恋の歌10
【その笑顔に】
「悪りぃけど、何か食わしてよ。」
阿部と三橋のカフェに花井がやって来たのは、もう深夜。
店の営業時間は終わっており、阿部と三橋は遅い食事を摂るところだった。
「ちょうどよかった。一緒に食べよう。」
三橋のその笑顔に仕事で疲れた身体も心も癒されるような気がして、花井は安堵のため息をついた。
高校時代の野球部の部員たちで、この近所に住んでいる者は多い。
ここは東京の西部、部員たちの実家がある埼玉からも遠くない。
最初にこの辺りに部屋を借りたのは、高校を卒業してプロ野球の道に進んだ田島だ。
その時はオーナーの友人が雇われ店長をしており、阿部も三橋もアルバイトだった。
だが2人の友人である田島から店長は代金を取らなかった。
そして大食漢の田島の胃袋と舌を大いに満足させたのだ。
概ね大学に進んだ田島以外のメンバーたちは、卒業するとこの辺りに部屋を借りるようになった。
そして時間が許す限り、阿部と三橋のカフェに顔を出す。
懐かしい顔に会えるし、残り物や試作品のメニューを無料で出してくれるからだ。
残り物とはいえ、この店の料理はなかなかの美味でボリュームだ。
ここ最近、特にその恩恵を受けているのはこの花井だった。
最近は仕事が忙しくて、帰宅が遅い日が続いているのだ。
自炊は面倒だし、外食は栄養が偏るし、コンビニ弁当は侘しい。
田島家の実家の野菜をふんだんに使うカフェのメニューは、本当にありがたいのだ。
「阿部、少し痩せたか?」
花井はテーブル席に座って、出された料理に舌鼓を打ちながら、言った。
野菜のグリルは、たくさんの種類の野菜と少しの鶏肉、油は使っていない。
遅い時間の夕食なので、ガッツリとしていないのがありがたかった。
「そうだな。一番重かったときより、8キロ落としたぜ。」
その向かいに座り、花井と同じものを食べながら、阿部が答えた。
ちなみに阿部の隣では、三橋もまた同じ物を食べている。
「どうやってだよ!」
花井は思わず身を乗り出した。
最近の花井の悩みは体重の増加だ。
大学まで野球をしていた花井は、やはりよく食べる。
だが運動量は減るし、歳とともに基礎代謝も落ちるのに、食欲は落ちない。
結果少しずつ、だが確実に体重が増加しているのだ。
三橋は野球を辞めたら、筋肉が落ちて、むしろ細身になった。
花井や阿部よりもよく食べるくせに、太るという言葉とは無縁の羨ましい体質をしている。
だが阿部はというと、少し前まではかなり体重が増えたように見えた。
阿部は三橋と違って、太りやすい体質なのだという。
阿部は「どうやら遺伝だ、親父がそうだから」と忌々しそうに言っていた。
「これだよ。」
阿部はそう言って、自分の皿を指差した。
「あんまり体重が増えたから、三橋が心配してさ。もうずっと油抜きで野菜メインの料理。」
そう言えばこの時間に顔を出すときには、だいたい出されるのは野菜の料理だと花井は思い至る。
「でもこんだけ美味けりゃ問題ないよな。」
「ああ。しかも味つけに工夫してるから、バリエーションも多くて飽きないし。」
花井はここまで聞いて、少しだけ嫌な予感がした。得意げに話す阿部。これはきっと。
「全部三橋が考えたんだ。『阿部君、ダイエットしよう』って。」
「へぇぇ」
「メニュー考えて、試作して。以前厨房担当だった人にも相談してた。」
以前厨房を担当していたのは、オーナーの友人である女性だ。
今は母校の高校で、教師をしている。
「でもおかげでさ、これ目当てに女性客増えたんだぜ。」
「そりゃすごい。」
「だろ?オレも痩せたし、売り上げも上がったし。な。」
阿部がニンマリと笑った。
かつて仲間たちに「性格悪い」と言わしめた黒い笑みだ。
そしてそれまでずっと黙っていた三橋も、花井を見て「ウヒ」と笑う。
2人のその笑顔に、花井はハァァとため息をついて、肩を落とした。
やっぱり結局、三橋自慢。ただのノロケだ。
「モモカン、結婚するって」
食べ終わると、三橋が空いた皿をキッチンへと運んでいく。
阿部と差し向かいになった花井が、今日ここへ来た目的である用件を言った。
「そうか。ついに、か。」
阿部がしみじみとした口調で、それに応じた。
西浦高校野球部には、3つの恋物語があった。
