恋の歌10
【のんびりと】
「せーのっ」
「おめでとうございます!」
花井の掛け声と共に、かつての部員たちが一斉に唱和した。
この日、阿部と三橋のカフェでは、百枝の結婚記念パーティが催されていた。
出席するのは、百枝とその夫となった元部員、三橋たちの学年の10名、そして篠岡と浜田。
阿部と三橋と篠岡が腕を奮った料理が並ぶ、ささやかだが心がこもったパーティだ。
実は野球部主催のパーティは、もう別に開催されている。
ホテルの宴会場を借り切ったもっとずっと豪華なものだ。
だがそちらのパーティには、同じ学年の部員たちは誰も出なかった。
そしてこうやって小さな別のパーティを行なうことになったのだ。
そんな二度手間をするのには、もちろん理由がある。
阿部と三橋の恋愛が世間にバレた時、西浦高校にも取材のマスコミが押し寄せた。
そのせいで、阿部と三橋は野球部でも微妙な立場なのだ。
だからパーティの幹事である後輩は、阿部と三橋に招待状を出さなかったのだ。
それを知った花井たちは、困惑した。
硬式野球部復活の初代バッテリーが、出席できないなんて。
だけど偏見を持つ者は少なくないし、1人ずつ説得など出来ない。
それに阿部と三橋が好奇の目に晒されるだろう。
何よりも当の阿部と三橋が、出席は諦めている様子だった。
「だったら別にやればいいんじゃねぇ?オレそっちに出るし。」
そう言って、一言で問題を解決したのは我らが4番、田島だった。
田島はさらに「三橋の手料理がいい」などと我侭なことを言い出した。
だが現役のプロ野球選手である田島は、練習やら遠征やら、とにかく時間がない。
かくしてかつての主将である花井が、セッティングをすることになった。
「やっぱり綺麗だよな。モモカン。」
まずはシャンパンで乾杯して、前菜が運ばれる。
三橋がキッチンで丁寧に盛り付けた、目にも美しい料理。
それを阿部がまずは新郎、そして新婦の百枝に配っていた。
花井はシャンパンを口に運びながら、ため息混じりにそう言った。
「まだ諦めてねぇのかよ。」
デリカシーもなく、そう返したのは隣に座る田島だ。
今日はカフェ名物のカジノテーブルの、天板を裏返して普通の大きなテーブルにしている。
そのテーブルを全員が囲む形で座っている。
百枝の希望だった。
せっかくの少人数なのだから、全員の顔を見て、話をしたいと。
田島の発言に、花井は慌てて対角線に座る百枝の方を見た。
百枝は隣に座る篠岡と、何か話し込んでいる。
どうやら田島の言葉は聞かれずにすんだようだ。
「お前、こういう席で、そういうことを言うな!」
花井がほっと腕を撫で下ろした後、田島の頭を軽くペシっと叩いた。
だが当の田島は涼しい顔で「だって、未練がましい顔してんじゃん」と笑う。
花井は「んなわけねぇだろ!」と言いながら、相変わらず鋭い田島の観察眼に内心、苦笑する。
実はまだ花井は、百枝のことが好きだ。
おそらくは百枝も、そのことに気がついていると思う。
でももう百枝は、花井の手の届かない場所に行ってしまった。
だから花井は、今日この場で決着をつけるつもりでいた。
パーティの半ばに、ガラリと形式が変わった。
横に置かれたテーブルに、軽いオードブルやケーキ類が並ぶ。
飲み物は氷入りの銀のバケツにワインやビール、ジュースにミネラルウォーター。
ポットに入った温かいコーヒーと紅茶も置かれた。
前半にがっつりとコース料理が終わっているから、後半はバイキング形式だ。
呑み足りない者は酒とつまみを、甘いものが欲しいものはデザートを自由に取ればいい。
こうすれば前半は給仕に忙しかった阿部と三橋も、談笑に参加できる。
「阿部君、久しぶりね。」
