甘やか5
【笑って】
「お腹、空いてない?」
千代は目の前の少女にそう問いかけた。
だけど少女は何も答えない。
不思議そうな表情で、じっと千代を見返している。
先程からずっとこの調子で、千代はほとほと困り果てていた。
篠岡千代は高校の同級生だった阿部隆也と付き合っている。
上っ面だけ見たら、交際は順調と言えるだろう。
双方の両親に挨拶をしたし、先月から一緒に住んでいる。
はっきりとプロポーズされたわけではないが、何となくそろそろ結婚かという感じだ。
千代は結婚したら仕事を辞めて、家庭に入りたいと思っている。
阿部はそこにあまりこだわりはないようで、好きにしたらいいと言っている。
これだけ聞いたら、誰でも阿部と千代のことを幸せなカップルだと思うだろう。
だが千代はどこか満たされない気持ちだった。
阿部は千代のことを好きでいてくれることは間違いないと思う。
だが愛しているかと考えると甚だ疑問だ。
阿部は高校のときに消えてしまったエースのことを想っている。
そして今も阿部の心の奥底で、彼の面影は消えていない。
ひょっとすると彼以外の事はどうでもいいとさえ思っているのかもしれない。
高校の時から阿部を見つめていた千代にはよくわかった。
それでも阿部が好きで、千代は全てを受け入れた。
というよりむしろ、阿部の心の隙間に付け入るように近づいたのだ。
何度も食事などに誘い、三橋の思い出などを話した。
マネージャーであった千代の視点で語る彼の話は、阿部を楽しませたようだ。
2人が付き合うようになったのは、その末のことだ。
「この子を見ててくれないか?」
朝、会社に出勤しようとしていた千代は、急に帰ってきた阿部に驚いた。
警察官である阿部は昨晩から夜勤で、早くても夕方までは戻らないと聞いていたのに。
しかも阿部は、小さな少女を連れていた。
「どこの子?」
千代は当然、そう聞いた。
正直言って面倒だと思った。
子供は決して嫌いではないが、いきなり知らない子供を預かるのは抵抗がある。
何よりも会社を休まなくてはならない。
仕事だって溜まっているのに。
だが阿部の職業柄、事件の関係者の子供を預かることはあるのかもしれない。
ここは理解がある恋人を演じようと思った。
だが阿部の答えを聞いた千代は、さらに驚愕することになった。
「三橋の娘だ」
阿部は短くそう答えた。
そして三橋が現在警察に拘留されていることと、少女の名前が「ルリ」であることを告げた。
どうやらこの少女のことを千代に任せるために、仕事を一時的に抜けただけらしい。
千代に「頼む」と言い残して、阿部はすぐにまた署に戻っていった。
少女と2人、取り残された千代は途方に暮れた。
三橋の娘は、よく見ると確かに三橋によく似ていた。
千代はそのことに言いようもない不安な気持ちになった。
ようやく手に入れたと思っていた阿部が、また三橋に取られる。
そんな風にしか思えなかったのだ。
「レンちゃんはどうやら『シロ』だ。よかったな、阿部」
職場に戻った阿部は、先輩刑事にそう言われてホッと胸を撫で下ろした。
三橋が同じ高校だったことを報告したことで、阿部は事情聴取から外されたのだ。
三橋がナンバーワンとして勤めていた店は、実は違法行為の温床だった。
銃器、薬物、そして人間が売買されている。
実は三橋自身もそんな商品の1つだったのだ。
売れっ子として稼ぐうちは「非売品」でいられるが、人気がなくなれば売り飛ばされてしまう。
性的な奴隷にされるのか、強制労働させられるか、臓器として売買されるか。
いずれにしても悲惨な末路が待っている。
だが三橋本人はそんなことはまったく知らなかったらしい。
夜の仕事なら昼間は娘と過ごせるし、とにかく給料がいい。
そんな安易な理由から、三橋はあの店で働いていた。
店の摘発まで無事でいられたのは、売れっ子として稼いでいたから。
つまり偶然によるところが大きい。
