恋の歌10
【いつもの時間】
いつもの時間だ。
三橋は目の前に広がる光景を見て、高校時代に思いを馳せていた。
三橋は停車したワゴン車の運転席に座って、窓の外を見ていた。
ステアリングに両肘を乗せ、交差させた手首に顎を乗せて見入るのは、かつての母校。
早朝の西浦高校では、硬式野球部がトレーニングを開始する時間だ。
朝が早い他の運動部の生徒たちも、ストレッチやランニングなどを始めている。
三橋たちが一緒に練習をした後輩たちは、とっくに卒業している。
それにもう何年も三橋も阿部も野球部に顔を出していないから、顔を知っている部員もいない。
だからなのだろうか。
こうやって外から学校を見ていると「高校生って若い」と三橋は痛感してしまう。
それに比べて、自分は歳を取ってしまった。
キラキラと輝くあの日々から、何と遠くへ来てしまったのだろう。
三橋は週に2、3回、この時間のこの場所にやって来る。
別に昔の思い出に浸るためではない。
目的は西浦高校ではなく、そこから徒歩で1分の田島の実家だった。
かつてのチームメイト、田島の実家は農家を営んでいる。
そこで栽培している野菜を、分けてもらうためだ。
この提案をしてくれたのは、田島本人だった。
育てた野菜の中には、出荷に適さないものも多くある。
小さすぎたり、育ちすぎたり、形が歪だったり、傷がついてしまったり。
そうした野菜は、田島家の食卓に上ることも多いが、残念ながら食べ切れずに廃棄することもある。
捨てるくらいなら、三橋と阿部のカフェで使って食べてもらったらどうか?と。
三橋たちにとっては、この上なくありがたい話だった。
田島家で丹精込めて育てた美味しい野菜たち。
それが朝採りの新鮮な状態で手に入る。
第一形が悪くたって、傷があったって、料理してしまえばわからなくなる。
田島家でも、捨てるくらいなら美味しく食べてもらえた方が嬉しいと喜んでくれる。
三橋と阿部にも、田島家にも、いい事ずくめの話だった。
田島家は、どうせ捨てるものだからと言って、代金を受け取らない。
だから阿部と三橋はカフェで仕込んだ料理の残りを弁当などにして、差し入れしたりする。
するとオシャレな料理に変わった野菜を見て、喜んでくれたりする。
だから三橋と阿部は、交代で母校に近い田島の実家に顔を出すのだ。
田島本人に会うことはないが、野菜を受け取り、田島の祖父母や両親と世間話をしたりする。
今日は三橋が来る番の日だった。
残った方-阿部は店の掃除や仕込みなどをしながら、開店の準備をしている。
「三橋さん」
不意に名を呼ばれた三橋は、慌てて振り向いた。
今日も田島家の実家の畑で野菜を分けてもらい、店のワゴンに積み込んだ。
そして田島の祖父母と少し話をして、帰ろうとしていたときだ。
運転席のロックを外し、乗り込もうとした三橋は、呼び止められたのだ。
「シュン、くん?」
三橋は自分を呼び止めた人物の名を呼んだ。
そこに立っていたのは、恋人である阿部の弟のシュンだ。
思わず疑問形になってしまったのは、もう何年も会っていなかったからだ。
最後に会ったとき、シュンはまだ高校生で少年の面影を多く残していた。
だが今目の前にいる人物は、もう涼やかな青年へと成長している。
シュンだとわかったのは、そも面差しが阿部に似ているからに他ならない。
「待っていました。田島さんに、時々野菜を取りに来るって聞いていたから。」
「ごめん、なさい。今日は阿部君、いない。オレだけで」
「三橋さんと話したいんです。兄がいない場所で。」
シュンの言葉と表情には、三橋への怒りの色が見えた。
三橋は乗り込むのを止めて、運転席のドアを閉めた。
そしてシュンの方に向き直り、奥歯を噛みしめながら、身構えた。
この冷たい目には、覚えがある。
三橋と阿部の男同士の恋愛を、非難する者が向ける目だ。
「もういいかげん、兄と別れてくれませんか?」
シュンは案の定、三橋の予想通りの言葉を告げた。
一時期は散々言われた台詞だったが、何度言われても慣れる事はない。
今でも三橋の心を抉り、傷つける。
阿部と三橋の恋愛が双方の親族に知れたのは、大学4年生のときだった。
同じ大学でバッテリーを組んで、活躍していた。
