恋の歌10
【繋いだ手、伝わる想い】
ようやく1日が終わった。
時間はすでに深夜、三橋は店の入口から外に出ると、大きくため息をついた。
そして扉にかかっていた「OPEN」の札をひっくり返して「CLOSE」にする。
今日は本当に長い1日だったと思う。
ここ何日か、カフェの客層は明らかに変化していた。
いつも親しく挨拶してくれる常連客の数は減っている。
まるで入れ替わるように現れたのは、ガラの悪い客だった。
ホールにいる阿部に、ジロジロと無遠慮な視線を送っている。
時には勝手に、本来従業員専用スペースであるキッチンに踏み込んでくる客もいた。
その客はニヤニヤと三橋を見て「アンタがそうかぁ」と嗤った。
そしてあろうことか、三橋の身体に手を伸ばし、触ろうとさえしたのだ。
阿部とたまたま店に居合わせたオーナーの友人が、その客を店から叩き出した。
オーナーの友人は現役のアメフト選手であり、腕力は並みの男ではかなわない。
原因は間違いなくネットの書き込みであり、店の雰囲気は悪くなった。
栄口が見つけた書き込みは、すぐにサイトに削除依頼をしている。
だが書き込みをした者が他のサイトにも書き込むのか、見た者がコピーするのか。
とにかくネット上のあちこちに、阿部と三橋の話は書き込まれていた。
削除してもすぐ別のサイトに書き込まれている。
イタチゴッコとは、まさにこのことだった。
阿部と三橋にとってさらに追い討ちをかけたことは、アルバイトが全員辞めたことだ。
元々数名しかおらず、しかも常時全員いるわけでもない。
3名は書き込みを見て辞めたいと言い出し、残りは悪くなった店の雰囲気が理由だ。
せめて新しいバイトが来るまでと頼んだが、この状態で見つかるはずもない。
今、阿部と三橋はたった2人で、営業を続けていた。
阿部は1日が終わり、ベットに横たわるなり、すぐに眠ってしまう。
いわゆる爆睡というやつだ。
無理もないと、三橋も思う。
アルバイトは、全員ホールスタッフだ。
阿部は1人で3人分、4人分働いている。
キッチンの三橋に比べて、負担の増え方は大きいだろう。
三橋もホールに出ると言ったが、阿部はそれを許さなかった。
三橋を一部のたち悪い客の好奇の目に、晒したくないのだ。
三橋は阿部と違い、ベットに入ってもなかなか眠ることが出来なかった。
身体は疲れているのに、目が冴えてしまうのだ。
この先どうなるのか、どうしたらいいのか。
そんなことをグルグルと思い悩み、明け方になってようやく浅い眠りにつく。
寝不足の日が続いたせいで、今日は朝から頭痛がした。
でも三橋よりも大変であろう阿部のことを思うと、つらいとは言えなかった。
「三橋」
店内に戻ろうとした三橋は、その声に振り向く。
そしてそこに立っていた2人を見て、顔を綻ばせた。
「元気だった?」
そう言って笑うのは、沖。
そして先程三橋を呼んだのは、西広だ。
元クラスメイトのこの2人も、未だに仲がいい。
2人ともスーツ姿なのは、会社帰りなのだろう。
こんな遅くまで仕事をして、それでも会いに来てくれる。
三橋は感謝を込めて「いらっしゃい」と笑った。
「何、か、食べる?」
「いや食べたいけどさすがに遅いから。太っちゃうよ。」
三橋の誘いに、西広が苦笑する。
「じゃあ、せめて、お茶」
言いかけた三橋は視界がぐにゃりと回るのを感じて、慌てて足に力を入れた。
まずい。立ちくらみだ。
寝不足、過労、朝からの頭痛。
思い当たることはたくさんある。
「三橋?大丈夫?」
三橋の身体が、大きく揺れた。
だめだ。もう立っていられない。
沖と西広の声をぼんやりと感じながら、三橋は意識を失った。
「三橋、大丈夫か?」
三橋が意識を取り戻したのは、いつも眠る阿部の部屋のベットの上。
三橋の横には阿部が添い寝しており、心配そうに三橋の顔を覗き込んでいた。
驚いた三橋が慌てて身体を起こそうとする。
だが阿部は腕を伸ばして、三橋の身体を抱き込み、それをさせなかった。
「阿部!三橋が!」
沖と西広が意識を失った三橋を両側から支えながら、店内に入ってきたとき。
阿部は自分の足元が崩れ落ちるような喪失感に見舞われていた。