1つは阿部と三橋、もう1つは水谷と篠岡、そして監督の百枝と花井だ。
だが3つめの物語、百枝と花井の話は、何も進むことはなかった。
花井がいつの頃からか、7歳違いの女性監督、百枝に恋していたこと。
それは決して誰も口に出して言うことはなかったが、気付いていた者は多い。
だが2人が甘い関係になることはなかった。
そしていつしか百枝は、高校時代のチームメイトと付き合っていることが発覚したのだ。
「多分、水谷の結婚と同じくらいの時期なんだ。ここでお祝いパーティをしたいと思って。」
「ここでいいのか?」
阿部が聞き返す理由は、花井にもわかった。
花井たちはいいが、後輩などの中には、阿部と三橋の関係に偏見を持っている者もいるからだ。
「部員はオレたちの代だけにするし。あとモモカンとダンナさんの都合だけ。」
阿部は多くを語らず「わかった」と短く応じた。
「時間が遅いから、ノンカフェイン、コーヒー、だよ。」
三橋がそう言いながら、トレイに3つの湯気の立つカップを乗せて、運んできた。
花井は「サンキュ」と答えて、カップに手を伸ばした。
「花井君、まだ、好きなのかな。」
その夜ベットに並んで横たわりながら、三橋が阿部にポツリと言った。
阿部は「多分、な」と答えながら、三橋の身体を抱き寄せた。
三橋は先日、シュンと会った日の事を思い出していた。
恋人を愛すること。
自分より相手のことを大事にしたいと思うこと。
その気持ちは同じなのに、花井と三橋の行動は全然違う。
他の男性と結ばれる百枝を、見守り、祝福する花井。
シュンを、恋人の弟を不幸にしても、阿部とは別れられない三橋。
いくら考えても結論は変わらない。
誰を不幸にしても、阿部を離したくない。
恨まれても、みっともなくても、三橋は阿部に執着し続けるだろう。
静かに百枝の幸せを祈る花井の綺麗な愛情に比べて、三橋の想いはドロドロと黒く醜い。
「明日も早い。もう寝よう。」
阿部は三橋の髪をくしゃくしゃと撫でると、額にキスを落として、笑った。
先程花井に見せたのとは違う、フワリと優しい笑み。
ああ、その笑顔に弱いんだ。
三橋は阿部の胸に顔を埋めて「おやすみ」と呟いた。
【続く】
「悪りぃけど、何か食わしてよ。」
阿部と三橋のカフェに花井がやって来たのは、もう深夜。
店の営業時間は終わっており、阿部と三橋は遅い食事を摂るところだった。
「ちょうどよかった。一緒に食べよう。」
三橋のその笑顔に仕事で疲れた身体も心も癒されるような気がして、花井は安堵のため息をついた。
高校時代の野球部の部員たちで、この近所に住んでいる者は多い。
ここは東京の西部、部員たちの実家がある埼玉からも遠くない。
最初にこの辺りに部屋を借りたのは、高校を卒業してプロ野球の道に進んだ田島だ。
その時はオーナーの友人が雇われ店長をしており、阿部も三橋もアルバイトだった。
だが2人の友人である田島から店長は代金を取らなかった。
そして大食漢の田島の胃袋と舌を大いに満足させたのだ。
概ね大学に進んだ田島以外のメンバーたちは、卒業するとこの辺りに部屋を借りるようになった。
そして時間が許す限り、阿部と三橋のカフェに顔を出す。
懐かしい顔に会えるし、残り物や試作品のメニューを無料で出してくれるからだ。
残り物とはいえ、この店の料理はなかなかの美味でボリュームだ。
ここ最近、特にその恩恵を受けているのはこの花井だった。
最近は仕事が忙しくて、帰宅が遅い日が続いているのだ。
自炊は面倒だし、外食は栄養が偏るし、コンビニ弁当は侘しい。
田島家の実家の野菜をふんだんに使うカフェのメニューは、本当にありがたいのだ。
「阿部、少し痩せたか?」
花井はテーブル席に座って、出された料理に舌鼓を打ちながら、言った。
野菜のグリルは、たくさんの種類の野菜と少しの鶏肉、油は使っていない。
遅い時間の夕食なので、ガッツリとしていないのがありがたかった。
「そうだな。一番重かったときより、8キロ落としたぜ。」
その向かいに座り、花井と同じものを食べながら、阿部が答えた。
ちなみに阿部の隣では、三橋もまた同じ物を食べている。
「どうやってだよ!」
花井は思わず身を乗り出した。
最近の花井の悩みは体重の増加だ。
大学まで野球をしていた花井は、やはりよく食べる。