あの頃の2人は、野球に打ち込み、恋にときめき、幸せだった。
プロ野球へ進むか、社会人野球か。
とにかく野球をまだまだ続ける気でいたし、未来は希望に満ちたものだと思っていた。
だが有名人である2人の恋は、隠し切れなかった。
最初はチームメイト、次に同じ大学の学生、果てはネットからマスコミにまで広まった。
大学野球ではそこそこ有名人であったことが、裏目に出たのだ。
好奇の目に晒された2人に、声をかけてくれたプロや社会人チームは手のひらを返した。
それを知ったカフェのオーナーが2人に声をかけてくれたのだ。
阿部の両親も、三橋の両親も、2人の恋愛を反対した。
別れろ、忘れろ、普通の恋をしろと言った。
だが阿部も三橋も、この恋を捨てるなど出来なかった。
頑として別れようとせず、結局駆け落ち同然で家を捨てた。
2人とも親とは音信不通、勘当状態だった。
それでも高校の野球部の同期のメンバーは、暖かく2人を見守ってくれる。
そのことに支えられて、阿部と三橋はカフェで頑張っている。
「オレ、結婚する話があって。」
シュンは三橋を冷ややかに見ながら、言葉を続ける。
そういえば三橋や阿部の両親は「別れろ」と散々言ったが、シュンに言われたのは初めてではないか。
「結婚。お、おめでと」
「めでたくないですよ。先方の親がオレのことを調べて。断ってきたんです。」
「え?」
「ゲイの兄貴がいる男には、娘はやれないって言われたんです!」
投げつけられたシュンの言葉に、三橋は愕然とした。
だが次の瞬間には、自分の気持ちを伝えるために大きく息を吸い込んだ。
三橋はワゴン車を運転しながら、車内の時計を見た。
シュンと話をした分、少し時間が遅い。
それにシュンと話すときには何とか堪えていたのに、今は涙が止まらない。
何もない振りをするためには、どこかで顔を洗わなくてはいけないだろう。
いつもの時間に帰るためには、少し急いだ方がよさそうだ。
三橋は心持ちアクセルペダルを踏み込み、スピードを上げた。
いつもの時間にカフェに戻れば、恋人が笑顔で迎えてくれる。
三橋は懸命に自分にそう言い聞かせながら、車を走らせた。
【続く】
いつもの時間だ。
三橋は目の前に広がる光景を見て、高校時代に思いを馳せていた。
三橋は停車したワゴン車の運転席に座って、窓の外を見ていた。
ステアリングに両肘を乗せ、交差させた手首に顎を乗せて見入るのは、かつての母校。
早朝の西浦高校では、硬式野球部がトレーニングを開始する時間だ。
朝が早い他の運動部の生徒たちも、ストレッチやランニングなどを始めている。
三橋たちが一緒に練習をした後輩たちは、とっくに卒業している。
それにもう何年も三橋も阿部も野球部に顔を出していないから、顔を知っている部員もいない。
だからなのだろうか。
こうやって外から学校を見ていると「高校生って若い」と三橋は痛感してしまう。
それに比べて、自分は歳を取ってしまった。
キラキラと輝くあの日々から、何と遠くへ来てしまったのだろう。
三橋は週に2、3回、この時間のこの場所にやって来る。
別に昔の思い出に浸るためではない。
目的は西浦高校ではなく、そこから徒歩で1分の田島の実家だった。
かつてのチームメイト、田島の実家は農家を営んでいる。
そこで栽培している野菜を、分けてもらうためだ。
この提案をしてくれたのは、田島本人だった。
育てた野菜の中には、出荷に適さないものも多くある。
小さすぎたり、育ちすぎたり、形が歪だったり、傷がついてしまったり。
そうした野菜は、田島家の食卓に上ることも多いが、残念ながら食べ切れずに廃棄することもある。
捨てるくらいなら、三橋と阿部のカフェで使って食べてもらったらどうか?と。
三橋たちにとっては、この上なくありがたい話だった。
田島家で丹精込めて育てた美味しい野菜たち。
それが朝採りの新鮮な状態で手に入る。
第一形が悪くたって、傷があったって、料理してしまえばわからなくなる。
田島家でも、捨てるくらいなら美味しく食べてもらえた方が嬉しいと喜んでくれる。
三橋と阿部にも、田島家にも、いい事ずくめの話だった。
田島家は、どうせ捨てるものだからと言って、代金を受け取らない。
だから阿部と三橋はカフェで仕込んだ料理の残りを弁当などにして、差し入れしたりする。
