恋の歌10

【幸せってこういうことかな?】

「テメェ、何しやがる!」
威勢よく叫んだ声の主より先に、背後にいた男が銀色のトレイを振り下ろしていた。
グニャリと曲がったトレイと、その場に蹲る客。
騒ぎを聞きつけてホールに出て来た三橋は、何が起きたか判らずに呆然としている。
だが一部始終を見ていた阿部は、堪えきれずに笑い出した。

三橋が倒れてしまった翌日から、カフェは3日間ほど臨時休業した。
そして4日目には、いつも通りに営業を開始した。
阿部は何週間、下手をしたら月単位での休業も覚悟していた。
まず三橋の体調がよくなることが大事。
次に従業員を確保しなくては、また無理をして身体を壊すことになりかねない。

三橋の回復はすこぶる早かった。
阿部が三橋を徹底的に甘やかしたからだ。
三橋の気持ちにゆとりが戻ったのだろう。
何しろ例えば食事は、用意するだけでは飽き足らず。
1口ずつ「あーん」とバカップルよろしく食べさせる。
入浴も三橋が自力ですることを許さず、阿部が隅々まで洗った。
その行為がいかがわしく変わり、結局三橋が眠るまでその身体を離さない。
身体を拭いたり、着替えさせたり、とにかく阿部は三橋を構い倒した。
その結果、三橋はすぐに元気を取り戻したのだった。


当面の従業員の問題も、あっさりと解決した。
3日の間に元の野球部員たちが相談して、手伝いに来ることになった。
彼らはそれぞれの仕事を休んで、ローテーションを組んだのだ。
阿部や三橋が頼んだわけではなく、純粋に彼らの厚意だった。
みんな仕事を持っているのに、申し訳ない。
阿部はそう言って断った。
だが「阿部のためじゃねぇ。三橋のためだ」とあっさり却下された。

こうしてホールスタッフは補充する算段が出来た後。
さらにありがたい援軍が現れた。
結婚が決まったので、仕事を退職したばかりの篠岡千代だ。
篠岡は料理の腕を上げたいので、キッチンを手伝いたいと言い出した。
願ってもない。病み上がりの三橋の手助けになる。
かくして西浦高校硬式野球部初代メンバーの力で、カフェは営業を再開した。

何よりも阿部と三橋が嬉しかったのは、常連の客が戻りつつあることだった。
再び営業を開始した店に現れた常連客は、口々に営業再開を喜んでくれた。
心配していたとか、気にせず頑張れとか。
阿部と三橋にとって、本当に嬉しい言葉をくれた。

今日ホールを手伝ってくれているのは、浜田と泉だ。
学生時代のアルバイトなどで、浜田はこういう仕事に慣れている。
だが高校、大学とずっと野球漬けでバイトに慣れていない泉は悪戦苦闘だ。
負けず嫌いの泉は、浜田が楽にこなしていることに苦戦するのが悔しいらしい。
そんな2人が持つ高校時代と変わらない雰囲気が、店内を明るくしていた。


「君があの書き込みの子?」
その事件は、週末の夜に起こった。
ホールで客が食べ終わった後の皿を運んでいた泉。
無礼な客の1人が、手を伸ばして泉の身体に触ったのだ。
尻をサワサワと撫でられた泉が「テメェ、何しやがる!」と大声で叫んだ。

泉の両手が空いていれば、多分間髪入れずにその客を殴りつけただろう。
だがたくさんの皿を載せたトレイで、手がふさがっている。
思い留まったせいで、考えてしまう次の行動。
泉のこの店での立ち位置は、助っ人だ。
いくら無礼とはいえ、客とトラブルを起こすなど。

泉が黙ってしまったために、いい気になったのか。
無礼な客はもう片方の手を、泉の胸元に伸ばしてきた。
さて、どうする?
だが泉は結局何もしなかった。
つかつかとこちらに歩いてきた浜田が、客の頭に空のトレイを振り下ろしたのだ。
客はその場に蹲って頭を抱え、三橋はキッチンから飛び出してきた。
泉は呆然と浜田を見たが、浜田もまた呆然としていた。


「申し訳ございません。本日のお食事代は無料にさせていただきますので。」
すかさずフォローに出たのは、阿部だった。
客を助け起こして、すかさず謝罪する。
怒り収まらず「訴える!」と喚く客の耳元で、阿部が小さく囁いた。
「その場合は、痴漢行為をうちの店員にしたことを言いますよ。」
すると客は阿部を睨みつけると、そのまま店を出て行った。

「ごめん、阿部~~~」
浜田が慌てて、阿部に駆け寄り、拝むようなポーズで頭を下げる。
「いいって。それより泉、悪かったな。」
「いや、オレは平気。」
泉としては代わりに浜田があの客を殴ってくれたから、もう構わない。
もし泉がいなければ、あの客は三橋を触っていたのだろうか。
だとしたら、自分がここにいてよかったと泉は思う。

「阿部はよくてもさ、オーナーさんとか、怒んない?」
「オーナーには一応報告するけど。怒んねぇ人だよ。むしろ面白がる。」
「それにしても、オレ、とんでもないことしちゃったよ。」
「本当に気にしなくていいよ。オレも楽しんだし。」
浜田と阿部のやり取りを聞きながら、泉は苦笑した。

浜田は進んで暴力を振るうような男ではない。
泉の危機だと思えばこそ、助けてくれたのだろう。
泉は何だか照れくさいような、くすぐったいような気持ちだった。


「だいたい、1センチ、くらいに、切る、んだ。味が、しみるし、歯ごたえ、残る。」
「そっかぁ、この方が美味しいんだね。」
キッチンでは、三橋が篠岡に料理を教えていた。
三橋がオーダーされた料理を担当し、篠岡は翌日の仕込みをしている。
篠岡も料理は上手い方だが、やはりカフェで腕を磨いた三橋には叶わない。
前任者直伝の技や、田島の祖父に教わった野菜の話、三橋自身のアイディア。
三橋はそれらを惜しげもなく、篠岡に伝授していた。

幸せってこういうことかな?
阿部は店内を見回しながら、そんなことを思った。
泉と浜田の関係は昔と少しも変わらない。
兄弟のようであり、悪友のようであり、恋人のようでもある。
そんな仲間たちに助けられ、かつて傷つけてしまった女性-篠岡も今は幸せだ。
そして最愛の恋人は、阿部の目の前で可愛らしい笑顔を見せている。
つらい出来事を経験した後、そんな当たり前のことがすごく幸せだと思う。

もうすぐ仕事を終えた水谷が、やって来るだろう。
水谷は、深夜までここで働く篠岡を心配して、毎日顔を出す。
一緒に賄い食を食べて、2人で寄り添いながら帰っていくのだ。

みんなが幸せであればいい。
水谷と篠岡も、浜田と泉も、百枝や他の仲間たちも、そして三橋も。
そのためにも決着をつけなくてはならない。
自分の弟や両親と向かい合わなくてはいけない。
阿部は三橋と篠岡が笑いあうのを見ながら、決心を固めた。

【続く】
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