
三橋は罪を犯したわけではないが、現在まだ捜査が続く事件の関係者だ。
だから警察官である阿部は、再会した状況を話すわけにはいかない。
そして篠岡との婚約を破棄した経緯もまた話せる状況ではなかった。
篠岡が幼い三橋の娘を殺そうとしたなんて、言える訳がない。

三橋が釈放された後、三橋を連れて自宅に戻った阿部は衝撃の光景を目にした。
篠岡が瑠里の上に馬乗りになって、首を絞め上げていたのだ。
彼女は完全に錯乱状態で「この子さえいなければ幸せになれる」と叫んだ。
阿部は部屋に飛び込むと、篠岡を引き剥がした。
瑠里がグッタリしていたので焦ったが、三橋が抱き起こすと瑠里は咳き込みながら目を開けた。

かろうじて瑠里は息を吹き返したが、首にはくっきりと篠岡の指の痕が残った。
阿部は念のために「病院に行こう」と言ったが、三橋は首を振った。
病院に行けば、首を絞められたのだとすぐにわかるだろう。
そうすれば絶対に誰がということになる。
下手をすれば、篠岡が逮捕されるという事態になりかねない。
三橋は無言のうちにそれを察して、病院に行かないと決めたのだ。

「預かってくれてありがとう」
三橋はそれだけ言うと、瑠里を抱いて出て行った。
阿部が篠岡との婚約を破棄することを決めたのは、その直後のことだ。


「ねぇ…ちょっといいかな」
何となく険悪な雰囲気の中で、口を開いたのは隣に座るかつての副主将仲間だった。
個室の中は沈黙しており、栄口の静かな声だけが響く。

「阿部はさ、本当はずっと三橋が好きだったんだろ?」
栄口はそう言うと、じっと阿部を見た。
阿部は驚きで、言葉が出なかった。
三橋への想いは、高校の頃から誰にも話したことがない。
それを言い当てられたことも、そして誰も驚いていないこともショックだった。

「みんな気付いてたつーの」
阿部の顔色を読んだのだろう。
今度は阿部の正面に座る泉がツッコミを入れ、その隣の田島が頷く。
阿部は諦めて「ああ」と頷いた。
三橋は泉や田島だけでなく、みんなの弟のような存在だった。
みんなが気にかけていたとしても、不思議ではない。

「三橋と再会して、篠岡との婚約破棄。つまり、そういうことなんだろう?」
再び栄口が話を戻した。
同じタイミングで起きた2つの出来事を、全員が関連付けて考えている。
阿部の恋心が見抜かれていたとしたら、当然のことだろう。

篠岡だってきっと見抜いていた。
阿部が三橋への想いを捨てきれなかったことを。
だから面立ちが三橋によく似た娘を見たとき、堪えていた思いが吹き出したのだ。

「オレが全部悪い。」
阿部は短くそう言うと、ジョッキに半分ほど残っていたビールを口の中に流し込んだ。
それ以上言うべきことはもうないのだ。
篠岡に対してできることは、彼女の罪をビールと一緒に飲み込んで誰にも言わないことだけだ。

「せめて三橋のことは、幸せにしてやれよ」
また重く沈黙してしまった空気を破るように、田島が言った。
いつもの田島らしからぬ静かな口調だ。
だが阿部は答えられなかった。
自分が三橋にできることが何なのか、まだ判断がつかなかったからだ。


「ここかよ!」
阿部は思わず悪態をついた。
それくらい古くてみすぼらしい建物だったからだ。

阿部は非番の日を利用して、ある場所へと来ていた。
ここは三橋の住んでいるアパートだ。
三橋の事情聴取をしたときに、調書に書かれていた住所だった。

三橋には阿部の名刺を渡していた。
何かあったら力になるから、連絡して欲しいとも伝えた。
だが三橋からは何の連絡もない。

そもそも何か話があるようだったら、とっくに連絡してきていたはずだ。
阿部は高校の頃から、携帯の番号もアドレスも変えていないのだ。
もしかしたら三橋から連絡があるかもしれないと思うと、変えられなかったのだ。
一向に音沙汰がないのは、三橋が阿部に頼るつもりがないからだろう。

それでも阿部はこうして三橋の住まいを訪ねてきた。
三橋の家は阿部や三橋よりの年齢よりも築年数が長そうな2階建てのアパートだった。
外壁も薄汚れており、手入れが行き届いていないのも明らかだ。
三橋は娘のために徹底して倹約していたようだ。

三橋の部屋は202号室と書いてある。
阿部はギシギシときしむ鉄製の外階段を昇った。
1階、2階とも部屋は5室で、三橋の部屋は奥から2番目だ。
その通りに202という表示板の下に「三橋」と手書きで書かれた紙が貼ってあった。

部屋のドアの前に立った阿部はドアチャイムを捜したが、どうやらないようだ。
ドアをノックしようと拳を上げた瞬間、部屋の中から話し声がする。
阿部は拳を中空に上げたまま静止し、じっと耳を澄ませた。


『まったく警察に逮捕されるなんて』
『逮捕じゃないよ。お母さん。事情聴取。』
中年の女性の声に、三橋の声が答えている。
どうやら女性は三橋の母親のようだ。

『もういいかげん家に帰ってきなさい。もう群馬でも許してくれると思うわよ。』
『許す、許さないじゃないよ。ジイちゃんは瑠里を嫌ってるから。傷つけたくない。』
『それはそうだけど』
『いいんだ。あの子が大人になるまでは、オレ、頑張るんだ』

阿部は小さくため息をついた。
三橋は実の親の援助さえことわって、瑠里を育てているようだ。
他人の阿部に入る余地など、ないではないか。

『でもね、お父さんもお母さんも心配なのよ。廉だって早くイイ人を見つけて結婚とか』
『オレには、瑠里がいるから』
『廉が瑠里ちゃんを大事に思ってるのはわかるけど、本当の子供を持って欲しいのよ』
『血はつながってなくても、瑠里はオレの娘だよ』

本当の子供を持って欲しい。
血はつながってなくても。
阿部はその言葉の意味に気付いて、愕然とした。
つまりあの小さな少女は、三橋の実の娘ではないということだ。

『ねぇ…廉。瑠里ちゃんがかわいいのはわかるけど、あなたが幸せにならないとダメよ。』
『わかってるよ。ありがとう。』

母と息子の会話が途切れたところで、阿部はついにコンコンとドアをノックした。
三橋のためにできること。
おぼろげながらその方法が見えてきたような気がした。

【続く】
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