「貧血みたいだけど、寝不足じゃない?」
西広にそう言われたとき、ここ最近三橋の寝顔を見ていないことに気付いた。
あの書き込み以来疲労困憊で、ベットに入るや否や眠っていたからだ。
三橋も同じだと勝手に思い込んでいた。
阿部には、三橋を気遣ってやる余裕がまったくなかったのだ。
しばらく休業してもいい。
あの書き込みのことをアメリカのオーナーに報告したら、そう言われた。
阿部と三橋の事情を知っているオーナーは、無理しなくていいと言ってくれた。
それでも休みたくなかったのだ。
店を開けなければ、あの卑劣な書き込みに負けたような気がしたからだ。
それで三橋が倒れるまで体調を崩していることに気付かないとは。
あの騒ぎの前も、水谷や百枝の結婚祝いのメニュー作りで無理していたのに。
阿部は今、猛烈に自分を責めていた。
「ごめんな、三橋。」
「オレ、こそ。倒れちゃって。」
「そんなになるまで気付かなくて、ごめんな。」
阿部はそう言って、三橋の右手に自分の左手を重ねた。
バッテリーを組んでいた頃には、よくしていたことだ。
その手の冷たさに、阿部は切なくなった。
「しばらく臨時休業にしよう。それで明日は1日こうやってゴロゴロしようぜ。」
そう言って、阿部が悪戯っぽく笑う。
カフェの定休日は月に1回、その他の休みは交代で取っている。
だから阿部と三橋が一緒に休めるのは、普段は月1の定休日だけだ。
「すごい、贅沢、だ。」
三橋がそう言って、笑った。
「沖、くと、西広、君は?」
「お前を運ぶの手伝ってもらった後、すぐ帰ったよ。」
お礼にお茶でもと言った阿部の申し出を2人は断った。
そして「三橋についててやんなよ」と言って、帰って行った。
あの書き込みに心配して来てくれただろうに、挨拶さえそこそこに帰してしまったのだ。
「今度、お礼、しよ」
そう言って、三橋がまた笑った。
いつの間にか阿部の左手を握っている三橋の右手にぬくもりが戻っていた。
繋いだ手、伝わる思い。
2人がお互いを大事だと思っている限り、何があっても大丈夫だ。
【続く】
ようやく1日が終わった。
時間はすでに深夜、三橋は店の入口から外に出ると、大きくため息をついた。
そして扉にかかっていた「OPEN」の札をひっくり返して「CLOSE」にする。
今日は本当に長い1日だったと思う。
ここ何日か、カフェの客層は明らかに変化していた。
いつも親しく挨拶してくれる常連客の数は減っている。
まるで入れ替わるように現れたのは、ガラの悪い客だった。
ホールにいる阿部に、ジロジロと無遠慮な視線を送っている。
時には勝手に、本来従業員専用スペースであるキッチンに踏み込んでくる客もいた。
その客はニヤニヤと三橋を見て「アンタがそうかぁ」と嗤った。
そしてあろうことか、三橋の身体に手を伸ばし、触ろうとさえしたのだ。
阿部とたまたま店に居合わせたオーナーの友人が、その客を店から叩き出した。
オーナーの友人は現役のアメフト選手であり、腕力は並みの男ではかなわない。
原因は間違いなくネットの書き込みであり、店の雰囲気は悪くなった。
栄口が見つけた書き込みは、すぐにサイトに削除依頼をしている。
だが書き込みをした者が他のサイトにも書き込むのか、見た者がコピーするのか。
とにかくネット上のあちこちに、阿部と三橋の話は書き込まれていた。
削除してもすぐ別のサイトに書き込まれている。
イタチゴッコとは、まさにこのことだった。
阿部と三橋にとってさらに追い討ちをかけたことは、アルバイトが全員辞めたことだ。
元々数名しかおらず、しかも常時全員いるわけでもない。
3名は書き込みを見て辞めたいと言い出し、残りは悪くなった店の雰囲気が理由だ。
せめて新しいバイトが来るまでと頼んだが、この状態で見つかるはずもない。
今、阿部と三橋はたった2人で、営業を続けていた。
阿部は1日が終わり、ベットに横たわるなり、すぐに眠ってしまう。
いわゆる爆睡というやつだ。
無理もないと、三橋も思う。
アルバイトは、全員ホールスタッフだ。
阿部は1人で3人分、4人分働いている。
キッチンの三橋に比べて、負担の増え方は大きいだろう。