店が摘発された後、身柄を拘束された三橋は、阿部に頼みごとをした。
三橋はアパートで娘と2人暮らしをしている。
自宅に1人でいるその娘を保護して欲しい。
阿部はその頼みを聞き届け、早朝三橋のアパートにいた娘を迎えに行った。
そして自分と同居している篠岡千代に三橋の娘を預けて、急いで署に戻ってきた。
その時には三橋本人の罪状への聴取はひとまず終了しており、三橋の嫌疑はほぼ晴れていた。
ただ店の違法行為に関する証言は必要で、三橋はまだ帰れない。
それでも三橋が潔白であることから、阿部が聴取に立ち会うことは許可された。
「ヤバい店かな、とは思ったんだ。給料がやたらいいから。」
取調室で阿部と向かい合った三橋は、そう言った。
三橋は最初は強張った表情だったが、娘を保護したと聞いて穏やかになった。
「金が必要だったのか?でもお前んちのじーちゃん、金持ちだろ?」
「じーちゃんは、瑠里が嫌いなんだ。」
三橋はポツリとそう言うと、寂しそうに笑っている。
すでにドレスからジャージに着替えて、メイクも落としている。
艶やかな装いを脱ぎ捨てた三橋は、高校生の頃とほとんど変わっていないように見えた。
三橋の従姉妹である「瑠里」は子供を出産する時に、亡くなった。
彼女は周囲に妊娠を隠していたので、妊娠初期の検診など一切を受けていなかったのだ。
そのせいで寿命を縮めてしまった可能性は高い。
三橋の祖父母も叔父夫婦もどうしても「瑠里」が産んだ子供に殺されたような気がするらしい。
生まれてきた命を愛して欲しくて、三橋は赤ん坊に母親と同じ「瑠里」という名前をつけた。
だがやはり赤ん坊は三橋の一族からは愛されなかった。
「じーちゃん、子供を養女に出すって言い出したんだ。」
「それで三橋が家を出て、育ててるのか?」
「うん。だからお金、いっぱい欲しいんだ。瑠里を幸せにしたい」
三橋はまた寂しそうに笑っている。
阿部はその笑顔に、胸が締め付けられる気がした。
三橋と娘にしてやれることはないのだろうか?
阿部は心の底からそう思った。
短い言葉で今までの人生を淡々と語る三橋が愛おしい。
このまま取調べが終わって別れてしまうことなど、考えられなかった。
ちっとも笑ってくれない。
千代は完全に「瑠里」を持て余していた。
少女はとにかく千代に懐かなかった。
阿部が連れてきた時には、それなりに楽しそうに話をしていた。
だが千代と2人きりになった途端、少女は黙り込んでしまった。
部屋のすみで膝を抱えて座ったきり、動こうともしない。
本やDVDを見せても、少女はほとんど興味を示さなかった。
そもそもこういう事態は想定外なので、子供向けのものではないせいかもしれない。
だが食事を用意しても、口をつけることもしなかった。
小さな少女に見下されているような気がして、千代は不愉快だった。
「ねぇ、ちょっとでいいから食べない?そんなに不味くないと思うよ?」
「ありがとう」
少女は短く礼を言ったが、やはり箸を取ることはなかった。
千代は高校時代から野球部で、おにぎりだの何だのと食事の用意をすることは多かった。
料理の腕にもそれなりに自信がある。
なのに何の興味も示されないのは、屈辱だ。
「お腹すいてない?それとも具合が悪いのかな?」
「私、嫌われてるから。迷惑、かけたくない。」
少女は子供らしからぬ口調でそう答えて、寂しそうに笑っている。
千代にはその言い回しに覚えがあった。
高校に入ったばかりの三橋だ。
エースのくせにオドオドと卑屈で「迷惑」だとか「嫌われる」などと繰り返していた。
この子は三橋だ。
せっかく阿部を手に入れたのに、こうしてまた割り込んでくる。
そう思った瞬間、千代は少女を押し倒した。
馬乗りになって、細い首に手をかけて、締め上げる。
こんなことはいけない、とどこかで冷静な声がする。
だけど千代は腕の力を緩めなかった。
この子さえいなければ幸せになれる。
そんな短絡的な考えに酔った千代は笑っていた。
