空10題-青空編

【微笑み】

鶏肉を3キロ。
そう言われて、驚いたオレの自分の顎がガクンと落ち、ついでに持っていたメモ帳も落とした。

きっかけは田島だった。
部活の帰りに、三橋を連れ回す田島はそのまま三橋の家でメシを食うことも多いらしい。
三橋んちのカレー、ホントうめーよ!
それは今やもう「ゲンミツに」と並び、田島の口ぐせに近い。

でもさ、カレーって大概美味いよね。
肉と切った野菜を炒めて、煮て、ルーを入れてさらに煮込む。
分量を守ればそうそう失敗はないし、一晩寝かせればさらに美味しい。
カレーが嫌いな人って、まぁかなり少数派だろう。
だけどある日田島が言った次の一言で、オレは「え?」と思った。

オレんちのカレーより、全然うめー!
それはどういう事なんだろう?
専門店のカレーはまぁ別として、いわゆる家庭で作るカレーの話だろ?
そういう場合、だいたいお母さんが作るのが一番って皆言うだろ?
オレの家は母さんがいなくて、よく姉ちゃんがカレーを作ってくれる。
よその家と食べ比べなんて考えたこともないけど、姉ちゃんのカレーは文句なく美味いと思う。

何か極意があるのだろうか?
よく言うよね。隠し味ってやつ。
タマネギを飴色になるまで炒めるっていうのが、多分定番。
あとはリンゴをすりおろして入れるとか、ハチミツだとか、チャツネだとか。
ちなみにうちの姉ちゃんは、チョコレートをひとかけらルーと一緒に入れるんだ。


ねぇねぇ、三橋の家のカレーの作り方を教えてもらえないかな?
週1回のミーティングの後、オレは三橋にそう聞いてみた。
オレの家はお母さんがいない分、家事は父さんと姉ちゃんが頑張っている。
でもオレは部活が忙しくて、あまり協力できないんだ。
たまに部活が休みとか時間があるときに、びっくりするくらい美味しいカレーを作れたら。
そんな軽い気持ちだった。

おかーさん、に、聞いてみる。
三橋はそう言って、携帯電話を取り出した。
おかーさん、仕事、してる、から、急用でなければ、メール、で。
三橋がメールを打ちながら、申し訳なさそうに言った。
オレを待たせるのが悪いと思ったのだろう。
オレは「気にしてないよ」と笑った。

オレは三橋のお母さんっていいなぁと思う。
何かおおらかだし、何よりも度量が広い。
三橋の誕生日のあの日、オレたちに食事を用意してくれた。
普通あれだけの人数がいきなり押しかけたら、嫌な顔の1つもするだろう。
でもやわらかい微笑みで、オレたちをもてなしてくれた。
それに寿司にピザにチキンや食事、飲み物にケーキを10人分。
安くないはずなのに、ケチケチした様子がないのもすごい。
息子である三橋の友人のオレたちを一生懸命もてなしてくれて。
ああいうお母さんってほんとにいいなって思う。

よかったら、今日、どう、ですか、って。今日は、家に、いるから。
意外にも返信はすぐに返ってきたみたいだ。
三橋が携帯の画面をオレに見せながら、言った。
その微笑みに誘われて「行く」と答えたオレは、三橋の家のリビングにいる。


わざわざ教わりに来てくれるなんて、なんか恥ずかしいわぁ。
だって何も特別なことなんて、していないんだもの。
普通に市販のルーを使って、その作り方通りに作るだけなのよ。
三橋のお母さんはそう言って、三橋とよく似た微笑みを浮かべている。
いや逆か。三橋がお母さんに似てるんだよね。

何か特別な隠し味とか技とかってないんですか?
オレはそう聞いてみたけど、三橋のお母さんは「ないわよ」と答えた。
極意を盗んでやろうと、メモ帳を手に身構えていたオレは拍子抜けする。