するとオシャレな料理に変わった野菜を見て、喜んでくれたりする。
だから三橋と阿部は、交代で母校に近い田島の実家に顔を出すのだ。
田島本人に会うことはないが、野菜を受け取り、田島の祖父母や両親と世間話をしたりする。
今日は三橋が来る番の日だった。
残った方-阿部は店の掃除や仕込みなどをしながら、開店の準備をしている。
「三橋さん」
不意に名を呼ばれた三橋は、慌てて振り向いた。
今日も田島家の実家の畑で野菜を分けてもらい、店のワゴンに積み込んだ。
そして田島の祖父母と少し話をして、帰ろうとしていたときだ。
運転席のロックを外し、乗り込もうとした三橋は、呼び止められたのだ。
「シュン、くん?」
三橋は自分を呼び止めた人物の名を呼んだ。
そこに立っていたのは、恋人である阿部の弟のシュンだ。
思わず疑問形になってしまったのは、もう何年も会っていなかったからだ。
最後に会ったとき、シュンはまだ高校生で少年の面影を多く残していた。
だが今目の前にいる人物は、もう涼やかな青年へと成長している。
シュンだとわかったのは、そも面差しが阿部に似ているからに他ならない。
「待っていました。田島さんに、時々野菜を取りに来るって聞いていたから。」
「ごめん、なさい。今日は阿部君、いない。オレだけで」
「三橋さんと話したいんです。兄がいない場所で。」
シュンの言葉と表情には、三橋への怒りの色が見えた。
三橋は乗り込むのを止めて、運転席のドアを閉めた。
そしてシュンの方に向き直り、奥歯を噛みしめながら、身構えた。
この冷たい目には、覚えがある。
三橋と阿部の男同士の恋愛を、非難する者が向ける目だ。
「もういいかげん、兄と別れてくれませんか?」
シュンは案の定、三橋の予想通りの言葉を告げた。
一時期は散々言われた台詞だったが、何度言われても慣れる事はない。
今でも三橋の心を抉り、傷つける。
阿部と三橋の恋愛が双方の親族に知れたのは、大学4年生のときだった。
同じ大学でバッテリーを組んで、活躍していた。
あの頃の2人は、野球に打ち込み、恋にときめき、幸せだった。
プロ野球へ進むか、社会人野球か。
とにかく野球をまだまだ続ける気でいたし、未来は希望に満ちたものだと思っていた。
だが有名人である2人の恋は、隠し切れなかった。
最初はチームメイト、次に同じ大学の学生、果てはネットからマスコミにまで広まった。
大学野球ではそこそこ有名人であったことが、裏目に出たのだ。
好奇の目に晒された2人に、声をかけてくれたプロや社会人チームは手のひらを返した。
それを知ったカフェのオーナーが2人に声をかけてくれたのだ。
阿部の両親も、三橋の両親も、2人の恋愛を反対した。
別れろ、忘れろ、普通の恋をしろと言った。
だが阿部も三橋も、この恋を捨てるなど出来なかった。
頑として別れようとせず、結局駆け落ち同然で家を捨てた。
2人とも親とは音信不通、勘当状態だった。
それでも高校の野球部の同期のメンバーは、暖かく2人を見守ってくれる。
そのことに支えられて、阿部と三橋はカフェで頑張っている。
「オレ、結婚する話があって。」
シュンは三橋を冷ややかに見ながら、言葉を続ける。
そういえば三橋や阿部の両親は「別れろ」と散々言ったが、シュンに言われたのは初めてではないか。
「結婚。お、おめでと」
「めでたくないですよ。先方の親がオレのことを調べて。断ってきたんです。」
「え?」
「ゲイの兄貴がいる男には、娘はやれないって言われたんです!」
投げつけられたシュンの言葉に、三橋は愕然とした。
だが次の瞬間には、自分の気持ちを伝えるために大きく息を吸い込んだ。
三橋はワゴン車を運転しながら、車内の時計を見た。
シュンと話をした分、少し時間が遅い。
それにシュンと話すときには何とか堪えていたのに、今は涙が止まらない。
何もない振りをするためには、どこかで顔を洗わなくてはいけないだろう。
いつもの時間に帰るためには、少し急いだ方がよさそうだ。
三橋は心持ちアクセルペダルを踏み込み、スピードを上げた。
いつもの時間にカフェに戻れば、恋人が笑顔で迎えてくれる。
三橋は懸命に自分にそう言い聞かせながら、車を走らせた。
【続く】