【続く】
「お腹、空いてない?」
千代は目の前の少女にそう問いかけた。
だけど少女は何も答えない。
不思議そうな表情で、じっと千代を見返している。
先程からずっとこの調子で、千代はほとほと困り果てていた。
篠岡千代は高校の同級生だった阿部隆也と付き合っている。
上っ面だけ見たら、交際は順調と言えるだろう。
双方の両親に挨拶をしたし、先月から一緒に住んでいる。
はっきりとプロポーズされたわけではないが、何となくそろそろ結婚かという感じだ。
千代は結婚したら仕事を辞めて、家庭に入りたいと思っている。
阿部はそこにあまりこだわりはないようで、好きにしたらいいと言っている。
これだけ聞いたら、誰でも阿部と千代のことを幸せなカップルだと思うだろう。
だが千代はどこか満たされない気持ちだった。
阿部は千代のことを好きでいてくれることは間違いないと思う。
だが愛しているかと考えると甚だ疑問だ。
阿部は高校のときに消えてしまったエースのことを想っている。
そして今も阿部の心の奥底で、彼の面影は消えていない。
ひょっとすると彼以外の事はどうでもいいとさえ思っているのかもしれない。
高校の時から阿部を見つめていた千代にはよくわかった。
それでも阿部が好きで、千代は全てを受け入れた。
というよりむしろ、阿部の心の隙間に付け入るように近づいたのだ。
何度も食事などに誘い、三橋の思い出などを話した。
マネージャーであった千代の視点で語る彼の話は、阿部を楽しませたようだ。
2人が付き合うようになったのは、その末のことだ。
「この子を見ててくれないか?」
朝、会社に出勤しようとしていた千代は、急に帰ってきた阿部に驚いた。
警察官である阿部は昨晩から夜勤で、早くても夕方までは戻らないと聞いていたのに。
しかも阿部は、小さな少女を連れていた。
「どこの子?」
千代は当然、そう聞いた。
正直言って面倒だと思った。
子供は決して嫌いではないが、いきなり知らない子供を預かるのは抵抗がある。
何よりも会社を休まなくてはならない。
仕事だって溜まっているのに。
だが阿部の職業柄、事件の関係者の子供を預かることはあるのかもしれない。
ここは理解がある恋人を演じようと思った。
だが阿部の答えを聞いた千代は、さらに驚愕することになった。
「三橋の娘だ」
阿部は短くそう答えた。
そして三橋が現在警察に拘留されていることと、少女の名前が「ルリ」であることを告げた。
どうやらこの少女のことを千代に任せるために、仕事を一時的に抜けただけらしい。
千代に「頼む」と言い残して、阿部はすぐにまた署に戻っていった。
少女と2人、取り残された千代は途方に暮れた。
三橋の娘は、よく見ると確かに三橋によく似ていた。
千代はそのことに言いようもない不安な気持ちになった。
ようやく手に入れたと思っていた阿部が、また三橋に取られる。
そんな風にしか思えなかったのだ。
「レンちゃんはどうやら『シロ』だ。よかったな、阿部」
職場に戻った阿部は、先輩刑事にそう言われてホッと胸を撫で下ろした。
三橋が同じ高校だったことを報告したことで、阿部は事情聴取から外されたのだ。
三橋がナンバーワンとして勤めていた店は、実は違法行為の温床だった。
銃器、薬物、そして人間が売買されている。
実は三橋自身もそんな商品の1つだったのだ。
売れっ子として稼ぐうちは「非売品」でいられるが、人気がなくなれば売り飛ばされてしまう。
性的な奴隷にされるのか、強制労働させられるか、臓器として売買されるか。
いずれにしても悲惨な末路が待っている。
だが三橋本人はそんなことはまったく知らなかったらしい。
夜の仕事なら昼間は娘と過ごせるし、とにかく給料がいい。
そんな安易な理由から、三橋はあの店で働いていた。
店の摘発まで無事でいられたのは、売れっ子として稼いでいたから。
つまり偶然によるところが大きい。
店が摘発された後、身柄を拘束された三橋は、阿部に頼みごとをした。