そんなオレの気持ちがわかっているのか、いないのか。
三橋のお母さんは細長い箱を見せてくれた。カレーのルーだ。
でも聞いたこともない名前とメーカー。
この辺のスーパーじゃ売ってないぞ。

ネットで買うのよ。
オレの顔色を読んだのだろう。
三橋のお母さんはそう言いながら、ノートパソコンの画面を見せてくれた。
それを見て、驚く。
1箱680円。
オレの家はスーパーで売っているオーソドックスなルーを使う。
いつも特売で198円、その3倍以上の値段だ。

これをね、1回で6箱使うの。
そう言われて、オレは目を剥いた。
680円を6箱って、ルーだけで4000円超えるよ!?

だがこれはほんの序の口。
キッチンに案内されたオレは、もう圧倒されっぱなしだった。


お肉はね、1箱につき500グラム。
廉は鶏肉が好きだから、鶏を使うことが多いのよ。
三橋のお母さんが笑顔で言う。それも6倍だよね?

鶏肉を3キロ。
とどめを刺されるようにそう言われて。
驚いたオレの自分の顎がガクンと落ち、ついでに持っていたメモ帳も落とした。
しかも鶏肉のパッケージに「群馬上州地鶏」って書いてある。
多分これもオレの家で買う鶏肉より、随分イイやつなんだろう。
ちなみに帰ってからネットで調べたら、一番安い胸肉で100g350円だった。
3キロだと1万円を超える。

とにかくそんな感じで、三橋家のカレーはすごかった。
ニンジンを12本、ジャガイモとタマネギが18個、水が7200cc。
野菜は田島の家からもらったものがメインだそうで、少しホッとしたのもつかの間。
登場したのは「どこのまかないだ?」ってつっこみたくなるようなデカイ寸胴鍋。
確かに市販のルーを使って、その通りに材料を切って炒めて煮ただけのカレー。
でも値段も量も桁外れで、何かもう浮世離れしたカレーだった。

これで何回分の食事なんですか?
オレは勇気を出して聞いてみた。
まさかいくら三橋といえども、これを1回で食べきるのは無理だろう。
三橋のお母さんが「2回分かな」と笑う。
あのデカイ鍋1杯分を2回?
まぁ三橋の両親だって食べるだろうけど、やはり恐るべし、三橋の胃袋。

前に野球部の子達が来たときは、1度で全部なくなったけどね。
三橋のお母さんが、そう言ってまた笑った。
野球部の子達ってあれかな?
桐青戦の翌日に、花井と阿部と田島と泉が寝込んだ三橋を見舞った日か?
材料費だけで約1万5千円のカレー、あの連中で食ったのか?
花井なんか、値段を知ったら絶対に食えなかったんじゃないか?


煮込んでいる間に、前回作った残りだというカレーをご馳走になった。
文句なしに美味かった。
でも残念だ。こんなカレー、うちでは絶対に作れないよ。

よかったら、持って行って。
寸胴鍋を風呂敷で包もうとしている三橋のお母さんを見て、オレは倒れそうになった。
そして必死に「結構ですから」と必死に断った。
こんな高価なもの、もらえない。
それにそもそも重いし、鍋はまだ熱いし、運べない。
すると三橋のお母さんは「せめて少しだけでも」とタッパーに小分けしてくれている。
申し訳ないけど、ありがたかった。
これなら持って帰れるし、父さんや姉ちゃんや弟にもこの味を食べさせてあげられる。

いつかオレが自分で働いて、給料をもらえるようになったら。
今日のこの味のカレーを、自分で作ってみようと思う。
三橋のお母さんみたいに、楽しそうに微笑みながら作るんだ。
材料と一緒に、大事な人への感謝や愛情をいっぱい入れて。
そうしたらきっとまろやかで美味しいカレーが出来るだろう。

そうしたら父さんや姉ちゃんや弟も喜んでくれるかな。
オレの目の前に座っている三橋みたいに、満面の微笑みで食べてくれると嬉しいな。

【終】
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