百枝は一段落ついて、席につこうとした阿部を手招きして呼んだ。
そして自分の隣に座らせると、話し始める。
部員たちはしょっちゅう店に顔を出すが、監督業とバイトに忙しい百枝はそうもいかない。
本当に阿部と三橋が百枝に会うのは、久しぶりだった。
「戸籍を分けるって聞いたけど、本当なの?」
百枝が隣に座る阿部にだけ聞こえるように、声を潜める。
阿部はこっそりとため息をついた。
実家で分籍の話をしたことは、三橋にすら話していないのだ。
百枝が知っているということは、間違いなく両親から聞いたのだろう。
幸せ絶頂の百枝を巻き込む両親の無神経さに、阿部は心底ウンザリしたのだ。
「ダメよ。そんな顔。」
百枝は苦笑とともに阿部を諭した。
阿部の心中など、百枝にはお見通しなのだろう。
「阿部君、電話もメールも応答がないって、お母様が心配してらしたのよ。」
「いまさら、ですよ。」
これを機に、最後のつもりで出向いた実家。
そこで話は決裂したのだから、もう何も話すことはない。
もうすぐ水谷と篠岡が、このカフェで結婚式をあげる。
それが済んだら、阿部は分籍の手続きをするつもりだった。
「弟さんたちがしたこと、聞いたわ。ご両親も弟さんも後悔されているみたいよ。」
「オレはもうこれ以上、三橋に傷ついて欲しくない。それだけなんです。」
「わかるわ。でもね、籍を抜く話、三橋君は知ってるの?」
そう問われて、阿部は返答に詰まった。
三橋には言っていない。
言えばきっと反対するだろうから。
三橋には、当面は内緒にしておくつもりだった。
「三橋君が知ったら、きっと悲しむんじゃない?」
「仕方がないです。父や母や弟とは絶対にわかり合えない。むしろ心が離れるばかりで。」
それは阿部の偽らざる本音だった。
本当は三橋とのことをわかって欲しいし、両親も弟も幸せになってほしい。
「のんびりと、でいいんじゃないの?」
黙ってしまった阿部に、百枝は明るい声で言った。
「今回、阿部君と三橋君の覚悟は伝わったと思うよ。これも1つ進んだってことじゃない?」
「進んだ?」
「この先も少しずつ頑張れない?関係を切るのはいつでもできるんだから。」
百枝が静かにそう続けた。
かつての恩師の言葉が、阿部の心に重く響いた。
のんびりと。三橋と2人で。
そうすれば、いつかわかってもらえるのだろうか?
みんなが幸せになれるのだろうか?
「考えてみます。」
阿部はかろうじて、そう答えた。
百枝はニッコリと微笑むと「それがいいわ」と答えた。
「のんびりと、でいいんじゃないの?」
その言葉は、たまたま何か酒とつまみをもらおうとその背後を通った花井の耳にも届いた。
何を話していたのか興味はあったが、話に割り込める雰囲気ではなかった。
多分阿部と三橋の今後のことを話していたのだろう。
のんびりと。
その言葉は、花井の心にストンと落ちてきた。
今日で忘れなくては、あきらめなくてはと思いつめていた。
だが綺麗に着飾った百枝を見て、花井は動揺していた。
今まで未練がましく引きずってきた想いなのだ。
ずっと想ってきた女性の、今まで見た中で一番美しい姿を見せられて、捨てられるはずもない。
でも「のんびりと」ならいいかもしれない。
時の流れに身を任せて、のんびりと。
それなら大丈夫かもしれない。
百枝と、まだ別の物語が始まるまで。
または百枝よりも大事だと思える女性が現れるまで。
焦らずに、のんびりと。
「じゃあ、最後の挨拶、花井~!」
宴もいよいよ終盤に近づいたとき、田島が大きな声で呼ばわった。
花井は「また、オレかよ」と苦笑しながら、立ち上がった。
今はまだ愛してやまない百枝の幸せを、祈ることにしよう。