三橋もホールに出ると言ったが、阿部はそれを許さなかった。
三橋を一部のたち悪い客の好奇の目に、晒したくないのだ。
三橋は阿部と違い、ベットに入ってもなかなか眠ることが出来なかった。
身体は疲れているのに、目が冴えてしまうのだ。
この先どうなるのか、どうしたらいいのか。
そんなことをグルグルと思い悩み、明け方になってようやく浅い眠りにつく。
寝不足の日が続いたせいで、今日は朝から頭痛がした。
でも三橋よりも大変であろう阿部のことを思うと、つらいとは言えなかった。
「三橋」
店内に戻ろうとした三橋は、その声に振り向く。
そしてそこに立っていた2人を見て、顔を綻ばせた。
「元気だった?」
そう言って笑うのは、沖。
そして先程三橋を呼んだのは、西広だ。
元クラスメイトのこの2人も、未だに仲がいい。
2人ともスーツ姿なのは、会社帰りなのだろう。
こんな遅くまで仕事をして、それでも会いに来てくれる。
三橋は感謝を込めて「いらっしゃい」と笑った。
「何、か、食べる?」
「いや食べたいけどさすがに遅いから。太っちゃうよ。」
三橋の誘いに、西広が苦笑する。
「じゃあ、せめて、お茶」
言いかけた三橋は視界がぐにゃりと回るのを感じて、慌てて足に力を入れた。
まずい。立ちくらみだ。
寝不足、過労、朝からの頭痛。
思い当たることはたくさんある。
「三橋?大丈夫?」
三橋の身体が、大きく揺れた。
だめだ。もう立っていられない。
沖と西広の声をぼんやりと感じながら、三橋は意識を失った。
「三橋、大丈夫か?」
三橋が意識を取り戻したのは、いつも眠る阿部の部屋のベットの上。
三橋の横には阿部が添い寝しており、心配そうに三橋の顔を覗き込んでいた。
驚いた三橋が慌てて身体を起こそうとする。
だが阿部は腕を伸ばして、三橋の身体を抱き込み、それをさせなかった。
「阿部!三橋が!」
沖と西広が意識を失った三橋を両側から支えながら、店内に入ってきたとき。
阿部は自分の足元が崩れ落ちるような喪失感に見舞われていた。
「貧血みたいだけど、寝不足じゃない?」
西広にそう言われたとき、ここ最近三橋の寝顔を見ていないことに気付いた。
あの書き込み以来疲労困憊で、ベットに入るや否や眠っていたからだ。
三橋も同じだと勝手に思い込んでいた。
阿部には、三橋を気遣ってやる余裕がまったくなかったのだ。
しばらく休業してもいい。
あの書き込みのことをアメリカのオーナーに報告したら、そう言われた。
阿部と三橋の事情を知っているオーナーは、無理しなくていいと言ってくれた。
それでも休みたくなかったのだ。
店を開けなければ、あの卑劣な書き込みに負けたような気がしたからだ。
それで三橋が倒れるまで体調を崩していることに気付かないとは。
あの騒ぎの前も、水谷や百枝の結婚祝いのメニュー作りで無理していたのに。
阿部は今、猛烈に自分を責めていた。
「ごめんな、三橋。」
「オレ、こそ。倒れちゃって。」
「そんなになるまで気付かなくて、ごめんな。」
阿部はそう言って、三橋の右手に自分の左手を重ねた。
バッテリーを組んでいた頃には、よくしていたことだ。
その手の冷たさに、阿部は切なくなった。
「しばらく臨時休業にしよう。それで明日は1日こうやってゴロゴロしようぜ。」
そう言って、阿部が悪戯っぽく笑う。
カフェの定休日は月に1回、その他の休みは交代で取っている。
だから阿部と三橋が一緒に休めるのは、普段は月1の定休日だけだ。
「すごい、贅沢、だ。」
三橋がそう言って、笑った。
「沖、くと、西広、君は?」
「お前を運ぶの手伝ってもらった後、すぐ帰ったよ。」
お礼にお茶でもと言った阿部の申し出を2人は断った。
そして「三橋についててやんなよ」と言って、帰って行った。
あの書き込みに心配して来てくれただろうに、挨拶さえそこそこに帰してしまったのだ。
「今度、お礼、しよ」
そう言って、三橋がまた笑った。
いつの間にか阿部の左手を握っている三橋の右手にぬくもりが戻っていた。
繋いだ手、伝わる思い。
2人がお互いを大事だと思っている限り、何があっても大丈夫だ。
【続く】