三橋はアパートで娘と2人暮らしをしている。
自宅に1人でいるその娘を保護して欲しい。
阿部はその頼みを聞き届け、早朝三橋のアパートにいた娘を迎えに行った。
そして自分と同居している篠岡千代に三橋の娘を預けて、急いで署に戻ってきた。
その時には三橋本人の罪状への聴取はひとまず終了しており、三橋の嫌疑はほぼ晴れていた。
ただ店の違法行為に関する証言は必要で、三橋はまだ帰れない。
それでも三橋が潔白であることから、阿部が聴取に立ち会うことは許可された。
「ヤバい店かな、とは思ったんだ。給料がやたらいいから。」
取調室で阿部と向かい合った三橋は、そう言った。
三橋は最初は強張った表情だったが、娘を保護したと聞いて穏やかになった。
「金が必要だったのか?でもお前んちのじーちゃん、金持ちだろ?」
「じーちゃんは、瑠里が嫌いなんだ。」
三橋はポツリとそう言うと、寂しそうに笑っている。
すでにドレスからジャージに着替えて、メイクも落としている。
艶やかな装いを脱ぎ捨てた三橋は、高校生の頃とほとんど変わっていないように見えた。
三橋の従姉妹である「瑠里」は子供を出産する時に、亡くなった。
彼女は周囲に妊娠を隠していたので、妊娠初期の検診など一切を受けていなかったのだ。
そのせいで寿命を縮めてしまった可能性は高い。
三橋の祖父母も叔父夫婦もどうしても「瑠里」が産んだ子供に殺されたような気がするらしい。
生まれてきた命を愛して欲しくて、三橋は赤ん坊に母親と同じ「瑠里」という名前をつけた。
だがやはり赤ん坊は三橋の一族からは愛されなかった。
「じーちゃん、子供を養女に出すって言い出したんだ。」
「それで三橋が家を出て、育ててるのか?」
「うん。だからお金、いっぱい欲しいんだ。瑠里を幸せにしたい」
三橋はまた寂しそうに笑っている。
阿部はその笑顔に、胸が締め付けられる気がした。
三橋と娘にしてやれることはないのだろうか?
阿部は心の底からそう思った。
短い言葉で今までの人生を淡々と語る三橋が愛おしい。
このまま取調べが終わって別れてしまうことなど、考えられなかった。
ちっとも笑ってくれない。
千代は完全に「瑠里」を持て余していた。
少女はとにかく千代に懐かなかった。
阿部が連れてきた時には、それなりに楽しそうに話をしていた。
だが千代と2人きりになった途端、少女は黙り込んでしまった。
部屋のすみで膝を抱えて座ったきり、動こうともしない。
本やDVDを見せても、少女はほとんど興味を示さなかった。
そもそもこういう事態は想定外なので、子供向けのものではないせいかもしれない。
だが食事を用意しても、口をつけることもしなかった。
小さな少女に見下されているような気がして、千代は不愉快だった。
「ねぇ、ちょっとでいいから食べない?そんなに不味くないと思うよ?」
「ありがとう」
少女は短く礼を言ったが、やはり箸を取ることはなかった。
千代は高校時代から野球部で、おにぎりだの何だのと食事の用意をすることは多かった。
料理の腕にもそれなりに自信がある。
なのに何の興味も示されないのは、屈辱だ。
「お腹すいてない?それとも具合が悪いのかな?」
「私、嫌われてるから。迷惑、かけたくない。」
少女は子供らしからぬ口調でそう答えて、寂しそうに笑っている。
千代にはその言い回しに覚えがあった。
高校に入ったばかりの三橋だ。
エースのくせにオドオドと卑屈で「迷惑」だとか「嫌われる」などと繰り返していた。
この子は三橋だ。
せっかく阿部を手に入れたのに、こうしてまた割り込んでくる。
そう思った瞬間、千代は少女を押し倒した。
馬乗りになって、細い首に手をかけて、締め上げる。
こんなことはいけない、とどこかで冷静な声がする。
だけど千代は腕の力を緩めなかった。
この子さえいなければ幸せになれる。
そんな短絡的な考えに酔った千代は笑っていた。
【続く】