【続く】
「せーのっ」
「おめでとうございます!」
花井の掛け声と共に、かつての部員たちが一斉に唱和した。
この日、阿部と三橋のカフェでは、百枝の結婚記念パーティが催されていた。
出席するのは、百枝とその夫となった元部員、三橋たちの学年の10名、そして篠岡と浜田。
阿部と三橋と篠岡が腕を奮った料理が並ぶ、ささやかだが心がこもったパーティだ。
実は野球部主催のパーティは、もう別に開催されている。
ホテルの宴会場を借り切ったもっとずっと豪華なものだ。
だがそちらのパーティには、同じ学年の部員たちは誰も出なかった。
そしてこうやって小さな別のパーティを行なうことになったのだ。
そんな二度手間をするのには、もちろん理由がある。
阿部と三橋の恋愛が世間にバレた時、西浦高校にも取材のマスコミが押し寄せた。
そのせいで、阿部と三橋は野球部でも微妙な立場なのだ。
だからパーティの幹事である後輩は、阿部と三橋に招待状を出さなかったのだ。
それを知った花井たちは、困惑した。
硬式野球部復活の初代バッテリーが、出席できないなんて。
だけど偏見を持つ者は少なくないし、1人ずつ説得など出来ない。
それに阿部と三橋が好奇の目に晒されるだろう。
何よりも当の阿部と三橋が、出席は諦めている様子だった。
「だったら別にやればいいんじゃねぇ?オレそっちに出るし。」
そう言って、一言で問題を解決したのは我らが4番、田島だった。
田島はさらに「三橋の手料理がいい」などと我侭なことを言い出した。
だが現役のプロ野球選手である田島は、練習やら遠征やら、とにかく時間がない。
かくしてかつての主将である花井が、セッティングをすることになった。
「やっぱり綺麗だよな。モモカン。」
まずはシャンパンで乾杯して、前菜が運ばれる。
三橋がキッチンで丁寧に盛り付けた、目にも美しい料理。
それを阿部がまずは新郎、そして新婦の百枝に配っていた。
花井はシャンパンを口に運びながら、ため息混じりにそう言った。
「まだ諦めてねぇのかよ。」
デリカシーもなく、そう返したのは隣に座る田島だ。
今日はカフェ名物のカジノテーブルの、天板を裏返して普通の大きなテーブルにしている。
そのテーブルを全員が囲む形で座っている。
百枝の希望だった。
せっかくの少人数なのだから、全員の顔を見て、話をしたいと。
田島の発言に、花井は慌てて対角線に座る百枝の方を見た。
百枝は隣に座る篠岡と、何か話し込んでいる。
どうやら田島の言葉は聞かれずにすんだようだ。
「お前、こういう席で、そういうことを言うな!」
花井がほっと腕を撫で下ろした後、田島の頭を軽くペシっと叩いた。
だが当の田島は涼しい顔で「だって、未練がましい顔してんじゃん」と笑う。
花井は「んなわけねぇだろ!」と言いながら、相変わらず鋭い田島の観察眼に内心、苦笑する。
実はまだ花井は、百枝のことが好きだ。
おそらくは百枝も、そのことに気がついていると思う。
でももう百枝は、花井の手の届かない場所に行ってしまった。
だから花井は、今日この場で決着をつけるつもりでいた。
パーティの半ばに、ガラリと形式が変わった。
横に置かれたテーブルに、軽いオードブルやケーキ類が並ぶ。
飲み物は氷入りの銀のバケツにワインやビール、ジュースにミネラルウォーター。
ポットに入った温かいコーヒーと紅茶も置かれた。
前半にがっつりとコース料理が終わっているから、後半はバイキング形式だ。
呑み足りない者は酒とつまみを、甘いものが欲しいものはデザートを自由に取ればいい。
こうすれば前半は給仕に忙しかった阿部と三橋も、談笑に参加できる。
「阿部君、久しぶりね。」