だが運動量は減るし、歳とともに基礎代謝も落ちるのに、食欲は落ちない。
結果少しずつ、だが確実に体重が増加しているのだ。
三橋は野球を辞めたら、筋肉が落ちて、むしろ細身になった。
花井や阿部よりもよく食べるくせに、太るという言葉とは無縁の羨ましい体質をしている。
だが阿部はというと、少し前まではかなり体重が増えたように見えた。
阿部は三橋と違って、太りやすい体質なのだという。
阿部は「どうやら遺伝だ、親父がそうだから」と忌々しそうに言っていた。
「これだよ。」
阿部はそう言って、自分の皿を指差した。
「あんまり体重が増えたから、三橋が心配してさ。もうずっと油抜きで野菜メインの料理。」
そう言えばこの時間に顔を出すときには、だいたい出されるのは野菜の料理だと花井は思い至る。
「でもこんだけ美味けりゃ問題ないよな。」
「ああ。しかも味つけに工夫してるから、バリエーションも多くて飽きないし。」
花井はここまで聞いて、少しだけ嫌な予感がした。得意げに話す阿部。これはきっと。
「全部三橋が考えたんだ。『阿部君、ダイエットしよう』って。」
「へぇぇ」
「メニュー考えて、試作して。以前厨房担当だった人にも相談してた。」
以前厨房を担当していたのは、オーナーの友人である女性だ。
今は母校の高校で、教師をしている。
「でもおかげでさ、これ目当てに女性客増えたんだぜ。」
「そりゃすごい。」
「だろ?オレも痩せたし、売り上げも上がったし。な。」
阿部がニンマリと笑った。
かつて仲間たちに「性格悪い」と言わしめた黒い笑みだ。
そしてそれまでずっと黙っていた三橋も、花井を見て「ウヒ」と笑う。
2人のその笑顔に、花井はハァァとため息をついて、肩を落とした。
やっぱり結局、三橋自慢。ただのノロケだ。
「モモカン、結婚するって」
食べ終わると、三橋が空いた皿をキッチンへと運んでいく。
阿部と差し向かいになった花井が、今日ここへ来た目的である用件を言った。
「そうか。ついに、か。」
阿部がしみじみとした口調で、それに応じた。
西浦高校野球部には、3つの恋物語があった。
1つは阿部と三橋、もう1つは水谷と篠岡、そして監督の百枝と花井だ。
だが3つめの物語、百枝と花井の話は、何も進むことはなかった。
花井がいつの頃からか、7歳違いの女性監督、百枝に恋していたこと。
それは決して誰も口に出して言うことはなかったが、気付いていた者は多い。
だが2人が甘い関係になることはなかった。
そしていつしか百枝は、高校時代のチームメイトと付き合っていることが発覚したのだ。
「多分、水谷の結婚と同じくらいの時期なんだ。ここでお祝いパーティをしたいと思って。」
「ここでいいのか?」
阿部が聞き返す理由は、花井にもわかった。
花井たちはいいが、後輩などの中には、阿部と三橋の関係に偏見を持っている者もいるからだ。
「部員はオレたちの代だけにするし。あとモモカンとダンナさんの都合だけ。」
阿部は多くを語らず「わかった」と短く応じた。
「時間が遅いから、ノンカフェイン、コーヒー、だよ。」
三橋がそう言いながら、トレイに3つの湯気の立つカップを乗せて、運んできた。
花井は「サンキュ」と答えて、カップに手を伸ばした。
「花井君、まだ、好きなのかな。」
その夜ベットに並んで横たわりながら、三橋が阿部にポツリと言った。
阿部は「多分、な」と答えながら、三橋の身体を抱き寄せた。
三橋は先日、シュンと会った日の事を思い出していた。
恋人を愛すること。
自分より相手のことを大事にしたいと思うこと。
その気持ちは同じなのに、花井と三橋の行動は全然違う。
他の男性と結ばれる百枝を、見守り、祝福する花井。
シュンを、恋人の弟を不幸にしても、阿部とは別れられない三橋。
いくら考えても結論は変わらない。
誰を不幸にしても、阿部を離したくない。
恨まれても、みっともなくても、三橋は阿部に執着し続けるだろう。
静かに百枝の幸せを祈る花井の綺麗な愛情に比べて、三橋の想いはドロドロと黒く醜い。
「明日も早い。もう寝よう。」
阿部は三橋の髪をくしゃくしゃと撫でると、額にキスを落として、笑った。
先程花井に見せたのとは違う、フワリと優しい笑み。
ああ、その笑顔に弱いんだ。
三橋は阿部の胸に顔を埋めて「おやすみ」と呟いた。
【続く】