恋の歌10

【笑っちゃうね】

嵐の予兆は、小さかったし、静かだった。
でも確実に、阿部と三橋に迫ってきていた。

カフェでの役割分担は、キッチンが三橋、ホールが阿部だ。
三橋はメニューを考えて、その調理を担当する。
阿部はホールで、接客の担当だ。
どちらが大変かという比較は、非常に難しい。
だが精神的に疲れるのは、多分阿部の方だ。
客-人間相手であるから、クレームやトラブルもままある。
それに客以外の者たち、アルバイト店員もいる。
その資質を見極め、使いこなすのもまた苦労が多いことだ。

だが阿部と三橋の2人で経営するに当たって、完全に分業することは出来ない。
何しろ2人以外には、アルバイト店員しかいないのだ。
例えば体調を崩すとか、何か外せないような所用があるときとか。
どちらかが休まなければならないときに、その仕事が全然わからないでは済まされない。
だからメインの担当は決めてはいるが、時に交代するときもある。

そして今日も、いつもの担当とは逆転していた。
阿部がキッチンに立ち、三橋はホールだ。
そして三橋は、何かいつもとは違う異変を感じていた。
ほとんどいつもと変わらないのだが、何かが違う。
何か客の中に、蔑むような視線が混じっているような気がしたのだ。


「こんばんは」
その夜控えめな挨拶と共に現れたのは、かつてのチームメイト。
阿部と共に、副主将として花井を支え続けた栄口だった。
閉店後、ちょうど遅い夕飯を食べ終えた阿部と三橋が、栄口にも食事を勧めた。
だが栄口はそれを断り「話があるんだ」と言った。

いつも朗らかな笑顔の栄口の表情が、どこか曇っている。
おそらくは他の誰にも聞かれたくない、悪い話なのだろう。
もしかしたら、アルバイトの店員がいなくなる時間を見計らったのかもしれない。

三橋は3人分のハーブティーを淹れた。
少しでも気分が落ち着いて、穏やかになるように。
そんな三橋の気持ちを知ってか、知らずか、栄口はぎこちなくカップを口に運ぶ。
そして「おいしい」と強張った笑顔でそう言うと、口をついに開いた。

栄口はポケットから4つ折りにされた1枚の紙片を取り出し、テーブルの上に広げた。
ネットで有名なグルメサイトがプリントアウトされている。
それは阿部と三橋のこのカフェについてのものだ。
営業時間やメニュー、所在地などが書かれている。
そして店側にとって何よりも気になるのが、誰でも評価を投降できる口コミ欄。
栄口が「ここ」とその口コミ欄を指差した。

「オレ、このサイトよく見るんだ。昨日の夜にはなかった。」
並んで座っていた阿部と三橋が、その箇所を覗き込んで、言葉を失った。


この店を経営しているのは、同性愛者です。
だから味は全然ダメ、食べるに値しません。

たった2行の文章。
だがそれは阿部と三橋を叩きのめすには、充分だった。
紙片を手に取った三橋の手が震えている。
栄口が怒りで顔を歪めながら「笑っちゃうね」と言った。

「オレもついさっき気付いたんだ。知らせた方がいいかと思って。」
「そうか。」
阿部が三橋の手から紙片をそっと取り上げながら、答えた。

栄口は帰宅した後、家で寛ぎながらパソコンでネットを見た。
そしてこの書き込みを見つけたのだ。
驚いた栄口は口で説明するより、見せた方が早いと思い至った。
だから画面をプリントアウトして、カフェに来たのだ。

「わざわざ悪かったな。」
そう言うと、阿部は紙片を手に立ち上がった。
ふと思いついたように「これ、もらっていい?」と紙片を揺らす。
栄口が「いいよ」と頷くのを見て、阿部は「サンキュ」と礼を言う。

「パソコンで確認してくる。栄口、ゆっくりしてってくれ。」
阿部はそう言うと、三橋の髪を安心させるように撫でた。
そしてスタッフ専用と書かれた扉へと消えた。


「ほん、とに、笑っちゃうね。同性、愛と、味、関係、ない。」
「気にすることないよ。」
栄口は、自嘲するように吐き捨てる三橋に声をかけた。
そして先程まで阿部が座っていた三橋の隣の席に腰掛けた。
「オレ、は、だいじょぶ。」
三橋はそう答えると、冷めてしまったハーブティーを一口飲んだ。

「三橋、もしかして犯人に心当たりある?」
栄口がそう聞いてくる。
三橋の様子を見て、そう思われてしまったらしい。
昔から栄口はそうだった。
自分の気持ちをうまく言えない三橋の顔色を読んで、わかってくれる。
だが三橋は首を振って、栄口の推測を否定した。

書き込みをした犯人は、阿部と三橋の関係を知っていて、恨んでいる人物だろう。
三橋はとっさに、シュンではないか思った。
阿部と別れてくれと言われて、断ってから、まだ何日もたっていないからだ。
タイミングが合いすぎていると思う。
だが阿部にも栄口にも、それを言うつもりはない。
憎まれて当然のことを、三橋はしてしまっているのだから。

「三橋は、覚悟を決めてるんだね。」
栄口がそう言って、苦笑した。
三橋の嘘を見抜いて、でも気がつかない振りをしてくれているのだろう。


「オレ、ね。多分、三橋と同じだったんだ。」
栄口はハーブティーのカップを取り上げたが、もう空だった。
もう1杯淹れるために立ち上がろうとした三橋を、手で制する。
そして手付かずで残された阿部のカップに手を伸ばす。

「高校のとき、オレも」
「す、巣山、君?」
三橋が栄口の言葉をひったくるようにして言った。
「やっぱり気付いてた?」
栄口はそう言って、苦く笑った。

栄口は高校時代、同じクラスであり、同じ内野手の巣山に惹かれていた。
自分の気持ちに気付いた栄口は、その事実に動転し、そして忘れようとした。
前途多難な同性同士の恋に、身を投じる勇気はなかった。
何よりも巣山にはそういう気はないだろうと思った。
だから高校の3年間、必死でその気持ちを隠したのだ。
今はもう巣山には彼女がいるし、栄口もいくつか別の恋をした。
恋愛感情は友情へと昇華して、思い出に変わった。

「三橋と阿部を見てるとね、あの頃の自分を怒ってやりたくなるんだ。」
「怒る?」
「そう。男同士だって全然おかしくない。恥ずかしくないって。」
だから三橋も阿部も、何も悪くない。
あんな匿名の書き込みするヤツより、全然正しい。
栄口はそう言って、三橋の肩を抱き寄せた。
三橋は「そっか」と静かに言って「ウヒ」と笑った。

悪くないから大丈夫、なんてことはない。
むしろこれは嵐の前の静けさだった。
だがこの時の三橋は、そんなことは知る由もない。
ただ自分の過去をぶちまけてまで励ましてくれる栄口の友情に感謝していた。

【続く】
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