百枝は一段落ついて、席につこうとした阿部を手招きして呼んだ。
そして自分の隣に座らせると、話し始める。
部員たちはしょっちゅう店に顔を出すが、監督業とバイトに忙しい百枝はそうもいかない。
本当に阿部と三橋が百枝に会うのは、久しぶりだった。
「戸籍を分けるって聞いたけど、本当なの?」
百枝が隣に座る阿部にだけ聞こえるように、声を潜める。
阿部はこっそりとため息をついた。
実家で分籍の話をしたことは、三橋にすら話していないのだ。
百枝が知っているということは、間違いなく両親から聞いたのだろう。
幸せ絶頂の百枝を巻き込む両親の無神経さに、阿部は心底ウンザリしたのだ。
「ダメよ。そんな顔。」
百枝は苦笑とともに阿部を諭した。
阿部の心中など、百枝にはお見通しなのだろう。
「阿部君、電話もメールも応答がないって、お母様が心配してらしたのよ。」
「いまさら、ですよ。」
これを機に、最後のつもりで出向いた実家。
そこで話は決裂したのだから、もう何も話すことはない。
もうすぐ水谷と篠岡が、このカフェで結婚式をあげる。
それが済んだら、阿部は分籍の手続きをするつもりだった。
「弟さんたちがしたこと、聞いたわ。ご両親も弟さんも後悔されているみたいよ。」
「オレはもうこれ以上、三橋に傷ついて欲しくない。それだけなんです。」
「わかるわ。でもね、籍を抜く話、三橋君は知ってるの?」
そう問われて、阿部は返答に詰まった。
三橋には言っていない。
言えばきっと反対するだろうから。
三橋には、当面は内緒にしておくつもりだった。
「三橋君が知ったら、きっと悲しむんじゃない?」
「仕方がないです。父や母や弟とは絶対にわかり合えない。むしろ心が離れるばかりで。」
それは阿部の偽らざる本音だった。
本当は三橋とのことをわかって欲しいし、両親も弟も幸せになってほしい。
「のんびりと、でいいんじゃないの?」
黙ってしまった阿部に、百枝は明るい声で言った。
「今回、阿部君と三橋君の覚悟は伝わったと思うよ。これも1つ進んだってことじゃない?」
「進んだ?」
「この先も少しずつ頑張れない?関係を切るのはいつでもできるんだから。」
百枝が静かにそう続けた。
かつての恩師の言葉が、阿部の心に重く響いた。
のんびりと。三橋と2人で。
そうすれば、いつかわかってもらえるのだろうか?
みんなが幸せになれるのだろうか?
「考えてみます。」
阿部はかろうじて、そう答えた。
百枝はニッコリと微笑むと「それがいいわ」と答えた。
「のんびりと、でいいんじゃないの?」
その言葉は、たまたま何か酒とつまみをもらおうとその背後を通った花井の耳にも届いた。
何を話していたのか興味はあったが、話に割り込める雰囲気ではなかった。
多分阿部と三橋の今後のことを話していたのだろう。
のんびりと。
その言葉は、花井の心にストンと落ちてきた。
今日で忘れなくては、あきらめなくてはと思いつめていた。
だが綺麗に着飾った百枝を見て、花井は動揺していた。
今まで未練がましく引きずってきた想いなのだ。
ずっと想ってきた女性の、今まで見た中で一番美しい姿を見せられて、捨てられるはずもない。
でも「のんびりと」ならいいかもしれない。
時の流れに身を任せて、のんびりと。
それなら大丈夫かもしれない。
百枝と、まだ別の物語が始まるまで。
または百枝よりも大事だと思える女性が現れるまで。
焦らずに、のんびりと。
「じゃあ、最後の挨拶、花井~!」
宴もいよいよ終盤に近づいたとき、田島が大きな声で呼ばわった。
花井は「また、オレかよ」と苦笑しながら、立ち上がった。
今はまだ愛してやまない百枝の幸せを、祈ることにしよう。
【続く】